宇高連絡船

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宇高連絡船(宇高航路)
サンポート高松の一角にある
「讃岐丸」の錨のモニュメント(中央奥は高松駅)
概要
現況 廃止
起終点 起点:宇野駅
終点:高松駅
駅数 2駅
運営
開業 1910年6月12日 (1910-06-12)
民営化 1987年4月1日
休止 1990年4月1日
廃止 1991年3月16日 (1991-3-16)
所有者 鉄道院→鉄道省
運輸通信省運輸省
日本国有鉄道(国鉄)→
四国旅客鉄道(JR四国)
路線諸元
路線総延長 18.0 km (11.2 mi)
航路距離(営業キロ
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宇高連絡船(うこうれんらくせん)は、かつて岡山県玉野市宇野駅香川県高松市高松駅との間で運航されていた日本国有鉄道(国鉄)・四国旅客鉄道(JR四国)の航路鉄道連絡船)である。実際の距離は11.3海里(21.0 km)だが、営業キロ上の距離は18.0 km(擬制キロ)であった。

概要

高松駅周辺の空中写真。
画像中央上部には、連絡船接岸桟橋(左側には連絡船が接岸中)が二箇所見える。(1980年10月撮影)
国土交通省 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスの空中写真を基に作成。

1903年(明治36年)3月18日山陽鉄道傘下の山陽汽船商社が開設した、岡山港 - 高松港間および多尾連絡船(多度津港 - 尾道港間)を前身とする。元々は玉藻丸は岡山港-高松港間に、児島丸は多尾連絡船に就航していた。岡山港 - 高松港間航路は、浅喫水船で岡山を出て途中三蟠港で玉藻丸に乗り換え。利用客が低迷したために、同年8月に九蟠、9月に土庄(小豆島)も経由する様に改められた。また、多尾連絡船は当初は直通だったが、1906年(明治39年)6月に鞆港を経由する様になった。両航路とも、1906年(明治39年)の鉄道国有化で国鉄の航路になり、宇高連絡船就航前日まで就航した。

山陽本線を建設した山陽鉄道は、予讃線土讃線の一部を建設した讃岐鉄道1904年(明治37年)に買収した時点で宇野 - 高松間航路の計画を立てていたが、実現したのは同社が鉄道国有法に基づき国有化された後のことだった。

1910年(明治43年)6月12日に宇野線が開通。これまでの山陽汽船商社が開設した、多尾連絡船(尾道 - 多度津間)及び、岡山 - 高松間航路を統合し、宇野 - 高松間の航路が開設された。船舶は、2航路で使われていた船舶2隻(玉藻丸児島丸)を転用した。

以後、本州四国を結ぶ幹線交通路として重用されてきた。1972年(昭和47年)11月8日からは急行便としてホーバークラフトが運航され、さらに1985年末からは、多客期などの臨時急行便として高速艇も運航された。

1988年(昭和63年)4月10日本四備讃線瀬戸大橋線)が開業したことから、前日限りで連絡船とホーバークラフトは廃止され、宇野周辺の利用者のために残された高速艇の運航も1990年(平成2年)3月に休止、翌1991年(平成3年)3月に廃止となった[1]

なお、瀬戸大橋の通行料が高額であったことなど事情から、フェリー各社(四国フェリー宇高国道フェリー・本四フェリー[注釈 1])の宇高航路は、瀬戸大橋開業後も運航を続け、21世紀初頭でもトラックドライバーの利用が多かった[注釈 2]。しかし、明石海峡大橋の供用開始、本四高速などの通行料金値下げ、燃油価格高騰などが原因で利用者が減少、徐々に減便を余儀なくされる。

2009年(平成21年)4月1日に津國汽船の本四フェリーが廃止撤退[注釈 3]2010年(平成22年)2月12日には、宇高国道フェリーと四国フェリーが宇高航路での運航を3月26日限りで廃止すると四国運輸局に申請したが[2]、岡山・香川の両県議会や玉野・高松の両市議会から存続要請がなされた結果、宇高国道フェリーは同年3月4日に、四国フェリーは同年3月11日に廃止申請を取り下げて当面の運航継続を決めた。最終的に宇高国道フェリーは2012年(平成24年)10月17日をもって運航休止となり、その後再開されていない。

宇高航路は四国フェリー1社による運航となっていたが、四国フェリーの子会社である四国急行フェリーは2019年11月11日、岡山県の宇野港と香川県の高松港を結ぶフェリー航路について、12月16日に運航を休止すると発表した。これにより、「宇高航路」と呼ばれ109年にわたり運航されてきた宇野~高松航路が、事実上その歴史に幕を閉じることになった[3]

強風などで本四備讃線の瀬戸大橋橋上区間(児島駅 - 坂出駅・宇多津駅)に通行規制がかかった場合は、快速電車マリンライナーが宇野行に臨時変更され、宇野から高松へフェリーによる代行輸送が行われていたが、四国フェリーが深夜便を廃止し日中の運航も5往復にまで減便されたため、代行輸送契約は終了となった。

沿革

出港する船上より高松港を望む(1981年8月12日)

紫雲丸の沈没事故

1955年(昭和30年)5月11日、濃霧の中、紫雲丸と第三宇高丸が衝突して前者が沈没し168人が死亡する「紫雲丸事故」が発生した。この事故を契機として、本四架橋(本州四国連絡橋)の構想が具現化していった。また、この事故をきっかけに乗客が乗った客車の航送は中止。事故を受けた組織見直しで国鉄四国支社(のち四国総局)に宇高船舶管理部を設置。

この事故は修学旅行の学生・児童を中心に死者が多数出たため、四国内の人々は大きな衝撃を受けた。以降数年間(中には瀬戸大橋開通前年まで)、香川県内の学校の修学旅行の目的地は、宇高航路を利用しない四国内に変更されたほどである。この惨事は、瀬戸大橋・児島(岡山県) - 坂出(香川県)ルート実現の大きな原動力となった。

駅一覧

高松駅のホーバークラフト・高速艇乗り場(1988年3月)

所在地・接続路線は廃止当時のもの。

駅名 営業キロ 接続路線 所在地
宇野駅 0.0 西日本旅客鉄道宇野線 岡山県玉野市
高松駅 18.0 四国旅客鉄道予讃線高徳線 香川県高松市

就航船

高松港旅客ターミナルビル3Fには現役当時の写真やパネル、備品、連絡船の模型等が展示された「宇高連絡船記念展示場」がある。

客船
玉藻丸児島丸水島丸南海丸山陽丸
鉄道航送船(貨物船)
第一宇高丸第二宇高丸第三宇高丸第一関門丸・第二関門丸第三関門丸・第四関門丸第五関門丸第一讃岐丸
鉄道航送船(客貨船)
紫雲丸(瀬戸丸)・鷲羽丸眉山丸讃岐丸(後の第一讃岐丸)
伊予丸土佐丸阿波丸讃岐丸(2代目)
ホーバークラフト
かもめとびうお・(はくちょう)
急行料金を支払うことで利用できたホーバークラフトは、通常の連絡船が所要1時間かかるところを僅か23分で結び、「海の新幹線」のキャッチフレーズでビジネス客などに人気があった。予定していた連絡船に乗り遅れてしまった場合、ホーバーを使うことで、乗船予定のさらに1便前に出航した連絡船さえも追い越し、宇野ないしは高松に先着できる事もあった。そのため、四国側から岡山駅乗換えで山陽新幹線に乗車しなければならない乗客が連絡船に乗り遅れた時など、ホーバーは特に重宝されていた。なお、ペットなどの有料手回り品の持ち込みはできなかった。
高速艇
ひかり2号(四国フェリー、1985年12月28日 - 1986年1月7日)・プリンセスオリーブ(両備運輸、1986年3月1日 - 14日、7月1日 - 7日)・しおかぜ(共同汽船、1986年7月8日 - )

ギャラリー

逸話

  • 連絡船の最盛期、着岸港である宇野駅と高松駅では、連絡船接続列車の座席を確保するために、船から降りた多くの乗客が列車まで凄まじいスタートダッシュをかけることが有名だった。将棋倒しになったり海に飛び出したりして死んだり重傷を負った者もいたほどで、半ば「命がけの競争」であった(同じ現象は南海フェリーと接続する徳島県・旧小松島港駅でも見られた)。これは笑いの文化人講座でもネタにされている。
宇高連絡船阿波丸上の立ち食いうどん
「連絡船うどん」の店
  • 宇高連絡船の追憶として、連絡船デッキで販売されていた讃岐うどんがしばしば挙げられる。とりわけ、四国へ向かう連絡船上で供されるうどんは、船上で生麺から茹でず、茹で上げ済みの麺を搭載していた(もっとも、伊予丸型客貨船の船上うどん店は「手打ちうどん」を標榜しており、うどん手打ちの実演も行っていた[5])ため、時間経過の為ややコシが失われた麺にイリコサバぶしの類による庶民的なだし汁が相まって、上等とは言い難いが、香川県民をはじめとする四国の人々に帰郷を実感させる味であった。そのため、帰省シーズンには展望デッキの上で潮風にふかれながらこれを食する人が大勢いた[注釈 4]。なお、讃岐うどんの販売が始まったのは1969年で、約80年の連絡船の歴史の中では最後の約20年間だけの営業であった[6]。高松駅構内には当時の連絡船のうどんを参考に味の再現を図った「連絡船うどん」の店があるが、麺はJR四国グループの製麺/うどん店「めりけんや」製である。連絡船に麺を納入していた製麺所は別に現存するが、そちらの麺は用いていない。高松駅名物として定着しており、旅行客や地元客からの人気は今も高い。

脚注

注釈

  1. ^ 津国汽船。もとは日本通運が「日通フェリー」として開設し、津国汽船が委託を受ける形で運航。1984年に津国汽船の自社航路となり本四フェリーとして運航
  2. ^ 瀬戸大橋利用よりコスト(利用料金)が安く、乗船中は燃料を節約できることに加えて長距離ドライバーは休息を摂ることができた。
  3. ^ 末期は四国フェリーの船を使用して共同運航の形としていた。
  4. ^ 讃岐うどんの冷凍技術が確立され、冷凍うどんが普及すると、瀬戸内海航路でもジャンボフェリーなど冷凍うどんを使用する売店・食堂等がみられる。

出典

  1. ^ a b c “JR7社14年のあゆみ”. 交通新聞 (交通新聞社): p. 9. (2001年4月2日) 
  2. ^ 宇高航路来月で廃止/フェリー2社撤退 - 四国新聞2010年2月13日 なお、直島を経由して高松と宇野を結ぶ航路(四国汽船)については同日現在で廃止表明されていない。
  3. ^ https://trafficnews.jp/post/91197
  4. ^ 鉄道ジャーナル』第21巻第6号、鉄道ジャーナル社、1987年5月、57頁。 
  5. ^ 鉄道ジャーナル』1988年5月号(No.259) p.31
  6. ^ うどん天国 空前ブームの深層(3)四国新聞2003年12月4日

参考文献

  • 萩原幹生『宇高連絡船78年の歩み』成山堂書店、2000年。ISBN 4-425-92331-6 
  • 長船友則『山陽鉄道物語 先駆的な営業施策を数多く導入した輝しい足跡』JTBパブリッシング〈JTBキャンブックス〉、2008年。ISBN 978-4-533-07028-0 
  • 鉄道アーカイブシリーズ『宇高連絡船 〜昭和63年・宇高航路最後の日の記録〜』(ビコム、2004年5月)

関連項目

外部リンク