コンテンツにスキップ

揚雄

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
揚雄
揚雄

揚 雄(よう ゆう、紀元前53年宣帝甘露元年) - 18年王莽天鳳5年))は、中国前漢から王莽の文学者・儒学者・言語学者・術数学者である。出身は蜀郡成都(現在の成都市郫都区)。楊雄とも表記される[1]は子雲。

生涯

[編集]

上京前(成都にて)

[編集]

甘露1年(前53)蜀郡成都に生まれる。その先祖は周室の伯僑であり、黄河と汾水の間にあった晋の楊を采地とした。その後、楊侯と称したが、戦国期には楚の巫山に逃れた。漢になると長江を遡り、巴の江州に住んだ。5世の祖の楊季は廬江の太守となったが、元鼎年間に岷山の南にある郫に移り住み、代々農桑を業とした(『漢書』揚雄伝・上)。

揚雄は年少の頃から学問を好み、厳遵・林閭翁孺に学んだ(『漢書』王貢両龔鮑伝、「答劉歆書」)。厳遵は『老子』や『易』に通じた在野の学者であり、林閭翁孺は小学(言語学)に造詣の深い人物であったらしく、揚雄の学問形成に強い影響を与えたものと考えられる[2]

そもそも揚雄は広く書を読んで見ていない書物がないほどであったが、人と激しく言い争うことはせず、黙って思索に耽ることを好んだ。また富や名声を求めようとしなかった。家産は十金にすぎず、わずか1石(約31キロ)か2石の米のたくわえもない貧しさであったが、安らかで落ち着いており、度量が大きかった。

また揚雄は、世に容れられず自ら江水に身を投じた屈原の『離騒』に深く感銘を受けて『反離騒』を作り、長江に投じてその死を哀悼した。このほか『楚辞』にならい「広騒」「畔牢愁」を作ったほか(「反離騒」、『漢書』揚雄伝・上)、『楚辞』天問について「天問解」を著したらしい(王逸『楚辞章句』天問叙)。このほか「蜀都賦」「蜀王本紀」も蜀での作と思われる。

このほか揚雄は辞賦の制作については、郷里の先輩である司馬相如を敬慕し大きな影響を受けたとされる。

成帝期(上京後)

[編集]

30歳代で長安の都に上ると、大司馬車騎将軍の王音が揚雄の文雅を重んじて門下の史とし、やがて揚雄は待詔に推薦され皇帝の下問に答えるようになった[3]

同郷の郎官の楊荘が成帝の前で雄の「緜竹頌」「県邸銘」「王佴頌」「階闥銘」「成都城四堣銘」などを誦したところ、成帝は司馬相如に似るとしてこれらの作品を好み、揚雄に拝謁を許した[4]

元延2年(前11)43歳の時、 「甘泉賦」「河東賦」を上奏し、同年12月に成帝の羽猟に随行して「校猟賦(羽猟賦)」を献じたことで郎に任ぜられ黄門に給事した。

なお郎に任ぜられた後、3年にわたり禄を受けず、石室の書を観て学識を深めた[5]

また『漢書』揚雄伝賛には、黄門に給事したことで王莽劉歆と同僚になったように記されるが、年次が合わないため、この記事は揚雄があくまで王莽・劉歆らと同じ官に進んだことを示唆するものと考えられる[6] 。しかしながら揚雄が劉歆と交友を深めていたことは「答劉歆書」や『漢書』揚雄伝賛の記述からも明らかであり、王莽は揚雄が仕えた王音の縁戚であり、また後に王莽のために「元后誄」「劇秦美新」を作ったことから親密な関係がうかがえる。

このほか揚雄は『漢書』を著した班固の曾祖父の班斿と交友があった。班斿は「博学にして逸材」(『漢書叙伝』)と称され、劉向とともに書物を校訂する仕事に携わる人物であった。さらに班斿の子の班嗣は道家思想に精通していた人物であったから、揚雄が蜀時において厳遵などから学んでいた道家思想を深める契機ともなった[7]

元延2~綏和2(前11~前7)43~47歳 成帝の命を受け、「趙充国の頌」を奏上する[8]。このほか成帝期には「酒箴」を作って成帝を諷諫したり[9]、「繍補、霊節、竜骨之銘詩三章」を作って、成帝の意を得たりしている[10]

元延3年(前10)44歲「長楊賦」を作り上奏したが、賦を用いて婉曲的な諷喩を行なっても皇帝に諒解されないことを悟り、皇帝に賦を献じることを止める。それはまたこの頃に賦を好んだ成帝が逝去し、哀帝の代へと移り変わったためとも考えられる。

文心雕龍』を著した南朝梁劉勰によれば、揚雄の賦は、彼以前の司馬相如らのそれが字句の彫琢に腐心しているのに比べ、経書などを多く引用して学術的傾向を持っており、新境地を開いていると評価する[11]。しかし揚雄は、「賦なる者は童子の雕蟲篆刻にして、壮夫は為さざるなり」(『法言』)と述べ、学問研究に身を投じた。

哀帝期(前7~前1)47~53歳 『太玄』「解謿」を著す[12]

建平2年(前5)49歲 「哀帝の災異を問ふに対ふ」を上奏し、宮廷での鐘の鳴ったかのような大音声は「鼓妖(つづみの怪異)」であり、時の丞相(朱博)と御史(趙玄)に原因があると答申する[13]

建平4年(前3)51歲 哀帝に「上書して単于の朝するを許すこと勿きを諫む」を上書し、匈奴との和親策を主張。この主張が認められ、帛50匹と黄金10斤を賜る[14]

元始4年(後4)57歲 この頃『法言』の執筆に取り組む[15]

元始5年(後5)58歲『蒼頡』に続けて『訓纂』『蒼頡訓纂』を作る[16]。この頃、「劉歆に答ふるの書」を送り、『方言』の制作を進めたらしい[17]

元始5年(後5)~始建国4年(後12)58~65歳 「州箴」を作る[18]

初始1年(後8)・始建国1年(後9)60・61歲 王莽が帝位を簒奪し新を建国すると、雄は中散大夫となる[19]。また「劇秦美新」を作ったのはこのころ以後と考えられる[20]

始建国1年(後9)以前「官箴」を作る[21]

始建国3年(後11)64歲 劉歆の子の劉棻に符命に用いる奇字を教えたとの嫌疑を受け、天禄閣より投身する。王莽は事を荒立てることなく不問に付したが、都では「惟(こ)れ寂 惟れ寞にして自ら閣より投じ、爰(ここ)に清 爰に静にして符命を作る」(揚雄「解謿」の一節を捩ったもの)と囃し立てられたという[22]。その後、病気のため官を免ぜられるも、また召されて大夫となる[23]

始建国5年(後13)66歲 元后(王政君)が没し、王莽の詔により「元后誄」を作る[24]

天鳳5年(後18)71歲 逝去。弟子の侯芭、安陵阪上(咸陽市・恵帝陵)に墳墓をなし、3年の喪に服す[25]。如子礼も葬礼に加わり、桓譚は香奠を集め墓所を定めて祠を立て、「玄冢」と名付けた[26]

日本における研究

[編集]

 7世紀前半の唐抄本『漢書』楊雄伝(上)が、平安時代10世紀中頃(948年)に日本に将来されている[27]。現在は京都国立博物館に蔵され、『国宝漢書楊雄伝第五十七』として出版され[28]、揚雄伝に対する古注や訓点を見ることができる。

 その後、万治2(1659)年には司馬光『法言集注』が訓点を加えて和刻され、『和刻本諸子大成(3)説苑・揚子法言・忠經集註詳解・潛夫論ほか』に影印出版されている[29]。寬政八(1796)年には桃井源蔵が司馬光『法言集注』に増註を加えて刊刻したほか[30]富岡鉄斎も『太玄経』の江戸鈔本を所蔵していた(立命館大学図書館西園寺文庫)。

 近代以降においては、鈴木由次郎『太玄易の研究』[31]、鈴木喜一『法言』[32]や田中麻紗巳『法言 もうひとつの「論語」』[33]、嘉瀬達男『楊雄の生涯と作品』がある。

出典

[編集]
  1. ^ 姓が本来木偏の楊であったとする説は、王先謙『漢書補注』揚雄伝・上のほか張震澤『揚雄集校注』前言、劉韶軍『楊雄与《太玄》研究』第1節1などに見える。
  2. ^ 『楊雄の生涯と作品』第1部第1章 蜀における前半生と學問
  3. ^ 『漢書』揚雄伝賛、周寿昌『漢書注校補』
  4. ^ 「答劉歆書」(張震澤『揚雄集校注』参照)、『文選』甘泉賦・李周翰注
  5. ^ 「答劉歆書」(張震澤『揚雄集校注』参照)
  6. ^ 『楊雄の生涯と作品』第1部第8章 「元后誄」の背景と表現
  7. ^ 渡邉義浩ほか編著『はじめて学ぶ中国思想 思想家たちとの対話』(揚雄:辛賢担当)ミネルヴァ書房、2018年4月20日。ISBN 9784623081066 
  8. ^ 『漢書』趙充国伝
  9. ^ 『漢書』游侠伝
  10. ^ 「答劉歆書」(張震澤『揚雄集校注』参照)
  11. ^ 『文心雕龍』事類篇・才略篇
  12. ^ 『漢書』揚雄伝・下
  13. ^ 『漢書』五行志・中下
  14. ^ 『漢書』匈奴伝・下
  15. ^ 『法言』孝至
  16. ^ 『漢書』平帝紀、芸文志・小学
  17. ^ 劉歆「与楊雄書」、揚雄「答劉歆書」
  18. ^ 『漢書』王莽伝・上・中
  19. ^ 『漢書』雄伝賛、『文選』劇秦美新
  20. ^ 『文選』劇秦美新
  21. ^ 『漢書』王莽伝・中
  22. ^ 『漢書』揚雄伝賛、王莽伝・中
  23. ^ 『漢書』揚雄伝賛
  24. ^ 『漢書』元后伝
  25. ^ 『漢書』揚雄伝賛、沈欽韓『漢書疏証』
  26. ^ 芸文類聚』巻40「楊雄家諜」
  27. ^ e国宝 - 漢書楊雄伝第五十七”. emuseum.nich.go.jp. 2025年11月27日閲覧。
  28. ^ 『国宝漢書楊雄伝第五十七』勉誠出版、2019年。ISBN 978-4-585-28046-0 
  29. ^ 『和刻本諸子大成 (3)説苑・揚子法言・忠經集註詳解・潛夫論ほか』汲古書院、1979年。ISBN 9784762920561 
  30. ^ 藤川正數「「法言」注釋史上における増註(桃白鹿著)の地位について」(『日本中国学会報』27、1975年)
  31. ^ 『太玄易の研究』明徳出版社、1964年。 
  32. ^ 『法言』明徳出版社、1972年。 
  33. ^ 『[国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/13277179/1/4 法言 もうひとつの「論語」]』講談社、1988年。ISBN 4061914294。国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/13277179/1/4 

参考文献

[編集]
  • 小竹武夫訳『漢書』上・中・下、筑摩書房、1977-1979年
  • 張震澤『揚雄集校注』上海古籍出版社、1993年、ISBN 9787532514670
  • 嘉瀬達男『楊雄の生涯と作品』朋友書店、2025年、 ISBN 9784892812095