趙浚

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趙浚
各種表記
ハングル 조준
漢字 趙浚
発音: チョ・ジュン
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趙 浚(チョ・ジュン、1346年 - 1405年)は、高麗末期から李朝初期の政治家。は明仲、は吁斎、松堂。諡号は文忠。本貫平壌朝鮮語版

人物[編集]

趙仁規の曾孫で平壌に生まれた。1374年に科挙に及第し、1388年には李成桂威化島回軍に付き従って重用され、恭譲王の擁立、田制改革の実行(1391年に科田法として施行)などの功績をあげ、李芳遠(のちの太宗)や鄭道伝と並んで李成桂の政権掌握を補佐した。また息子の趙大臨が太宗の次女(慶貞公主)と結婚し、王家の外戚に列した。

李朝成立後は内政と対外交に活躍し、開国一等功臣に列し、また二度にわたる王子の乱では、李芳遠を支持し、定宗擁立への貢献で定社一等功臣に列した。太宗の即位後は、判門下府事を経て領議政府事に至り、配享功臣の七人のうちの一人に選ばれて宗廟の功臣堂に祀られた。

1397年、行政基本法典とされた「経済六典」を編纂している。

参考文献[編集]

  • 「世界大百科事典」 平凡社 2007年
  • 「アジア人物史 6」 集英社 2023年