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西ドイツ・西ベルリン間の道路上の[[国境検問所]]はA(アルファ)・B(ブラボー)・C(チャーリー)<!--・D(デルタ)-->があり、Cは「[[チェックポイント・チャーリー]]」の別名で知られていた。
西ドイツ・西ベルリン間の道路上の[[国境検問所]]はA(アルファ)・B(ブラボー)・C(チャーリー)<!--・D(デルタ)-->があり、Cは「[[チェックポイント・チャーリー]]」の別名で知られていた。


長らく壁建設について、当時の[[ヴァルター・ウルブリヒト|ウルブリヒト]]国家評議会議長が東ドイツ国家の崩壊を恐れて、ソ連の[[フルシチョフ]]に東西ベルリンの交通遮断を求め、フルシチョフもその強い要請に屈したと思われていたが、ドイツの歴史家マンフレート・ヴィルケが著著「壁の道」の中で1961年8月のウルブリヒト・フルシチョフ会談の記録から、壁建設の決定権はソ連が握っていたことを明らかにした<ref>読売新聞2011年8月14日 国際6面</ref>
長らく壁建設について、当時の[[ヴァルター・ウルブリヒト|ウルブリヒト]]国家評議会議長が東ドイツ国家の崩壊を恐れて、ソ連の[[フルシチョフ]]に東西ベルリンの交通遮断を求め、フルシチョフもその強い要請に屈したと思われていたが、ドイツの歴史家マンフレート・ヴィルケが著著「壁の道」の中で1961年8月のウルブリヒト・フルシチョフ会談の記録から、壁建設の決定権はソ連が握っていたことを明らかにした<ref>読売新聞2011年8月14日 国際6面</ref>


ヴィルケによると、ウルブリヒトが東西ベルリン遮断をソ連側に求めていたのは事実であるが、フルシチョフは61年6月の[[ウィーン]]での[[ケネディ]]米大統領との会談まで待つよう求めた。ケネディとの会談でフルシチョフは、米国が東ドイツを国家承認するよう求めたが、米側は拒否。その結果、フルシチョフはベルリンの交通遮断を認めたという。ヴィルケによれば「東ドイツはソ連を通じてしか目的を実現できず、国際交渉において発言力は無かった」と指摘し、「ソ連にとってベルリン問題はあくまでも欧州の力関係をソ連優位にするためのテコだった」とし、ベルリンの壁建設は米軍を撤退させ、西ベルリンの管理権を握るというソ連の外交攻勢からの撤退だったと結論している。
ヴィルケによると、ウルブリヒトが東西ベルリン遮断をソ連側に求めていたのは事実であるが、フルシチョフは61年6月の[[ウィーン]]での[[ケネディ]]米大統領との会談まで待つよう求めた。ケネディとの会談でフルシチョフは、米国が東ドイツを国家承認するよう求めたが、米側は拒否。その結果、フルシチョフはベルリンの交通遮断を認めたという。ヴィルケによれば「東ドイツはソ連を通じてしか目的を実現できず、国際交渉において発言力は無かった」と指摘し、「ソ連にとってベルリン問題はあくまでも欧州の力関係をソ連優位にするためのテコだった」とし、ベルリンの壁建設は米軍を撤退させ、西ベルリンの管理権を握るというソ連の外交攻勢からの撤退だったと結論している。


== 歴史 ==
== 歴史 ==

2011年8月19日 (金) 03:51時点における版

東ドイツ当局により建設中のベルリンの壁(1961年11月)

ベルリンの壁(ベルリンのかべ ドイツ語: Berliner Mauer)とは、冷戦の真っ只中にあった1961年8月13日東ドイツ(ドイツ民主共和国)政府によって建設された、東ベルリン西ベルリンを隔てる壁である。1989年11月10日に破壊され、1990年10月3日東西ドイツが統一されるまで、この壁がドイツ分断の象徴となった。

概要

1945年5月8日第二次世界大戦ドイツの降伏により、ドイツは占領地域に当たり自由主義を名目とした西ドイツと、ソ連占領地域に当たり共産主義を名目とした東ドイツに分断された。

ベルリンは、米・英・仏・ソ連によって分割占領されたが、米・英・仏の占領地域である西ベルリンは、周囲を全て東ドイツに囲まれた「赤い海に浮かぶ自由の島」となった事で、東ドイツ国民の西ベルリンへの逃亡が相次いだ。かかる住民流出に危機感を抱いたソ連共産党ドイツ社会主義統一党(東ドイツ政府)は、住民の流出を防ぐ為に壁を建設した。壁は両ドイツ国境の直上ではなく、全て東ドイツ領内に建設されていた。同一都市内に壁が建設された都市は、ベルリンとメドラロイトMödlareuth)だけであった。

冷戦の象徴、そして分断時代のドイツの象徴であったが、1989年11月9日にベルリンの壁の検問所が開放され、翌11月10日破壊され、今では一部が記念碑的に残されている以外には現存しない。

建設の背景

西ベルリンを囲むベルリンの壁 丸い記号は国境検問所
ベルリンの壁の人工衛星画像。黄色の線がベルリンの壁を示している。

時として「ベルリンは東西ドイツの境界線上に位置し、ベルリンの壁はその境界線の一部」と思われがちだが、これは誤解である。そもそも、ベルリンは全域が東ドイツの中に含まれており、西ドイツとは完全に離れていた。そしてベルリン東側は、ドイツ帝国ヴァイマル共和国ナチス・ドイツの3時代から、1945年5月8日の分断以後も引き続き東ドイツの首都となった。

つまり、東ドイツに囲まれていたベルリンが、さらに国としてのドイツの東西分断とは別に、ベルリンとしても東西に分断されたのである。この時、分断されたベルリンの東側部分はそのまま「東ドイツ領」となり、一方西側部分は「連合軍管理区域」(≒西ドイツ)として孤立した。これにより西ベルリンは結果的に地形的に周りを東ドイツに囲まれる形となってしまった為、西ベルリンを東ドイツから隔離して囲む形で構築されたのが「ベルリンの壁」である。壁はベルリン西半分をぐるっと取り囲む形で建設されたのであり、東西ベルリンの間だけに壁があったわけではない。

これは第二次世界大戦後のドイツが連合国(米・英・仏・ソ連)に分割統治されることになった際、連合国はドイツの分割統治とは別にベルリンを分割統治した事に由来する。つまり、ドイツだけでなくベルリンも東(ソ連統治領域)と西(米・英・仏統治領域)に分断した。

分割後まもなく米・英・仏など自由主義陣営(西側諸国)とソ連など共産主義陣営(東側諸国)が対立する冷戦に突入し、1948年6月からベルリンへの生活物資の搬入も遮断された(ベルリン封鎖)。西側諸国は輸送機を総動員し、燃料・食料を初めとする生活物資を空輸し西ベルリン市民を支えたため(空中架橋作戦)、翌1949年5月に封鎖は解除された。

西ドイツ、東ドイツ、ベルリンの位置関係 中央右上の赤いエリアがベルリン市。ブランデンブルク州に囲まれている。

なお、ドイツが分断されて東西で別の国家が誕生すると東ベルリンは(東ドイツを統治していた)旧ドイツ民主共和国の首都となったが西ベルリンは地理的に西ドイツと離れていたことから形式上「(西ドイツを統治していた)ドイツ連邦共和国民が暮らす、米・英・仏3か国の信託統治領」となり西ドイツ領とはならなかった。

そのためドイツ連邦共和国の航空会社であるルフトハンザの西ベルリンの空港への乗り入れが禁止となるなどの制限はあったが、事実上はドイツ連邦共和国が実効支配する飛び地であった。

西ベルリンと西ドイツとの往来は指定されたアウトバーン、直通列車(東ドイツ領内では国境駅以外停まらない回廊列車)と空路により可能であった。東ドイツを横切る際の安全は協定で保証されたが上記のように西ベルリンに入れる航空機は米・英・仏のものに限られ、西ドイツのルフトハンザは入れなかった。

又、東西ベルリン間は往来が可能で通行可能な道路が数十あったほかUバーンSバーンなど地下鉄や近郊電車は両方を通って普通に運行されており、1950年代には東に住んで西に出勤する者や西に住んで東に出勤する者が数万人にのぼっていた。

しかしこの往来の自由さゆえ、毎年数万から数十万人の東ドイツ国民がベルリン経由で西ドイツに大量流出した。特に自営農民や技術者の流出は東ドイツ経済に打撃を与えた。こうして西側から東ドイツを守るため、東西ベルリンの交通を遮断しベルリンの壁が建設されることになる。実質的には、西ベルリンを封鎖する壁というより、東ドイツを外界から遮断する壁といえる。

西ドイツ・西ベルリン間の道路上の国境検問所はA(アルファ)・B(ブラボー)・C(チャーリー)があり、Cは「チェックポイント・チャーリー」の別名で知られていた。

長らく壁建設について、当時のウルブリヒト国家評議会議長が東ドイツ国家の崩壊を恐れて、ソ連のフルシチョフに東西ベルリンの交通遮断を求め、フルシチョフもその強い要請に屈したと思われていたが、ドイツの歴史家マンフレート・ヴィルケが著著「壁の道」の中で1961年8月のウルブリヒト・フルシチョフ会談の記録から、壁建設の決定権はソ連が握っていたことを明らかにした[1]

ヴィルケによると、ウルブリヒトが東西ベルリン遮断をソ連側に求めていたのは事実であるが、フルシチョフは61年6月のウィーンでのケネディ米大統領との会談まで待つよう求めた。ケネディとの会談でフルシチョフは、米国が東ドイツを国家承認するよう求めたが、米側は拒否。その結果、フルシチョフはベルリンの交通遮断を認めたという。ヴィルケによれば「東ドイツはソ連を通じてしか目的を実現できず、国際交渉において発言力は無かった」と指摘し、「ソ連にとってベルリン問題はあくまでも欧州の力関係をソ連優位にするためのテコだった」とし、ベルリンの壁建設は米軍を撤退させ、西ベルリンの管理権を握るというソ連の外交攻勢からの撤退だったと結論している。

歴史

壁の建設

1963年西ベルリンを訪問したアメリカ合衆国大統領ジョン・F・ケネディ
1987年、壁を訪れ演説するアメリカ合衆国のロナルド・レーガン大統領

1961年8月13日0時、東ドイツ政府は東西ベルリン間68の道すべてを閉鎖し、有刺鉄線による最初の「壁」の建設を開始した。6時までに東西間の通行はほとんど不可能になり、有刺鉄線による壁は13時までにほぼ建設が完了した。2日後には石造りの壁の建設が開始された。

東ドイツは当時、この壁は西側からの軍事的な攻撃を防ぐためのものであると主張し、対ファシスト防壁 (antifassistischer Schutzwall) とも呼んでいた。これは名目で、実際には東ドイツ国民が西ベルリンを経由して西ドイツへ流出するのを防ぐためのものであり、「封鎖」対象は西ベルリンではなく東ドイツ国民をはじめとした東側陣営に住む人々であった。壁は、後に数度作り変えられ、1975年に完成した最終期のものはコンクリートでできていた。壁の総延長は155kmに達した。

映像などを通じて広く知られている壁(右の写真)に加え、東ドイツ側にもう一枚同様のコンクリート壁があった。すなわち、西ベルリンは二重の壁で囲まれていたのである。その2枚の壁の間は数十メートルの無人地帯(Todesstreifen, death strip)となっており、東ドイツ当局の監視のもと壁を越えようとするものがいればすぐに分かるようになっていた。

また無人地帯に番犬を放したり、コンクリート壁の上部を蒲鉾型に膨らませて乗り越えにくくしたりという工夫もなされていた。さらに自動車による強行突破に備えて、要所要所にロードブロックや堀も設けられた。なお一部の無人地帯には電線があったが、これは警報装置への電源・信号線で高圧電流は流れていなかったとされている。また1970年には仕掛けケーブルに触れると散弾を発射する対人地雷Selbstschussanlageも設けられたが、被害者に大きな苦痛を与えると非難されたため1984年に撤去された。

壁崩壊後2枚の壁が沖縄県宮古島市上野(旧上野村)のテーマパーク「うえのドイツ文化村」に寄贈され、この時に地下を含む構造が明らかになった。地下のL字型の下のコンクリートが東ベルリン側が数倍長いのは、地下から(=塀の下を掘り返して)の逃亡を防ぐためと思われる。1963年6月26日、西ベルリンを訪問したアメリカ大統領ジョン・F・ケネディは有名な「Ich bin ein Berliner」(私はベルリン市民である)の演説を行った。この中で大統領は「すべての自由な人間は、どこに住んでいようと、ベルリンの市民である」と語り、これはドイツの戦後史での名セリフとしてドイツ国民に長く記憶されることになった。

東ドイツからの亡命

満65歳になって東ドイツ政府に移民申請をすれば、無条件で西ドイツに移住できた。これは当時の東ドイツにおける年金支給開始年齢であり、たとえ移住であれ65歳以上の人口が減れば年金を払う必要がないため政府は歳出をそれだけ削れるという実に都合のいい理由が背景にあった(一種の棄民)。

それ以外に東ドイツ政府に移民申請をして許可が下りれば、他国への合法的移住が可能である。しかし言うまでもなく許可は滅多におりず、65歳まで待つことが出来ないため非合法の亡命という手段をとったものが圧倒的に多い。

壁が破壊されるまでの間、東ベルリンから壁を越えて西ベルリンに行こうとした住民は東ドイツ国境警備隊により射殺された。死亡者数は合計192名。ただしさまざまな方法で壁の通過に成功、生きて西ベルリンに到達した東ドイツ国民は5000人を超える。

東ドイツは逃亡者をなるべく殺害せずに逮捕するようにしていたため、3000人を越える逮捕者に比べると死亡者の数は少ない。可能な限りの身柄確保を図ったのは、逃亡の背後関係を調べるためであったと考えられている。

ドイツ民主共和国国境警備隊に従事する兵士の中からも、亡命者が続出し、ベルリンの壁建設直後の6週間で85人が逃亡した[2]。 1968年時点では、総勢8000人で、ベルリン市民でなく西ドイツに親類がいない者が、『ベルリンの壁』担当の警備兵となっていた[3]。12時間勤務であり、2人一組で行動することが求められていた[3]。銃撃により逃亡を阻止するばかりでなく、逃亡を試みる者から銃撃されることもあり、勤務中に射殺された警備兵は16人であったが[3]、その半数は逃亡を図った警備兵の犯行であった[3]。 ドイツ統一後、逃亡者の射殺に関与した国境警備隊員は、被害者遺族からの訴えにより、連邦裁判所によって殺人罪で起訴されて裁判に掛けられたが、大半の被告が執行猶予付の判決を受けたため、現在服役している者はいない。

西ドイツは東ドイツ国民も本来は自国民であるとの考えから政治犯を「買い取って」いたため、東ドイツ国民であれば「壁を越える」という方法を採らなくても「西ドイツに行きたがる政治犯」として東ドイツ当局に逮捕されれば犯罪歴等がない限り、西ドイツに亡命できる可能性はあった。例えば検問所に行き「西に行きたい」と言って当局職員の説得を受け入れず逮捕されるとか、西行きの列車にパスポートなしで乗り込み国境でのパスポート検査で逮捕されるといった方法である。政治犯の一人当たりの買取価格は9万5847マルク1977年以降)で、西ドイツは離散家族も含めて25万人を買い取り、計35億マルクを東ドイツに支払ったという[4]

他にも東欧共産圏への複数回の旅行(許可制)を繰り返して政府を信頼させ西側への旅行許可を得て亡命したものもいるが、富裕層以外には不可能な方法である。また特に若い女性であれば、外国人との結婚により容易に国外への移住が可能であった。

1989年2月6日に、最後の犠牲者、クリス・グェフロイ(Chris Gueffroy)が、射殺されている。

崩壊へ

1989年になると、東ヨーロッパ諸国が相次いで民主化された(東欧革命)。同年5月、ハンガリー政府がオーストリアとの国境を開放するとハンガリー経由での亡命に希望を持った東ドイツ国民が夏期休暇の名目でハンガリーを訪問した。

8月19日ピクニック事件が発生。欧州議員オットー・フォン・ハプスブルクの支援とハンガリー政府の黙認により、東ドイツ国民がオーストリアへの越境に成功した。このニュースは瞬く間に広まり、西ドイツ・オーストリアと国境を接するハンガリーとチェコ・スロバキアには東ドイツ国民が殺到した。

壁の「崩壊」を祝うベルリン市民
壁が撤去された跡の路面に残された刻銘

ハンガリー経由での出国が可能になった以上、もはやベルリンの壁は有名無実化しつつあり東ドイツ国内でもデモが活発化していた。人材の流出を防ぐため11月6日エゴン・クレンツ書記長率いる東ドイツ政府は海外旅行自由化法案を発表するが制限がついた法案であったため国民の反発を受ける。11月9日、海外旅行自由化法案に代わる法案で議会の承認を経ずに済む政令である旅行自由化の政令案を作成。党中央委員会で一部の修正を経て可決され即日公布・施行した。

但し、この政令は報道への発表は翌日の11月10日の朝を予定していた。しかし手違いにより国境警備隊への連絡の前に生放送記者会見が行われ、さらに会見を行っていた東ドイツ政府のスポークスマンであるギュンター・シャボウスキー(ドイツ社会主義統一党政治局員)が「東ドイツ国民はベルリンの壁を含めて、すべての国境通過点から出国が認められる」と誤って発表した。

各国メディア及び東ドイツ国営テレビ局などがこれを報道し同日夜、東ベルリン市民がベルリンの壁周辺の検問所に多数詰めかけ東西ベルリンを行き来しはじめた。旅行自由化の政令は実際はビザの発給を大幅に緩和する法律であり越境にはあくまで正規のビザが必要であったが、このときに壁に殺到した市民らはほとんどが正規のビザを持っていなかった。

国境警備隊は東ベルリン市民の暴動と思い込んだため検問所のゲートを開き、検問は事実上行われなかった。このため壁はその意味を失った。このことから、ベルリンの壁がなくなった日は1989年11月9日であるとされることが多い。

壁の一部は日付が変わった11月10日未明、興奮した東西両ベルリン市民によって破壊され、のちに東ドイツによってほぼすべてが撤去された。ただし歴史的な意味のある建造物のため、一部は記念碑として残されている。ベルリンの壁崩壊により東西両ドイツの国境は事実上なくなり、東西ドイツの融合を加速した。

その後、破壊された壁の破片は土産品として一般に販売されたりもして出回る事になるが壁の原料であるコンクリートには大量のアスベストが含まれており破片の取扱いには注意が要された。流通した中には墓石等を砕いただけの偽物の存在もあったと言う。

文化財保存

ほとんど全ての壁は破壊後に塵散りになった

ベルリンの壁崩壊とドイツ再統一、更に冷戦の終結にいたりベルリンの壁は名実ともにその存在意義を失った。その一方、ベルリンの壁は米ソ冷戦の象徴的遺跡としての保存の声が高まりシュプレー川沿いの約1.3kmの壁は残された。この部分には「ベルリンの壁建設」にインスピレーションを得た24の国の芸術家118人による壁画が描かれた部分であり、その中には「ホーネッカーブレジネフの熱いキス」を描いた戯画も含まれる。

文化財として保存が決まったものの、経年による劣化と観光客の落書きとその場しのぎの上塗りによる補修で危機的状況に陥った。2000年には寄付によって壁の北側は修復され、2008年に残りの補修には250万ユーロの寄付が必要と試算された。2009年には残る部分を修復に着手している。記念品としてライン川畔のコブレンツに白い壁を2枚移設し、また日本には宮古島市上野うえのドイツ文化村に2枚移設してある。

2009年行われた世論調査によると旧西ドイツ出身者が旧東ドイツ復興のため税金が上がったこと、旧東ドイツ出身者たちは旧西ドイツとの所得水準に不満を持ち7人に1人はベルリンの壁の復活を望んでいるという結果が出た[5]

刑事裁判

ベルリンの壁での射殺命令およびその実行に関して、現場の兵士および国境警備隊幹部そして東ドイツ首脳そして最高指導者に対して、1990年10月ドイツ再統一後のドイツ連邦共和国の裁判所で裁判が行われた。

殺害実行者

射殺したとされる兵士については、「的を外して撃った」との主張がなされることもある。射殺命令を実行したと認定された兵士に対しても、最終的には、執行猶予付きの判決が確定している場合がほとんどである[6]。「殺意なき殺人」として処理されている[6]

1962年8月17日に射殺されたペーター・フェヒターの事件で、1997年3月に、実行者の兵士、ロルフ・フリードリッヒに20ヶ月、エーリッヒ・シュライバーに21ヶ月、それぞれ、執行猶予のついた懲役の判決が下る。

1989年2月6日に射殺されたクリス・グェフロイの事件で、実行者の兵士の1人のインゴ・ハインリッヒが起訴され、3年半の懲役の判決が下りるものの、1994年に執行猶予付きの2年の懲役が確定している。

ドイツ社会主義統一党幹部

1991年、元閣僚評議会議長国家評議会議長であったヴィリー・シュトフが、『ベルリンの壁』関連の殺人罪で逮捕されるが、翌年8月に健康上の理由で釈放され、最終的に審理停止となる。

1993年、射殺命令の責任者ということで、国家保安大臣だったエーリッヒ・ミールケが起訴される。別件の警官殺害の件で懲役6年の刑が下るものの、1995年に釈放され、2000年に死去する。

ベルリンの壁崩壊で、スポークスマンとして登場した当時政治局員のギュンター・シャボウスキーにも、ベルリンの壁関連で3人の殺害の件で、1997年8月に、懲役3年半の刑が下る。1年ほど収監される。シャボウスキー本人も、無実の人間が殺害されたことに対して責任を認めている[6]

1993年エーリッヒ・ホーネッカーの刑事裁判が免除される。翌年、ホーネッカーは死去する。1976年より1989年10月まで最高指導者であり、『ベルリンの壁』建設当時からの最高責任者といわれたホーネッカーの刑事責任が、事実上追及できないこととなった。

1999年エゴン・クレンツに、懲役6年半の判決が確定する。党幹部としての責任が問われているが、ベルリンの壁犠牲者に遺憾の意は表している。シュバンダウ刑務所での4年間のみの収監であり、昼間は刑務所外で働くことができた。

その他

彩られたベルリンの壁の西側(1986年
  • ベルリンの壁は、冷戦の象徴であった。そして、ドイツの分断の象徴でもあった。壁のあった時代には、「越えられない物」や「変えられない物」の喩えとして使われた。
  • 壁は東側からは幅100mの無人地帯のため立ち入ることができなかったが、西側からは接近することができたため、壁の西側では壁の建設をなじり撤去を求める政治的な落書きが出現するようになった。やがてさまざまなメッセージや色鮮やかなストリートアートが壁の西側を彩ることになった。

ベルリンの壁が登場する作品

映画

ドラマ

ドキュメンタリー

日本の楽曲

日本の小説

海外の小説

舞台

アニメ

コミックス・アニメ

19巻(SPコミック版)「幽霊定期便」
91巻(SPコミック版)「ドイツはひとつ」
152巻(SPコミック版)「真のベルリン市民」

新谷かおるの作品にはいくつかベルリンの壁が登場する。

  • 砂の薔薇』(ブラッド・ブライダル) - 崩壊前の東ベルリンからの逃亡と、崩壊後の自由化以降の様子を描いている。
  • バランサー』 - 東西ベルリン分断の様子と壁を崩壊させる出来事などを描くなど、少年漫画誌としてはかなりシリアスな展開が描かれている。
  • エラン』 - ドイツに買い付けに行ったキャラクターがお土産に「崩壊したての壁のカケラ」を持ってくる。

脚注

  1. ^ 読売新聞2011年8月14日 国際6面
  2. ^ YouTube - 3-6 ベルリンの壁 ~The Berlin Wall~
  3. ^ a b c d YouTube - 4-6 ベルリンの壁 ~The Berlin Wall~
  4. ^ 吉田一郎『世界飛び地大全』社会評論社、159p頁。ISBN 9784784509713 
  5. ^ ドイツ人の7人に1人、「ベルリンの壁」の復活望む=調査 | 世界のこぼれ話 | Reuters
  6. ^ a b c YouTube - 6-6 ベルリンの壁 ~The Berlin Wall~

関連項目

1998年日本テレビの番組の取材のためにベルリンを訪問。既に文化財指定されていたベルリンの壁にサインをしたことが、2008年に報道された。
四歳の頃、ソビエト連邦の支配から逃れるために母と共に東ドイツ側から西ドイツに向ってベルリンの壁を越えたという過去を持つ。

外部リンク

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