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「マー・ワラー・アンナフル」の版間の差分

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'''マー・ワラー・アンナフル'''(ما وراء النهر Mā-warā' an-Nahr)とは、[[中央アジア]]南部の[[オアシス]]地域の歴史的呼称である。
'''トランスオクシアナ'''(Transoxiana)は、[[ラテン語]]で「[[オクサス川]](アムダリヤ川)の向こうの土地」を意味する。具体的にはアムダリヤ川と[[シルダリヤ川]]に挟まれた地域をさす。<ref>Encyclopædia Britannica online</ref>アムダリヤ・シルダリヤ文明。


[[アラビア語]]で「川の向うの土地」を意味する言葉で字義通りには[[アムダリヤ川|アム川]]北岸の地域を指し<ref name="ce-jiten">堀川「マー・ワラー・アンナフル」『中央ユーラシアを知る事典』、487頁</ref><ref name="ii-jiten">久保「マー・ワラー・アン=ナフル」『岩波イスラーム辞典』、939頁</ref>、ギリシア語やラテン語で書かれたヨーロッパの史料に見られる「トランスオクシアナ(Transoxiana、オクサス川(アム川)より向こうの地)」と同じ意味を持つ<ref name="ce-jiten"/><ref>長沢『シルクロード』、173頁</ref><ref name="si-jiten">間野「マー・ワラー・アンナフル」『新イスラム事典』、466頁</ref><ref name="kawaguchi116">川口『ティムール帝国』、116頁</ref>。実際にはアム川と[[シルダリヤ川|シル川]]の間の地域を指す言葉として使われ<ref name="ce-jiten"/><ref name="a-jiten"/>、その領域には、今日の[[ウズベキスタン]]と[[タジキスタン]]、それに[[カザフスタン]]の南部と[[キルギス|クルグズスタン]]の一部が含まれている<ref name="ii-jiten"/><ref name="ce-jiten"/>。北は[[カザフ草原]]、西に[[カスピ海]]、南東に[[天山山脈]]と[[パミール高原]]が位置し、西南に[[キジルクム砂漠]]と[[カラクム砂漠]]が広がる。北から南、西から東へ向かうにつれて海抜高度が上がり、一年を通じて乾燥した気候にあり、気温の年較差は大きい<ref>川口『ティムール帝国』、112-113頁</ref>。
== 概要 ==
[[ファイル:Karte Map Chorasan-Transoxanien-Choresmien.png|thumb|240px|Choresmien([[ホラズム]])、Transoxanien(トランスオクシアナ)、Chorasan([[ホラーサーン]])]]


「マーワラーアンナフル」と呼ばれる地域は、イスラーム以前の[[サーサーン朝]]が[[アケメネス朝]]の行政単位をそのまま用いて[[ソグディアナ]]と呼んでいた領域とほぼ重なる。また、[[サマルカンド]]や[[ブハラ]]などのマーワラーアンナフル南部の地域はかつてのソグディアナの名称がそのまま残り、特に「スグド地方 بلاد سغد bilād-i Sughd)」とも呼ばれ、現在の[[タジキスタン]]の[[ソグド州]]に名称が受け継がれている。
今日の[[ウズベキスタン]]と[[タジキスタン]]、それに[[カザフスタン]]の南西部の一部に該当する<ref>Encyclopædia Britannica online</ref>。
'''[[トゥーラーン]]''' توران Tūrān と[[イラン人]]が呼称した地域とトランスオクシアナはほぼ同じである<ref>Transoxanien und Turkestan zu Beginn des 16. Jahrhunderts;: Das Mihman-nama-yi Buhara des Fadlallah b. Ruzbihan Hungi (Islamkundliche Untersuchungen)
Fazl Allah ibn Ruzbahan (Author)</ref>。また7世紀以降、[[アラビア語]]では「川の向うの土地」を意味する'''マーワラーアンナハル''' ما وراء النهر Mā-warā' an-Nahr と呼ばれた。アラビア語、ペルシア語の地理書などでは、マーワラーアンナフルの領域はおおよそアムダリヤ(ジャイフーン)川を西境にして、東は[[シルダリヤ川|シルダリヤ川(サイフーン川)]]までの地域を指す場合が多く、シルダリヤ川よりも東方はテュルク系の諸勢力が多かったため、だいたい「トゥルキスターン」と呼ばれる傾向にあった。「マーワラーアンナフル」と呼ばれる地域は、イスラーム以前の[[サーサーン朝]]が[[アケメネス朝]]の行政単位をそのまま用いて[[ソグディアナ]]と呼んでいた領域とほぼ重なる。また、[[サマルカンド]]や[[ブハラ|ブハーラー]]などのマーワラーアンナフル南部の地域はかつての[[ソグディアナ]]の名称がそのまま残り、特に「スグド地方 بلاد سغد bilād-i Sughd とも呼ばれ、現在の[[タジキスタン]]の[[ソグド州]]に名称が受け継がれている。


「マー・ワラー・アンナフル」は主としてイスラーム化後の時代を指して使用される語であり<ref name="a-jiten">松田「マーワラー・アンナフル」『アジア歴史事典』8巻、381頁</ref>、[[イラン]](イーラーン)と対峙する地域である'''[[トゥーラーン]]'''( توران Tūrān)と呼ばれた地域とほぼ同一である<ref>Transoxanien und Turkestan zu Beginn des 16. Jahrhunderts;: Das Mihman-nama-yi Buhara des Fadlallah b. Ruzbihan Hungi (Islamkundliche Untersuchungen)Fazl Allah ibn Ruzbahan (Author)</ref><ref>川口『ティムール帝国』、116-117頁</ref>。[[ティムール朝]]の時代にはマー・ワラー・アンナフルとトゥーラーンの呼称が併用され、トゥーラーンはアム川から[[ホータン市|ホータン]]の境界に至る広範な地域を指し示していた<ref>川口『ティムール帝国』、117頁</ref>。
== 歴史 ==
=== 古代 ===
古くは紀元前からイラン系遊牧民の[[ソグド人]]の根拠地あり、アムダリヤ川やシルダリヤ川、[[ザラフシャン川]]などの河川の流域にサマルカンドやブハなどに代表される都市や村落群と耕地が開発され、定住地域の周辺に広がる草原や砂漠には[[遊牧民]]が闊歩する地であった。また[[中国内地]]とを結ぶ[[シルクロード]]が発達し、[[テュルク]][[ソグド]]人などが交易などを通じて東西を結んだ。


7世紀以降、アラビア語、ペルシア語の地理書などでは、マー・ワラー・アンナフルの領域はおおよそアム川(ジャイフーン川)を西境とし、東は[[シルダリヤ川|シル川(サイフーン川)]]までの地域を指す場合が多かった。マー・ワラー・アンナフルの北限は不明確であり、イスラーム時代の初期にはアラブの征服地の範囲とほぼ一致し、[[15世紀]]の[[ティムール朝]]の歴史家[[ハーフィズ・アブルー]]はシル川より北の地域をマー・ワラー・アンナフルに含めていた<ref name="kawaguchi115116">川口『ティムール帝国』、115-116頁</ref>。[[テュルク系民族|テュルク(トルコ)系民族]]の諸勢力が多いシル川よりも北の地域は「[[トルキスタン]]」と呼ばれ、10世紀末からマー・ワラー・アンナフルのテュルク化が進行すると、シル川以北の地域と同じようにトルキスタンと呼ばれるようになる<ref name="si-jiten"/>。シル川以北の「[[東トルキスタン]]」に対して、この地域は「西トルキスタン」と呼称されることもある<ref name="a-jiten"/>。トルキスタンの地名が広まった後、「マー・ワラー・アンナフル」の呼称は雅称としても使われるようになる<ref name="si-jiten"/>。
=== イスラーム時代 ===
この地は[[9世紀]]から[[10世紀]]かけて[[イスラム]]化が進み、[[アッバース朝]][[カリフ]]・[[マアムーン]]の奪権に貢献した[[サーマーン朝]]は、マアムーンの委任を受けてマーワラーアンナフルから[[ホラーサーン]]にまたがる領域を支配し、首都となったブハーラーの宮廷を中心に近世ペルシア語の最初の文芸復興を果たした。この地域は[[13世紀]]に[[モンゴル人]]に侵されるまで[[イスラム文化]]の一中心地であった。その後サーマーン朝は東方から進出してきたテュルク系の[[カラハン朝]]に滅ぼされ、サマルカンドやブハーラーはカラハン朝の王族たちによって統治された。カラハン朝は13世紀初頭、[[ホラズム・シャー朝]]の[[アラーウッディーン・ムハンマド]]によって滅ぼされ、[[サマルカンド]]は一時ホラズム・シャー朝の首都になった。しかし、程なく[[1219年]]、モンゴル高原から勃興した[[チンギス・カン]]率いる[[モンゴル帝国]]によってマーワラーアンアフル全域は侵攻を受け、サマルカンドやブハーラーなどの諸都市はモンゴル帝国軍の攻撃によって陥落して破壊され、あるいは降伏後に城壁が破却されるなどした。


=== モンゴル帝国時===
== 代 ==
[[ザフシャ川]]や[[カシュカダリヤ川|カシュカ川]]、アム川に流入する支流流域はオアシスが形成され農業が営まれていた<ref name="ce-jiten"/>。アム川やシル川、ザラフシャン川などの河川の流域に[[サマルカンド]][[ブハラ]]などに代表される都市や村落群と耕地が開発され、定住地域の周辺に広がる草原や砂漠には[[遊牧民]]が闊歩する地であった。また[[中国内地]]とを結ぶ[[シルクロード]]が発達し、[[テュルク系民族]]やソグド人などが交易などを通じて東西を結んだ。
ホラズム・シャー朝滅亡後は各都市にバスカク([[ダルガチ]])が置かれてモンゴル帝国の行政区に組み込まれた。マーワラーアンナフル全域の征服の過程で、この地域にはチンギスの諸子の采邑が多数設定され、チンギス・カンによって任命された代官や書記たちは[[オゴデイ]]の時代に帝国全土の行政組織の再編が進んだが、特にこの頃中央アジアにおける財政部門を統括したのが[[ヤワラチ|マフムード・ヤラワチ]]とその息子で父の後任となった[[マスウード・ベク]]の親子であった。[[1260年]]にモンゴル皇帝[[モンケ]]の死による混乱の結果、中央アジアではオゴデイ家の[[カイドゥ]]や[[チャガタイ・ハン国|チャガタイ家]]のバラクの台頭した。モンゴル帝国の中央アジアの財務当局はこれら王族同士の紛争によって、なし崩し的に当時中央アジアで最も勢力が大きかったカイドゥの支配に吸収されてしまった。[[1301年]]のカイドゥの死後はチャガタイ家の[[ドゥア]]が東は[[イリ地方]]一帯からマーワラーアンナフル全域まで支配したが、ドゥアの死後はドゥアの諸子が当主を継いだものの短命の当主が続き、[[ケベク]]などによる内部の中興が図られたものの、程なく後継者を巡ってチャガタイ家は内紛状態に陥った。この過程の中でマーワラーアンナフル内部を根拠地とするチャガタイ家の[[アミール]]層の中からバルラス部族の[[ティムール]]が勃興し、イリ地方を根拠地とする他のドゥア裔のチャガタイ家の王族たちと支配地域を分けるようになる。これが[[ティムール朝]]と[[モグーリスターン・ハン家]]の起源となった。


[[紀元前6世紀]]にトランスオクシアナは[[アケメネス朝]]のキュロス2世によって征服され<ref>間野『中央アジアの歴史』、47頁</ref>、ソグド州に区画される<ref name="kawaguchi115">川口『ティムール帝国』、115頁</ref>。アケメネス朝期のソグド州でどのような統治が敷かれたかは明らかになっていないが、[[アラム語]]・[[アラム文字]]が導入され、アラム文字は[[ソグド文字]]の原型となったと考えられている<ref name="yoshida43">吉田「中央アジアオアシス定住民の社会と文化」『中央アジア史』、43頁</ref>。アケメネス朝を滅ぼした[[マケドニア王国]]の[[アレクサンドロス3世]]に対してトランスオクシアナの住民は一度は降伏するも反乱を起こし、[[紀元前329年]]から[[紀元前327年]]までの間およそ50,000のマケドニア兵が反乱の鎮圧に動員された<ref>間野『中央アジアの歴史』、48頁</ref>。アレクサンドロス3世による征服の後、[[ヘレニズム文化]]がトランスオクシアナにもたらされる<ref name="kawaguchi115116"/>。
=== ティムー時代 ===
ティムールはマーワラーアンナフルを中心に権力を拡大するにつれて、イランやアフガニスタン、インド、[[ジョチ・ウルス]]の諸勢力が抗争を繰り返すキプチャク草原へも遠征した。一方で、中心地であるサマカンドや自分の故郷である[[シャフリサブズ]][[ホージャ・アフマド・ヤサヴィー廟]]など、巨大な[[モスク]]や[[マドラサ]]、宮殿、庭園、中央アジア各地の聖者廟や自らを含むティムール一門の廟墓など、現在にも残る巨大な建造物群の建設を各地で進めた。モンゴルでありかつ[[ムスリム]]であるといういわゆる「チャガタイ人」と言う意識が、マーワラーアンナフルのチャガタイ・ウルス系のアミール層に形成され、ティムール朝時代には『[[集史]]』再編纂やチャガタイ王侯貴族の間にもペルシア語文芸の愛好のみならず、自らの母語であるチャガタイ・トルコ語の文芸運動などの文化活動も新たに盛んになった。


アレクサンドロス3世の死後、トランスオクシアナは[[セレウコス朝]]、[[グレコ・バクトリア王国|バクトリア王国]]の支配下に入り、バクトリアの貨幣を模した貨幣が鋳造されはじめる<ref name="yoshida43"/>。[[紀元前2世紀]]にバクトリア王国が[[大月氏]]によって滅ぼされた頃、トランスオクシアナは遊牧民族の[[康居]]によって支配されていたと言われている<ref name="yoshida43"/>。トランスオクシアナと中国を結ぶ交易路は大月氏や[[匈奴]]などの[[タリム盆地]]に勢力を有する遊牧勢力に阻まれていたが、[[前漢]]の[[武帝 (漢)|武帝]]による[[フェルガナ]]([[大苑]])遠征の結果、紀元前2世紀から交易が開始される<ref>長沢『シルクロード』、107-108,131頁</ref>。[[バクトリア|トハーリスターン]]に建国された[[クシャーナ朝]]はトランスオクシアナを支配下に置き、クシャーナ朝が衰退した後のトランスオクシアナにはオアシス都市の連合国家が成立する<ref>間野『中央アジアの歴史』、51頁</ref>。[[5世紀]]半ばにトランスオクシアナを含むパミール高原以西のオアシス地帯は、遊牧民族の[[エフタル]]の支配下に入る<ref>間野『中央アジアの歴史』、80頁</ref>。
しかし、ティムール没後、ティムール家の王族同士の紛争が続き、サマルカンドなどはその係争地となったため、文化的中心はやがて比較的政権が安定していた[[ホラーサーン]]の[[ヘラート]]へ移っていった。ティムール朝の王族の一人で、後の[[ムガル朝]]の始祖である[[バーブル]]などもこれら周辺の王族たちの紛争に加わったが、ジョチ・ウルスのシバン家の後裔である[[ウズベク]]の首長[[シャイバーニー・ハン]]がマーワラーアンナフルまで南下してついにサマルカンドを制圧し、ティムール朝を滅ぼした。バーブルは幾度かサマルカンド奪回を試みたものの果たせず、アフガニスタンの[[カーブル]]を拠点としてインドへ転身し、ムガル朝を開いた。


== ソグド人の活躍 ==
=== シャイバーニー朝以降(ウズベク系王朝時代) ===
[[Image:ChineseShapedSogdianCoinKelpin8thCenturyCE.jpg|thumb|150px|ソグディアナで鋳造されたpny]]
[[シャイバーニー・ハン]]を始祖とする[[シャイバーニー朝]]は、ティムール朝で活発化したペルシア語、チャガタイ・トルコ語による文芸運動を積極的に吸収、継承した。首都となったサマルカンドやブハーラーはその発信地として繁栄し、その影響はモグーリスターン・ハン国にまで直接及び、現在の[[新疆ウイグル自治区]]の文化的な基盤を形成している。16世紀末にシャイバーニー朝の滅亡した後は[[アストラハン・ハン国]]のジャーン朝がブハーラーを首都として支配し、[[ロシア帝国]]の進出に悩まされながらも、20世紀に[[マンギト朝]]最後の君主[[アーリム・ハーン]]が[[ソヴィエト連邦]]によって追放されるまで、マーワラーアンナフルはモンゴル系の政権が続いた。
イスラーム化前のトランスオクシアナはイラン系の[[ソグド人]]の根拠地であり、「[[ソグディアナ]]」と呼ばれていた<ref name="ce-jiten"/>。ソグディアナは中央アジアの肥沃な地域の一つに数えられ、中心地である[[サマルカンド]]に居住するソグド人はザラフシャン川の水を利用して農業を発達させた<ref>間野『中央アジアの歴史』、87-88頁</ref>。ソグディアナはペルシア文化圏に属し、イランのサーサーン朝からの影響を強く受けていた<ref name="ii-jiten"/>。オアシス都市は城砦(quhandiz)と市街地(shahristān)から成り立ち、規模の大きいオアシスは市街地の外に広がる郊外(rabad)を有していた<ref>吉田「中央アジアオアシス定住民の社会と文化」『中央アジア史』、45頁</ref>。それらのオアシス都市は周辺の村落や農地とともに一人の領主によって支配され、中国の史料にはソグディアナに存在していた康国(サマルカンド)、安国(中安国。ブハラ)などの都市国家が挙げられている

[[7世紀]]後半までの約2世紀の間、ソグディアナはテュルク系の遊牧民族[[突厥]]の支配下に置かれていた。[[木汗可汗]]の指導下でエフタルを破った突厥はソグディアナを征服し、[[583年]]に東西に分裂した突厥のうち、[[西突厥]]はソグディアナを支配下に置いた<ref>長沢『シルクロード』、260-261頁</ref>。ソグド人は遊牧勢力の支配下で商業活動に従事し、[[河西回廊]]から東トルキスタン、[[セミレチエ]]からソグディアナにはソグド人の植民都市が作られた<ref>長沢『シルクロード』、174-175頁</ref>。ソグド人の商業活動によって中央アジアの珍品が中国にもたらされ、中国の諸王朝は西方との国交を樹立するために盛んに使者を送った<ref>長沢『シルクロード』、174-176頁</ref>。7世紀半ばに西突厥が[[唐]]の遠征軍の攻撃を受けて壊滅した後、ソグディアナは唐の勢力下に入る<ref>長沢『シルクロード』、263-268頁</ref>。

銀貨、銅貨が流通し、7世紀初頭から方形の孔が空けられた中国式の銅貨(pny)が鋳造された<ref>吉田「中央アジアオアシス定住民の社会と文化」『中央アジア史』、49-50頁</ref>。ソグディアナでは手工業が盛んで、綿織物、絹織物、銀器などが生産されていた<ref>吉田「中央アジアオアシス定住民の社会と文化」『中央アジア史』、49頁</ref>。

== イスラーム勢力の進出とテュルク化 ==
[[8世紀]]初頭の[[ウマイヤ朝]]の将軍[[クタイバ・イブン・ムスリム]]の征服後にマー・ワラー・アンナフルのイスラーム化が本格的に進展し<ref name="ii-jiten"/><ref name="ce-jiten"/>、イスラーム化と並行して[[近世ペルシア語]]が広まっていった<ref name="ce-jiten"/>。この地域は[[13世紀]]に[[モンゴル人]]に侵されるまで[[イスラム文化]]の一中心地であり続ける。

[[651年]]にサーサーン朝を滅ぼした[[アラブ人]]の軍隊は[[653年]]に[[ホラーサーン]]地方を征服し、[[654年]]に初めてマー・ワラー・アンナフルに現れる<ref name="mano114">間野『中央アジアの歴史』、114頁</ref>。略奪、貢納の徴収を目的とするアラブ人の侵入が繰り返された後、705年からクタイバによって実施された中央アジア征服をきっかけに、マー・ワラー・アンナフルのアラブ支配・イスラーム化が始まった<ref name="mano114"/>。クタイバによってブハラ、サマルカンドなどの都市に[[モスク]](寺院)が建立され、遠征に従軍したアラブ兵の移住と征服地の住民のイスラームへの改宗が推進されたといわれている<ref>間野『中央アジアの歴史』、115-116頁</ref>。クタイバの死後、[[715年]]から[[737年]]までの間、マー・ワラー・アンナフルは[[突騎施]]によって占領される<ref>長沢『シルクロード』、291頁</ref>。マー・ワラー・アンナフルの支配権を巡って毎年のように続くウマイヤ軍とソグド諸国・突騎施連合軍の戦争から逃れるため、多くのソグド人が東方に避難した<ref>長沢『シルクロード』、308-309頁</ref>。[[739年]]にウマイヤ朝の[[ホラーサーン]]総督ナスル・イブン・サイヤールはシル川の河畔で突騎施の指導者[[莫賀達汗]]を捕らえ、ソグド諸国と和平を締結し、マー・ワラー・アンナフルの奪回に成功した<ref>長沢『シルクロード』、292,310頁</ref>。

ウマイヤ朝のカリフ・[[ヒシャーム・イブン・アブドゥルマリク|ヒシャーム]]の治世にソグド人の反乱が鎮圧され、アラブのマー・ワラー・アンナフル支配は確固たるものになる<ref>間野『中央アジアの歴史』、116頁</ref>。そして、[[751年]]に[[アッバース朝]]が[[タラス河畔の戦い]]で[[高仙芝]]の率いる唐軍に勝利を収め、中央アジアにおける唐の勢力は大きく後退した<ref>長沢『シルクロード』、310頁</ref>。アッバース朝の[[カリフ]]・[[マアムーン]]の奪権に貢献した[[サーマーン朝]]は、マアムーンの委任を受けてマー・ワラー・アンナフルから[[ホラーサーン]]にまたがる領域を支配した。サーマーン朝の元では、イラン文化の復興が推進される<ref name="ii-jiten"/>。

サーマーン朝は東方から進出してきたテュルク系の[[カラハン朝]]に滅ぼされ、サマルカンドやブハラはカラハン朝の王族たちによって統治された。10世紀末から[[11世紀]]にかけて[[カザフスタン]]からシル川までの地域に居住していたテュルク系遊牧民族の[[オグズ]]がシル川を越えて南下し、テュルク系民族の移動はマー・ワラー・アンナフルでの「トルキスタン」成立の契機となる<ref>梅村「中央アジアのトルコ化」『中央アジア史』、74-75頁</ref>。パミール高原西部のテュルク化はすでに6世紀後半の西突厥の時代から始まっており、8世紀初頭の[[ムグ文書]]にはテュルクの言葉に由来する定住民の人名や地名が確認できる<ref>吉田「中央アジアオアシス定住民の社会と文化」『中央アジア史』、44頁</ref>。カラハン朝の時代からマー・ワラー・アンナフルは[[天山ウイグル王国]]が支配する「[[東トルキスタン]]」に対する「西トルキスタン」と化し<ref>梅村「中央アジアのトルコ化」『中央アジア史』、81頁</ref>、支配者の言語として[[テュルク諸語]]が浸透していった<ref name="ce-jiten"/>。イランに移動したオグズの一団が[[セルジューク朝]]を建国した後、マー・ワラー・アンナフルはテュルク・イスラム圏の東方地域を形成していた<ref name="a-jiten"/>。[[ティムール]]が台頭する[[14世紀]]までに、この地域のテュルク化はほぼ完了していたとされている<ref>間野『中央アジアの歴史』、112頁</ref>。

カラハン朝は13世紀初頭、[[ホラズム・シャー朝]]の[[アラーウッディーン・ムハンマド]]によって滅ぼされ、サマルカンドは一時ホラズム・シャー朝の首都になった。しかし、程なく[[1219年]]、モンゴル高原から勃興した[[チンギス・カン]]率いる[[モンゴル帝国]]によってマー・ワラー・アンナフル全域は侵攻を受け、サマルカンドやブハラなどの諸都市はモンゴル帝国軍の攻撃によって破壊され、あるいは降伏後に城壁が破却されるなどした。モンゴルの侵入はマー・ワラー・アンナフルの経済に多大な打撃を与え、後述する[[ティムール朝]]の時代に入ってかつての繁栄を回復する<ref name="ii-jiten"/>。

== モンゴ帝国時代 ==
ホラズム・シャー朝滅亡後は各都市に[[ダルガチ]](行政総督)が置かれてモンゴル帝国の行政区に組み込まれた。[[1222年]]秋にチンギス・カンは[[契丹|契丹人]]の[[耶律阿海]]親子をマー・ワラー・アンナフル総督に任じ、阿海と各都市に派遣されたムスリム官僚は荒廃したマー・ワラー・アンナフルの復興に着手した<ref>加藤「「モンゴル帝国」と「チャガタイ・ハーン国」」『中央アジア史』、121-122頁</ref>。チンギス・カンの跡を継いだ[[オゴデイ|オゴデイ・ハーン]]の時代、中央アジアはオゴデイの兄[[チャガタイ]]の私領に定められ、ダルガチに就任した[[マフムード・ヤラワチ]]とその息子で父の後任となった[[マスウード・ベク]]の親子の元で中央アジアの諸都市は著しい回復を見せる<ref>加藤「「モンゴル帝国」と「チャガタイ・ハーン国」」『中央アジア史』、123-124頁</ref>。

[[1259年]]の[[モンケ|モンケ・ハーン]]の死後、中央アジアではオゴデイ家の[[カイドゥ]]や[[チャガタイ・ハン国|チャガタイ家]]のバラクが台頭した。モンゴル帝国の中央アジアの財務当局はこれら王族同士の紛争によって、当時中央アジアで最も勢力が大きかったカイドゥの支配に吸収されてしまった。[[1301年]]のカイドゥの死後はチャガタイ家の[[ドゥア]]が東は[[イリ地方]]一帯からマー・ワラー・アンナフル全域まで支配した。[[1320年]]頃にチャガタイ・ハン国の当主に即位した[[ケベク]]は定住民との関係を重視し、マー・ワラー・アンナフルに居住するモンゴル人は都市生活とイスラーム文化に適応していった<ref>加藤「「モンゴル帝国」と「チャガタイ・ハーン国」」『中央アジア史』、128-129頁</ref>。都市生活に馴染んだマー・ワラー・アンナフルのモンゴル人と伝統的な遊牧生活を固守するハン国東部のモンゴル人の対立が深まり、1340年代にチャガタイ・ハン国は東西に分裂する<ref>加藤「「モンゴル帝国」と「チャガタイ・ハーン国」」『中央アジア史』、129頁</ref>。

[[1358年]]に西チャガタイ・ハン国の有力者[[カザガン]]が暗殺された後、西チャガタイ・ハン国の各地で有力[[アミール]](貴族)が割拠する状態に陥る<ref>久保「ティムール帝国」『中央アジア史』、132頁</ref>。[[モグーリスタン・ハン国]](東チャガタイ・ハン国)の君主[[トゥグルク・ティムール]]は混乱するマー・ワラー・アンナフルに侵入し、[[1361年]]に一時的にチャガタイ・ハン国を再統一する。この過程の中でマー・ワラー・アンナフル内部を根拠地とするチャガタイ家のアミール層の中から[[バルラス|バルラス部族]]の[[ティムール]]が頭角を現し、[[モグーリスタン]]を根拠地とする他のドゥア裔のチャガタイ家の王族たちと支配地域を分けるようになる。

== ティール朝時代 ==
マー・ワラー・アンナフルで生まれ育ったティムールはこの地を本拠地とし、サルカンドや自分の故郷であるケシュ([[シャフリサブズ]])を都とした<ref>川口『ティムル帝国』、110頁</ref>。マー・ワラーアンナフルを中心に権力を拡大するにつれて、イランやアフガニスタン、インド、[[ジョチ・ウルス]](キプチャク・ハン国)の諸勢力が抗争を繰り返す[[キプチャク草原]]へも遠征した。一方で、ティムーはヤシ([[テュルキスタン]])の[[ホージャ・アフマド・ヤサヴィー廟]]など、巨大なモスクや[[マドラサ]]、宮殿、庭園、中央アジア各地の聖者廟や自らを含むティムール一門の廟墓など、現在にも残る巨大な建造物群の建設・増築を各地で進めた。モンゴルでありかつ[[ムスリム]]であるといういわゆる「チャガタイ人」と言う意識が、マーワラーアンナフルのチャガタイ・ウルス系のアミール層に形成され、ティムール朝時代には『[[集史]]』再編纂やチャガタイ王侯貴族の間にもペルシア語文芸の愛好のみならず、自らの母語であるチャガタイ・トルコ語の文芸運動などの文化活動も新たに盛んになった。

ティムール死後の後継者争いを制して王位に就いた[[シャー・ルフ]]はマー・ワラー・アンナフルの統治を長子の[[ウルグ・ベク]]に委任し、自身は即位前からの領地であるホラーサーン地方の[[ヘラート]]を本拠地とした<ref>久保「ティムール帝国」『中央アジア史』、140頁</ref>。ウルグ・ベクはヘラートの宮廷からの干渉をほとんど受けることは無く自由に政務を執り、内政・外政・学芸の保護に尽力する<ref>久保「ティムール帝国」『中央アジア史』、142頁</ref>。[[1420年]]にサマルカンドに天文台が建設され、ウルグ・ベク時代のサマルカンドはイスラーム法に基づく厳格な統治が敷かれていたヘラートとは対照的に、ティムールの時代と同じように自由な空気が流れていた<ref>久保「ティムール帝国」『中央アジア史』、142-143頁</ref>。シャー・ルフの死後の王位を巡る混乱でティムール朝の領土は分裂し、[[アブー・サイード (ティムール朝)|アブー・サイード]]の子孫が支配するマー・ワラー・アンナフルの政権と[[フサイン・バイカラ]]が支配するホラーサーンの政権が並立する<ref>久保「ティムール帝国」『中央アジア史』、143-146頁</ref>。アブー・サイード政権のマー・ワラー・アンナフルでは[[スーフィー]](イスラームの聖者)の[[ホージャ・アフラール]]が指導する[[ナクシュバンディー教団]]が強い影響力を持ち、ホージャ・アフラールの後継者は強大な政治力と経済力を相続した<ref>久保「ティムール帝国」『中央アジア史』、145-146頁</ref>。

== シャイバーニー朝以降(ウズベク系王朝時代) ==
遊牧民族の[[ウズベク]]国家である[[シャイバーニー朝]]([[ブハラ・ハン国]])は[[1500年]]にサマルカンド、[[1507年]]にヘラートを占領し、ティムール朝は滅亡する。[[ムハンマド・シャイバーニー・ハン]]を始祖とするシャイバーニー朝は、ティムール朝で活発化したペルシア語、チャガタイ・トルコ語による文芸運動を積極的に吸収、継承した。首都となったサマルカンドやブハラはその発信地として繁栄し、その影響はモグーリスターン・ハン国にまで直接及び、現在の[[新疆ウイグル自治区]]の文化的な基盤を形成している。ブハラ・ハン国や[[ヒヴァ・ハン国]]などのテュルク系遊牧民の[[ウズベク]]国家が建設されたためにテュルク化がより進展し、かつてシル川以北の地域を指して使われた「トルキスタン(テュルクの住む場所)」が、シル川・アム川の間の地域も含むようになった<ref name="ce-jiten"/>。「マー・ワラー・アンナフル」の語は地名として定着しており、ウズベク国家の成立後も史料では「マー・ワラー・アンナフル」が使われ続けられた<ref name="ce-jiten"/>。

[[16世紀]]末にシャイバーニー朝が断絶した後は[[アストラハン・ハン国]]の[[ジャーン朝]]がブハラを首都として支配する。しかし、イランに成立した諸王朝との抗争のため、マー・ワラー・アンナフルの経済力の回復は難しかった<ref name="ii-jiten"/>。[[18世紀]]初頭に成立した[[コーカンド・ハン国]]は[[清]]、[[ロシア帝国]]との交易で大きな利益を上げたが、[[19世紀]]に入るとウズベク系の三ハン国はロシア帝国の干渉を受けるようになる<ref>長沢『シルクロード』、390,420頁</ref>。[[1868年]]にブハラ・ハン国、[[1873年]]にヒヴァ・ハン国がロシアの支配を受け入れ、[[1876年]]にコーカンド・ハン国が征服される。[[1867年]]にマー・ワラー・アンナフルはロシアによって設置された[[トルキスタン総督府]]の管轄化に置かれ、ロシア帝国の保護下に置かれながらも、1920年にブハラの[[マンギト朝]]の君主[[アーリム・ハーン]]、ヒヴァの[[イナク朝]]の君主[[サイード・アブドゥッラー]]が[[ソビエト連邦]]によって追放されるまで、マー・ワラー・アンナフルにはモンゴル系の政権が存続した。[[ロシア革命]]後の[[1924年]]に中央アジアで実施された[[民族・共和国境界画定]]によってマーワラー・アンナフルは各共和国に区画される<ref name="ce-jiten"/>。


== 脚注 ==
== 脚注 ==
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== 参考文献 ==
* 梅村坦「中央アジアのトルコ化」『中央アジア史』収録(竺沙雅章監修、間野英二責任編集, アジアの歴史と文化8, 同朋舎, 1999年4月)
* 加藤和秀「「モンゴル帝国」と「チャガタイ・ハーン国」」『中央アジア史』収録(竺沙雅章監修、間野英二責任編集, アジアの歴史と文化8, 同朋舎, 1999年4月)
* 川口琢司『ティムール帝国』(講談社選書メチエ, 講談社, 2014年3月)
* 久保一之「ティムール帝国」『中央アジア史』収録(竺沙雅章監修、間野英二責任編集, アジアの歴史と文化8, 同朋舎, 1999年4月)
* 久保一之「マー・ワラー・アン=ナフル」『岩波イスラーム辞典』収録(岩波書店, 2002年2月)
* 長沢和俊『シルクロード』(講談社学術文庫, 講談社, 1993年8月)
* 堀川徹「マー・ワラー・アンナフル」『中央ユーラシアを知る事典』収録(平凡社, 2005年4月)
* 松田壽男「マーワラー・アンナフル」『アジア歴史事典』8巻収録(平凡社, 1961年)
* 間野英二『中央アジアの歴史』(講談社現代新書 新書東洋史8, 講談社, 1977年8月)
* 間野英二「マー・ワラー・アンナフル」『新イスラム事典』収録(平凡社, 2002年3月)
* 吉田豊「中央アジアオアシス定住民の社会と文化」『中央アジア史』収録(竺沙雅章監修、間野英二責任編集, アジアの歴史と文化8, 同朋舎, 1999年4月)


== 関連項目 ==
== 関連項目 ==
*[[ソグディアナ]]
*[[ソグディアナ]]
*[[アム川|アムダリヤ]]
*[[カザフステップ]]
*[[カザフステップ]]
*[[オアシス]]
*[[オアシス]]
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2015年4月5日 (日) 14:00時点における版

かつてのアラル海へ流れ込むアム川(南より)とシル川(東より)

マー・ワラー・アンナフル(ما وراء النهر Mā-warā' an-Nahr)とは、中央アジア南部のオアシス地域の歴史的呼称である。

アラビア語で「川の向うの土地」を意味する言葉で字義通りにはアム川北岸の地域を指し[1][2]、ギリシア語やラテン語で書かれたヨーロッパの史料に見られる「トランスオクシアナ(Transoxiana、オクサス川(アム川)より向こうの地)」と同じ意味を持つ[1][3][4][5]。実際にはアム川とシル川の間の地域を指す言葉として使われ[1][6]、その領域には、今日のウズベキスタンタジキスタン、それにカザフスタンの南部とクルグズスタンの一部が含まれている[2][1]。北はカザフ草原、西にカスピ海、南東に天山山脈パミール高原が位置し、西南にキジルクム砂漠カラクム砂漠が広がる。北から南、西から東へ向かうにつれて海抜高度が上がり、一年を通じて乾燥した気候にあり、気温の年較差は大きい[7]

「マー・ワラー・アンナフル」と呼ばれる地域は、イスラーム以前のサーサーン朝アケメネス朝の行政単位をそのまま用いてソグディアナと呼んでいた領域とほぼ重なる。また、サマルカンドブハラなどのマー・ワラー・アンナフル南部の地域はかつてのソグディアナの名称がそのまま残り、特に「スグド地方( بلاد سغد bilād-i Sughd)」とも呼ばれ、現在のタジキスタンソグド州に名称が受け継がれている。

「マー・ワラー・アンナフル」は主としてイスラーム化後の時代を指して使用される語であり[6]イラン(イーラーン)と対峙する地域であるトゥーラーン( توران Tūrān)と呼ばれた地域とほぼ同一である[8][9]ティムール朝の時代にはマー・ワラー・アンナフルとトゥーラーンの呼称が併用され、トゥーラーンはアム川からホータンの境界に至る広範な地域を指し示していた[10]

7世紀以降、アラビア語、ペルシア語の地理書などでは、マー・ワラー・アンナフルの領域はおおよそアム川(ジャイフーン川)を西境とし、東はシル川(サイフーン川)までの地域を指す場合が多かった。マー・ワラー・アンナフルの北限は不明確であり、イスラーム時代の初期にはアラブの征服地の範囲とほぼ一致し、15世紀ティムール朝の歴史家ハーフィズ・アブルーはシル川より北の地域をマー・ワラー・アンナフルに含めていた[11]テュルク(トルコ)系民族の諸勢力が多いシル川よりも北の地域は「トルキスタン」と呼ばれ、10世紀末からマー・ワラー・アンナフルのテュルク化が進行すると、シル川以北の地域と同じようにトルキスタンと呼ばれるようになる[4]。シル川以北の「東トルキスタン」に対して、この地域は「西トルキスタン」と呼称されることもある[6]。トルキスタンの地名が広まった後、「マー・ワラー・アンナフル」の呼称は雅称としても使われるようになる[4]

古代

ザラフシャン川カシュカ川、アム川に流入する支流の流域ではオアシスが形成され、農業が営まれていた[1]。アム川やシル川、ザラフシャン川などの河川の流域にサマルカンドブハラなどに代表される都市や村落群と耕地が開発され、定住地域の周辺に広がる草原や砂漠には遊牧民が闊歩する地であった。また中国内地とを結ぶシルクロードが発達し、テュルク系民族やソグド人などが交易などを通じて東西を結んだ。

紀元前6世紀にトランスオクシアナはアケメネス朝のキュロス2世によって征服され[12]、ソグド州に区画される[13]。アケメネス朝期のソグド州でどのような統治が敷かれたかは明らかになっていないが、アラム語アラム文字が導入され、アラム文字はソグド文字の原型となったと考えられている[14]。アケメネス朝を滅ぼしたマケドニア王国アレクサンドロス3世に対してトランスオクシアナの住民は一度は降伏するも反乱を起こし、紀元前329年から紀元前327年までの間およそ50,000のマケドニア兵が反乱の鎮圧に動員された[15]。アレクサンドロス3世による征服の後、ヘレニズム文化がトランスオクシアナにもたらされる[11]

アレクサンドロス3世の死後、トランスオクシアナはセレウコス朝バクトリア王国の支配下に入り、バクトリアの貨幣を模した貨幣が鋳造されはじめる[14]紀元前2世紀にバクトリア王国が大月氏によって滅ぼされた頃、トランスオクシアナは遊牧民族の康居によって支配されていたと言われている[14]。トランスオクシアナと中国を結ぶ交易路は大月氏や匈奴などのタリム盆地に勢力を有する遊牧勢力に阻まれていたが、前漢武帝によるフェルガナ大苑)遠征の結果、紀元前2世紀から交易が開始される[16]トハーリスターンに建国されたクシャーナ朝はトランスオクシアナを支配下に置き、クシャーナ朝が衰退した後のトランスオクシアナにはオアシス都市の連合国家が成立する[17]5世紀半ばにトランスオクシアナを含むパミール高原以西のオアシス地帯は、遊牧民族のエフタルの支配下に入る[18]

ソグド人の活躍

ソグディアナで鋳造されたpny

イスラーム化前のトランスオクシアナはイラン系のソグド人の根拠地であり、「ソグディアナ」と呼ばれていた[1]。ソグディアナは中央アジアの肥沃な地域の一つに数えられ、中心地であるサマルカンドに居住するソグド人はザラフシャン川の水を利用して農業を発達させた[19]。ソグディアナはペルシア文化圏に属し、イランのサーサーン朝からの影響を強く受けていた[2]。オアシス都市は城砦(quhandiz)と市街地(shahristān)から成り立ち、規模の大きいオアシスは市街地の外に広がる郊外(rabad)を有していた[20]。それらのオアシス都市は周辺の村落や農地とともに一人の領主によって支配され、中国の史料にはソグディアナに存在していた康国(サマルカンド)、安国(中安国。ブハラ)などの都市国家が挙げられている

7世紀後半までの約2世紀の間、ソグディアナはテュルク系の遊牧民族突厥の支配下に置かれていた。木汗可汗の指導下でエフタルを破った突厥はソグディアナを征服し、583年に東西に分裂した突厥のうち、西突厥はソグディアナを支配下に置いた[21]。ソグド人は遊牧勢力の支配下で商業活動に従事し、河西回廊から東トルキスタン、セミレチエからソグディアナにはソグド人の植民都市が作られた[22]。ソグド人の商業活動によって中央アジアの珍品が中国にもたらされ、中国の諸王朝は西方との国交を樹立するために盛んに使者を送った[23]。7世紀半ばに西突厥がの遠征軍の攻撃を受けて壊滅した後、ソグディアナは唐の勢力下に入る[24]

銀貨、銅貨が流通し、7世紀初頭から方形の孔が空けられた中国式の銅貨(pny)が鋳造された[25]。ソグディアナでは手工業が盛んで、綿織物、絹織物、銀器などが生産されていた[26]

イスラーム勢力の進出とテュルク化

8世紀初頭のウマイヤ朝の将軍クタイバ・イブン・ムスリムの征服後にマー・ワラー・アンナフルのイスラーム化が本格的に進展し[2][1]、イスラーム化と並行して近世ペルシア語が広まっていった[1]。この地域は13世紀モンゴル人に侵されるまでイスラム文化の一中心地であり続ける。

651年にサーサーン朝を滅ぼしたアラブ人の軍隊は653年ホラーサーン地方を征服し、654年に初めてマー・ワラー・アンナフルに現れる[27]。略奪、貢納の徴収を目的とするアラブ人の侵入が繰り返された後、705年からクタイバによって実施された中央アジア征服をきっかけに、マー・ワラー・アンナフルのアラブ支配・イスラーム化が始まった[27]。クタイバによってブハラ、サマルカンドなどの都市にモスク(寺院)が建立され、遠征に従軍したアラブ兵の移住と征服地の住民のイスラームへの改宗が推進されたといわれている[28]。クタイバの死後、715年から737年までの間、マー・ワラー・アンナフルは突騎施によって占領される[29]。マー・ワラー・アンナフルの支配権を巡って毎年のように続くウマイヤ軍とソグド諸国・突騎施連合軍の戦争から逃れるため、多くのソグド人が東方に避難した[30]739年にウマイヤ朝のホラーサーン総督ナスル・イブン・サイヤールはシル川の河畔で突騎施の指導者莫賀達汗を捕らえ、ソグド諸国と和平を締結し、マー・ワラー・アンナフルの奪回に成功した[31]

ウマイヤ朝のカリフ・ヒシャームの治世にソグド人の反乱が鎮圧され、アラブのマー・ワラー・アンナフル支配は確固たるものになる[32]。そして、751年アッバース朝タラス河畔の戦い高仙芝の率いる唐軍に勝利を収め、中央アジアにおける唐の勢力は大きく後退した[33]。アッバース朝のカリフマアムーンの奪権に貢献したサーマーン朝は、マアムーンの委任を受けてマー・ワラー・アンナフルからホラーサーンにまたがる領域を支配した。サーマーン朝の元では、イラン文化の復興が推進される[2]

サーマーン朝は東方から進出してきたテュルク系のカラハン朝に滅ぼされ、サマルカンドやブハラはカラハン朝の王族たちによって統治された。10世紀末から11世紀にかけてカザフスタンからシル川までの地域に居住していたテュルク系遊牧民族のオグズがシル川を越えて南下し、テュルク系民族の移動はマー・ワラー・アンナフルでの「トルキスタン」成立の契機となる[34]。パミール高原西部のテュルク化はすでに6世紀後半の西突厥の時代から始まっており、8世紀初頭のムグ文書にはテュルクの言葉に由来する定住民の人名や地名が確認できる[35]。カラハン朝の時代からマー・ワラー・アンナフルは天山ウイグル王国が支配する「東トルキスタン」に対する「西トルキスタン」と化し[36]、支配者の言語としてテュルク諸語が浸透していった[1]。イランに移動したオグズの一団がセルジューク朝を建国した後、マー・ワラー・アンナフルはテュルク・イスラム圏の東方地域を形成していた[6]ティムールが台頭する14世紀までに、この地域のテュルク化はほぼ完了していたとされている[37]

カラハン朝は13世紀初頭、ホラズム・シャー朝アラーウッディーン・ムハンマドによって滅ぼされ、サマルカンドは一時ホラズム・シャー朝の首都になった。しかし、程なく1219年、モンゴル高原から勃興したチンギス・カン率いるモンゴル帝国によってマー・ワラー・アンナフル全域は侵攻を受け、サマルカンドやブハラなどの諸都市はモンゴル帝国軍の攻撃によって破壊され、あるいは降伏後に城壁が破却されるなどした。モンゴルの侵入はマー・ワラー・アンナフルの経済に多大な打撃を与え、後述するティムール朝の時代に入ってかつての繁栄を回復する[2]

モンゴル帝国時代

ホラズム・シャー朝滅亡後は各都市にダルガチ(行政総督)が置かれてモンゴル帝国の行政区に組み込まれた。1222年秋にチンギス・カンは契丹人耶律阿海親子をマー・ワラー・アンナフル総督に任じ、阿海と各都市に派遣されたムスリム官僚は荒廃したマー・ワラー・アンナフルの復興に着手した[38]。チンギス・カンの跡を継いだオゴデイ・ハーンの時代、中央アジアはオゴデイの兄チャガタイの私領に定められ、ダルガチに就任したマフムード・ヤラワチとその息子で父の後任となったマスウード・ベクの親子の元で中央アジアの諸都市は著しい回復を見せる[39]

1259年モンケ・ハーンの死後、中央アジアではオゴデイ家のカイドゥチャガタイ家のバラクが台頭した。モンゴル帝国の中央アジアの財務当局はこれら王族同士の紛争によって、当時中央アジアで最も勢力が大きかったカイドゥの支配に吸収されてしまった。1301年のカイドゥの死後はチャガタイ家のドゥアが東はイリ地方一帯からマー・ワラー・アンナフル全域まで支配した。1320年頃にチャガタイ・ハン国の当主に即位したケベクは定住民との関係を重視し、マー・ワラー・アンナフルに居住するモンゴル人は都市生活とイスラーム文化に適応していった[40]。都市生活に馴染んだマー・ワラー・アンナフルのモンゴル人と伝統的な遊牧生活を固守するハン国東部のモンゴル人の対立が深まり、1340年代にチャガタイ・ハン国は東西に分裂する[41]

1358年に西チャガタイ・ハン国の有力者カザガンが暗殺された後、西チャガタイ・ハン国の各地で有力アミール(貴族)が割拠する状態に陥る[42]モグーリスタン・ハン国(東チャガタイ・ハン国)の君主トゥグルク・ティムールは混乱するマー・ワラー・アンナフルに侵入し、1361年に一時的にチャガタイ・ハン国を再統一する。この過程の中でマー・ワラー・アンナフル内部を根拠地とするチャガタイ家のアミール層の中からバルラス部族ティムールが頭角を現し、モグーリスタンを根拠地とする他のドゥア裔のチャガタイ家の王族たちと支配地域を分けるようになる。

ティムール朝時代

マー・ワラー・アンナフルで生まれ育ったティムールはこの地を本拠地とし、サマルカンドや自分の故郷であるケシュ(シャフリサブズ)を都とした[43]。マー・ワラー・アンナフルを中心に権力を拡大するにつれて、イランやアフガニスタン、インド、ジョチ・ウルス(キプチャク・ハン国)の諸勢力が抗争を繰り返すキプチャク草原へも遠征した。一方で、ティムールはヤシ(テュルキスタン)のホージャ・アフマド・ヤサヴィー廟など、巨大なモスクやマドラサ、宮殿、庭園、中央アジア各地の聖者廟や自らを含むティムール一門の廟墓など、現在にも残る巨大な建造物群の建設・増築を各地で進めた。モンゴルでありかつムスリムであるといういわゆる「チャガタイ人」と言う意識が、マー・ワラー・アンナフルのチャガタイ・ウルス系のアミール層に形成され、ティムール朝時代には『集史』再編纂やチャガタイ王侯貴族の間にもペルシア語文芸の愛好のみならず、自らの母語であるチャガタイ・トルコ語の文芸運動などの文化活動も新たに盛んになった。

ティムール死後の後継者争いを制して王位に就いたシャー・ルフはマー・ワラー・アンナフルの統治を長子のウルグ・ベクに委任し、自身は即位前からの領地であるホラーサーン地方のヘラートを本拠地とした[44]。ウルグ・ベクはヘラートの宮廷からの干渉をほとんど受けることは無く自由に政務を執り、内政・外政・学芸の保護に尽力する[45]1420年にサマルカンドに天文台が建設され、ウルグ・ベク時代のサマルカンドはイスラーム法に基づく厳格な統治が敷かれていたヘラートとは対照的に、ティムールの時代と同じように自由な空気が流れていた[46]。シャー・ルフの死後の王位を巡る混乱でティムール朝の領土は分裂し、アブー・サイードの子孫が支配するマー・ワラー・アンナフルの政権とフサイン・バイカラが支配するホラーサーンの政権が並立する[47]。アブー・サイード政権のマー・ワラー・アンナフルではスーフィー(イスラームの聖者)のホージャ・アフラールが指導するナクシュバンディー教団が強い影響力を持ち、ホージャ・アフラールの後継者は強大な政治力と経済力を相続した[48]

シャイバーニー朝以降(ウズベク系王朝時代)

遊牧民族のウズベク国家であるシャイバーニー朝ブハラ・ハン国)は1500年にサマルカンド、1507年にヘラートを占領し、ティムール朝は滅亡する。ムハンマド・シャイバーニー・ハンを始祖とするシャイバーニー朝は、ティムール朝で活発化したペルシア語、チャガタイ・トルコ語による文芸運動を積極的に吸収、継承した。首都となったサマルカンドやブハラはその発信地として繁栄し、その影響はモグーリスターン・ハン国にまで直接及び、現在の新疆ウイグル自治区の文化的な基盤を形成している。ブハラ・ハン国やヒヴァ・ハン国などのテュルク系遊牧民のウズベク国家が建設されたためにテュルク化がより進展し、かつてシル川以北の地域を指して使われた「トルキスタン(テュルクの住む場所)」が、シル川・アム川の間の地域も含むようになった[1]。「マー・ワラー・アンナフル」の語は地名として定着しており、ウズベク国家の成立後も史料では「マー・ワラー・アンナフル」が使われ続けられた[1]

16世紀末にシャイバーニー朝が断絶した後はアストラハン・ハン国ジャーン朝がブハラを首都として支配する。しかし、イランに成立した諸王朝との抗争のため、マー・ワラー・アンナフルの経済力の回復は難しかった[2]18世紀初頭に成立したコーカンド・ハン国ロシア帝国との交易で大きな利益を上げたが、19世紀に入るとウズベク系の三ハン国はロシア帝国の干渉を受けるようになる[49]1868年にブハラ・ハン国、1873年にヒヴァ・ハン国がロシアの支配を受け入れ、1876年にコーカンド・ハン国が征服される。1867年にマー・ワラー・アンナフルはロシアによって設置されたトルキスタン総督府の管轄化に置かれ、ロシア帝国の保護下に置かれながらも、1920年にブハラのマンギト朝の君主アーリム・ハーン、ヒヴァのイナク朝の君主サイード・アブドゥッラーソビエト連邦によって追放されるまで、マー・ワラー・アンナフルにはモンゴル系の政権が存続した。ロシア革命後の1924年に中央アジアで実施された民族・共和国境界画定によってマーワラー・アンナフルは各共和国に区画される[1]

脚注

  1. ^ a b c d e f g h i j k l 堀川「マー・ワラー・アンナフル」『中央ユーラシアを知る事典』、487頁
  2. ^ a b c d e f g 久保「マー・ワラー・アン=ナフル」『岩波イスラーム辞典』、939頁
  3. ^ 長沢『シルクロード』、173頁
  4. ^ a b c 間野「マー・ワラー・アンナフル」『新イスラム事典』、466頁
  5. ^ 川口『ティムール帝国』、116頁
  6. ^ a b c d 松田「マーワラー・アンナフル」『アジア歴史事典』8巻、381頁
  7. ^ 川口『ティムール帝国』、112-113頁
  8. ^ Transoxanien und Turkestan zu Beginn des 16. Jahrhunderts;: Das Mihman-nama-yi Buhara des Fadlallah b. Ruzbihan Hungi (Islamkundliche Untersuchungen)Fazl Allah ibn Ruzbahan (Author)
  9. ^ 川口『ティムール帝国』、116-117頁
  10. ^ 川口『ティムール帝国』、117頁
  11. ^ a b 川口『ティムール帝国』、115-116頁
  12. ^ 間野『中央アジアの歴史』、47頁
  13. ^ 川口『ティムール帝国』、115頁
  14. ^ a b c 吉田「中央アジアオアシス定住民の社会と文化」『中央アジア史』、43頁
  15. ^ 間野『中央アジアの歴史』、48頁
  16. ^ 長沢『シルクロード』、107-108,131頁
  17. ^ 間野『中央アジアの歴史』、51頁
  18. ^ 間野『中央アジアの歴史』、80頁
  19. ^ 間野『中央アジアの歴史』、87-88頁
  20. ^ 吉田「中央アジアオアシス定住民の社会と文化」『中央アジア史』、45頁
  21. ^ 長沢『シルクロード』、260-261頁
  22. ^ 長沢『シルクロード』、174-175頁
  23. ^ 長沢『シルクロード』、174-176頁
  24. ^ 長沢『シルクロード』、263-268頁
  25. ^ 吉田「中央アジアオアシス定住民の社会と文化」『中央アジア史』、49-50頁
  26. ^ 吉田「中央アジアオアシス定住民の社会と文化」『中央アジア史』、49頁
  27. ^ a b 間野『中央アジアの歴史』、114頁
  28. ^ 間野『中央アジアの歴史』、115-116頁
  29. ^ 長沢『シルクロード』、291頁
  30. ^ 長沢『シルクロード』、308-309頁
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  32. ^ 間野『中央アジアの歴史』、116頁
  33. ^ 長沢『シルクロード』、310頁
  34. ^ 梅村「中央アジアのトルコ化」『中央アジア史』、74-75頁
  35. ^ 吉田「中央アジアオアシス定住民の社会と文化」『中央アジア史』、44頁
  36. ^ 梅村「中央アジアのトルコ化」『中央アジア史』、81頁
  37. ^ 間野『中央アジアの歴史』、112頁
  38. ^ 加藤「「モンゴル帝国」と「チャガタイ・ハーン国」」『中央アジア史』、121-122頁
  39. ^ 加藤「「モンゴル帝国」と「チャガタイ・ハーン国」」『中央アジア史』、123-124頁
  40. ^ 加藤「「モンゴル帝国」と「チャガタイ・ハーン国」」『中央アジア史』、128-129頁
  41. ^ 加藤「「モンゴル帝国」と「チャガタイ・ハーン国」」『中央アジア史』、129頁
  42. ^ 久保「ティムール帝国」『中央アジア史』、132頁
  43. ^ 川口『ティムール帝国』、110頁
  44. ^ 久保「ティムール帝国」『中央アジア史』、140頁
  45. ^ 久保「ティムール帝国」『中央アジア史』、142頁
  46. ^ 久保「ティムール帝国」『中央アジア史』、142-143頁
  47. ^ 久保「ティムール帝国」『中央アジア史』、143-146頁
  48. ^ 久保「ティムール帝国」『中央アジア史』、145-146頁
  49. ^ 長沢『シルクロード』、390,420頁

参考文献

  • 梅村坦「中央アジアのトルコ化」『中央アジア史』収録(竺沙雅章監修、間野英二責任編集, アジアの歴史と文化8, 同朋舎, 1999年4月)
  • 加藤和秀「「モンゴル帝国」と「チャガタイ・ハーン国」」『中央アジア史』収録(竺沙雅章監修、間野英二責任編集, アジアの歴史と文化8, 同朋舎, 1999年4月)
  • 川口琢司『ティムール帝国』(講談社選書メチエ, 講談社, 2014年3月)
  • 久保一之「ティムール帝国」『中央アジア史』収録(竺沙雅章監修、間野英二責任編集, アジアの歴史と文化8, 同朋舎, 1999年4月)
  • 久保一之「マー・ワラー・アン=ナフル」『岩波イスラーム辞典』収録(岩波書店, 2002年2月)
  • 長沢和俊『シルクロード』(講談社学術文庫, 講談社, 1993年8月)
  • 堀川徹「マー・ワラー・アンナフル」『中央ユーラシアを知る事典』収録(平凡社, 2005年4月)
  • 松田壽男「マーワラー・アンナフル」『アジア歴史事典』8巻収録(平凡社, 1961年)
  • 間野英二『中央アジアの歴史』(講談社現代新書 新書東洋史8, 講談社, 1977年8月)
  • 間野英二「マー・ワラー・アンナフル」『新イスラム事典』収録(平凡社, 2002年3月)
  • 吉田豊「中央アジアオアシス定住民の社会と文化」『中央アジア史』収録(竺沙雅章監修、間野英二責任編集, アジアの歴史と文化8, 同朋舎, 1999年4月)

関連項目