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滝川具挙

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
滝川 具挙
時代 江戸時代後期 - 明治時代
生誕 不明(文政11年(1828年)以前)
死没 明治14年(1881年5月11日
改名 銀蔵(幼名)、具知、具挙、戇哉
別名 通称:三郎四郎
戒名 大機院殿高厳具挙大居士
墓所 東京都練馬区桂徳院
官位 従五位下播磨守
幕府 江戸幕府 小姓組進物番小十人頭目付外国奉行神奈川奉行禁裏付京都町奉行大目付
主君 徳川家慶家定家茂慶喜
氏族 滝川氏
父母 父:滝川具近
兄弟 具挙京極高朗、蜷川親従、蜷川親敬
井戸覚弘の養女(斎藤氏
具綏具和小林銀三、こと(名和又八郎夫人)
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滝川 具挙(たきがわ ともたか)は、江戸時代後期の旗本。初名は具知(ともさと)。通称は三郎四郎。官位従五位下播磨守

戊辰戦争の開戦経過における旧幕府側の中心人物として知られる[1]

生涯

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前半生

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禄高1200石の旗本・滝川三郎四郎具近の子[2][注釈 1]幼名は銀蔵。幼少期から安積艮斎に学んだ[6]

弘化4年(1847年)4月、部屋住み惣領(旗本嫡子)から召し出されて小姓組に番入りした[5][注釈 2]安政元年(1854年)、父の死去により家督を継承し[7]、代々の名乗りである三郎四郎に通称を改めた[8]

安政6年(1859年)10月、小十人頭に任命され[9]万延元年(1860年)閏3月、目付を経て[10]、12月に外国奉行に昇進[11]、従五位下播磨守に叙任された[12]。翌2年(1861年)1月には神奈川奉行に転出し[13]、同年(改元して文久元年)8月、禁裏付に任命された[14]

幕末京都での活動

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文久元年(1861年)9月、京都に赴任し[15]、翌文久2年(1862年)8月、京都在勤のまま京都町奉行(西町奉行)に転任した[16]。同年12月、京都守護職として会津藩松平容保が着任すると東町奉行の永井尚志とともに出迎え、その指揮下に入って京都の治安維持に従事した[17]。文久3年(1863年)、孝明天皇が3月に上下賀茂社、4月に石清水八幡宮攘夷祈願のため行幸するとこれに随行した[18][19]

元治元年(1864年)7月、禁門の変が起こり、戦闘が火元になって京都市中が延焼(どんどん焼け)すると、六角獄舎に収監されていた政治犯(平野国臣ら)33人が斬刑に処された[20]。獄舎を管理する西町奉行の滝川具挙が獄舎に火災が及んで志士の逃亡が生じることを恐れ、東町奉行の小栗政寧や京都守護職松平容保の了解を得ずに独断で囚人の処分を指示したとされる[21][注釈 3]

同年9月、京都詰めのまま大目付に昇進[22]。同年12月、天狗党鎮圧のために京都を出陣する禁裏御守衛総督徳川慶喜に随行し、天狗党を率いる武田耕雲斎が慶喜への取りなしを求めて加賀藩を通じて上申書を提出すると、「この書は降伏状ではなく陳情書であるから受理できない」と強圧的に対応し、進退極まった天狗党を降伏に追い込んだ[23]

慶応元年(1865年)閏5月、将軍徳川家茂第二次長州征討のため大坂城に入ると大坂に詰めて家茂を補佐し[24]川勝広運とともに参謀役を務めた[1]

慶応2年(1866年)7月、家茂が死去して長州征討が終結した後は、江戸に戻って引き続き大目付に在職した[25]

鳥羽・伏見の戦い

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慶応3年(1867年)10月、将軍徳川慶喜が大政奉還を行うと、目付長井昌言古賀謹一郎らとともに上京を命ぜられた [26]。滝川は大政奉還に反対であったが、徳川慶喜の説諭を受けて、老中松平乗謨らとともに江戸に戻った[27][28]。しかし、江戸の留守を預かる幕臣たちは、関東における薩摩藩の後ろ盾を得た反幕府勢力の挑発に耐えかねて12月に江戸薩摩藩邸の焼討事件を起こし、幕府陸軍歩兵の大坂増派を命じた[29]

12月28日、歩兵を乗せた軍艦順動丸に便乗して滝川具挙は勘定奉行小野広胖とともに慶喜のいる大坂城に入城し、薩摩藩邸焼討ちに至る江戸の情勢を伝え、京都における動静に緊張を高めていた城中の幕臣や諸藩を恭順から挙兵へと傾けた[30][31][注釈 4]

慶応4年[注釈 5]1868年1月2日、大坂城の幕府軍は京都への進軍を開始し、大目付滝川具挙は薩摩藩を弾劾する「討薩表」を京都に届ける使者とされた[32][33]1月3日、滝川は護衛の京都見廻組とともにを発って鳥羽街道を進むが、先駆が上鳥羽に至ったところで、鳥羽街道と西国街道の交点である四塚の関門で薩摩藩兵に行く手を阻まれ、通行を拒否された[34]。滝川はいったん引き返すと、鳥羽街道を進軍する幕府軍の主力である陸軍奉行並大久保忠恕指揮下の歩兵と合流し、再び鳥羽街道を進んだ[35]。一方、薩摩藩兵はこの間に街道を南に前進し、鴨川にかかる小枝橋を封鎖した。幕府軍とともに下鳥羽の赤池にまで達した滝川は、京都への通行を求めて薩摩藩の椎原小弥太と直談判に及んだが、通行を認めさせられないうちに日没が近づいたため、入京の強行を通告。幕府軍が前進の構えを見せると、薩摩藩兵は大砲と小銃を発砲し、鳥羽・伏見の戦いが始まった[36]

戊辰戦記絵巻 前編第六図 鳥羽関門戦争(部分)
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Clip
鳥羽・伏見の開戦直後、前線から逃亡する滝川具挙(『戊辰戦記絵巻』)

鳥羽・伏見の戦いの開戦時、陣立書[33]では鳥羽街道を進む諸部隊の指揮官に定められていた陸軍奉行竹中重固京街道伏見に向かっており、幕府軍総督で鳥羽方面の総司令官であった松平正質は幕府軍本営の置かれていた淀本宮にいた。このため幕府歩兵と諸藩兵を統括する指揮官が不在で、本来は使者役であって指揮権のない滝川が越権で指図している状況であったと見られている。幕府軍は兵数に勝ることから洛外で寡勢の薩摩側から攻撃をしかけてくる可能性を予期しておらず、先頭の部隊が赤池で停止してからも行軍体制のまま赤池を先頭にして街道に伸び切った状態にあり、滝川が入京強行を通告した際にも戦闘準備をさせていなかった。その上、先頭にいた滝川の乗馬が発砲に驚いて狂奔し、後方の部隊をかき乱しながら遁走してしまった[36]

前線から撤退した滝川は自ら入京することができなくなったため、「討薩表」を大垣藩に託し[35][注釈 6]、自身は淀本営に合流して交渉や連絡を担当した。鳥羽と伏見で敗れた幕府軍は、1月4日夕刻、淀城を守る淀藩兵に入城を拒否されて八幡橋本へと敗走、松平・竹中・滝川らの本営は枚方を経て守口まで後退し、1月6日、慶喜の命令で大坂城に帰還した[37]

同日に大坂城を脱出した慶喜を追って江戸に帰着[38]。慶喜が勘定奉行小栗忠順らの抗戦論を抑えて勝海舟大久保一翁の恭順論を採用すると、2月9日若年寄永井尚志、同役の戸川安愛などとともに免職された[39]。滝川は恭順派から大坂城中において塚原昌義、小野広胖とともに慶喜に迫って出兵をさせた張本人とみなされており[40]2月19日逼塞に処され[41]、さらに4月7日には新政府の指示で改めて永蟄居とされた[42]

明治維新後

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江戸開城後、伝習隊歩兵指図役として鳥羽・伏見の戦いにも参戦した長男の充太郎(滝川具綏)は江戸を脱走して抗戦を続けたが、滝川具挙は駿河台の屋敷で蟄居しており、徳川亀之助駿府藩(静岡藩)入封に伴って駿府(静岡)に移置されることになった[43]。8月、東京府判事の土方久元が、滝川家の隣家である小栗忠順の屋敷を接収し、馬場の拡張をするため滝川家に屋敷からの立ち退きを命じたので、退去して静岡に移った[44]

明治2年(1869年)、家督を次男の規矩次郎(滝川具和)に譲って隠居し[45]、名を戇哉(とうさい)[注釈 7]と改めた[47]

晩年には東京に戻り、飯田町に居住していた[48]明治14年(1881年)、死去した[47]

年譜

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※日付は明治5年(1872年)までは旧暦

人物

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  • 屋敷は駿河台(現在の千代田区駿河台1丁目8番)にあった[55]。滝川家は、具挙の幼年期である文政11年(1828年)に拝領屋敷の相対替により代々木から転居している[56]。隣家は小栗忠順の屋敷であり[55]、具挙は忠順とともに小栗邸内で開講していた安積艮斎の私塾、見山楼で学んだ[6]。滝川家と小栗家の親しい交際は慶応4年(1868年)2月に忠順が江戸を退去するまで続き、現存する幕末の小栗忠順の日記には、江戸を離れる20日前の2月9日に同日に大目付を罷免された滝川具挙邸を訪問したことや、滝川充太郎(具挙の嫡男具綏)、蜷川邦之助(具挙の実弟蜷川親敬)の頻繁な小栗邸来訪が記録されている[57]
  • 小栗忠順を隣人・同門の友人とし、ペリーの応接役だった井戸覚弘を舅とするなど開国幕権伸長論論の人脈に連なっていた。戊辰戦争開戦時には「聞ゆる主戦派」[31]「薩人を悪む事虎狼より甚し」[58]と評されたように反幕府勢力に対する強硬的な立場を通したが、六角獄舎の処刑専行や、鳥羽・伏見の戦いにおける失態のため歴史上悪名が高い[45]
  • 鳥羽・伏見の戦いにおいて、滝川具挙は使者役と認識されており正規の指揮権を持たなかったことは明治維新後に太政官で編纂された『復古記』および同書が引用する滝川所持の幕府軍「軍配書」により明らかであるが[33]、近年は鳥羽方面における幕府軍先鋒の主将(指揮官)であったという認識が広まっており、司馬遼太郎の作品などで開戦と同時に敵前逃亡して味方を混乱させた無能な指揮官と評価されている[59]
  • 明治維新後は早々に隠居しており、同じく開戦責任者として処罰された永井尚志塚原昌義小野友五郎(広胖)らと異なり新政府に出仕していない。隠居後に改名した「戇哉」の名は、2字で「トウなるかな」と訓読でき、「なんと愚かなことであろうか」という意味[60][61]

系譜

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滝川氏織田信雄豊臣秀吉に仕えた戦国武将滝川雄利の子孫で、宗家は近江国内4000石を知行する大身旗本。具挙の滝川三郎四郎家は、滝川雄利の曾孫・滝川具章が第4代将軍徳川家綱小姓になって別家した家で、近江国内に1200石を領した[62]

具挙の父・滝川三郎四郎具近は天保15年(1844年)に小姓組から使番に任命され、弘化4年(1847年)から1年間大坂目付出役を務めたが、嘉永7年(1854年)に在職のまま没した[63]。弟に文久遣欧使節の目付を務めた京極能登守高朗(次男)[3]幕府陸軍将校だった蜷川邦之助親敬(四男)[64][65]がいる。

妻は大目付井戸覚弘の養女で、大身旗本・斎藤佐渡守(斎藤利三の子斎藤利宗春日局の兄)の子孫)の娘[45]。戒名は「貞心院殿祥岳妙寿大姉」[47]

長男の充太郎具綏は江戸を脱走し、箱館戦争まで戦い抜いたため静岡藩士となった滝川家を廃嫡された。赦免後、陸軍に入り西南戦争で戦死[46]。次男の規矩次郎具和は静岡藩廃藩後、海軍兵学寮を卒業して海軍少将まで昇進した[66]。三男の銀三東京職工学校を卒業して繊維工業技術者となり、京都綿ネル株式会社の支配人を務めた[67]。長女ことは名和又八郎海軍大将の夫人[68]

脚注

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注釈

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  1. ^ 生年は不明であるが、具挙の次弟で同時期に目付、大目付を歴任した京極高朗文政11年(1828年)生まれ[3]で、それよりは年長。また、文化13年(1816年)生まれの永井尚志、文政10年(1827年)生まれの小栗忠順と学問試の受験[4]、番入り[5]が同時で、彼らと同世代。
  2. ^ 滝川銀蔵は天保14年(1843年)4月と弘化3年(1846年)9月の2度、布衣以上の役人の嫡子から番入りさせる者を選抜するための昌平坂学問所儒者による学問試を受験して落第しており[4]、「問学出精」(学問成績優秀)ではなく「芸技出精」(武術鍛錬優秀)を理由とする採用であった。なお、弘化3年に同時に学問試を受験して「上」の評価を得た永井岩之丞(尚志)は「問学軍学芸技出精」で、銀蔵と同じ「下」であった小栗剛太郎(忠順)は「芸技出精」で入番している[5]
  3. ^ かつては六角獄舎の処刑は松平容保の指示とされたこともあったが、会津藩士柴太一郎が、禁門の変の後に滝川具挙に面会した際に「かねて幕府には非常の時には非常の処分をするという内規があるので、伺いを立てずに自分の職権で囚人の処分を致した」と言われたと証言しており(岩崎英重 編『会津藩庁記録 文久3年 第1』日本史籍協会、1926年、506頁。)、町奉行の独断と見られている[20]。なお、事後に処刑のことを知った松平容保は町奉行を戒告したとされるが[21]、禁門の変から間もなく滝川具挙は大目付、小栗政寧は勘定奉行に問題なく昇進している。
  4. ^ 鳥羽・伏見の戦いの前後に京都にいる松平春嶽の命を受けて朝幕開戦回避のため大坂に派遣されていた福井藩中根雪江の伝聞によれば、大坂城に入った滝川は関東における薩摩藩の悪行や薩摩藩邸焼き討ちの状況を訴えて薩摩藩討伐を主張し、慶喜が恭順を訴えて沈静化していた大坂城中を挙兵に向けて扇動したという[30]
  5. ^ 9月に明治と改元。
  6. ^ 討薩表は1月5日に大垣藩を経て朝廷に提出された。
  7. ^ 「戇」と同音の「陶」を用いて「滝川陶哉」と表記している資料もある[46]

出典

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  1. ^ a b 『幕末維新人名事典』学芸書林、1978年、381頁。
  2. ^ 小川恭一編『寛政譜以降旗本家百科事典』第3巻、東洋書林、1997年、1609頁。
  3. ^ a b 林昇撰「越前守京極府君大信之墓碑銘」(『墓碑史蹟研究』23、墓碑史蹟研究発行所、1925年8月、219-221頁。
  4. ^ a b 文部省 編『日本教育史資料』7、文部省、1890年、143、153頁。
  5. ^ a b c d 「慎徳院殿御実紀」巻11、弘化4年4月16日条。(『徳川実紀 續』第3篇、経済雑誌社、1906年、468頁。
  6. ^ a b 『安積艮齋門人帳』安積艮斎顕彰会、2007年、420頁。
  7. ^ a b 『年録』514巻、安政元年12月27日条。
  8. ^ 橋本博 編『大武鑑』巻9、大洽社、1936年、安政2年24頁。
  9. ^ a b 『柳営補任』3、東京大学出版会、1964年、338頁。
  10. ^ a b 『柳営補任』3、東京大学出版会、1964年、124頁。
  11. ^ a b 「昭徳院殿御実紀」万延元年12月1日条。(『徳川実紀 續』第4篇、経済雑誌社、1906年、450頁。
  12. ^ a b 「昭徳院殿御実紀」万延元年12月4日条。(『徳川実紀 續』第4篇、経済雑誌社、1906年、458頁。
  13. ^ a b 「昭徳院殿御実紀」文久元年1月23日条。(『徳川実紀 續』第4篇、経済雑誌社、1906年、520頁。
  14. ^ a b 「昭徳院殿御実紀」文久元年8月15日条。(『徳川実紀 續』第4篇、経済雑誌社、1906年、828頁。
  15. ^ a b 「昭徳院殿御実紀」文久元年9月15日条。(『徳川実紀 續』第4篇、経済雑誌社、1906年、891頁。
  16. ^ a b 『柳営補任』5、東京大学出版会、1964年、12頁。
  17. ^ 山川浩『京都守護職始末』沼沢七郎、1911年、26頁。
  18. ^ 「昭徳院殿御上洛日次記」文久3年3月11日条。(『徳川実紀 續』第4篇、経済雑誌社、1906年、1804頁。
  19. ^ 「昭徳院殿御上洛日次記」文久3年4月11日条。(『徳川実紀 續』第4篇、経済雑誌社、1906年、1826頁。
  20. ^ a b 平野国臣顕彰会 編『平野国臣伝記及遺稿』博文社書店、1916年、299-301頁。
  21. ^ a b c 維新史蹟会 編『維新史蹟図説 京都の巻』東山書房、1924年、278-280頁。
  22. ^ a b 『柳営補任』2、東京大学出版会、1964年、29頁。
  23. ^ a b 渋沢栄一『徳川慶喜公伝 三』竜門社、1918年、141-150頁。
  24. ^ a b 「昭徳院殿御在坂日次記」慶応元年7月4日条(『徳川実紀 續 第5篇』経済雑誌社、1907年、267頁。)、同2年7月10日条(同書707頁。)。
  25. ^ a b 「慶喜公御実紀」慶応3年1月29日条(『徳川実紀 續 第5篇』経済雑誌社、1907年、1144頁。
  26. ^ a b 「慶喜公御実紀」慶応3年10月22日条(『徳川実紀 續 第5篇』経済雑誌社、1907年、1446-1447頁。
  27. ^ a b 渋沢栄一『徳川慶喜公伝 四』竜門社、1918年、133-136頁。
  28. ^ a b 日本歴史学会編『明治維新人名辞典』吉川弘文館、1981年、577頁。
  29. ^ a b 「慶喜公御実紀」慶応3年12月25日条(『徳川実紀 續 第5篇』経済雑誌社、1907年、1534-1539頁。
  30. ^ a b 「丁卯日記」慶応3年12月晦日条(国書刊行会編『史籍雑纂』第4、国書刊行会、1912年、289頁。
  31. ^ a b c 渋沢栄一『徳川慶喜公伝 四』竜門社、1918年、255-256頁。
  32. ^ a b 渋沢栄一『徳川慶喜公伝 四』竜門社、1918年、259-263頁。
  33. ^ a b c d 太政官編『復古記』第1冊、内外書籍、1930年、415-421頁。
  34. ^ 会津戊辰戦史編纂会編『会津戊辰戦史』会津戊辰戦史編纂会、1933年、94-95頁。
  35. ^ a b 渋沢栄一『徳川慶喜公伝 四』竜門社、1918年、271-272頁。
  36. ^ a b c 大山柏『戊辰役戦史 上』時事通信社、1968年、63-69頁。
  37. ^ a b 大山柏『戊辰役戦史 上』時事通信社、1968年、100-106頁。
  38. ^ a b 「慶喜公御実紀」明治元年1月12日条(『徳川実紀 續 第5篇』経済雑誌社、1907年、1596-1597頁。
  39. ^ a b 「慶喜公御実紀」明治元年2月9日条(『徳川実紀 續 第5篇』経済雑誌社、1907年、1651頁。
  40. ^ 「戊辰日記」慶応4年3月18日条(国書刊行会編『史籍雑纂』第4、国書刊行会、1912年、430頁。
  41. ^ a b 「慶喜公御実紀」明治元年2月19日条(『徳川実紀 續 第5篇』経済雑誌社、1907年、1676頁。
  42. ^ a b 「慶喜公御実紀」明治元年4月7日条(『徳川実紀 續 第5篇』経済雑誌社、1907年、1738頁。
  43. ^ a b 太政官 編『復古記 第10冊』内外書籍、1929年、602-603頁。
  44. ^ 木村知治・菴原鉚次郎『土方伯』菴原鉚次郎、1913年、411-414頁。
  45. ^ a b c d 野沢日出夫「子孫訪問 江戸幕府最後の大目付瀧川播磨守の裔 瀧川具也氏」『姓氏と家紋』近藤出版社、第61号、1991年3月、38-39頁。
  46. ^ a b 安岡昭男 編『幕末維新大人名事典』下巻、新人物往来社、2010年、42頁。
  47. ^ a b c d 『墓蹟』1、墓蹟発行所、1926年5月、24頁。
  48. ^ 『野洲町史』第2巻(通史編 2)、野洲町、1987年、208頁。
  49. ^ 「慎徳院殿御実紀」巻8、弘化元年3月15日条。(『徳川実紀 續』第3篇、経済雑誌社、1906年、352頁。
  50. ^ 『年録』499巻、嘉永元年11月2日条。
  51. ^ 「昭徳院殿御実紀」万延元年9月20日条。(『徳川実紀 續』第4篇、経済雑誌社、1906年、394頁。
  52. ^ 「昭徳院殿御実紀」文久元年3月15日条。(『徳川実紀 續』第4篇、経済雑誌社、1906年、582頁。
  53. ^ 『徳川実紀 續』第5篇、経済雑誌社、1907年、707頁。
  54. ^ 「慶喜公御実紀」明治元年2月10日条(『徳川実紀 續 第5篇』経済雑誌社、1907年、1652-1653頁。
  55. ^ a b 『駿河台小川町絵図』尾張屋清七、嘉永3年。
  56. ^ 東京市 編『東京市史稿 市街篇第三十六』東京市、1940年、726頁
  57. ^ 『群馬県史料集』第7巻、群馬県文化事業振興会、1972年。
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  60. ^ 服部宇之吉編『大漢和辞典』春秋書院、1925年、648頁。
  61. ^ 新田義彦編『中等読本漢文辞典』早稲田大学出版部、1912年、167頁。
  62. ^ 竹内誠ほか 編『徳川幕臣人名辞典』東京堂出版、2010年、393頁。
  63. ^ 『柳営補任』3、東京大学出版会、1964年、221頁。
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  65. ^ 熊井保 編『江戸幕臣人名事典』改訂新版、新人物往来社、1997年、791頁。
  66. ^ 『対支回顧録』下巻、対支功労者伝記編纂会、1936年、677-679頁。
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  68. ^ 『人事興信録 4版人事興信所、1915年、な1頁。

参考文献

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  • 小川恭一編『寛政譜以降旗本家百科事典』第3巻、東洋書林、1997年、1609頁。
  • 竹内誠ほか 編『徳川幕臣人名辞典』東京堂出版、2010年、393頁。
  • 安岡昭男 編『幕末維新大人名事典』下巻、新人物往来社、2010年、42頁。
  • 日本歴史学会 編『明治維新人名辞典』吉川弘文館、1981年、577頁。