橘家圓蔵 (8代目)
八代目 | |
五代目圓鏡時代 (プレイグラフ社『落語など』創刊号(1966年)より) | |
本名 | |
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別名 | 五代目月の家圓鏡 ヨイショの圓蔵 平井の圓蔵 |
生年月日 | 1934年4月3日 |
没年月日 | 2015年10月7日(81歳没) |
出身地 | 日本・東京府東京市(現:東京都江戸川区) |
死没地 | 日本・東京都 |
師匠 | 七代目橘家圓蔵 |
弟子 | 六代目柳亭左楽 二代目橘家竹蔵 六代目月の家圓鏡 橘家半蔵 橘家富蔵 二代目橘家蔵之助 橘家仲蔵 |
名跡 | 1. 初代橘家竹蔵 (1952年 - 1955年) 2. 初代橘家舛蔵 (1955年 - 1965年) 3. 五代目月の家圓鏡 (1965年 - 1982年) 4. 八代目橘家圓蔵 (1982年 - 2015年) |
出囃子 | 虎退治 |
活動期間 | 1952年 - 2015年 |
所属 | 落語協会 (1952年 - 1978年) 落語三遊協会 (1978年) 落語協会 (1978年 - 2015年) |
公式サイト | 橘家 圓蔵 |
主な作品 | |
『猫と金魚』 『寝床』 『反対俥』 『堀の内』 | |
受賞歴 | |
日本放送演芸大賞落語部門(1974年) 日本放送作家協会賞大衆芸能賞演芸部門(1974年) 文化庁芸術祭優秀賞(1978年) 江戸川区文化賞(2012年) | |
八代目 橘家 圓蔵(たちばなや えんぞう、1934年〈昭和9年〉4月3日 - 2015年〈平成27年〉10月7日)は、日本の落語家。本名:大山 武雄(おおやま たけお)。生前は落語協会所属。出囃子は『虎退治』。
前名の五代目月の家圓鏡としても広く知られていた。
来歴・人物
[編集]東京府東京市(現在の東京都江戸川区)平井に生まれる[1]。生涯を通して平井に在住していたため、「平井の師匠」という通り名があった[1]。
家業の紙芝居屋を経て[2]、1952年12月14日、4代目月の家圓鏡(のちの7代目橘家圓蔵)に入門。橘家竹蔵との前座名を与えられる。
1955年3月に金原亭馬太郎とともに二ツ目に昇進し、橘家舛蔵と改名。1965年3月に真打に昇進し、5代目月の家圓鏡を襲名。7代目(自称5代目)立川談志を兄貴分として信頼し[注釈 1]、談志、5代目三遊亭圓楽、3代目古今亭志ん朝とともに「落語四天王」と呼ばれた[3]。
1960年代から「ヨイショの圓鏡」の異名をとり、落語家としてもラジオスターとしても一時代を築く。徹底的に明朗かつ座持ちの良い芸風で、高座や座敷[注釈 2]のみならず、ラジオやテレビ、CMでも大活躍し、「圓鏡の声が聞こえない日はない」と称されるほどの人気を得た。
持ち前の頭の回転の速さからなぞかけを得意とし、自宅の表札の裏に「そのココロは?」と書いてあるとも噂された。頭の回転を活かした頓知を発揮し、大喜利やクイズでも逸早く回答して「早いが取り柄の出前と圓鏡」「早いと言えば圓鏡か新幹線か」と自称した。この時代にラジオ台本を多く手がけていたのが半村良[注釈 3]で、交友は生涯にわたって続いた。
強度の近視のため、黒縁眼鏡を掛けたまま高座に上がっていた。これは従来の寄席演芸のタブーを破るものだったが、自身のトレードマークとなった[4]。
兄弟子の初代林家三平が「ヨシコさん」のギャグで売ったのに対抗し、妻の節子[注釈 4]をネタにした「ウチのセツコが」というフレーズが大いにウケる[5]。
同年に勃発した落語協会分裂騒動では師匠である7代目圓蔵の無節操な言動に翻弄され、落語協会復帰は許されたものの、実質的な圓蔵一門の看板として後始末に苦労することになった。1980年に師匠が没してわずか2年後の1982年10月、圓蔵の名跡に付いてしまった悪印象の払拭を期待され、異例の性急さで8代目橘家圓蔵を襲名する[注釈 5]。
8代目襲名後は次第に寄席に比重を移し、総領弟子の6代目月の家圓鏡以下、多数の弟子を抱える大御所的存在として君臨する。8代目圓蔵一門は本人に因み「ヨイショの一門」と呼ばれる。
2006年、落語協会相談役に就任。2012年11月には江戸川区文化賞を授与される。晩年は高齢のため全盛期のような口演が困難となり、2012年頃からは高座への出演を控えていた[7]。
2015年10月7日午前3時30分、心室細動のため東京都内の病院で死去[1][8][9]。81歳没。没後、江戸川区が平井の圓蔵邸を記念館「ひらい圓藏亭」として保存し、整備したのちに一般公開している[10]。
芸歴
[編集]- 1952年12月 - 4代目月の家圓鏡に入門、前座名「竹蔵」。
- 1955年9月 - 二ツ目昇進、「舛蔵」と改名。
- 1965年4月 - 真打昇進、「5代目月の家圓鏡」を襲名。
- 1982年 - 「8代目橘家圓蔵」を襲名。
- 2006年 - 落語協会相談役に就任。
- 2015年10月 - 死去。
主な演目
[編集]主な出演
[編集]ラジオ番組
[編集]- 円鏡のこの指とまれ(TBSラジオ)
- 午後2時の男(1966年10月 - 1981年10月、文化放送)
- 歌謡大行進(1969年4月 - 1970年7月、文化放送) - 三笠麗子と共演
- 円鏡のもうじきお昼だよ(文化放送)
- 圓蔵のみんなでヨイショ!(1982年10月 - 1984年3月、文化放送)
- 円鏡の歌謡曲ドンドン(1968年9月 - 1973年4月、ニッポン放送)
- 談志・円鏡 歌謡合戦(1969年 - 1973年、ニッポン放送)
- ※木魚を叩きながら7代目(自称5代目)立川談志とナンセンスギャグの応酬を展開し、伝説的番組となった(CD化され、『立川談志ひとり会 CD全集 第二期』に収録)。
- 円鏡のモシモシ歌謡曲(1970年10月 - 1973年4月、ニッポン放送)
- 月の家円鏡ショウ(1973年4月 - 1974年4月、ニッポン放送)
- 月の家円鏡のハッピーカムカム → 橘家圓蔵のハッピーカムカム(1974年4月 - 1987年4月、ニッポン放送)
- 圓蔵のお昼だヨイショ → 圓蔵・まみのお昼だヨイショ(1987年4月 - 1989年4月、ニッポン放送)
テレビ番組
[編集]レギュラー
[編集]- お笑い頭の体操(1968年2月 - 1975年12月、TBSテレビ[注釈 6])
- やじうま寄席(1971年10月 - 1980年3月、日本テレビ)
- ハイヌーンショー(1972年1月 - 1975年3月、フジテレビ) - 司会
- ちびっこアベック歌合戦(1974年10月 - 1975年9月、毎日放送[注釈 7]) - 司会
- 日曜演芸会(NETテレビ)
- お笑い大集合(1978年4月 - 1980年9月、フジテレビ) - 司会
- 大進撃!おもしろ組(1980年10月 - 1981年3月、フジテレビ) - 司会
- ウィークエンド東京(東京12チャンネル)
- お好み演芸会(1980年4月 - 1989年3月、NHK総合)
ゲスト
[編集]- 笑点(日本テレビ)
- 気まぐれ百年(日本テレビ)
- 初笑いうるとら寄席(TBS)
- ゆく年くる年(1965年、TBS)
- オットいたゞき(1966年、NET / 東映)
- 第9話「油断大敵の巻」
- 第10話「万事休すの巻」
- 初詣!爆笑ヒットパレード(フジテレビ)
- 花王名人劇場(関西テレビ)
- 特捜最前線 第399話「少女・ある愛を探す旅!」(1985年、テレビ朝日 / 東映)
映画
[編集]CM
[編集]- 国際電気(国際電気工業)
- ※銃を持った戦闘員の格好をしている圓蔵が、ほふく前進をしながら本部へ無線連絡して「寒くて寒くてガッタガタです」と言う時の動きがウケていた(「暑くて暑くてクーラクラです」と言うパターンもあった)。
- エバラ焼肉のたれ(エバラ食品工業)
- ※1970年から1986年までの約16年間の長きに渡り出演。「3日に一度は焼肉料理」のフレーズでエバラ食品工業(現在は東証スタンダード上場)の知名度・業績拡大に大きく貢献した他、エバラの社員と共に日本各地の精肉店に営業に出向いたこともあった。
- メガネクリンビュー(タイホー工業(現:イチネンケミカルズ))
- ※鍋料理を囲む設定で、「眼鏡スッキリ曇りなし、料理すっかり食う物なし」のフレーズが受けた。
- タイホーハロン消火器(タイホー工業)
- セブン-イレブン
- ※1980年代初頭、年末年始仕様のCMに出演。
- ニュータッチヌードル(ヤマダイ)
- ※1980年代に出演。
一門弟子
[編集]系図
[編集]八代目橘家圓蔵† | 六代目柳亭左楽 | ||||||||||||||||||||
橘家竹蔵 | 橘家圓十郎 | ||||||||||||||||||||
六代目月の家圓鏡 | 二代目月の家小圓鏡 | ||||||||||||||||||||
橘家半蔵 | |||||||||||||||||||||
橘家富蔵 | |||||||||||||||||||||
二代目橘家蔵之助 | |||||||||||||||||||||
橘家仲蔵 | |||||||||||||||||||||
弟子入り
[編集]- 1966年2月 - 月の家杵助が入門。
- 1972年4月 -杵助が二ツ目昇進、「橘家舛蔵」と改名。
- 1975年5月 - 月の家かがみが入門。
- 1980年
- 1981年3月 - 橘家竹蔵が真打昇進。
- 1982年
- 1983年4月 - 杵助が二ツ目昇進、「橘家舛蔵」と改名。
- 1986年 - かがみが二ツ目昇進、「橘家鷹蔵」と改名。
- 1987年 - 若蔵が二ツ目昇進、「橘家豊蔵」と改名。
- 1990年3月 - 靖鏡が真打昇進、「橘家半蔵」と改名。
- 1991年 - 橘家竹蔵門下に橘家亀蔵が入門。
- 1995年
- 舛蔵が真打昇進、「橘家富蔵」と改名。
- 亀蔵が二ツ目昇進。
- 1996年 - 鷹蔵改メ「二代目橘家蔵之助」、豊蔵改メ橘家仲蔵が真打昇進。
- 1999年4月 - 小圓鏡が六代目月の家圓鏡を襲名。
- 2001年
- 2004年11月 - かがみが二ツ目昇進、「鏡太」と改名。
- 2005年 - 亀蔵が真打昇進、橘家圓十郎を襲名。
- 2016年3月 - 鏡太が真打昇進、二代目月の家小圓鏡を襲名。
著書
[編集]- 月の家円鏡 『円鏡のセツ子と共に』(1968年、文化放送)
- 月の家円鏡『即興話術 社交・座談・酒席にすぐ役立つ本』(1969年、日本文芸社)
- 小久保晴行 『八代目橘家圓蔵の泣き笑い人情噺』(2003年、イースト・プレス)
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 年齢は談志のほうが1学年下だが、入門は圓蔵のほうが8か月ほど早かった。
- ^ 旦那衆相手に幇間よろしくヨイショで稼ぎまくっていた。[要出典]
- ^ 作家としては、まだ短編を時折発表する程度だった。
- ^ 圓蔵が前座時代、師匠に命じられ、大師匠の8代目桂文楽宅に住み込み内弟子修行に出された際、そこで女中をしていた。2010年6月、82歳で逝去した。
- ^ この襲名劇に際しては、7代目圓蔵が一代限りの約束で名跡を6代目三遊亭圓生から借りていたという事情があったため、当時5代目月の家圓鏡を名乗っていた8代目圓蔵が7代目の没後に6代目圓生未亡人に名跡を一度返上した後、圓生未亡人に対して「私(5代目圓鏡)に圓蔵の名を継がせてください」と頼み込み、その了解を得て襲名を行ったという経緯があった[1][6]。
- ^ 1975年4月、近畿地区におけるネット局が朝日放送から毎日放送に変更。
- ^ 1975年4月、関東地区におけるネット局がNETテレビからTBSテレビに変更。
出典
[編集]- ^ a b c d “〈レクイエム2015〉 5人の「若手四天王」落語家・橘家圓蔵さん”. 毎日新聞. 毎日新聞社. (2015年12月9日) 2017年2月11日閲覧。
- ^ “黒メガネで高座に上がった橘家円蔵は、身体で芸を披露した | 文春写真館”. 本の話. 文藝春秋. (2015年12月21日) 2024年5月31日閲覧。
- ^ “橘家円蔵さん 写真特集”. 時事ドットコム. 時事通信社 2024年5月31日閲覧。
- ^ “橘家円蔵さん死去 眼鏡で高座に上がった初の落語家”. 日刊スポーツ. (2015年10月17日) 2024年6月1日閲覧。
- ^ “【訃報】落語家・圓蔵さん 夫人ネタが大人気”. テレビ朝日 (2015年10月16日). 2024年6月1日閲覧。
- ^ 『月の家円鏡 八代目円蔵を襲名 師匠のあと継いで「面白さで大成目ざします」』毎日新聞 1982年6月28日東京本社版夕刊9面
- ^ 三遊亭円丈著『落語家の通信簿』(2013年、祥伝社新書) ISBN 978-4396113377
- ^ “橘家圓蔵さん死去 81歳 黒縁眼鏡となぞかけで人気”. Sponichi ANNEX. スポーツニッポン新聞社. (2015年10月16日) 2017年2月11日閲覧。
- ^ Kazuhiko Kuze「橘家圓蔵さん死去 「ヨイショ」や焼肉のタレのCMなど、お茶の間で人気」『ハフポストNEWS』2015年10月16日。2024年5月9日閲覧。
- ^ “橘家円蔵さん自宅を記念館として整備、15日から一般公開”. Sponichi ANNEX. スポーツニッポン新聞社. (2017年7月14日) 2017年7月14日閲覧。