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2010年7月14日 (水) 12:55時点における版

清和源氏 > 新田氏
新田氏
家紋
大中黒・新田一つ引[1][2]
本姓 清和源氏河内源氏義国流
家祖 新田義重
種別 武家
出身地 上野国新田郡新田荘
主な根拠地 越前国
著名な人物 新田義貞
脇屋義助
支流、分家 山名氏武家
里見氏武家
世良田氏武家
岩松氏武家) など
凡例 / Category:日本の氏族

新田氏(にったし)は、上野国発祥の豪族本姓源氏家系清和源氏の一流河内源氏棟梁 鎮守府将軍源義家の三男義国長男新田義重を祖とする上野源氏の総称[3]。義国流足利氏と同族である。上野国群馬県)を本貫とした。家紋は「大中黒・新田一つ引(おおなかぐろ・にったひとつびき)」。



概要

開祖は河内源氏の棟梁の源義家(八幡太郎)の三男(諸説あり)源義国。義国は下野国足利荘栃木県足利市)を本拠としていたが、足利荘は義国の次子である足利義康が継いで足利氏を名乗り、義国と長子の新田義重渡良瀬川対岸の浅間山噴火で荒廃していた上野国新田郡群馬県太田市、旧新田郡新田町など)を開発し、保元2年(1157年平家方の藤原忠雅に開発地を寄進し、新田荘が立荘された。本家鳥羽院御願寺金剛心院領家藤原氏北家花山院流となる。[4]荘官[5]に任ぜられた義重は新田氏を称し、新田荘と八幡荘を中心に息子たちを配して、支配体制を確立する。

義重は周囲の藤姓足利氏秩父党源義賢と対立するが、甥である足利義兼源義朝と連携し、それらに対抗する。特に義朝の長子義平に娘を娶らせるなど積極的に関係を強めている。しかし、平治の乱で義朝が没落すると平家に接近している。ちなみに、新田荘領家である藤原忠雅も平清盛に近づき太政大臣にまで昇進した公卿である。

1180年治承4年)、伊豆に流罪となっていた義朝の子源頼朝、木曽では義賢の子源義仲らが京都の平氏政権に対して挙兵し、治承・寿永の乱となる。平家に属し、京に滞在していた新田義重は、頼朝討伐を命ぜられ東国に下った。義重は上野国八幡荘寺尾城に入り兵を集めながら事態を静観し、頼朝追討に加わらなかった。その後、木曽勢は上野国へ進出し、下野国足利荘を本拠とする平家方の藤原足利氏足利俊綱と対立するが義重は中立を保つ。一族の中には、甥足利義兼や子山名義範、孫里見義成など、鎌倉を本拠とした頼朝のもとへ参じて挙兵に加わるものもあったが、義重自身は参陣の要請を無視し、静観していた。頼朝勢が関東地方を制圧すると、12月に義重は鎌倉へ参じる。義重は頼朝から参陣の遅さを叱責されたといわれる。その後の平家との合戦や奥州合戦にも義重が参陣したとの記録がなく、1221年承久の乱においても惣領は参陣せず、代官として庶家世良田氏が参陣している。そればかりか、義平の未亡人となっていた義重の娘祥寿姫を頼朝が側室にしようとしたところ、義重がそれを拒否したため頼朝から勘気を蒙ったと伝えられている(『吾妻鏡』)。

これらの経緯により、鎌倉に東国政権として成立した鎌倉幕府において、新田氏本宗家の地位は低いものとなった。新田氏本宗家は頼朝から御門葉と認められず、公式の場での源姓を称することが許されず、官位も比較的低く、受領官に推挙されることもなかった。また、早期に頼朝の下に参陣した山名氏里見氏はそれぞれ独立した御家人とされ、新田氏本宗家の支配から独立して行動するようになる。その後も新田氏の所領が増えることはなく、世良田氏岩松氏の創立などの分割相続と所領の沽却により弱体化する。以後、新田一族は堀口・里見・桃井・大館・一色の5家に分かれる。

4代の新田政義は、京都大番役での上京中に幕府に無断で出家した罪で御家人役を剥奪される。新田氏惣領職は没収され、一族の新田(世良田)頼氏に与えられ、世良田氏とともに岩松氏が分担する。このとき、新田氏本宗家の所領が得宗家に渡り、得宗勢力被官が荘内に進出する。その後、頼氏が北条氏得宗家と反得宗家の争いである二月騒動に連座して佐渡に流罪となると、惣領職が新田氏本宗家に復するものの、幕府における新田氏本宗家の地位は非常に低いものとなり、以後は無位無官に甘んずることとなる。

鎌倉時代後期には、8代新田義貞後醍醐天皇の倒幕運動に従い挙兵、源義国流の同族にして北条氏と重代の姻戚の最有力御家人足利高氏(後の尊氏)の嫡男千寿王(後の足利義詮)を加えて鎌倉を攻め、幕府を滅亡させる。当初、鎌倉幕府の冷遇によって建武政権での新田氏本宗家の権威は同族である足利氏惣領よりも格下に見られていたが、後に政権内部の政争により、義貞は反足利氏派・反武家派の首班として尊氏(高氏改め)と対立した。新田一族中でも義貞とともに上京した者と鎌倉や新田荘に残った者にわかれ、前者は主に義貞に従い、後者や山名時氏岩松氏大舘氏里見氏世良田氏大島氏などは主として足利氏に従い北朝方となった。以後、新田氏一族は南朝方の中核を担うが楠木正成とともに戦った湊川の戦いで敗戦。比叡山での戦いの後、長男の新田義顕と共に後醍醐天皇の皇子・恒良親王を奉じて北国に拠点とした。しかし義顕は自決し、義貞自身も越前国金ヶ崎城で足利方の斯波高経に敗れ、同国藤島で戦死する。

義貞の戦死後、三男新田義宗が家督を継ぎ、異母兄の新田義興と共に足利家の内乱である観応の擾乱に乗じて各地を転戦するが、越後国村松郷で関東管領上杉憲顕の軍に敗れて戦死し、新田氏本宗家は滅亡した。その後も、義宗の子とする新田貞方とその子貞邦や、義宗の子とも伝わる脇屋義則などが抵抗を続けるが、鎌倉公方の軍に破れ新田氏の抵抗は収束していった。

一方、北朝方についた一族の新田岩松氏に上野国新田荘が与えられ、義宗の落胤を称した岩松満純[6]が入嗣する。

室町幕府には支族である大館氏・大井田氏などが出仕し幕府高官となった。また、三河守護には大島氏が補任された。また、越後に残ったものは次第に守護上杉家の家臣に組み込まれていった。

戦国時代になると新田宗家を継承した岩松氏は重臣横瀬氏に下克上される。横瀬氏は名字由良氏と改め、新田義宗の子・横瀬貞氏[7]の子孫とされているが、これといった確証がなく信憑性は薄いという。

岩松氏は新田荘北東部の桐生に退隠していたが、後北条氏に代わって関東に入部した徳川家康に接見する。伝来の新田氏系図を進上するよう求められたがこれを拒否し、上野国新田郡田嶋郷内120石の禄を与えられ交代寄合として存続した。また、由良氏も常陸国牛久に5400石の領地を与えられ、数流に分かれた由良氏の中の嫡流家は1000石の高家となった。明治維新後、岩松氏、由良氏ともに新田姓に復し新田氏嫡流をめぐって争い、岩松氏が新政府から新田勤皇党の功績を認められて嫡流とされ男爵に叙された。

鑁阿寺新田足利両氏系図』によると、義宗には宗親親季という子があったと言い、宗親の子孫は新田岩松氏とは別の系統として子孫を残したという。また親季は松平正義の養子となり、その子の有親と孫・親氏が三河に流れ松平氏の祖となったという。『筑後佐田新田系図』では、義顕には義一(よしかず)という子があったという。

一方、貞方の庶子貞政南関東武蔵国稲毛に逃れたという。この系統は堀江氏と称し、後北条氏に仕え、後に足柄方面に移住し、神奈川県伊勢原市に現存しているという[8]。さらに、奥州に逃れた貞方のもう一人の庶子貞長の曾孫義綱(景綱)伊達晴宗に仕え、仙台藩中村氏の祖となり、庶家に藤沢氏などが出た。この中村氏は宮城県に現存するという。

また、義宗の子とも伝わる新田(脇屋)義則は、母方の世良田氏も継承したといい、その子・祐義は真船村に逃れたという。この子孫は世良田氏を称したのち江戸時代に入って真船氏を称したという。[9]

歴代棟梁

系譜

清和天皇
  :(6代隔)
 源義国
  ┣━━━━┳━━━┓
新田義重 足利義康 義房(季邦)
  ┣━━━┳━━━━┳━━━━━━┳━━━━━━━┓
 義兼 里見義俊 山名義範 世良田得川義季 額戸経義
  ┣━━━━━━━━━━━━┓
 義房          足利義純室
  ┣━━━━━┓      ┣━━━━┓
 政義   荒井覚義   岩松時兼 田中時朝
  ┣━━━┳━━━━┳━━━━┳━━━┳━━┓
 政氏 大館家氏 堀口家員 谷嶋信氏 経光 助義
  ┣━━━┳━━━━┳━━━━━┳━━━━━┳━━━━━┳━━━━┓
 基氏 細谷国氏 下細谷知信 西谷重氏  安養寺快義 安養寺貞氏 今井惟氏
  ┣━━┳━━━━━━┳━━┓
 朝氏 満氏(義政) 義量 義円
  ┣━━━┓
 義貞 脇屋義助
  ┣━━┳━━━┳━━━━┓
 義顕 義興  義宗   嶋田義央
  ┃  ┏━━━╋━━━━┳━━━┳━━━┓
 義一 貞方 横瀬貞氏 岩松満純 宗親 脇屋義則
  ┃  ┣━━━┳━━━━┓   ┃   ┃
 義光 貞邦 堀江貞政 中村貞長 信親  祐義
  ┃               ┃   ┃
 義高              経信 真船義親
  ┃               ┃
 義明              義隆
                  ┃
                 宗信
                  ┃
                 頼宗
                  ┃
                 満家
                  ┃
                 経家
                  ┃
                 経徳
                  ┃
                 宗基
                  ┃
                 義業
                  ┃
                 義風

※『新田町誌』および『系図纂要』による。ただし新田宗親以下は「鑁阿寺新田足利両家系図」、新田義一以下は「筑後佐田新田系図」、横瀬貞氏は「新田岩松古系図」、岩松満純は「新田岩松古系図」、嶋田義央は浅田晃彦『児島高徳と新田一族』、脇屋義則は清水昇『消えた一族』を出典とする。

新田氏一門

脚注

  1. ^ 高澤等著『家紋の事典』東京堂出版 2008年
  2. ^ 新人物往来社編『索引で自由に探せる 家紋大図鑑』新人物往来社 1999年
  3. ^ 新田氏を上野源氏とする。
  4. ^ 金剛心院造営に深く関与をした藤原家成の娘婿藤原重家が当時の上野国司であり、忠雅自身も家成の妹の子である。
  5. ^ 新田荘司
  6. ^ 岩松満国の実子説などがあり、本当に義宗のかは定かでない。
  7. ^ 「新田岩松古系図」による。『系図綜覧』収録の「由良系図」では新田義顕の弟とする。
  8. ^ 新田堀江氏研究会編『新田堀江氏研究』東京堂出版、1982年
  9. ^ 清水昇 『消された一族-清和源氏新田氏支流・世良田氏』 あさを社、1990年。

関連項目