コンテンツにスキップ

源雅通

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
源 雅通
源雅通像(三の丸尚蔵館蔵『天子摂関御影』より)
時代 平安時代後期
生誕 元永元年(1118年
死没 承安5年2月27日1175年3月21日
別名 久我内大臣
墓所 京都府京都市伏見区久我本町の久我家墓所御墓山
官位 正二位内大臣
主君 崇徳天皇近衛天皇後白河天皇二条天皇六条天皇高倉天皇
氏族 村上源氏久我流
父母 父:源顕通、母:源能俊の娘
養父:源雅定
兄弟 明雲雅通藤原親隆
藤原家保の娘
妾:美福門院女房(藤原行兼または藤原長信の娘)
雅縁、明雅、通親雅平通望通資藤原実守室、三条殿
テンプレートを表示

源 雅通(みなもと の まさみち)は、平安時代後期の公卿歌人村上源氏久我流権大納言源顕通の次男。官位正二位内大臣久我家3代。

経歴

[編集]

幼少時に父を失い、叔父の右大臣源雅定の養嗣子となる。兵部権大輔近江権介皇后宮権亮備後権守などを歴任し、久寿2年(1155年大嘗会国司賞として従三位となる。また、奨学院別当・検非違使別当なども務めた。正二位・内大臣まで昇進したが、嘉応元年(1169年)以降は病気になり、承安5年(1175年)に久我別荘にて薨御。享年58。

歌人としては、『千載和歌集』以下の勅撰集に10首入集する他、『続詞花集』などの私撰集にも入集がある。

年譜

[編集]

※月日は旧暦

和暦 西暦 月日 事柄
元永元年 1118年 生誕。
大治4年 1129年 1月7日 叙爵
長承3年 1134年 4月2日 兵部権大輔に任官。
保延2年 1136年 10月29日 昇殿
保延4年 1138年 1月5日 従五位上に昇叙。
10月17日 正五位下に昇叙。
保延6年 1140年 4月20日 左近衛少将に遷任。
永治元年 1141年 1月29日 近江権介を兼任。
12月27日 皇后宮権亮を兼任(皇后宮は藤原得子)。
康治元年 1142年 1月5日 従四位下に昇叙。
2月 従四位上に昇叙。
4月8日 還昇し、禁色を聴される。
11月14日 正四位下に昇叙。
天養元年 1144年 1月24日 左近衛権中将に転任。
久安2年 1146年 1月22日 近江権介を兼任。
久安5年 1149年 6月 服解(母の死没)
8月3日 皇后宮権亮を停任。
久安6年 1150年 1月29日 中将を去って参議に転任。
12月12日 侍従を兼任。
仁平元年 1151年 2月2日 備後権守を兼任。
仁平2年 1152年 1月28日 右兵衛督を兼任し、侍従を停任。
久寿元年 1154年 9月11日 奨学院別当に補任。
久寿2年 1155年 11月20日 近江権守に遷任。
11月22日 従三位に昇叙。
保元元年 1156年 9月13日 権中納言に転任。
9月17日 左兵衛督に転任。
保元2年 1157年 8月21日 正三位に昇叙。
保元3年 1158年 2月21日 右衛門督に転任し、検非違使別当に補任。
5月21日 左衛門督に転任。
11月8日 左衛門督・検非違使別当を辞任。
永暦元年 1160年 1月21日 中宮権大夫を兼任(中宮は子内親王)。
3月2日 勅授帯剣を聴される。
8月11日 権大納言に転任し、中宮権大夫如元。
10月11日 従二位に昇叙。
応保元年 1161年 2月28日 正二位に昇叙。
6月1日 淳和院別当に補任。
8月17日 中宮大夫に転任。
9月13日 大納言に転任し、中宮大夫如元。
応保2年 1162年 2月5日 中宮大夫を停任。
5月27日 服解(養父の薨去)。
9月13日 復任。
仁安2年 1167年 8月10日 伊勢大神宮奉行に補任。
仁安3年 1168年 3月20日 皇太后宮大夫を兼任(皇太后宮平滋子)。
8月4日 任大臣兼宣旨を蒙る。
8月10日 内大臣に転任。
8月12日 右近衛大将を兼任。
11月21日 右近衛大将を停任(五節帳台試に不参のため)。
12月16日 右近衛大将に還任。
嘉応元年 1169年 1月2日 右馬寮御監を兼任。
承安2年 1172年 6月7日 公卿勅使として伊勢国に下向。
承安4年 1174年 7月8日 右近衛大将を辞任。
承安5年 1175年 2月27日 薨去。享年58。

系譜

[編集]

参考文献

[編集]