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[[ファイル:黄庭坚_-_苦笋赋.jpg|サムネイル|254x254ピクセル|[[黄庭堅]]「苦笋賦」(1099年)]]
'''賦'''(ふ)とは、[[中国]]の[[韻文]]における[[文体]]の一つ。[[漢代]]に形成された。抒情詩的要素が少なく、事物を羅列的に描写する。事物の名前を列挙することを特徴とするので、日本では古来、'''かぞえうた'''と称された。『[[漢書]]』[[芸文志]]に「歌わずじて誦ず、これを賦と謂う」とあり、[[漢詩]]が[[歌謡]]から生まれたのに対し、賦はもとより朗読されるものであったと考えられる。[[接続詞]]なども多く使われ、[[散文]]の要素が多く取り入れられている。文体の性格としては[[漢詩]]と[[散文]]の中間に位置する。
'''賦'''(ふ)とは、[[中国]]の[[韻文]]における[[文体]]の一つ。[[戦国時代 (中国)|戦国時代]]に端を発し、[[漢代]]に流行した。抒情詩的要素が少なく、事物を網羅的に描写する。事物の名前を列挙することを特徴とするので、日本では古来、'''かぞえうた'''と称された。[[接続詞]]なども多く使われ、[[散文]]の要素が多く取り入れられている。文体の性格としては[[漢詩]]と[[散文]]の中間に位置する。日本では賦やそれに類する日本語の文学作品の制作が試みられた時期もあった。また西洋においては賦に類似するものとして[[頌歌]]が挙げられる。


漢詩が[[歌謡]]から生まれたのに対し、賦はもとより朗読されるものであったと考えられる。 賦は紀元前3~2世紀にかけて繁栄し、[[宋]]代、遅くは清に至るまで定期的に用いられ続けた。賦は宮城・都市の賞賛に使われたが、あらゆる場所、物、感情を網羅的に表現する'''詠物賦'''を書くのにも用いられた。 歴史的な賦の集成で最大のものは、『[[文選 (書物)|文選]]』『[[漢書]]』『[[玉台新詠]]』および各王朝の正史である。
『[[楚辞]]』離騒の系譜を継ぐものと考えられ、合わせて[[辞賦]]と称される。

== 押韻 ==
過度に修辞的で現実的な感情に欠け、道義的主張が曖昧であるとして、[[20世紀]]の間は長らく、賦は中国の学者の批判するところであった。このような歴史的経緯もあって、中国の賦文学研究は[[1949年]]から[[文化大革命]]の終わる[[1976年]]までほぼ消滅しかけていた。それ以降は、賦の研究は徐々に以前の水準を取り戻しつつある。

== 字義 ==
中国古典において「賦」という言葉が初めて見えるのは[[周]]代であり、詩の朗誦のように提示することを意味していた{{sfn|Kern|2010|p=88}}。本来「賦」は「敷」に通じ、頒布する義がある{{sfn|鈴木|1936|p=1}}。文学上の字義としては「賦」には①詩を作る、②詩を口誦する、の用法が『[[春秋左氏伝]]』に見えており、さらに『詩経』の[[六義]]の1つとして③直接的に思ったことを叙述することを表す用法がある。韻文の形式としての賦は、事物を並べる意と口誦する意を兼ねて成立したものと言える{{sfn|鈴木|1936|p=2}}。

「賦」字の解釈をめぐっては、古来2つの文脈があった。1つには『[[周礼]]』の[[鄭玄]]注に「賦之言鋪、直鋪陳今之政教善悪(賦の言は鋪なり、直だ今の政教の善悪を鋪陳す)」と言い、賦を鋪(=敷く・並べる)、つまり言葉を並べるものと定義する{{sfn|伊藤|1983|p=250}}。また一方[[班固]]は『漢書』芸文志において、「不歌而誦謂之賦(歌わずして誦す、之れを賦と謂ふ)」と定義する{{sfn|Kern|2010|p=88}}。

== 歴史 ==
=== 起源 ===
賦はしばしば『[[楚辞]]』から派生し、『[[戦国策]]』の修辞的な語りと融合したものと考えられている{{sfn|Idema|Haft|1997|p=97}}{{sfn|Ho|1986|p=388}}。『楚辞』は[[シャーマニズム]]の祭祀音楽に由来することが知られているが、これが時代を経てメロディを失うとともに、[[諸子百家]]らの修辞的な弁論術の影響を受けて、口誦文学としての賦の発生につながったと考えられる{{sfn|鈴木|1936|p=5}}。特に『楚辞』中の「卜居」「漁父」の2篇は漢代の賦の先駆と言ってよい{{sfn|鈴木|1936|p=9}}。[[紀元前2世紀]]の賦の黄金時代には、優れた賦作家の多くが楚から現れた{{sfn|Kern|2010|p=90}}。一連の謎を含んでいる『[[荀子]]』の1章「賦篇」は、題に賦の字を伴う最古の文章である。

屈原の作品はその弟子とされる[[宋玉]]らの作品とともに「'''騒体賦'''('''騒賦''')」と呼ばれ、後世の賦の形式・内容の源流をなした{{sfn|伊藤|1983|p=252}}。このことは、[[辞|辞 (文体)]]と賦とを併せて'''辞賦'''と称する所以であるが、両者の区別は必ずしもはっきりとしない。賦はしばしば辞を含めた包括的な文体名として扱われ、『楚辞』の抒情性や形式を受け継いだものを前漢以降特に辞と呼ぶことがある。ただし[[朱熹]]が『楚辞後語』で「長門賦」に言及したように、賦と題する作品でも辞に含められることもある{{sfn|伊藤|1983|p=252}}。

年代の明らかな現存最古の賦は、[[紀元前170年]]頃に作られた[[賈誼]]の「鵩鳥賦」である{{sfn|Idema|Haft|1997|p=98}}。賈誼の現存の作中に、彼が[[長沙]]への流謫に際して「離騒」になぞらえて作った賦に言及しているが、この作品は散逸している。

=== 漢代 ===
現存する漢賦やその他の詩の大部分は、種々の作品に引かれたものを含め、六朝時代の文集などに残されたものである。

==== 前漢 ====
賦の最盛期は漢初である。前170年ごろの賈誼「鵩鳥賦」は長沙への追放の3年後に書かれたものであり、「離騒」ほか屈原の作の形式に倣っている。「鵩鳥賦」は知られている最古の作品であると同時に、作者の人生における立ち位置について思索を広く述べている点で特異である{{sfn|Idema|Haft|1997|p=98}}。[[File:Liangyuan Gathering.jpg|thumb|[[前漢]]の梁王[[劉武]]の屋敷で賦を競う人々。(宋・「梁孝王梁園文学会」)|304x304ピクセル]][[景帝 (漢)|景帝]]は辞賦を重んじなかったため、枚乗や趨陽ら当時の賦家は[[呉王濞]]や梁の[[孝王]]の下に集い、多くの賦を世に遺した{{sfn|鈴木|1936|p=15}}。[[紀元前141年|前141年]]に王位を継いだ武帝の54年に及ぶ治世は、'''大賦'''('''古賦''')の黄金時代と言われる{{sfn|Kern|2010|p=90}}。武帝は[[長安]]の宮廷に名だたる賦家を呼び寄せ、多くの作家が賦を宮廷中で披露した{{sfn|Kern|2010|p=90}}。武帝の治世における最初期の大賦は[[枚乗]]による「七発」である{{sfn|Kern|2010|p=90}}。七発では、枚乗は戦国の[[食客]]を演じ、享楽のあまり病魔にかかった楚の王子を、賦を語って彼の感覚を限界まで押し出すことで癒そうと試みる{{sfn|Kern|2010|p=91}}。

大賦の黄金時代を築いた作家の中で、[[司馬相如]]は白眉と見なされる{{sfn|Idema|Haft|1997|p=98}}。成都の生まれで、武帝が偶然彼の作「子虚賦」を読んだ際に彼を宮廷に招いたと言われる(この逸話はおそらく後付けである{{sfn|Kern|2010|p=90}})。[[紀元前136年|前136年]]に都に上ると、司馬相如は「子虚賦」を[[傑作]]「上林賦」に発展させた。この賦は一般にもっとも有名な賦とされる{{sfn|Kern|2010|p=91}}{{sfn|Idema|Haft|1997|p=98}}。原題は「天子遊獵賦」だったとされ、長安の東に作られた皇帝の私有の狩場を称えるものであるが{{sfn|Idema|Haft|1997|p=98}}、奇語・難語や僻字を多用していることで知られる{{sfn|Kern|2010|p=89}}。[[4世紀]]の学者・[[郭璞]]による注釈がなければ、古風で難解な語の多くは今や理解不能になっていた。次の一節は「天子遊獵賦」の前半、鉱物・貴金属・動植物の名前を押韻しながら列挙する部分であるが、事物の陳述と奇語の多用という大賦の特徴をよく示している{{sfn|Knechtges|2010|p=184}}。

{{Quotation|
其土則、丹青赭堊、雌黃白坿、錫碧金銀、眾色炫耀、照爛龍鱗。

其石則、赤玉玫瑰、琳瑉昆吾、瑊玏玄厲、碝石碔砆。

其北則有陰林巨樹、楩柟豫樟、桂椒木蘭、蘗離朱楊、樝棃梬栗、橘柚芬芳。

其上則有、鵷鶵孔鸞、騰遠射干。

其下則有、白虎玄豹、蟃蜒貙犴。

――司馬相如「天子遊獵賦」
}}

前漢の大賦は視覚的・聴覚的な鑑賞に耐える芸術作品であり、中国の伝統たる[[吟詠]]の成立や[[書法]]の発達とも軌を一にしていたと考えられる{{sfn|髙橋|2007|p=一四-一八}}{{sfn|髙橋|2008a|p=14-21}}。これらは純粋な詩的遊戯として朗読し披露され、制約にとらわれない娯楽と道徳的訓戒を一作品の中に融合させた最初の中国文学であった{{sfn|Kern|2010|p=92-93}}。しかし武帝の宮廷文化は、賦に大言壮語を尽くした結果、風紀をただす機会を逸したと後に批判され始めた{{sfn|Kern|2010|p=93}}。大賦批判の急先鋒は、漢の作家の一人であった[[揚雄]]である。若き揚雄は司馬相如を賞賛し模倣していたが、のちに大賦に批判的になる。彼は賦の本来の目的は「諷」、つまり主君を諫めることにあると考えていたが、賦の過度に修辞的な主張と複雑な語彙とが、聞く者・読む者をして美的な面にのみ驚嘆せしめ、道徳的な内容が抜け落ちてしまったと考えたのである{{sfn|Kern|2010|p=93}}。揚雄は漢初の賦と『詩経』の賦に似た作品を並べて、『詩経』の詩は道徳のあるべき姿を述べていたが、漢代の賦は「必也淫(行き過ぎている)」と述べる{{sfn|Kern|2010|p=93}}。漢代の賦の大家として知られる一方で、揚雄の賦は受け手に道徳的規律を促していることでよく知られる{{sfn|Kern|2010|p=89}}。

==== 後漢 ====
[[後漢]]のもっとも著名な賦作家は[[張衡]]と[[蔡邕]]である。張衡の著にはかなりの数の賦があり、後漢の典型となる短篇の賦の祖となった{{sfn|Knechtges|2010|p=143}}。張衡の最初期の作として知られるのは、のち[[唐]]の[[楊貴妃]]に愛されたことで有名となる[[驪山]]温泉(今日の[[華清池]])を述べた「温泉賦」である{{sfn|Knechtges|2010|p=143}}。 「二京賦」も張衡の傑作として知られる{{sfn|Knechtges|2010|p=144}}。張衡は、漢代の2つの都・洛陽と長安を比較した班固の「[[両都賦]]」への応答として、10年に及んで賦の素材を収集した{{sfn|Knechtges|2010|p=144}}。張衡の賦はきわめて風刺的で、武帝をはじめ前漢期の特徴を巧みに模倣する{{sfn|Knechtges|2010|p=144-145}}。この作品は、[[歓楽街]]を含めた二都の華やかな生活を緻密に描いている{{sfn|Knechtges|2010|p=145}}。

蔡邕は張衡と同様に、数学・天文・音楽への興味に加えて、多作な文章家であった{{sfn|Knechtges|2010|p=156}}。[[159年]]、蔡邕は帝の前で古琴を弾くため長安に招かれたが、到着直前に病気になり、故郷に帰った{{sfn|Knechtges|2010|p=156}}。彼の最も著名な賦「述行賦」では、その旅程が詩につづられている{{sfn|Knechtges|2010|p=156}}。「述行賦」では、歴代の不誠実で不正直な君臣の例を引き、同様の罪で都の[[宦官]]を批判している{{sfn|Knechtges|2010|p=157}}。

{{Quotation|
皇家赫而天居兮、萬方徂而星集。

貴寵煽以彌熾兮、僉守利而不戢。

前車覆而未遠兮、後乘驅而競及。

窮變巧於台榭兮、民露處而寢洷。

消嘉榖於禽獸兮、下糠粃而無粒。

弘寬裕於便辟兮、糾忠諫其駸急。

――蔡邕「述行賦」}}

[[2世紀]]後半から[[3世紀]]初頭にかけて多くの賦作家が大詩人と見なされるが、その特徴は漢王朝滅亡後の混乱と荒廃を描写した点にある。[[192年]]の[[董卓]]暗殺の後、漢の遺民となった[[王粲]]は、「登楼賦」と題する有名な賦を作った。これは王粲が[[荊州]]付近にあった楼閣に登り、旧都・洛陽の方角を物憂げに眺めるさまを動的に描いたものである{{sfn|Idema|Haft|1997|p=109}}。[[禰衡]]の「鸚鵡賦」のように、詩人はしばしば賦の主題を自らになぞらえて用いた。禰衡は鸚鵡賦で、才能がありながら重んじられず、囚われの身のために発言も思うがままにならぬ学士としての境遇を、籠の中の[[オウム]]に託けた{{sfn|Idema|Haft|1997|p=109}}。[[三国時代]]、英雄[[曹操]]とその息子[[曹丕]]・[[曹植]]の邸宅は詩壇となり、この遊苑から生まれた多くの賦が今日まで残っている。

=== 六朝 ===
[[六朝時代|六朝]]の間には[[詩]]が徐々に台頭したが、賦は六朝文学の中で未だ主要な地位を占めていた{{sfn|Idema|Haft|1997|p=109}}。晋の[[左思]]が[[魏 (三国)|魏]]・[[呉 (三国)|呉]]・[[蜀漢|蜀]]の都の立派さを詠んだ「三都賦」が当時あまりにも人気を博し、人々が競ってこれを書き写したために、洛陽の紙価が上がったという逸話は有名である{{Sfn|目加田|1983|p=80}}。

六朝期の賦は漢代に比べはるかに短く質素であるが、これはこの時代に興った詩全体を対句法で構成する伝統によると考えられる{{sfn|Idema|Haft|1997|p=109}}。魏晋南北朝期の賦の形式を'''駢賦'''('''俳賦''')とも言う。叙情賦(辞)と詠物賦は漢王朝ではまったく異なる体裁を取っていたが、[[2世紀]]以降はほとんど区別がなくなった。 漢の華美な賦の形式はほぼ消滅したが、詠物賦は引き続き広く作られた{{sfn|Idema|Haft|1997|p=109}}。[[西晋]]の[[陸機]]以降は、四字句や六字句を多用する文体が定着し、美文化の傾向が著しくなる{{Sfn|伊藤|1970|p=381}}。

[[謝霊運]]は六朝期を通じて、[[陶淵明]]に次いで最も有名な詩人の一人である。やや上の世代の陶淵明とは対照的に、謝霊運は難語や暗喩、対句を多用する{{sfn|Tian|2010|p=235}}。 謝霊運の代表作は、司馬相如の「天子遊獵賦」の形式に範を取り、漢の大賦に似せて私有地を描いた「山居賦」である{{sfn|Tian|2010|p=232}}。 古典的な漢賦と同様、この詩では僻字・難字を多用するが、「山居賦」には 謝霊運自身の注が添えられている点で独特である{{sfn|Tian|2010|p=232}}。

南朝梁代、依然として賦は文体として人気であったが、五言詩や七言詩が台頭し始め、唐代にかけて詩は完全に賦に取って代わることとなる{{sfn|Tian|2010|p=264}}。謝霊運の「山居賦」をオマージュした[[沈約]]の「郊居賦」など古典的な賦の形式を継いだ作品もあったが、これに従わないものも多くなった{{sfn|Tian|2010|p=264}}。[[簡文帝 (南朝梁)|簡文帝]]による「採蓮賦」は短篇の抒情賦で、流布していた抒情詩を自由に取り入れつつ、華南を喜びと官能にあふれた理想郷として描き出した{{sfn|Tian|2010|p=264}}。蓮を採る行為は伝統的に農婦と結びつけられてきたが、[[5世紀]]初頭には賦や詩における一般的な主題となった{{sfn|Tian|2010|p=267}}。

[[庾信]]は、歴代最後の偉大な賦作家として知られる{{sfn|Idema|Haft|1997|p=110}}。庾信は[[顔之推]]と同じく華南に生まれ、南朝の敗北後に北朝の[[北周]]に移住することを余儀なくされた後は、南朝の滅亡を南方文化や生活の喪失として描き出すことに腐心した{{sfn|Tian|2010|p=270}}。 庾信の代表作は、江南とその文化の滅亡という時代に翻弄された人生を描いた「哀江南賦」である{{sfn|Tian|2010|p=270}}。

=== 唐宋 ===
[[唐]]の時代、賦は著しい変貌を遂げることとなる{{sfn|Owen|2010|p=289}}。唐初には賦が[[科挙]]の一部に組み込まれ、この要請を受けて'''律賦'''という新しい賦の形式が旧来の賦に取って代わった。律賦は形式や表現に厳しい制約があり、全体を通じて所定の韻律を守らなければならない。加えて、[[平仄]]の配置にも規則がつくられた{{sfn|Owen|2010|p=289}}。5世紀の[[北斉|斉]]のころ伝来した[[サンスクリット語|サンスクリット]]や[[パーリ語]]の[[仏典]]が中国語の体系的研究を促し、[[四声]]の自覚につながったのである{{sfn|Owen|2010|p=289}}。唐の文章家は従来の賦の主題に、典故に基づく道徳的な要素を新たに取り入れた{{sfn|Owen|2010|p=289}}。

こうした駢賦や律賦の流行は、形式と修辞ばかりが先行し、賦を漢代の諷諫や苛烈な現実描写の精神から遠ざける結果を招いた{{Sfn|伊藤|1970|p=381-382}}。[[古文復興運動]]とも呼応して、[[826年]]、[[杜牧]]の「阿房宮賦」が散文で自由に韻を踏む'''文賦'''と呼ばれる新たな賦の基礎を確立し、晩唐から宋にかけての賦の主流となった{{sfn|Owen|2010|p=350}}。[[欧陽脩]]の「秋声賦」、[[蘇軾]]の「赤壁賦」などは今日にも有名である{{Sfn|伊藤|1970|p=381-382}}。[[9世紀]]~[[10世紀]]までには、伝統的な賦は主に歴史研究の対象となり、科挙に取り入れられたことで広く読まれ筆写された{{sfn|Owen|2010|p=361}}。

== 特徴 ==
[[押韻]]は通常、換韻がなされ、一韻到底は少ない。換韻は意味的な段落が変わるときになされることが多い。隔句韻が最も多く、また毎句韻も多い。しかし、散文的要素が強い場合、長く押韻しないものもしばしばである。
[[押韻]]は通常、換韻がなされ、一韻到底は少ない。換韻は意味的な段落が変わるときになされることが多い。隔句韻が最も多く、また毎句韻も多い。しかし、散文的要素が強い場合、長く押韻しないものもしばしばである。


本文とは別に、賦の前後には「序」と「乱(または系など)」が添えられる。序は作賦の趣旨などを述べ、乱などは全篇の内容を要約するものであるが、必ずあるとも限らず、これらが本文と融合して区別の困難なものもある。一般に、抒情的な内容の賦には序や乱がつくことが多い{{sfn|鈴木|1936|p=53}}。
== 構造 ==

賦の冒頭には「序」がつけられ、最後には「乱」あるいは「訊」がつけられる。序では賦を作った動機などが説明され、乱や訊では賦全体の大意が要約された。
=== 時代的変遷 ===
[[明]]の徐師曽『文体名弁』の説によれば、賦は時代や特徴に応じて'''大賦'''(だいふ)・'''駢賦'''(べんぷ)・'''律賦'''(りっぷ)・'''文賦'''(ぶんぷ)の4つに分類される{{sfn|伊藤|1983|p=253}}。

大賦は[[漢代]]に特徴づけられる賦で、漢賦ともいう。また文賦と合わせて'''古賦'''(こふ)とも言われる。問答体形式を取ることが多く、散文の句(散句)を交えていることを特徴とする。句の字数は『[[詩経]]』や『[[楚辞]]』の形式を継承して四言や六言が多いが、三言・五言・七言なども見られる。またかなりの長句もめずらしくない。難解な用語・用字も漢代に特徴的であり、ここに登場する奇字の中には、賦を作るにあたって新しく作り出されたと思しきものも多く見える{{sfn|髙橋|2008b|p=二八-三一}}。

駢賦は[[魏]][[晋]]~[[六朝時代]]に特徴づけられる賦で、'''俳賦'''(はいふ)ともいう。[[対句]]や典故など[[駢文]]の要素が多く取り入れられ、その実、[[押韻]]された駢文ともいえる。漢賦に比べて一篇の長さが極めて短く、長編の作品は少ない。なお六朝時代後期になると、五言詩や七言詩など[[近体詩]]の形式が取り入れられるようになった。

律賦は[[唐代]]、[[宋代]]において[[科挙]]に採用された試験のための賦のことをいう。[[平仄]]が重視され、駢賦よりも厳格な対句が要求された。また[[押韻]]の仕方に制限があり、試験官によって使われる[[韻]]字が決められた。8つであることが多かったので八韻律賦とも言われる。字数制限もあり、大体400字以内に収められた。

文賦は[[中唐]]以後、[[韓愈]]らの古文復興運動の影響を受けて成立した[[散文]]風の賦のこと。形式的には漢賦に近いので、漢賦と駢賦を合わせて'''古賦'''と呼ぶことがある。しかし、漢賦が事物の羅列に終始し、飾り立てるような字句を好んで使ったのに対し、中身のある質実剛健な文章が好まれ、漢賦よりもより散文に近づいている。押韻は比較的に自由であり、句の字数も不揃いであることが多い。

古賦・駢賦・律賦・文賦の名称は形式的区分によるものである{{sfn|鈴木|1936|p=16}}。さらに[[鈴木虎雄]]は[[清]]代の[[八股文]]の影響を受けた文体をこれに加え、'''股文賦'''(こぶんふ)と名付けている{{sfn|鈴木|1936|p=15}}。八股文はそれ自身文賦の影響を受けたものでもあり、清の股文賦とは歴代の賦の形式を集大成したもので、それ自身に特色を持つものではない{{sfn|鈴木|1936|p=307}}。

=== 主題 ===
==== 詠物賦 ====
紀元前130年~100年の間、武帝は一連の軍事行動と侵略によって漢の領域を中央アジア、[[交趾郡|ベトナム北部]]から[[楽浪郡|朝鮮半島]]まで急速に拡大する{{sfn|Kern|2010|p=95}}。領土の広がりに伴って、外国からおびただしい数の動植物や物品・珍品が長安の都に持ち込まれ{{sfn|Kern|2010|p=95}}、こうした目新しい事物を詠み込み記録する'''詠物賦'''が漢代を通じて官僚や詩人の間に流行した。詠物賦は賦文学の主流となり、膨大な器具や事物・事象を網羅した{{sfn|Knechtges|2010|p=118}}。西晋以降に[[類書]]が登場するまで、賦は百科事典としての役割も担っていた{{sfn|鈴木|1936|p=47}}。また漢代には賦を頌とも言い、地大物博を誇るための国ぼめの手段としても用いられた{{sfn|鈴木|1936|p=49}}。

中国史上最大の女流詩人として知られる[[班昭]]は後漢の[[和帝]]のころに「大雀賦」を遺しており、これは[[110年]]ごろ[[パルティア]]から漢の宮廷に持ち込まれた[[ダチョウ]]を詠んだものとされている{{sfn|Kern|2010|p=129}}。学者の[[馬融]]は古代のボードゲームにまつわる賦を2つ作っている{{sfn|Knechtges|2010|p=149}}。「樗蒲賦」は[[老子]]が[[西域]]へ旅立った後に発明したとされる[[樗蒲]]を描き、また「囲棋賦」は[[囲碁]]に関する最初期の記述である{{sfn|Knechtges|2010|p=149}}。後漢の司書[[王逸]]は、『楚辞』の諸本の1つ『楚辞章句』の編者として最も有名であるが、2世紀初頭の詠物賦の作家でもある。「荔枝賦」は[[ライチ]]を詩に読んだ最初の作品とされている{{sfn|Knechtges|2010|p=150}}。

曹操の詩壇では、[[建安の七子]]として知られる詩人たちがそれぞれに賦を作り、詠物賦の名作の数々を生み出した{{sfn|Knechtges|2010|p=170}}。曹操がたぐいまれな品質の大きな[[瑪瑙]]を与えられ、これを[[頭絡]]に仕立てた際には、詩人らは各々「瑪瑙勒賦」を作った{{sfn|Knechtges|2010|p=170}}。 曹操の宮廷で作られた詠物賦としては、西域のインド周辺のサンゴや貝の素材から作られた椀を詠んだ「硨磲碗賦」もある{{sfn|Knechtges|2010|p=170}}。

[[束皙]]の賦は中国の食物史によく知られるところである。彼の「餅賦」は、[[麺類|麺]]・[[饅頭]]・[[餃子]]などの当時はまだ伝統的な中華料理とは言えなかった[[粉物]]料理を網羅的に記述している{{sfn|Knechtges|2010|p=194}}。[[西晋]]の詩人・[[傅鹹]]の「紙賦」は、150年ほど前に発明された[[紙]]についての初期の記録である{{sfn|Knechtges|2010|p=193}}。
==== 諷刺 ====
社会政治諷刺の一手段としての利用は、賦に結びついた伝統の1つである。例えば、実際に受けるべき栄誉や賞賛を与えられず、時の君子や権力者から不当に追放された忠臣を主題とするものなどである。『楚辞』中の屈原の手になるとされる「離騒」はこうした伝統の最初期の作品として知られ、賦文学の祖であると同時に詩の題材としての政治批判を取り入れた初の作品でもある{{sfn|Hawkes|2011[1988]|p=211}}{{sfn|Davis|1990|p=46-47}}。不当な追放という主題は[[潇湘詩]]の発展とも関連している。これは、形式的またはテーマ的に詩人の追放の悲しみに基づく詩であり、直接的なものもあれば、友人や史上の英雄の人格を借りて隠喩的に行われることもある。隠喩は、皇帝を露骨に非難すれば罪せられる可能性のある詩人の取った安全な諷刺の手段であった{{sfn|Davis|1990|p=48}}。

漢代を通じて、賦の形式的な発展とともに、間接的・[[隠喩]]的な諷刺を盛り込む考え方も発展した。班固は『漢書』において、屈原賦を不当な追放を受けた忠臣という主題を文学的主題に用いた例として言及している。[[中国学|中国学者]]ヘルムート・ウィルヘルムは次のように述べる。「(…)漢賦は数種類の類型に容易に分類することができる。全ての類型にはある特徴が共通して見られる。ほぼ例外なく、賦は批判を表明するものとして解釈でき、またそう解釈されてきた――時の君子に対して、あるいは君子の行いや、君子の下す特定の法や計画に対して。また権力者の寵愛する権力者を諫める場合もあれば、一般に、分別なく役人を重用することも批判の対象となった。前向きな色合いの賦で、作者自身やその仲間の重用をすすめる、あるいは特定の政治的な示唆を含む例はほとんど存在しない。端的に言えば、ほぼすべての賦は政治的な意図を含んでおり、加えてそのほとんどは君子とそれに仕える家臣の関係に関するものである。」

== 賦集 ==
賦は、中国文学の初期の作品集である『文選』の第一群をなしている{{sfn|Tian|2010|p=255}}。『文選』は漢初からこれが編纂された梁朝([[6世紀]])までの全ての賦を集めており、以来古典賦を研究する伝統的資料であった。


[[17世紀]]末から[[18世紀]]初頭にかけての[[康熙帝]]の治世には、学者の[[陳元龍]]が当時知られていた全ての賦を集め、[[1706年]]に『歴代賦彙』として発刊した。この賦集は合わせて4155首の賦を採録している。
== 賦の種類 ==
賦は時代や特徴に応じて次の四つに分類される。


=== 漢賦 ===
== 日本での受容 ==
日本へは『文選』の受容とともに遅くとも[[7世紀]]には伝わっていたと推定される{{sfn|新間|2014|p=58}}。[[万葉集]]にも歌を詠む意で「賦す」という表現が用いられているが、これはほぼ[[大伴家持]]による公儀の場での使用に留まっており、賦と題する歌は家持らによる「[[越中国|越中]]三賦」のほか類例を見ない{{Sfn|川口|1966|p=138}}。なお、ここでの賦とはいわゆる[[長歌]]のことである。
'''漢賦'''(かんぷ)とは[[漢代]]に特徴づけられる賦をいう。文賦と合わせて'''古賦'''(こふ)ともいわれる。問答体形式を取ることが多く、散文の句(散句)を交えていることを特徴とする。句の字数は『[[詩経]]』や『[[楚辞]]』の形式を継承して、四言、六言が多いが、三言・五言・七言なども見られる。またかなりの長句もめずらしくない。


[[文章経国]]思想の興った[[平安|平安時代]]初期には漢文の賦がいくつか作られたが、大陸は既に中唐~晩唐のころでもあり詩が圧倒的に文学の主流であった。『[[経国集]]』には1000余りの作品のうち、詩917首に対して賦はわずかに17篇が見える。その後[[国風文化]]の隆盛とともに賦も廃れていくが、その後も『文選』は日本人の間で参照され続けた。「ゆく川の流れは絶えずして…」に始まる『[[方丈記]]』の序文は、『文選』中の「歎逝賦」を踏まえたものであることが古くから知られている{{sfn|新間|2014|p=55-58}}。[[五山文学]]の興隆した[[14世紀]]前後には再び賦が顧みられ、[[虎関師錬]]をはじめとする[[禅林]]僧らによって賦が盛んに作られた{{sfn|小嶋|2007|p=194}}。
なお漢初では[[賈誼]]のように『楚辞』の形式に則り、抒情的な賦を詠んだものがあるが、これらは'''騒体賦'''(そうたいふ)といわれて漢賦から区別されることがある。


近世には[[松尾芭蕉]]らが[[俳文]]と呼ばれる文学ジャンルを興した。これは[[俳諧]]の性質を[[日記]]や[[紀行文]]などの散文に応用したもので、確固とした定義は明らかでないが、漢文に準じて典故の利用、対句などで調子を整えた語りの文体で、主題(底意)や諷刺性を伴うものと考えられる{{sfn|纓片|1991|p=32-34}}{{sfn|佐藤|p=55-56}}。この中で芭蕉の典型的な俳文とされる作品に「烏之賦」や「焼蚊辞」があり{{sfn|佐藤|p=55}}、万葉集の長歌と同じく「賦」を日本的文脈に定義した例と言える。川口久雄は、「賦はその後衰滅してしまうが、江戸期の俳諧文学において、漢文学の賦のパロディとして俳文の賦が新しいジャンルとして生れる。この変容された国語による俳諧の賦においてかえって文学的な生命をえて復活再生したように思う。」{{sfn|川口|1966|p=236-237}}と評している。
=== 駢賦 ===
'''駢賦'''(べんぷ)とは、[[六朝時代]]に特徴づけられる賦をいう。'''俳賦'''(はいふ)ともいう。[[対句]]や典故など[[駢文]]の要素が多く取り入れられ、その実、[[押韻]]された駢文ともいえる。漢賦に比べて一篇の長さが極めて短く、長編の作品は少ない。


日本において「賦す」とは漢詩を作ることから転じて広く詩や歌詞を作ることを言う。例えば日本の唱歌「[[早春賦]]」は「早春に詩を作る」の意である。
なお六朝時代後期になると、五言詩や七言詩など[[漢詩|詩]]句が取り入れられるようになった。
=== 律賦 ===
'''律賦'''(りっぷ)とは、[[唐代]]、[[宋代]]において[[科挙]]に採用された試験のための賦のことをいう。[[平仄]]が重視され、駢賦よりも厳格な対句が要求された。また[[押韻]]の仕方に制限があり、試験官によって使われる[[韻]]字が決められた。8つであることが多かったので八韻律賦とも言われる。字数制限もあり、大体400字以内に収められた。


==注釈==
=== 文賦 ===
{{Reflist|3}}
'''文賦'''(ぶんぷ)とは、[[中唐]]以後、[[古文復興運動]]の影響を受けて、成立した[[散文]]風の賦のこと。形式的には漢賦に近いので、漢賦と駢賦を合わせて'''古賦'''と呼ぶことがある。しかし、漢賦が事物の羅列に終始し、飾り立てるような字句を好んで使ったのに対し、中身のある質実剛健な文章が好まれ、漢賦よりもより散文に近づいている。押韻は比較的に自由であり、句の字数も不揃いであることが多い。


==脚注・出典==
== 参考文献 ==
{{Refbegin|colwidth=35em}}
{{Reflist}}
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* {{cite book|和書|ref=harv|author=川口久雄|title=平安朝日本漢文学史の研究 増訂版|year=1964|publisher=明治書院}}
* {{cite journal|和書|ref=harv|author=佐藤勝明|title=「俳諧の文章」とは何か|year=2012|publisher=日本文学協会|journal =日本文学|volume = 61|issue=10|naid=130006292607|pages=47-56}}
* {{cite journal|和書|ref=harv|author=新間美緒|title=『方丈記』の序章について:『文選』「歎逝賦」注文との関係から|year=2014|publisher=国文学研究資料館|journal = 国文学研究資料館紀要|volume = 40|naid=120005722024|pages=53-80}}
* {{cite book|和書|ref=harv|author=鈴木虎雄|title=賦史大要|year=1936|publisher=冨山房}}
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* {{cite book|ref=harv|last=Owen|editor-last=Owen|editor-first=Stephen|first=Stephen|title=The Cambridge History of Chinese Literature, Volume 1: To 1375|year=2010|publisher=Cambridge University Press|isbn=978-0-521-11677-0|pages=286–380|chapter=The Cultural Tang (650–1020)|location=Cambridge}}
* {{cite book|ref=harv|last=Tian|editor-last=Owen|editor-first=Stephen|first=Xiaofei|title=The Cambridge History of Chinese Literature, Volume 1: To 1375|year=2010|publisher=Cambridge University Press|isbn=978-0-521-11677-0|pages=199–285|chapter=From the Eastern Jin through the early Tang (317–649)|location=Cambridge}}
*[[Hellmut Wilhelm|Wilhelm, Hellmut]] (1967 [1957]). "The Scholar's Frustration: Notes on a Type of ''Fu''", in ''Chinese Thought and Institutions'', John K. Fairbank, editor. Chicago and London: University of Chicago Press.
{{Refend}}{{Reflist}}


==関連項目==
==関連項目==

2018年3月29日 (木) 00:40時点における版

黄庭堅「苦笋賦」(1099年)

(ふ)とは、中国韻文における文体の一つ。戦国時代に端を発し、漢代に流行した。抒情詩的要素が少なく、事物を網羅的に描写する。事物の名前を列挙することを特徴とするので、日本では古来、かぞえうたと称された。接続詞なども多く使われ、散文の要素が多く取り入れられている。文体の性格としては漢詩散文の中間に位置する。日本では賦やそれに類する日本語の文学作品の制作が試みられた時期もあった。また西洋においては賦に類似するものとして頌歌が挙げられる。

漢詩が歌謡から生まれたのに対し、賦はもとより朗読されるものであったと考えられる。 賦は紀元前3~2世紀にかけて繁栄し、代、遅くは清に至るまで定期的に用いられ続けた。賦は宮城・都市の賞賛に使われたが、あらゆる場所、物、感情を網羅的に表現する詠物賦を書くのにも用いられた。 歴史的な賦の集成で最大のものは、『文選』『漢書』『玉台新詠』および各王朝の正史である。

過度に修辞的で現実的な感情に欠け、道義的主張が曖昧であるとして、20世紀の間は長らく、賦は中国の学者の批判するところであった。このような歴史的経緯もあって、中国の賦文学研究は1949年から文化大革命の終わる1976年までほぼ消滅しかけていた。それ以降は、賦の研究は徐々に以前の水準を取り戻しつつある。

字義

中国古典において「賦」という言葉が初めて見えるのは代であり、詩の朗誦のように提示することを意味していた[1]。本来「賦」は「敷」に通じ、頒布する義がある[2]。文学上の字義としては「賦」には①詩を作る、②詩を口誦する、の用法が『春秋左氏伝』に見えており、さらに『詩経』の六義の1つとして③直接的に思ったことを叙述することを表す用法がある。韻文の形式としての賦は、事物を並べる意と口誦する意を兼ねて成立したものと言える[3]

「賦」字の解釈をめぐっては、古来2つの文脈があった。1つには『周礼』の鄭玄注に「賦之言鋪、直鋪陳今之政教善悪(賦の言は鋪なり、直だ今の政教の善悪を鋪陳す)」と言い、賦を鋪(=敷く・並べる)、つまり言葉を並べるものと定義する[4]。また一方班固は『漢書』芸文志において、「不歌而誦謂之賦(歌わずして誦す、之れを賦と謂ふ)」と定義する[1]

歴史

起源

賦はしばしば『楚辞』から派生し、『戦国策』の修辞的な語りと融合したものと考えられている[5][6]。『楚辞』はシャーマニズムの祭祀音楽に由来することが知られているが、これが時代を経てメロディを失うとともに、諸子百家らの修辞的な弁論術の影響を受けて、口誦文学としての賦の発生につながったと考えられる[7]。特に『楚辞』中の「卜居」「漁父」の2篇は漢代の賦の先駆と言ってよい[8]紀元前2世紀の賦の黄金時代には、優れた賦作家の多くが楚から現れた[9]。一連の謎を含んでいる『荀子』の1章「賦篇」は、題に賦の字を伴う最古の文章である。

屈原の作品はその弟子とされる宋玉らの作品とともに「騒体賦騒賦)」と呼ばれ、後世の賦の形式・内容の源流をなした[10]。このことは、辞 (文体)と賦とを併せて辞賦と称する所以であるが、両者の区別は必ずしもはっきりとしない。賦はしばしば辞を含めた包括的な文体名として扱われ、『楚辞』の抒情性や形式を受け継いだものを前漢以降特に辞と呼ぶことがある。ただし朱熹が『楚辞後語』で「長門賦」に言及したように、賦と題する作品でも辞に含められることもある[10]

年代の明らかな現存最古の賦は、紀元前170年頃に作られた賈誼の「鵩鳥賦」である[11]。賈誼の現存の作中に、彼が長沙への流謫に際して「離騒」になぞらえて作った賦に言及しているが、この作品は散逸している。

漢代

現存する漢賦やその他の詩の大部分は、種々の作品に引かれたものを含め、六朝時代の文集などに残されたものである。

前漢

賦の最盛期は漢初である。前170年ごろの賈誼「鵩鳥賦」は長沙への追放の3年後に書かれたものであり、「離騒」ほか屈原の作の形式に倣っている。「鵩鳥賦」は知られている最古の作品であると同時に、作者の人生における立ち位置について思索を広く述べている点で特異である[11]

前漢の梁王劉武の屋敷で賦を競う人々。(宋・「梁孝王梁園文学会」)

景帝は辞賦を重んじなかったため、枚乗や趨陽ら当時の賦家は呉王濞や梁の孝王の下に集い、多くの賦を世に遺した[12]前141年に王位を継いだ武帝の54年に及ぶ治世は、大賦古賦)の黄金時代と言われる[9]。武帝は長安の宮廷に名だたる賦家を呼び寄せ、多くの作家が賦を宮廷中で披露した[9]。武帝の治世における最初期の大賦は枚乗による「七発」である[9]。七発では、枚乗は戦国の食客を演じ、享楽のあまり病魔にかかった楚の王子を、賦を語って彼の感覚を限界まで押し出すことで癒そうと試みる[13]

大賦の黄金時代を築いた作家の中で、司馬相如は白眉と見なされる[11]。成都の生まれで、武帝が偶然彼の作「子虚賦」を読んだ際に彼を宮廷に招いたと言われる(この逸話はおそらく後付けである[9])。前136年に都に上ると、司馬相如は「子虚賦」を傑作「上林賦」に発展させた。この賦は一般にもっとも有名な賦とされる[13][11]。原題は「天子遊獵賦」だったとされ、長安の東に作られた皇帝の私有の狩場を称えるものであるが[11]、奇語・難語や僻字を多用していることで知られる[14]4世紀の学者・郭璞による注釈がなければ、古風で難解な語の多くは今や理解不能になっていた。次の一節は「天子遊獵賦」の前半、鉱物・貴金属・動植物の名前を押韻しながら列挙する部分であるが、事物の陳述と奇語の多用という大賦の特徴をよく示している[15]

其土則、丹青赭堊、雌黃白坿、錫碧金銀、眾色炫耀、照爛龍鱗。

其石則、赤玉玫瑰、琳瑉昆吾、瑊玏玄厲、碝石碔砆。

其北則有陰林巨樹、楩柟豫樟、桂椒木蘭、蘗離朱楊、樝棃梬栗、橘柚芬芳。

其上則有、鵷鶵孔鸞、騰遠射干。

其下則有、白虎玄豹、蟃蜒貙犴。

――司馬相如「天子遊獵賦」

前漢の大賦は視覚的・聴覚的な鑑賞に耐える芸術作品であり、中国の伝統たる吟詠の成立や書法の発達とも軌を一にしていたと考えられる[16][17]。これらは純粋な詩的遊戯として朗読し披露され、制約にとらわれない娯楽と道徳的訓戒を一作品の中に融合させた最初の中国文学であった[18]。しかし武帝の宮廷文化は、賦に大言壮語を尽くした結果、風紀をただす機会を逸したと後に批判され始めた[19]。大賦批判の急先鋒は、漢の作家の一人であった揚雄である。若き揚雄は司馬相如を賞賛し模倣していたが、のちに大賦に批判的になる。彼は賦の本来の目的は「諷」、つまり主君を諫めることにあると考えていたが、賦の過度に修辞的な主張と複雑な語彙とが、聞く者・読む者をして美的な面にのみ驚嘆せしめ、道徳的な内容が抜け落ちてしまったと考えたのである[19]。揚雄は漢初の賦と『詩経』の賦に似た作品を並べて、『詩経』の詩は道徳のあるべき姿を述べていたが、漢代の賦は「必也淫(行き過ぎている)」と述べる[19]。漢代の賦の大家として知られる一方で、揚雄の賦は受け手に道徳的規律を促していることでよく知られる[14]

後漢

後漢のもっとも著名な賦作家は張衡蔡邕である。張衡の著にはかなりの数の賦があり、後漢の典型となる短篇の賦の祖となった[20]。張衡の最初期の作として知られるのは、のち楊貴妃に愛されたことで有名となる驪山温泉(今日の華清池)を述べた「温泉賦」である[20]。 「二京賦」も張衡の傑作として知られる[21]。張衡は、漢代の2つの都・洛陽と長安を比較した班固の「両都賦」への応答として、10年に及んで賦の素材を収集した[21]。張衡の賦はきわめて風刺的で、武帝をはじめ前漢期の特徴を巧みに模倣する[22]。この作品は、歓楽街を含めた二都の華やかな生活を緻密に描いている[23]

蔡邕は張衡と同様に、数学・天文・音楽への興味に加えて、多作な文章家であった[24]159年、蔡邕は帝の前で古琴を弾くため長安に招かれたが、到着直前に病気になり、故郷に帰った[24]。彼の最も著名な賦「述行賦」では、その旅程が詩につづられている[24]。「述行賦」では、歴代の不誠実で不正直な君臣の例を引き、同様の罪で都の宦官を批判している[25]

皇家赫而天居兮、萬方徂而星集。

貴寵煽以彌熾兮、僉守利而不戢。

前車覆而未遠兮、後乘驅而競及。

窮變巧於台榭兮、民露處而寢洷。

消嘉榖於禽獸兮、下糠粃而無粒。

弘寬裕於便辟兮、糾忠諫其駸急。

――蔡邕「述行賦」

2世紀後半から3世紀初頭にかけて多くの賦作家が大詩人と見なされるが、その特徴は漢王朝滅亡後の混乱と荒廃を描写した点にある。192年董卓暗殺の後、漢の遺民となった王粲は、「登楼賦」と題する有名な賦を作った。これは王粲が荊州付近にあった楼閣に登り、旧都・洛陽の方角を物憂げに眺めるさまを動的に描いたものである[26]禰衡の「鸚鵡賦」のように、詩人はしばしば賦の主題を自らになぞらえて用いた。禰衡は鸚鵡賦で、才能がありながら重んじられず、囚われの身のために発言も思うがままにならぬ学士としての境遇を、籠の中のオウムに託けた[26]三国時代、英雄曹操とその息子曹丕曹植の邸宅は詩壇となり、この遊苑から生まれた多くの賦が今日まで残っている。

六朝

六朝の間にはが徐々に台頭したが、賦は六朝文学の中で未だ主要な地位を占めていた[26]。晋の左思の都の立派さを詠んだ「三都賦」が当時あまりにも人気を博し、人々が競ってこれを書き写したために、洛陽の紙価が上がったという逸話は有名である[27]

六朝期の賦は漢代に比べはるかに短く質素であるが、これはこの時代に興った詩全体を対句法で構成する伝統によると考えられる[26]。魏晋南北朝期の賦の形式を駢賦俳賦)とも言う。叙情賦(辞)と詠物賦は漢王朝ではまったく異なる体裁を取っていたが、2世紀以降はほとんど区別がなくなった。 漢の華美な賦の形式はほぼ消滅したが、詠物賦は引き続き広く作られた[26]西晋陸機以降は、四字句や六字句を多用する文体が定着し、美文化の傾向が著しくなる[28]

謝霊運は六朝期を通じて、陶淵明に次いで最も有名な詩人の一人である。やや上の世代の陶淵明とは対照的に、謝霊運は難語や暗喩、対句を多用する[29]。 謝霊運の代表作は、司馬相如の「天子遊獵賦」の形式に範を取り、漢の大賦に似せて私有地を描いた「山居賦」である[30]。 古典的な漢賦と同様、この詩では僻字・難字を多用するが、「山居賦」には 謝霊運自身の注が添えられている点で独特である[30]

南朝梁代、依然として賦は文体として人気であったが、五言詩や七言詩が台頭し始め、唐代にかけて詩は完全に賦に取って代わることとなる[31]。謝霊運の「山居賦」をオマージュした沈約の「郊居賦」など古典的な賦の形式を継いだ作品もあったが、これに従わないものも多くなった[31]簡文帝による「採蓮賦」は短篇の抒情賦で、流布していた抒情詩を自由に取り入れつつ、華南を喜びと官能にあふれた理想郷として描き出した[31]。蓮を採る行為は伝統的に農婦と結びつけられてきたが、5世紀初頭には賦や詩における一般的な主題となった[32]

庾信は、歴代最後の偉大な賦作家として知られる[33]。庾信は顔之推と同じく華南に生まれ、南朝の敗北後に北朝の北周に移住することを余儀なくされた後は、南朝の滅亡を南方文化や生活の喪失として描き出すことに腐心した[34]。 庾信の代表作は、江南とその文化の滅亡という時代に翻弄された人生を描いた「哀江南賦」である[34]

唐宋

の時代、賦は著しい変貌を遂げることとなる[35]。唐初には賦が科挙の一部に組み込まれ、この要請を受けて律賦という新しい賦の形式が旧来の賦に取って代わった。律賦は形式や表現に厳しい制約があり、全体を通じて所定の韻律を守らなければならない。加えて、平仄の配置にも規則がつくられた[35]。5世紀ののころ伝来したサンスクリットパーリ語仏典が中国語の体系的研究を促し、四声の自覚につながったのである[35]。唐の文章家は従来の賦の主題に、典故に基づく道徳的な要素を新たに取り入れた[35]

こうした駢賦や律賦の流行は、形式と修辞ばかりが先行し、賦を漢代の諷諫や苛烈な現実描写の精神から遠ざける結果を招いた[36]古文復興運動とも呼応して、826年杜牧の「阿房宮賦」が散文で自由に韻を踏む文賦と呼ばれる新たな賦の基礎を確立し、晩唐から宋にかけての賦の主流となった[37]欧陽脩の「秋声賦」、蘇軾の「赤壁賦」などは今日にも有名である[36]9世紀10世紀までには、伝統的な賦は主に歴史研究の対象となり、科挙に取り入れられたことで広く読まれ筆写された[38]

特徴

押韻は通常、換韻がなされ、一韻到底は少ない。換韻は意味的な段落が変わるときになされることが多い。隔句韻が最も多く、また毎句韻も多い。しかし、散文的要素が強い場合、長く押韻しないものもしばしばである。

本文とは別に、賦の前後には「序」と「乱(または系など)」が添えられる。序は作賦の趣旨などを述べ、乱などは全篇の内容を要約するものであるが、必ずあるとも限らず、これらが本文と融合して区別の困難なものもある。一般に、抒情的な内容の賦には序や乱がつくことが多い[39]

時代的変遷

の徐師曽『文体名弁』の説によれば、賦は時代や特徴に応じて大賦(だいふ)・駢賦(べんぷ)・律賦(りっぷ)・文賦(ぶんぷ)の4つに分類される[40]

大賦は漢代に特徴づけられる賦で、漢賦ともいう。また文賦と合わせて古賦(こふ)とも言われる。問答体形式を取ることが多く、散文の句(散句)を交えていることを特徴とする。句の字数は『詩経』や『楚辞』の形式を継承して四言や六言が多いが、三言・五言・七言なども見られる。またかなりの長句もめずらしくない。難解な用語・用字も漢代に特徴的であり、ここに登場する奇字の中には、賦を作るにあたって新しく作り出されたと思しきものも多く見える[41]

駢賦は六朝時代に特徴づけられる賦で、俳賦(はいふ)ともいう。対句や典故など駢文の要素が多く取り入れられ、その実、押韻された駢文ともいえる。漢賦に比べて一篇の長さが極めて短く、長編の作品は少ない。なお六朝時代後期になると、五言詩や七言詩など近体詩の形式が取り入れられるようになった。

律賦は唐代宋代において科挙に採用された試験のための賦のことをいう。平仄が重視され、駢賦よりも厳格な対句が要求された。また押韻の仕方に制限があり、試験官によって使われる字が決められた。8つであることが多かったので八韻律賦とも言われる。字数制限もあり、大体400字以内に収められた。

文賦は中唐以後、韓愈らの古文復興運動の影響を受けて成立した散文風の賦のこと。形式的には漢賦に近いので、漢賦と駢賦を合わせて古賦と呼ぶことがある。しかし、漢賦が事物の羅列に終始し、飾り立てるような字句を好んで使ったのに対し、中身のある質実剛健な文章が好まれ、漢賦よりもより散文に近づいている。押韻は比較的に自由であり、句の字数も不揃いであることが多い。

古賦・駢賦・律賦・文賦の名称は形式的区分によるものである[42]。さらに鈴木虎雄代の八股文の影響を受けた文体をこれに加え、股文賦(こぶんふ)と名付けている[12]。八股文はそれ自身文賦の影響を受けたものでもあり、清の股文賦とは歴代の賦の形式を集大成したもので、それ自身に特色を持つものではない[43]

主題

詠物賦

紀元前130年~100年の間、武帝は一連の軍事行動と侵略によって漢の領域を中央アジア、ベトナム北部から朝鮮半島まで急速に拡大する[44]。領土の広がりに伴って、外国からおびただしい数の動植物や物品・珍品が長安の都に持ち込まれ[44]、こうした目新しい事物を詠み込み記録する詠物賦が漢代を通じて官僚や詩人の間に流行した。詠物賦は賦文学の主流となり、膨大な器具や事物・事象を網羅した[45]。西晋以降に類書が登場するまで、賦は百科事典としての役割も担っていた[46]。また漢代には賦を頌とも言い、地大物博を誇るための国ぼめの手段としても用いられた[47]

中国史上最大の女流詩人として知られる班昭は後漢の和帝のころに「大雀賦」を遺しており、これは110年ごろパルティアから漢の宮廷に持ち込まれたダチョウを詠んだものとされている[48]。学者の馬融は古代のボードゲームにまつわる賦を2つ作っている[49]。「樗蒲賦」は老子西域へ旅立った後に発明したとされる樗蒲を描き、また「囲棋賦」は囲碁に関する最初期の記述である[49]。後漢の司書王逸は、『楚辞』の諸本の1つ『楚辞章句』の編者として最も有名であるが、2世紀初頭の詠物賦の作家でもある。「荔枝賦」はライチを詩に読んだ最初の作品とされている[50]

曹操の詩壇では、建安の七子として知られる詩人たちがそれぞれに賦を作り、詠物賦の名作の数々を生み出した[51]。曹操がたぐいまれな品質の大きな瑪瑙を与えられ、これを頭絡に仕立てた際には、詩人らは各々「瑪瑙勒賦」を作った[51]。 曹操の宮廷で作られた詠物賦としては、西域のインド周辺のサンゴや貝の素材から作られた椀を詠んだ「硨磲碗賦」もある[51]

束皙の賦は中国の食物史によく知られるところである。彼の「餅賦」は、饅頭餃子などの当時はまだ伝統的な中華料理とは言えなかった粉物料理を網羅的に記述している[52]西晋の詩人・傅鹹の「紙賦」は、150年ほど前に発明されたについての初期の記録である[53]

諷刺

社会政治諷刺の一手段としての利用は、賦に結びついた伝統の1つである。例えば、実際に受けるべき栄誉や賞賛を与えられず、時の君子や権力者から不当に追放された忠臣を主題とするものなどである。『楚辞』中の屈原の手になるとされる「離騒」はこうした伝統の最初期の作品として知られ、賦文学の祖であると同時に詩の題材としての政治批判を取り入れた初の作品でもある[54][55]。不当な追放という主題は潇湘詩の発展とも関連している。これは、形式的またはテーマ的に詩人の追放の悲しみに基づく詩であり、直接的なものもあれば、友人や史上の英雄の人格を借りて隠喩的に行われることもある。隠喩は、皇帝を露骨に非難すれば罪せられる可能性のある詩人の取った安全な諷刺の手段であった[56]

漢代を通じて、賦の形式的な発展とともに、間接的・隠喩的な諷刺を盛り込む考え方も発展した。班固は『漢書』において、屈原賦を不当な追放を受けた忠臣という主題を文学的主題に用いた例として言及している。中国学者ヘルムート・ウィルヘルムは次のように述べる。「(…)漢賦は数種類の類型に容易に分類することができる。全ての類型にはある特徴が共通して見られる。ほぼ例外なく、賦は批判を表明するものとして解釈でき、またそう解釈されてきた――時の君子に対して、あるいは君子の行いや、君子の下す特定の法や計画に対して。また権力者の寵愛する権力者を諫める場合もあれば、一般に、分別なく役人を重用することも批判の対象となった。前向きな色合いの賦で、作者自身やその仲間の重用をすすめる、あるいは特定の政治的な示唆を含む例はほとんど存在しない。端的に言えば、ほぼすべての賦は政治的な意図を含んでおり、加えてそのほとんどは君子とそれに仕える家臣の関係に関するものである。」

賦集

賦は、中国文学の初期の作品集である『文選』の第一群をなしている[57]。『文選』は漢初からこれが編纂された梁朝(6世紀)までの全ての賦を集めており、以来古典賦を研究する伝統的資料であった。

17世紀末から18世紀初頭にかけての康熙帝の治世には、学者の陳元龍が当時知られていた全ての賦を集め、1706年に『歴代賦彙』として発刊した。この賦集は合わせて4155首の賦を採録している。

日本での受容

日本へは『文選』の受容とともに遅くとも7世紀には伝わっていたと推定される[58]万葉集にも歌を詠む意で「賦す」という表現が用いられているが、これはほぼ大伴家持による公儀の場での使用に留まっており、賦と題する歌は家持らによる「越中三賦」のほか類例を見ない[59]。なお、ここでの賦とはいわゆる長歌のことである。

文章経国思想の興った平安時代初期には漢文の賦がいくつか作られたが、大陸は既に中唐~晩唐のころでもあり詩が圧倒的に文学の主流であった。『経国集』には1000余りの作品のうち、詩917首に対して賦はわずかに17篇が見える。その後国風文化の隆盛とともに賦も廃れていくが、その後も『文選』は日本人の間で参照され続けた。「ゆく川の流れは絶えずして…」に始まる『方丈記』の序文は、『文選』中の「歎逝賦」を踏まえたものであることが古くから知られている[60]五山文学の興隆した14世紀前後には再び賦が顧みられ、虎関師錬をはじめとする禅林僧らによって賦が盛んに作られた[61]

近世には松尾芭蕉らが俳文と呼ばれる文学ジャンルを興した。これは俳諧の性質を日記紀行文などの散文に応用したもので、確固とした定義は明らかでないが、漢文に準じて典故の利用、対句などで調子を整えた語りの文体で、主題(底意)や諷刺性を伴うものと考えられる[62][63]。この中で芭蕉の典型的な俳文とされる作品に「烏之賦」や「焼蚊辞」があり[64]、万葉集の長歌と同じく「賦」を日本的文脈に定義した例と言える。川口久雄は、「賦はその後衰滅してしまうが、江戸期の俳諧文学において、漢文学の賦のパロディとして俳文の賦が新しいジャンルとして生れる。この変容された国語による俳諧の賦においてかえって文学的な生命をえて復活再生したように思う。」[65]と評している。

日本において「賦す」とは漢詩を作ることから転じて広く詩や歌詞を作ることを言う。例えば日本の唱歌「早春賦」は「早春に詩を作る」の意である。

注釈

  1. ^ a b Kern 2010, p. 88.
  2. ^ 鈴木 1936, p. 1.
  3. ^ 鈴木 1936, p. 2.
  4. ^ 伊藤 1983, p. 250.
  5. ^ Idema & Haft 1997, p. 97.
  6. ^ Ho 1986, p. 388.
  7. ^ 鈴木 1936, p. 5.
  8. ^ 鈴木 1936, p. 9.
  9. ^ a b c d e Kern 2010, p. 90.
  10. ^ a b 伊藤 1983, p. 252.
  11. ^ a b c d e Idema & Haft 1997, p. 98.
  12. ^ a b 鈴木 1936, p. 15.
  13. ^ a b Kern 2010, p. 91.
  14. ^ a b Kern 2010, p. 89.
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  18. ^ Kern 2010, p. 92-93.
  19. ^ a b c Kern 2010, p. 93.
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  21. ^ a b Knechtges 2010, p. 144.
  22. ^ Knechtges 2010, p. 144-145.
  23. ^ Knechtges 2010, p. 145.
  24. ^ a b c Knechtges 2010, p. 156.
  25. ^ Knechtges 2010, p. 157.
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  39. ^ 鈴木 1936, p. 53.
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  42. ^ 鈴木 1936, p. 16.
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  44. ^ a b Kern 2010, p. 95.
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  47. ^ 鈴木 1936, p. 49.
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関連項目