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「エルンスト・レーム」の版間の差分

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'''エルンスト・ユリウス・レーム'''(Ernst Julius Röhm、[[1887年]][[11月28日]] - [[1934年]][[7月1日]])は[[ドイツ]]の[[軍人]]、[[政治家]]。[[第一次世界大戦]]後、[[ヴェルサイユ条約]]に反対して[[国家社会主義ドイツ労働者党|ナチ党]]の[[突撃隊]](SA)ほか多くの準軍事団体を組織したが、のちに路線の対立が原因で[[アドルフ・ヒトラー|ヒトラー]]によって[[粛清]]された。
'''エルンスト・ユリウス・レーム'''(Ernst Julius Röhm、[[1887年]][[11月28日]] - [[1934年]][[7月1日]])は[[ドイツ]]の[[軍人]]、[[政治家]]。[[第一次世界大戦]]後、[[ヴェルサイユ条約]]に反対して[[国家社会主義ドイツ労働者党|ナチ党]]の[[突撃隊]](SA)ほか多くの準軍事団体を組織した。[[1931年]]から突撃隊幕僚長になったが、のちに路線の対立が原因で[[アドルフ・ヒトラー|ヒトラー]]によって[[粛清]]された。


== 生涯 ==
== 生涯 ==
=== 軍人時代 ===
=== 前半生 ===
レームは1887年11月28日、[[ミュンヘン]]鉄道会社作業監督の子として生まれた[[1906年]]、ミュンヘンのマクシミアン=ギムナジウムを卒業したあとレームは、[[バイエルン王国|バイエルン]]第10歩兵連隊「ルートヴィヒ王子連隊」に入隊し、士官養成所で教育を受けて[[1908年]]、少尉となった
レームは1887年11月28日、[[ドイツ帝国]][[バイエルン王国]]首都[[ミュンヘン]]鉄道管理官公務員子として生まれた<ref name="LeMO">[http://www.dhm.de/lemo/html/biografien/RoehmErnst/index.html LeMO]</ref><ref name="桧山">桧山39頁</ref><ref name="ヴィストヒ316">ヴィストリヒ、316頁</ref>。レームはバイエルンの旧家だった<ref name="ヴィストリ316"/>


[[1906年]]にミュンヘンの[[マクシミリアン=ギムナジウム]]([[:de:Maximiliansgymnasium München|de]])を卒業したレームは、バイエルン第10歩兵連隊「皇太子ルートヴィヒ連隊("Prinz Ludwig")」に入隊した<ref name="LeMO"/>。[[1908年]]にはミュンヘン士官学校を出て[[少尉]]に任官した<ref name="LeMO"/>。
[[1914年]]、[[第一次世界大戦]]が勃発すると、レームは[[西部戦線 (第一次世界大戦)|西部戦線]]で大隊副官として従軍した後、[[1916年]]、バイエルン戦時省に一時勤務、司令部付き将校を経て第二師団司令部要員となった。大戦中にレームは3度重傷を負うなどして活躍、[[大尉|陸軍大尉]]まで昇進している。この時の負傷によってレームの頬と鼻には無頼漢らしい傷跡が残り、軍隊風の下品な言葉遣いとともに、後に大衆から恐怖と嫌悪の情を受ける要素になった。


=== 政治活動 ===
=== 第一次世界大戦 ===
[[1914年]]、[[第一次世界大戦]]が勃発すると、レームは[[西部戦線 (第一次世界大戦)|西部戦線]]で大隊副官として従軍した<ref name="LeMO"/>。[[1916年]]、[[バイエルン戦争省]]([[:de:Bayerisches Kriegsministerium|de]])に一時勤務した<ref name="LeMO"/>。1917年から1918年にかけて司令部付き将校を経て第二師団司令部要員となった<ref name="LeMO"/>。
戦後レームは治安維持の任務を持ったミュンヘン市防衛隊の指揮官となり、[[1919年]]の[[ドイツ革命|バイエルン革命]]では騎士[[フランツ・フォン・エップ]]将軍率いる[[ドイツ義勇軍|義勇軍]](フライコール)に参加して[[レーテ共和国]]打倒に尽力した。その後、この義勇軍はエップ旅団に改組されたが、レームはその指導部における将校として復員兵部門を掌握して武器の供給に努めた。[[ヴェルサイユ条約]]によってほとんどの武装は禁じられていたが、バイエルン政府はその禁止をかいくぐって秘密の武器庫を持っており、レームの指導の下に民兵や各種準軍事団体に装備が供給されていたのである。


大戦中にレームは3度も重傷を負っている<ref name="LeMO"/><ref name="ヴィストリヒ316"/>。その戦傷で彼の鼻の半分は吹き飛ばされて欠けており、また頬には貫通銃創の跡が残っていた。そのためレームは人懐っこい笑顔をよく見せながらも、まるで[[無頼漢]]のようなどすの利いた顔つきだった<ref name="桧山"/><ref name="ヴィストリヒ316"/><ref name="トーランド111">トーランド、上巻111頁</ref>。
1919年、レームは[[ドイツ労働者党]]に入党し、ヒトラーと出会っている。翌年の[[国家社会主義ドイツ労働者党]]への改称に際しても彼を応援し、最初期のヒトラー支持者となった。二人の関係はずっと後になってもこの頃の同志的連帯感を保っており、レームはヒトラーに向かって「おまえ(Du)」と呼ぶことのできる唯一の党員であった。[[1921年]]には国防軍ミュンヘン司令部に招聘されてますますバイエルン右翼団体への影響力を増した。[[1922年]]の後半頃にはバイエルン州の国防軍、民間軍事団体に対する指導的な地位に立っていた<ref>村瀬、ナチズム、112p</ref>。ナチ党の半武装組織突撃隊もその一つであり、突撃隊は実質的にレームの指揮下にあった。しかし12月には第7師団参謀本部付となり、エップの庇護を受けられなくなったレームの影響力は低下した。[[1923年]]、今まで所属していた軍事団体[[国旗団 (ドイツ義勇軍)|国旗団]]([[:de:Wehrverband Reichsflagge|Wehrverband Reichsflagge]])が、[[グスタフ・フォン・カール]]の州政府を支持するようになったため、自ら[[帝国戦闘旗団]]([[:de:Bund Reichskriegsflagge|Bund Reichskriegsflagge]])を結成し、国旗団から離脱した。10月に発生した[[ミュンヘン一揆]]には帝国戦闘旗団を率いて加わるが失敗、レームは逮捕され、禁錮1年3ヶ月を宣告された。


階級は[[大尉|陸軍大尉]]まで昇進している<ref name="LeMO"/>。また[[一級鉄十字章]]、[[二級鉄十字章]]、[[戦傷章]]金章を受章した<ref name="Axis">[http://www.geocities.com/~orion47/ Axis Biographical Research]の"STURMABTEILUNG (SA)"の項目</ref>。
レームはすぐに釈放され、[[1924年]][[5月4日]]の[[ドイツ国会1924年選挙 (5月)|国会議員選挙]]では[[国家社会主義自由党]]から立候補して当選している。さらに解散させられた義勇軍や突撃隊の兵士を組織し、半軍事団体フロントリング(後にフロントバン([[:de:Frontbann]])を結成した。同年12月にヒトラーは釈放され、[[1925年]]にはナチ党の再結成が許可された。これに伴ってフロントバンはナチ党の傘下に入ることになったが、4月16日にレームはフロントバンの指揮権を確認する書簡をヒトラーに送った。しかし党内の掌握を目指すヒトラーに黙殺され、立場を失ったレームは政治からの引退を表明し、[[軍事顧問]]を必要とする[[ボリビア]]政府の招聘に応じて南米に渡った。


終戦時には[[インゴルシュタット]]第11歩兵旅団司令部副官を務めていた<ref name="桧山"/>。
=== 突撃隊の組織から粛清まで ===
[[File:Bundesarchiv Bild 146-1982-159-21A, Nürnberg, Reichsparteitag, Hitler und Röhm.jpg|200px|thumb|ヒトラー(左)と]]
[[1930年]][[11月1日]]、帰国したレームは再入党し、翌[[1931年]]1月からヒトラーの求めに応じて突撃隊の刷新を引き受けた。しかしこれは党機構と突撃隊の権力闘争の始まりに過ぎなかった。レームの目指したのは戦闘力のある巨大組織だったからである。[[世界恐慌]]のあおりを受けて失業者や古参兵などは募集に殺到し、激しさを増す対立政党との街頭闘争に従事した。これら隊員のうち特に革命的な分子はヒトラーの合法路線に対してあからさまに非難を示すようになっていく。また、レーム自身も「[[第二革命]]」を主張し、ドイツを変革する思想を持っていた。


=== 義勇軍参加とレーテ共和国打倒 ===
[[1933年]][[1月30日]]には[[ヒトラー内閣]]が発足した。同年12月1日、レームは無任所相兼バイエルン州首相として入閣したが、彼の目指す第二革命とそれによる突撃隊250万を中核とした新国防軍構想は、[[パウル・フォン・ヒンデンブルク|ヒンデンブルク]]大統領を始めとする保守層・国防軍・そして党幹部の反発を招いた。また、彼が有名な[[同性愛]]者だったこともあって[[親衛隊 (ナチス)|親衛隊]]を中心にレーム粛清の要望が高まった。
終戦後、ミュンヘンのバイエルン軍総司令部([[:de:Stadtkommandantur München|de]])の政治保安部で参謀長を務めた<ref name="LeMO"/>。[[1919年]]4月にミュンヘンで[[赤色革命]]が発生した。[[ドイツ社会民主党]](SPD)の[[ヨハネス・ホフマン]]政権は[[バンベルク]]に追われ、[[ソ連]]赤化工作員や[[ドイツ共産党]]によって[[社会主義]]政権[[レーテ共和国]]が樹立された<ref name="阿部52-53">阿部、52-53頁</ref>。[[4月14日]]にホフマン政権はバイエルン住民に対して[[ドイツ義勇軍|義勇軍(フライコール)]]を結成し、レーテ共和国と闘うことを呼びかけた。この呼びかけによりバイエルンでは[[フランツ・フォン・エップ]]大佐率いる「義勇軍エップ」、[[トゥーレ協会]]が組織した「オーベルラント義勇軍」([[:de:Freikorps Oberland|de]])、バイエルン州森林監督官[[ゲオルク・エシェリヒ]]([[:de:Georg Escherich|de]])率いる「郷土軍」([[:de:Einwohnerwehr|de]])といった義勇軍が次々と編成された<ref name="桧山41">桧山、41頁</ref>。


レームも義勇軍に参加するためミュンヘンを離れ、[[オーレンドルフ]]へ移り、同地に司令部をおいていた「義勇軍エップ」に参加した<ref name="桧山41"/>。レームはエップからエップ義勇軍のIb部(装備と兵站担当)部長に任じられ、ここで抜群の組織能力を発揮した<ref name="桧山41"/><ref name="ヘーネ23">ヘーネ、23頁</ref>。[[5月1日]]から3日にかけてエップ義勇軍を含む義勇軍6万人がミュンヘンに攻めのぼり、レーテ共和国を壊滅させた<ref name="阿部54">阿部、54頁</ref>。

=== 第7軍管区司令部で義勇軍の編成と維持の任務 ===
ミュンヘンを占領した義勇軍は[[ヴァイマル共和国軍|国軍]]第7軍管区司令部を名乗り、軍の再編成を開始した。その中でレームは都市司令部兵站部長に任命され、義勇軍と郷土軍の強化する任務を与えられた<ref name="桧山41"/>。

1919年6月28日に[[ヴェルサイユ条約]]が締結され、ドイツ軍の陸軍兵力は10万人に限定された。重火器、戦車、航空機、潜水艦の所持は禁止された<ref name="阿部57">阿部、57頁</ref><ref name="桧山42">桧山、42頁</ref>。この兵力不足を補うために[[ベルリン]]の国防省もバイエルンの第7軍管区司令部も民間の準軍事組織の育成・強化に力を入れるようになった<ref name="桧山42"/>。レームは大量の武器をかき集め、秘密の武器庫に保管し<ref name="ヘーネ25">ヘーネ、25頁</ref>、これを義勇軍や郷土軍に供給した。1919年に「鉄拳団」(Eisernen Faust)で[[アドルフ・ヒトラー]]とはじめて出会った<ref name="トーランド111"/>。同年、ミュンヘンの右翼政党[[ドイツ労働者党]](DAP)に入党<ref name="LeMO"/>。

ベルリンの[[カップ一揆]]に触発されて、1920年3月13日にバイエルンで[[グスタフ・フォン・カール]]、郷土軍司令官ゲオルク・エシェリヒ、ミュンヘン警視総監[[エルンスト・ペーナー]]([[:de:Ernst Pöhner|de]])らによるホフマン社民党政権打倒の無血クーデタがあったが、レームもこれに参加している。この無血クーデタによってバイエルンに右翼的なカール政権が誕生した<ref name="桧山43">桧山、43頁</ref>。

カップ一揆が失敗に終わった後、1920年から1921年にかけて[[ヘルマン・ミュラー]]内閣や[[ヨーゼフ・ヴィルト]]内閣は[[ヴェルサイユ条約]]の遵守のために義勇軍や郷土軍に解散命令を出したが、バイエルン州のカール政府は当初この解散命令を無視した。だがドイツ内外からの圧力は激しく、カール政府も1921年6月28日には解散に同意した。レームはもちろん義勇軍解散に反対の立場であり、自分が編成した義勇軍をなんとか存続させる道を模索した<ref name="桧山43">桧山、43頁</ref>。

解雇された義勇軍・郷土軍兵士を集めて、[[ニュルンベルク]]市に「帝国旗団」([[:de:Wehrverband Reichsflagge|Wehrverband Reichsflagge]])、[[ニーダーバイエルン]]に「ニーダーバイエルン闘争団」を創設し、義勇軍の維持を図った<ref name="桧山43"/>。ドイツ労働者党の党首にヒトラーが就任するのを支援し、ヒトラーに要請して[[突撃隊]]司令官に旧[[エアハルト海兵旅団]]から生まれた右翼テロ組織「[[コンスル (テロ組織)|コンスル]]」のメンバーである[[ハンス・ウルリヒ・クリンチェ]]([[:de:Hans Ulrich Klintzsch|de]])元海軍少尉を付けた<ref name="阿部良男80">阿部良男、80p</ref><ref name="桧山45">桧山、45頁</ref>。レームとクリンチェは突撃隊にも続々と義勇軍を送り込んだ<ref name="桧山46">桧山、46頁</ref>。

当時のレームはバイエルンの右翼団体をすべて軍事化して国軍第7軍に組み込み、ベルリン進軍を行うという雄大な計画を持っていたという<ref name="桧山44">桧山、44頁</ref>。レームは1923年3月に[[突撃隊]]を第7軍の指揮下に組み込んだ<ref name="桧山49">桧山、49頁</ref>。

1923年8月13日に[[グスタフ・シュトレーゼマン]]内閣が誕生。シュトレーゼマンは、これまで政府が取ってきたフランス軍ルール地方占領への「受動的抵抗」路線を放棄し、西欧列強との関係回復を目指した。右翼勢力や極左勢力(共産党)によるシュトレーゼマン批判が起こった<ref name="阿部96">阿部、96頁</ref>。ナチ党を含むバイエルン右翼たちの間ではベルリン進軍を望む声が高まった。1923年9月26日にレームは第7軍管区司令部に除隊願いを出して軍を退役し、ヒトラーの下にはせ参じた<ref name="阿部99">阿部、99頁</ref>。

<!-- {{要出典範囲|[[1923年]]に[[国旗団 (ドイツ義勇軍)|国旗団]]([[:de:Wehrverband Reichsflagge|Wehrverband Reichsflagge]])が、[[グスタフ・フォン・カール]]の州政府を支持するようになったため、自ら[[帝国戦闘旗団]]([[:de:Bund Reichskriegsflagge|Bund Reichskriegsflagge]])を結成し、国旗団から離脱した。}}-->
=== ミュンヘン一揆 ===
[[File:Bundesarchiv Bild 102-00344A, München, nach Hitler-Ludendorff Prozess.jpg|250px|thumb|1924年4月1日、ミュンヘン一揆裁判判決の日の記念写真。右から二人目がレーム大尉。中央は[[エーリヒ・ルーデンドルフ|ルーデンドルフ]]将軍。その右は[[アドルフ・ヒトラー|ヒトラー]]。]]
1923年11月8日夜から9日にかけて、バイエルン州総督[[グスタフ・フォン・カール]]にベルリン進軍を促すため、[[アドルフ・ヒトラー]]や[[エーリヒ・ルーデンドルフ]]将軍とともに[[ミュンヘン一揆]]を起こした。レームは「帝国軍旗団」([[:de:Bund Reichskriegsflagge|Bund Reichskriegsflagge]])や「ミュンヘン闘争団」、突撃隊の一部を率いてバイエルン戦争省の軍司令部を制圧した<ref name="桧山77">桧山、77頁</ref><ref name="ヘーネ28">ヘーネ、28頁</ref>。ついで都市司令部の制圧に向かったが、当直将校に追い返されてしまった<ref name="桧山77">桧山、77頁</ref>。

11月9日朝、ヒトラーとルーデンドルフがオデオン広場へ行進を開始。バイエルン州警官隊の銃撃を受け、一揆勢は総崩れとなった。軍司令部を占拠していたレームたちもこれを聞き、午後2時頃に鎮圧軍に投降した<ref name="桧山81">桧山、81頁</ref>。

1924年2月26日からヒトラーやルーデンドルフらとともに「ミュンヘン人民法廷」にかけられた。4月1日の判決でレームは1年3カ月の禁固刑に処されたが、すぐに仮釈放となった。[[ランツベルク刑務所]]に入る事になったヒトラーはレームに[[突撃隊]]の総指揮を委任した<ref name="阿部110">阿部、110頁</ref>。

=== ミュンヘン一揆後のナチ党禁止命令中の活動 ===
ミュンヘン一揆の失敗でナチ党も突撃隊も解散させられた。レームは突撃隊の再建のためにはルーデンドルフの名声が必要不可欠と考えていた。そのためレームは、ルーデンドルフが賓客になっていた[[ドイツ民族自由党]]とナチ党残党勢力の合同政党「[[民族主義=社会主義ブロック]]」(後に[[国家社会主義自由運動]]に改組)からの国会議員選挙への出馬要請を喜んで受けた。レームは[[1924年]][[5月4日]]の[[ドイツ国会1924年選挙 (5月)|国会議員選挙]]で当選を果たした<ref name="桧山85">桧山、85頁</ref>。

5月31日に[[ザルツブルク]]にかつての突撃隊幹部を招集し、ミュンヘンに本部を置く準軍事組織「[[フロントバン]]」([[:de:Frontbann]])の結成を命じた<ref name="桧山85-86">桧山、85-86頁</ref><ref name="阿部112">阿部、112頁</ref>。8月28日にフロントバン設立大会を開き、同組織はヒトラー、ルーデンドルフ、[[アルブレヒト・フォン・グラーフェ]](ドイツ民族自由党党首)の三人に忠誠を誓うものとした<ref name="阿部115">阿部、115頁</ref>。フロンバンの隊員は義勇軍からかき集められ、隊員数は3万人にも上った(対して突撃隊はミュンヘン一揆の際にせいぜい3000人程度の規模だった)<ref name="桧山90">桧山、90頁</ref>。

6月12日には「民族主義=社会主義ブロック」が「[[国家社会主義自由運動]]」に改組された。国家社会主義自由運動の全国執行部はルーデンドルフ将軍とグラーフェと[[グレゴール・シュトラッサー]]の三人で構成された<ref name="桧山86">桧山、86頁</ref>。しかしこの組織の宣伝と組織活動は主としてシュトラッサーとレームで担当していた<ref name="桧山87">桧山、87頁</ref>。

ヒトラーの仮釈放はバイエルン州法相[[フランツ・ギュルトナー]]やミュンヘン警視総監ペーナーら国粋主義者たちの尽力によって1924年10月1日に予定されていたが、レームのフロントバン活動が弁護士会に危険視され、弁護士会からの抗議により、12月20日まで伸ばされた<ref name="モムゼン292">モムゼン、292頁</ref>。

=== ヒトラーと一時袂を分かつ ===
1924年12月20日にヒトラーはランツベルク刑務所を仮釈放された<ref name="阿部117">阿部、117頁</ref>。[[1925年]][[1月4日]]にヒトラーはバイエルン州法相ギュルトナーの仲介によってバイエルン州首相[[ハインリヒ・ヘルト]]と会談し、二度と非合法活動を行わない事や共産主義者に対する闘いに協力する事を条件にナチ党禁止命令解除の約束を得た<ref name="阿部121">阿部、121頁</ref><ref name="桧山91">桧山、91頁</ref><ref name="モムゼン293">モムゼン、293頁</ref>。

ヒトラーはルーデンドルフや[[ドイツ民族自由党]]と袂を分かち、1925年[[2月27日]]に「[[ビュルガーブロイケラー]]」においてナチ党再結党式を行った。ルーデンドルフの下で働いてきたレームはこの再結党式に出席を見合わせている<ref name="阿部122">阿部、122頁</ref><ref name="プリダム51">プリダム、51頁</ref>。

レームはヒトラーとルーデンドルフの和解を求めており、またフロントバンや突撃隊をナチ党から独立した準軍事組織(国軍補助兵力)にしたがっていた<ref name="桧山102-103">桧山、102-103頁</ref>。しかしヒトラーはこれを認めず、両者は最終的に4月16日から17日にかけての会談で決裂し、レームはフロントバン司令官職と突撃隊司令官職を辞した<ref name="阿部125">阿部、125頁</ref>。4月30日にはヒトラーに友情を確認する手紙を書いたが、ヒトラーからは無視された。結局レームは政界からの引退を宣言した<ref name="阿部126">阿部、126頁</ref>。

1928年には[[軍事顧問]]を必要とする[[ボリビア]]政府の招聘に応じて南米に渡った<ref name="阿部125"/><ref name="LeMO"/>。レームはヒトラーと別れる時、「お前はいつか俺を必要とするだろう。その日が来たら朝6時に凱旋門へ来い。そこには俺もいるはずだ。」と述べて去っていった<ref name="ヘーネ74">ヘーネ、74頁</ref>。

=== 突撃隊幕僚長 ===
[[File:Bundesarchiv Bild 102-12258, Gera, Adolf Hitler beim Hitlertag.jpg|250px|thumb|1931年9月、突撃隊員を閲兵するヒトラーとレーム]]
[[1930年]]8月、[[突撃隊最高指導者]](Obersten SA-Führer)[[フランツ・プフェファー・フォン・ザロモン]]は、1930年[[9月4日]]に行われる[[ドイツ国会1930年選挙|国会選挙]]の候補者名簿に突撃隊員をもっと加えるようヒトラーに要求し、ヒトラーと対立を深めた。結局ザロモンは1930年8月12日に突撃隊最高指導者を辞した<ref name="阿部168">阿部、168頁</ref>。さらにベルリン東部地区突撃隊副司令官[[ヴァルター・シュテンネス]]([[:de:Walther Stennes|de]])が党指導部に対して反乱を起こすなど突撃隊を巡る情勢は不穏になった<ref name="阿部169">阿部、169頁</ref><ref>ヘーネ、73-74頁</ref>。

ヒトラーは自らが突撃隊最高指導者に就任したが、この状況で突撃隊を抑えられる人物は一人しか思いつかなかった。ただちにボリビアのレームと連絡を取り、突撃隊幕僚長職を受けてほしいと打診した<ref name="阿部169">阿部、169頁</ref>。レームは了承し、[[1930年]][[11月1日]]にドイツに帰国し、ナチ党に再入党した<ref name="LeMO"/>。そして[[1931年]][[1月5日]]に正式に[[突撃隊幕僚長]](Stabschef der SA)に就任した<ref name="阿部174">阿部、174頁</ref><ref name="桧山159">桧山、159頁</ref>。

レームは突撃隊員が反乱を起こしてもすぐさま鎮圧できるよう1931年春に突撃隊の中央集権化をすすめる組織改革を行った<ref name="ヘーネ74">ヘーネ、74頁</ref><ref name="桧山159">桧山、159頁</ref>。

1931年4月のシュテンネスの再反乱でシュテンネス一派1万人が党と突撃隊を去ることとなった<ref name="桧山164">桧山、164頁</ref>。しかしながら[[世界恐慌]]の影響で巷には失業者があふれかえっており、彼らは[[反資本主義]]的な政治的急進派となって、ナチ党や突撃隊に続々と参加した。1930年には7万人だった突撃隊隊員数は1931年末には17万人、ナチ党政権掌握直前には70万人に達した<ref name="ヴィストリヒ316">ヴィストリヒ、316頁</ref><ref name="桧山277">桧山、277頁</ref>。そのため突撃隊はますます過激化し、隊員達はヒトラーの「合法路線」にしびれを切らして、武装蜂起を求めるようになった。レームも隊員の不満を抑えるためにこうした声を代弁するようになり、1931年末にはヒトラーに武装蜂起を進言している<ref name="桧山190">桧山、190頁</ref>。

突撃隊員の街頭などでの暴力活動が増えたため、1932年4月13日に[[ハインリヒ・ブリューニング]]首相や[[ヴィルヘルム・グレーナー]]内相の進言により[[パウル・フォン・ヒンデンブルク]]大統領が突撃隊と[[親衛隊 (ナチス)|親衛隊]]の禁止命令を出した<ref name="阿部194">阿部、194頁</ref>。5月8日にヒトラーとレームは、ナチス弾圧の命令に反対していた大統領側近[[クルト・フォン・シュライヒャー]]将軍と面会し、ブリューニングとグレーナーの失脚工作について話し合った<ref name="阿部195">阿部、195頁</ref>。シュライヒャーとナチ党は5月13日にグレーナーを辞職させ、つづいて5月30日にはブリューニング内閣を総辞職に追い込んだ<ref>阿部、195-196頁</ref>。その後、シュライヒャーの推薦によって首相に就任した[[フランツ・フォン・パーペン]]は6月16日に突撃隊と親衛隊の禁止令を解除した<ref name="阿部197">阿部、197頁</ref>。

=== ナチ党政権獲得後 ===
[[File:Bundesarchiv Bild 146-1982-159-22A, Nürnberg, Reichsparteitag, Hitler und Röhm.jpg|200px|thumb|1933年8月に[[ニュルンベルク]]で行われた[[ナチ党党大会]]。ヒトラーとレーム。]]
[[1933年]][[1月30日]]に[[ヒトラー内閣]]が発足したが、[[ヴァイマル共和国軍|国軍]]への配慮のためかレームには閣僚職は与えられなかった。

1933年3月5日に行われた[[ドイツ国会1933年選挙 (3月)|国会議員選挙]]でナチ党は44.1%を得票し、ナチ党の連立与党[[ドイツ国家人民党|国家人民党]]と合わせて過半数を得た。ナチ党政権は、この選挙結果はナチ党が国民の信任を受けている証拠として、ナチ党が参加していない州政府は民意を反映していないので退陣すべきと主張し、各州に対する介入を開始した<ref name="桧山262">桧山、262頁</ref>。

しかしバイエルン州首相[[ハインリヒ・ヘルト]]はナチ党中央政府の介入に反抗した。そのため3月9日にレームは、[[フランツ・フォン・エップ|エップ]]や[[アドルフ・ヴァーグナー|ヴァーグナー]]、[[ハインリヒ・ヒムラー|ヒムラー]]らとともにヘルト政府の解体にあたった<ref name="プリダム356">プリダム、355-359頁</ref><ref name="桧山262">桧山、262-263頁</ref>。翌3月10日、バイエルン州の[[国家弁務官]]となったエップよりレームは州委員に任命された<ref name="プリダム359">プリダム、359頁</ref><ref name="桧山263">桧山、263頁</ref>。

レームは3月12日にバイエルンの7つの群知事庁に治安維持と政敵排除に責任を負う「突撃隊最高指導部特別委員」を設置させ、彼らの指揮下に突撃隊を補助警察官として採用した<ref name="桧山263・276">桧山、263・276頁</ref>。レームはこの制度を他の州にも導入させようと図り、5月に[[プロイセン州]]で導入され、その後他の州も続々と導入した。突撃隊員達は補助警察官としてドイツ各地で政敵を予防検束していった<ref name="桧山263">桧山、263頁</ref>。

しかしヒトラーも、ドイツ内相[[ヴィルヘルム・フリック]]も、プロイセン州首相・内相[[ヘルマン・ゲーリング]]も突撃隊に警察権限を認めることには反対だった。ゲーリングは1933年8月には補助警官隊に解散を命じ、他の州も続々とゲーリングに倣って補助警官隊を解散させた。ごく一部の突撃隊員が正規の警察官として採用されたが、他の大多数の突撃隊員は補助警察官として支給されていた給料を切られ、失業者に戻された。そのため突撃隊の不満が高まり、彼らは「[[第二革命]]」を叫ぶようになり、1933年8月以降にはドイツ各地で暴動を起こすようになった<ref name="桧山277">桧山、277頁</ref>。

突撃隊員の声を代弁するレームも公然と「第二革命」を唱え、ヒトラーの革命終了宣言に抵抗した。レームは9月1日にバイエルンの突撃隊最高指導部特別委員制度を廃止し、かわりにバイエルン州政府に突撃隊特別全権官、群政府に突撃隊特別委任官を置いた。彼らの任務は「国家社会主義革命による発展が続けられているかを官庁と協力しながら監視する」ことであった。これによって地方行政機関を第二革命に動かそうとしたのだった。10月にはゲーリングの支配するプロイセン州にも突撃隊特別全権官の設置を認めさせた。ゲーリングは突撃隊政治部長[[ゲオルク・フォン・デッテン]]([[:de:Georg von Detten (SA-Führer)|de]])から[[国会議事堂放火事件]]の真相を暴露すると強請られて渋々認めたという。各州もプロイセン州に倣って突撃隊特別全権官の設置を認めた。結果、突撃隊特別全権官による行政への横やりや命令無視が横行し、ヒトラー政権は早晩崩壊するだろうという噂がたった<ref name="桧山278">桧山、278頁</ref>。

[[File:RhoemSpreti.jpg|250px|thumb|無任所相に任命された直後のレーム。左は[[フランツ・フォン・シュテファニー]]([[:de:Franz von Stephani|de]])。右は[[カール・エルンスト]]。]]
ヒトラーは突撃隊特別全権官と州政府を少しでも一体化させるため、1933年[[12月1日]]に「[[党と州の統一のための法律]]」([[:de:Gesetz zur Sicherung der Einheit von Partei und Staat|de]])を成立させるとともにエルンスト・レームを無任所相に任じた<ref name="桧山279">桧山、279頁</ref><ref name="阿部258">阿部、258頁</ref><ref name="フライ21">フライ、21頁</ref>。ゲーリングは[[12月15日]]に「プロイセン州市町村制度法」を導入して市町村の地方評議会メンバーを25歳以上に限定すると定めることで25歳以下未満の若者がほとんどを占める突撃隊員をプロイセンの地方自治から締め出した<ref name="桧山280">桧山、280頁</ref><ref name="阿部260">阿部、260頁</ref>。

ドイツの[[国際連盟]]脱退によって[[ポーランド]]と[[フランス]]がドイツへ侵攻してくるのではないかという危機感がドイツで高まり、再軍備問題が関心を集めるようになると、レームは[[1934年]][[1月15日]]に突撃隊特別全権官の任務を「反国家的陰謀との闘争」に限定させるなど第二革命問題で一定の譲歩の姿勢を見せるようになったが、代わりに再軍備問題に関連して突撃隊をドイツの正規軍にするという野望を本格的に抱くようになった。突撃隊を正規軍にすることができれば突撃隊員の失業問題は大きく改善し、第二革命など起こす必要はなくなるため、レームは第二革命より突撃隊正規軍化に力を入れるようになった<ref name="桧山280">桧山、280頁</ref>。

=== 軍との軋轢 ===
レームの軍事的野心は正規軍である[[ヴァイマル共和国軍|国軍]]と軋轢を生んだ<ref name="フライ18">フライ、18頁</ref>。

もともとレームは、貴族が幹部を占める今の正規軍[[ヴァイマル共和国軍|「国軍(Reichswehr)」]]では、[[ヴェルサイユ条約]]を打破して[[再軍備]]がかなったとしても結局、旧[[プロイセン王国]]的な旧式軍隊にしかならず、近代戦争に対応できる軍隊にはならないと考えていた。彼が理想とするのは[[国民軍]]の形態であった<ref name="ヘーネ100">ヘーネ、100頁</ref>。突撃隊は5つの突撃隊上級集団(軍隊の「[[軍団]]」に相当)と18の突撃隊集団(「[[師団]]」相当)で構成され、国軍の5倍にあたる兵力を保持し、軍隊と同等の規律を有し、その指揮官達は元将校たちで占められていた。いつでも国軍(Reichswehr)に取って代わることができる状態であった<ref name="ヘーネ101">ヘーネ、101頁</ref>。

軍と突撃隊は1933年5月に協定を結んでおり、突撃隊と親衛隊と[[鉄兜団]]は国防省の管轄に入ることになっていた。国軍からのスタッフの手も借りて[[フリードリヒ・ヴィルヘルム・クリューガー]][[突撃隊大将]]の下に突撃隊員の訓練が行われ、国軍に送りだしていた。しかしやがてレームは東部国境守備隊の指揮権を要求しまたその武器庫を管理下に置こうとし、軍と対立を深めていた<ref name="ヘーネ102">ヘーネ、102頁</ref>。

一方ヒトラーは国軍をもって再軍備を行うことを決めており、レームの国民軍構想を厳しくはねつけていた<ref name="フライ27">フライ、27頁</ref>。1934年2月28日にはヒトラー立ち会いのもとに国防相[[ヴェルナー・フォン・ブロンベルク]][[上級大将]]以下国防省の幹部とレーム以下突撃隊の幹部が会談した。ヒトラーの希望で両者は国軍がドイツ唯一の国防兵力と認め、突撃隊は準国軍としての役割に徹し、訓練などを主任務とすることで合意した。しかし会談後にレームは「あのふざけた伍長の言う事に何の意味がある。俺はこんな協定全く守る気はない。ヒトラーのような裏切り者は追い出さねば駄目だ。奴を排除した後、我々が権力を握るのだ。」と吐き捨てたという<ref name="ヘーネ103">ヘーネ、103頁</ref><ref name="阿部267">阿部、267頁</ref><ref name="トーランド上375">トーランド、上巻375頁</ref>。

=== 長いナイフの夜 ===
[[File:Bundesarchiv Bild 102-14886, Kurt Daluege, Heinrich Himmler, Ernst Röhm.jpg|250px|thumb|左から[[クルト・ダリューゲ|ダリューゲ]]、[[ハインリヒ・ヒムラー|ヒムラー]]、レーム]]
{{main|長いナイフの夜}}
{{main|長いナイフの夜}}
国軍軍務局長[[ヴァルター・フォン・ライヒェナウ]][[少将]]と[[親衛隊 (ナチス)|親衛隊]][[SD (ナチス)|SD]]長官[[ラインハルト・ハイドリヒ]][[親衛隊少将]]は突撃隊の排除のために連絡を取り合っていた。ハイドリヒはレームとその一派全員の抹殺を決意していた。彼は[[親衛隊全国指導者]][[ハインリヒ・ヒムラー]]を説き伏せてレームの粛清を決意させた。親衛隊はプロイセン州首相[[ヘルマン・ゲーリング]]と連携してレーム抹殺計画を進めた<ref name="ヘーネ104">ヘーネ、104頁</ref><ref name="トーランド上376">トーランド、上巻376頁</ref>。ゲーリングにとってレームはプロイセンにおける警察権力、および国防軍総司令官の地位をめぐっての脅威であった<ref name="ヘーネ105">ヘーネ、105頁</ref>。
[[1934年]]6月、突撃隊が反乱を起こすというデマが流れ、ヒトラーはこれをきっかけに突撃隊幹部の粛清を決意、突撃隊指導部に一ヶ月の休暇を取らせた後保養地バート=ヴィースゼーに召集した。突撃隊幹部は疑うこともなく召集に応じ、[[6月30日]]親衛隊によって一斉に捕えられた。「[[長いナイフの夜]]」と呼ばれるこの粛清によって200人以上の突撃隊幹部、ナチ党の政敵、党内の反ヒトラー分子らが捕えられて法的手続きを経ることなく処刑されている。粛清された人物にはミュンヘン一揆を鎮圧した騎士[[グスタフ・フォン・カール]]元バイエルン州総督や[[ナチス左派]]の元指導者[[グレゴール・シュトラッサー]]、陸軍中将[[クルト・フォン・シュライヒャー]]元首相などがいる。


突撃隊問題に曖昧な態度をとるヒトラーに粛清を決意させるため、ヒムラー、ハイドリヒ、ゲーリングらは突撃隊の「武装蜂起計画」をでっち上げることにした。1934年4月下旬から5月末にかけてハイドリヒはレームと突撃隊の「武装蜂起」の証拠の収集・偽造を行った<ref name="ヘーネ105">ヘーネ、105頁</ref><ref name="桧山292">桧山、292頁</ref>。
レームは1934年[[7月1日]]、ミュンヘンのシュターデルハイム刑務所(Stadelheim Prison)に監禁され、親衛隊はレームに拳銃を渡し自殺を強要した。最後の言葉は'''「わが総統よ…'''(meine Führer...)」<ref>meineは女性形の所有代名詞</ref>であった。これによって親衛隊の超法規的措置の前例が生まれ、また国防軍はナチスに対して完全な協力を約束することになった。男色、乱暴、酒乱など評判の悪かった突撃隊幹部の粛清に市民の反応は冷静で、ニュースはおおむね好感をもって伝えられた。

そして[[1934年]]6月はじめ頃からそれらがばら撒かれて、突撃隊「武装蜂起」の噂が流れた。この噂を重く受け止めた大統領[[パウル・フォン・ヒンデンブルク]]と国防相[[ヴェルナー・フォン・ブロンベルク]]は、1934年6月21日に首相ヒトラーに対し、もし突撃隊問題が解決できないならヒトラーの権限を陸軍に移して代わりに処置させると通告した。この通告によりヒトラーは粛清を実行するしかなくなった。またこの頃すでにヒンデンブルクの死が近いことは明らかだった。ヒンデンブルクの死後、ヒトラーは軍に忠誠を誓わせねばならず、そのためには軍が望むレーム以下突撃隊幹部の粛清が必要だった。ヒトラーはこの日に突撃隊の粛清を決意したという<ref name="阿部274">阿部、274頁</ref><ref name="ヘーネ111">ヘーネ、111頁</ref>。

6月28日にヒトラーは[[リューマチ]]療養でバイエルン州[[バート・ヴィースゼー]]([[:de:Bad Wiessee|de]])にいたレームと連絡を取り、そちらで6月30日に会議を行いたいので突撃隊幹部を集めて置くようにと指示した。突撃隊幹部は疑うこともなく召集に応じた。[[6月30日]]午前6時30分頃、ヒトラーはバイエルン州バート。ヴィースゼーにあるレーム達が就寝中の突撃隊保養クラブ「ハンゼルバウアー」に押し入った<ref name="阿部275">阿部、275頁</ref><ref name="フライ33">フライ、33頁</ref><ref name="ヘーネ120">ヘーネ、120頁</ref>。ヒトラーはレームに拳銃を突きつけ、「エルンスト、きみを逮捕する」と述べた。この時ヒトラーは親しみをこめた「きみ(Du)」の二人称を使っている。レームは反逆を否定したが、ヒトラーは服を着るよう命じてすぐに部屋を出ていった<ref name="トーランド上385">トーランド、上巻385頁</ref>。

逮捕された他の突撃隊幹部たちとともにミュンヘンの[[シュターデルハイム刑務所]]([[:de:Justizvollzugsanstalt München|de]])に移送された。ヒトラーの命令により6月30日のうちにシュターデルハイム刑務所に入れられた突撃隊幹部のうち、[[突撃隊大将]][[エドムント・ハイネス]]、[[突撃隊大将]][[アウグスト・シュナイトフーバー]]、[[突撃隊中将]][[ペーター・フォン・ハイデブレック]]、[[突撃隊中将]][[ヴィルヘルム・シュミット]]([[:de:Wilhelm Schmid (SA-Mitglied)|de]])、[[突撃隊中将]][[ハンス・ハイン]]([[:de:Hans Hayn|de]])、[[突撃隊大佐]][[ハンス・フォン・シュプレーティ=ヴァイルバッハ]]伯爵の6名が銃殺された。しかしヒトラーはレームについてはこの日処刑を見送っている<ref name="ヘーネ124">ヘーネ、124頁</ref>。ヒトラーはミュンヘンを発つ際に「レームは彼の功績に免じて許した」と述べた<ref name="ヘーネ124">ヘーネ、124頁</ref>。

=== 処刑 ===
しかしベルリンに戻った後、ヒトラーのレームを助命しようという意志は、7月1日正午頃までにはヒムラーとゲーリングによって崩された。ヒトラーは[[ダッハウ強制収容所]]所長[[テオドール・アイケ]]にレームに自決の機会を与え、自決しないようなら彼を処刑するよう命じた<ref name="トーランド上392">トーランド、上巻392頁</ref>。

午後3時頃、アイケは部下のダッハウ副所長[[ミヒャエル・リッペルト]]を引き連れて、シュターデルハイム刑務所のレームの独房を訪れた。アイケはレームに対して「貴方は死刑に処される。総統は最終決断のための機会を貴方に与えた」と宣告し、「レーム逮捕」を報じるナチ党機関紙『[[フェルキッシャー・ベオバハター]]』紙と自決用の一発だけ弾の入った拳銃を置いて独房から立ち去った。しかしいつまでも銃声がしないため、アイケ達は再度レームの独房に戻った。アイケはリッペルトにレームを撃つよう命じ、リッペルトがレームに向けて2発発砲した。撃たれたレームは床に倒れながら「わが総統よ…(meine Führer...)」<ref>meineは女性形の所有代名詞</ref>と呟いた。アイケは「貴方はもっと早くそれを言うべきだった…。」と返したという。レームにはまだ息があったので、もう一発胸に撃ち込んで殺害した(とどめを刺したのがアイケ・リッペルトのどちらであるかは不明)<ref name="ヘーネ134">ヘーネ、134頁</ref><ref name="トーランド上393">トーランド、上巻393頁</ref>。

「[[長いナイフの夜]]」と呼ばれるこの粛清によって200人以上の突撃隊幹部、ナチ党の政敵、党内の反ヒトラー分子らが捕えられて法的手続きを経ることなく処刑されている。粛清された人物にはミュンヘン一揆を鎮圧した騎士[[グスタフ・フォン・カール]]元バイエルン州総督や[[ナチス左派]]の元指導者[[グレゴール・シュトラッサー]]、陸軍中将[[クルト・フォン・シュライヒャー]]元首相などがいる。これによって親衛隊の超法規的措置の前例が生まれ、また国防軍はナチスに対して完全な協力を約束することになった。男色、乱暴、酒乱など評判の悪かった突撃隊幹部の粛清に市民の反応は冷静で、ニュースはおおむね好感をもって伝えられた。

== 人物 ==
[[File:Bundesarchiv Bild 102-14393, Ernst Röhm.jpg|thumb|1933年2月、レームと彼の同性愛の相手である副官の[[突撃隊大佐]][[ハンス・フォン・シュプレーティ=ヴァイルバッハ]]伯爵<ref name="星乃126">星乃、126頁</ref>。]]
*ヒトラーを「Du」(「お前」「きみ」などと訳される。親しい間柄で使う二人称)で呼ぶことが許されていたごくわずかな人物の一人だった<ref name="フライ21">フライ、21頁</ref>。
*ナチ党は公式には1928年以来同性愛者を党の敵と見なすとしていたが<ref name="星乃121">星乃、121頁</ref>、レームは公然たる同性愛者であり、刑法175条(同性愛を罰する条項)の撤廃を主張している人物だった<ref name="星乃127">星乃、127頁</ref>。近代家族主義擁護の立場から同性愛に反対する党幹部[[アルフレート・ローゼンベルク]]のことを「間抜けなモラルを説く奴」と呼んで批判していた<ref name="星乃127"/>。レームは「私のところにいる男たちは法律に反した特別な事(=同性愛)に慣れねばならない」とも述べており、突撃隊で横行していた同性愛は彼らの革命的性質と無関係ではなかったようである<ref name="星乃127"/>。レームが突撃隊幕僚長に就任した1931年以降には[[ドイツ社会民主党|社民党]]など敵対政党の機関紙は「ナチ党は刑法175条の維持を主張する癖に身内には公然と同性愛を許している」としてレームの同性愛疑惑の追及を行った<ref name="星乃127"/>。それでもヒトラーはレームの重要性から彼と彼の部下たちによる同性愛行為を大目に見ていたが、[[長いナイフの夜]]で彼を粛清することになるや一転して彼の同性愛を激しく非難するようになった<ref name="ヴィストリヒ317-318">ヴィストリヒ、317-318頁</ref>。レーム粛清後、突撃隊に取って代わった[[親衛隊 (ナチス)|親衛隊(SS)]]によって同性愛者の取り締まりは強化されるようになった<ref name="星乃130・145">星乃、130・145頁</ref>。


== 関連作品 ==
== 関連作品 ==
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== 参考文献 ==
== 参考文献 ==
*{{Cite book|和書
* 村瀬興雄 「ナチズム―ドイツ保守主義の一系譜」 (中公新書、1968年初版) ISBN 978-4121001542
|author = [[村瀬興雄]]
* 水木しげる 「劇画ヒットラー」 
|year = [[1968年]]
|title = ナチズム―ドイツ保守主義の一系譜
|publisher = [[中公新書]]
|isbn = 978-4121001542
}}
*{{Cite book|和書
|author = [[ジェフリー・プリダム]]([[:en:Geoffrey Pridham|en]])
|translator = [[垂水節子]]・[[豊永泰子]]
|year = [[1975年]]
|title = ヒトラー・権力への道:ナチズムとバイエルン1923-1933年
|publisher = [[時事通信社]]
}}
*{{Cite book|和書
|author = [[桧山良昭]]
|year = [[1976年]]
|title = ナチス突撃隊
|publisher = [[白金書房]]
}}
*{{Cite book|和書
|author = [[ジョン・トーランド]]([[:en:John Toland (author)|en]])
|translator = [[永井淳]]
|year = [[1979年]]
|title = アドルフ・ヒトラー 上・下
|publisher = [[集英社]]
}}
**{{Cite book|和書
|author = ジョン・トーランド
|translator = 永井淳
|year = 1990年
|title = アドルフ・ヒトラー 全4巻
|publisher = [[集英社文庫]]
}}
*{{Cite book|和書
|author = [[ハインツ・ヘーネ]]([[:de:Heinz Höhne|de]])
|translator = [[森亮一]]
|year = [[1981年]]
|title = SSの歴史 -髑髏の結社-
|publisher = [[フジ出版社]]
|isbn = 978-4892260506
}}
**{{Cite book|和書
|author = ハインツ・ヘーネ
|translator = 森亮一
|year = [[2001年]]
|title = 髑髏の結社・SSの歴史〈上〉
|publisher = [[講談社学術文庫]]
|isbn = 978-4061594937
}}
**{{Cite book|和書
|author = ハインツ・ヘーネ
|translator = 森亮一
|year = 2001年
|title = 髑髏の結社・SSの歴史〈下〉
|publisher = 講談社学術文庫
|isbn = 978-4061594944
}}
*{{Cite book|和書
|author = [[ノルベルト・フライ]]([[:de:Norbert Frei|de]])
|translator = [[芝健介]]
|year = [[1994年]]
|title = 総統国家:ナチスの支配 1933-1945年
|publisher = [[岩波書店]]
|isbn = 978-4000012409
}}
*{{Cite book|和書
|author = [[ハンス・モムゼン]]([[:de:Hans Mommsen|de]])
|translator = [[関口宏道]]
|year = [[2001年]]
|title = ヴァイマール共和国史―民主主義の崩壊とナチスの台頭
|publisher = [[水声社]]
|isbn = 978-4891764494
}}
*{{Cite book|和書
|author = [[阿部良男]]
|year = [[2001年]]
|title = ヒトラー全記録:1889-1945 20645日の軌跡
|publisher = [[柏書房]]
|isbn = 978-4760120581
}}
*{{Cite book|和書
|author = [[ロベルト・S・ヴィストリヒ]]([[:en:Robert S. Wistrich|en]])
|translator = [[滝川義人]]
|year = [[2002年]]
|title = ナチス時代 ドイツ人名事典
|publisher = [[東洋書林]]
|isbn = 978-4887215733
}}
*{{Cite book|和書
|author = [[星乃治彦]]
|translator =
|year = [[2006年]]
|title = 男たちの帝国 ヴィルヘルム2世からナチスへ
|publisher = [[岩波書店]]
|isbn = 978-4000223881
}}

== 脚注 ==
== 脚注 ==
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エルンスト・レーム
Ernst Röhm
ファイル:Rohm.jpg
生年月日 1887年11月28日
出生地 ドイツの旗 ドイツ帝国ミュンヘン
没年月日 (1934-07-02) 1934年7月2日(46歳没)
死没地 ナチス・ドイツの旗 ドイツ国ミュンヘン
出身校 マクシミリアン=ギムナジウム
前職 第7軍管区司令部都市司令部兵站部長
所属政党 国家社会主義ドイツ労働者党
国家社会主義自由運動
称号 一級鉄十字章戦傷章金章

当選回数 1回
在任期間 1924年5月4日 - 1924年12月7日

突撃隊幕僚長
在任期間 1931年1月5日[1] - 1934年6月30日

内閣 アドルフ・ヒトラー内閣
在任期間 1933年12月1日[2] - 1934年7月3日[3]
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エルンスト・ユリウス・レーム(Ernst Julius Röhm、1887年11月28日 - 1934年7月1日)はドイツ軍人政治家第一次世界大戦後、ヴェルサイユ条約に反対してナチ党突撃隊(SA)ほか多くの準軍事団体を組織した。1931年から突撃隊幕僚長になったが、のちに路線の対立が原因でヒトラーによって粛清された。

生涯

前半生

レームは1887年11月28日、ドイツ帝国バイエルン王国首都ミュンヘンに鉄道管理官の公務員の息子として生まれた[4][5][6]。レーム家はバイエルンの旧家だった[6]

1906年にミュンヘンのマクシミリアン=ギムナジウム(de)を卒業したレームは、バイエルン第10歩兵連隊「皇太子ルートヴィヒ連隊("Prinz Ludwig")」に入隊した[4]1908年にはミュンヘン士官学校を出て少尉に任官した[4]

第一次世界大戦

1914年第一次世界大戦が勃発すると、レームは西部戦線で大隊副官として従軍した[4]1916年バイエルン戦争省(de)に一時勤務した[4]。1917年から1918年にかけて司令部付き将校を経て第二師団司令部要員となった[4]

大戦中にレームは3度も重傷を負っている[4][6]。その戦傷で彼の鼻の半分は吹き飛ばされて欠けており、また頬には貫通銃創の跡が残っていた。そのためレームは人懐っこい笑顔をよく見せながらも、まるで無頼漢のようなどすの利いた顔つきだった[5][6][7]

階級は陸軍大尉まで昇進している[4]。また一級鉄十字章二級鉄十字章戦傷章金章を受章した[8]

終戦時にはインゴルシュタット第11歩兵旅団司令部副官を務めていた[5]

義勇軍参加とレーテ共和国打倒

終戦後、ミュンヘンのバイエルン軍総司令部(de)の政治保安部で参謀長を務めた[4]1919年4月にミュンヘンで赤色革命が発生した。ドイツ社会民主党(SPD)のヨハネス・ホフマン政権はバンベルクに追われ、ソ連赤化工作員やドイツ共産党によって社会主義政権レーテ共和国が樹立された[9]4月14日にホフマン政権はバイエルン住民に対して義勇軍(フライコール)を結成し、レーテ共和国と闘うことを呼びかけた。この呼びかけによりバイエルンではフランツ・フォン・エップ大佐率いる「義勇軍エップ」、トゥーレ協会が組織した「オーベルラント義勇軍」(de)、バイエルン州森林監督官ゲオルク・エシェリヒ(de)率いる「郷土軍」(de)といった義勇軍が次々と編成された[10]

レームも義勇軍に参加するためミュンヘンを離れ、オーレンドルフへ移り、同地に司令部をおいていた「義勇軍エップ」に参加した[10]。レームはエップからエップ義勇軍のIb部(装備と兵站担当)部長に任じられ、ここで抜群の組織能力を発揮した[10][11]5月1日から3日にかけてエップ義勇軍を含む義勇軍6万人がミュンヘンに攻めのぼり、レーテ共和国を壊滅させた[12]

第7軍管区司令部で義勇軍の編成と維持の任務

ミュンヘンを占領した義勇軍は国軍第7軍管区司令部を名乗り、軍の再編成を開始した。その中でレームは都市司令部兵站部長に任命され、義勇軍と郷土軍の強化する任務を与えられた[10]

1919年6月28日にヴェルサイユ条約が締結され、ドイツ軍の陸軍兵力は10万人に限定された。重火器、戦車、航空機、潜水艦の所持は禁止された[13][14]。この兵力不足を補うためにベルリンの国防省もバイエルンの第7軍管区司令部も民間の準軍事組織の育成・強化に力を入れるようになった[14]。レームは大量の武器をかき集め、秘密の武器庫に保管し[15]、これを義勇軍や郷土軍に供給した。1919年に「鉄拳団」(Eisernen Faust)でアドルフ・ヒトラーとはじめて出会った[7]。同年、ミュンヘンの右翼政党ドイツ労働者党(DAP)に入党[4]

ベルリンのカップ一揆に触発されて、1920年3月13日にバイエルンでグスタフ・フォン・カール、郷土軍司令官ゲオルク・エシェリヒ、ミュンヘン警視総監エルンスト・ペーナー(de)らによるホフマン社民党政権打倒の無血クーデタがあったが、レームもこれに参加している。この無血クーデタによってバイエルンに右翼的なカール政権が誕生した[16]

カップ一揆が失敗に終わった後、1920年から1921年にかけてヘルマン・ミュラー内閣やヨーゼフ・ヴィルト内閣はヴェルサイユ条約の遵守のために義勇軍や郷土軍に解散命令を出したが、バイエルン州のカール政府は当初この解散命令を無視した。だがドイツ内外からの圧力は激しく、カール政府も1921年6月28日には解散に同意した。レームはもちろん義勇軍解散に反対の立場であり、自分が編成した義勇軍をなんとか存続させる道を模索した[16]

解雇された義勇軍・郷土軍兵士を集めて、ニュルンベルク市に「帝国旗団」(Wehrverband Reichsflagge)、ニーダーバイエルンに「ニーダーバイエルン闘争団」を創設し、義勇軍の維持を図った[16]。ドイツ労働者党の党首にヒトラーが就任するのを支援し、ヒトラーに要請して突撃隊司令官に旧エアハルト海兵旅団から生まれた右翼テロ組織「コンスル」のメンバーであるハンス・ウルリヒ・クリンチェ(de)元海軍少尉を付けた[17][18]。レームとクリンチェは突撃隊にも続々と義勇軍を送り込んだ[19]

当時のレームはバイエルンの右翼団体をすべて軍事化して国軍第7軍に組み込み、ベルリン進軍を行うという雄大な計画を持っていたという[20]。レームは1923年3月に突撃隊を第7軍の指揮下に組み込んだ[21]

1923年8月13日にグスタフ・シュトレーゼマン内閣が誕生。シュトレーゼマンは、これまで政府が取ってきたフランス軍ルール地方占領への「受動的抵抗」路線を放棄し、西欧列強との関係回復を目指した。右翼勢力や極左勢力(共産党)によるシュトレーゼマン批判が起こった[22]。ナチ党を含むバイエルン右翼たちの間ではベルリン進軍を望む声が高まった。1923年9月26日にレームは第7軍管区司令部に除隊願いを出して軍を退役し、ヒトラーの下にはせ参じた[23]

ミュンヘン一揆

1924年4月1日、ミュンヘン一揆裁判判決の日の記念写真。右から二人目がレーム大尉。中央はルーデンドルフ将軍。その右はヒトラー

1923年11月8日夜から9日にかけて、バイエルン州総督グスタフ・フォン・カールにベルリン進軍を促すため、アドルフ・ヒトラーエーリヒ・ルーデンドルフ将軍とともにミュンヘン一揆を起こした。レームは「帝国軍旗団」(Bund Reichskriegsflagge)や「ミュンヘン闘争団」、突撃隊の一部を率いてバイエルン戦争省の軍司令部を制圧した[24][25]。ついで都市司令部の制圧に向かったが、当直将校に追い返されてしまった[24]

11月9日朝、ヒトラーとルーデンドルフがオデオン広場へ行進を開始。バイエルン州警官隊の銃撃を受け、一揆勢は総崩れとなった。軍司令部を占拠していたレームたちもこれを聞き、午後2時頃に鎮圧軍に投降した[26]

1924年2月26日からヒトラーやルーデンドルフらとともに「ミュンヘン人民法廷」にかけられた。4月1日の判決でレームは1年3カ月の禁固刑に処されたが、すぐに仮釈放となった。ランツベルク刑務所に入る事になったヒトラーはレームに突撃隊の総指揮を委任した[27]

ミュンヘン一揆後のナチ党禁止命令中の活動

ミュンヘン一揆の失敗でナチ党も突撃隊も解散させられた。レームは突撃隊の再建のためにはルーデンドルフの名声が必要不可欠と考えていた。そのためレームは、ルーデンドルフが賓客になっていたドイツ民族自由党とナチ党残党勢力の合同政党「民族主義=社会主義ブロック」(後に国家社会主義自由運動に改組)からの国会議員選挙への出馬要請を喜んで受けた。レームは1924年5月4日国会議員選挙で当選を果たした[28]

5月31日にザルツブルクにかつての突撃隊幹部を招集し、ミュンヘンに本部を置く準軍事組織「フロントバン」(de:Frontbann)の結成を命じた[29][30]。8月28日にフロントバン設立大会を開き、同組織はヒトラー、ルーデンドルフ、アルブレヒト・フォン・グラーフェ(ドイツ民族自由党党首)の三人に忠誠を誓うものとした[31]。フロンバンの隊員は義勇軍からかき集められ、隊員数は3万人にも上った(対して突撃隊はミュンヘン一揆の際にせいぜい3000人程度の規模だった)[32]

6月12日には「民族主義=社会主義ブロック」が「国家社会主義自由運動」に改組された。国家社会主義自由運動の全国執行部はルーデンドルフ将軍とグラーフェとグレゴール・シュトラッサーの三人で構成された[33]。しかしこの組織の宣伝と組織活動は主としてシュトラッサーとレームで担当していた[34]

ヒトラーの仮釈放はバイエルン州法相フランツ・ギュルトナーやミュンヘン警視総監ペーナーら国粋主義者たちの尽力によって1924年10月1日に予定されていたが、レームのフロントバン活動が弁護士会に危険視され、弁護士会からの抗議により、12月20日まで伸ばされた[35]

ヒトラーと一時袂を分かつ

1924年12月20日にヒトラーはランツベルク刑務所を仮釈放された[36]1925年1月4日にヒトラーはバイエルン州法相ギュルトナーの仲介によってバイエルン州首相ハインリヒ・ヘルトと会談し、二度と非合法活動を行わない事や共産主義者に対する闘いに協力する事を条件にナチ党禁止命令解除の約束を得た[37][38][39]

ヒトラーはルーデンドルフやドイツ民族自由党と袂を分かち、1925年2月27日に「ビュルガーブロイケラー」においてナチ党再結党式を行った。ルーデンドルフの下で働いてきたレームはこの再結党式に出席を見合わせている[40][41]

レームはヒトラーとルーデンドルフの和解を求めており、またフロントバンや突撃隊をナチ党から独立した準軍事組織(国軍補助兵力)にしたがっていた[42]。しかしヒトラーはこれを認めず、両者は最終的に4月16日から17日にかけての会談で決裂し、レームはフロントバン司令官職と突撃隊司令官職を辞した[43]。4月30日にはヒトラーに友情を確認する手紙を書いたが、ヒトラーからは無視された。結局レームは政界からの引退を宣言した[44]

1928年には軍事顧問を必要とするボリビア政府の招聘に応じて南米に渡った[43][4]。レームはヒトラーと別れる時、「お前はいつか俺を必要とするだろう。その日が来たら朝6時に凱旋門へ来い。そこには俺もいるはずだ。」と述べて去っていった[45]

突撃隊幕僚長

1931年9月、突撃隊員を閲兵するヒトラーとレーム

1930年8月、突撃隊最高指導者(Obersten SA-Führer)フランツ・プフェファー・フォン・ザロモンは、1930年9月4日に行われる国会選挙の候補者名簿に突撃隊員をもっと加えるようヒトラーに要求し、ヒトラーと対立を深めた。結局ザロモンは1930年8月12日に突撃隊最高指導者を辞した[46]。さらにベルリン東部地区突撃隊副司令官ヴァルター・シュテンネス(de)が党指導部に対して反乱を起こすなど突撃隊を巡る情勢は不穏になった[47][48]

ヒトラーは自らが突撃隊最高指導者に就任したが、この状況で突撃隊を抑えられる人物は一人しか思いつかなかった。ただちにボリビアのレームと連絡を取り、突撃隊幕僚長職を受けてほしいと打診した[47]。レームは了承し、1930年11月1日にドイツに帰国し、ナチ党に再入党した[4]。そして1931年1月5日に正式に突撃隊幕僚長(Stabschef der SA)に就任した[1][49]

レームは突撃隊員が反乱を起こしてもすぐさま鎮圧できるよう1931年春に突撃隊の中央集権化をすすめる組織改革を行った[45][49]

1931年4月のシュテンネスの再反乱でシュテンネス一派1万人が党と突撃隊を去ることとなった[50]。しかしながら世界恐慌の影響で巷には失業者があふれかえっており、彼らは反資本主義的な政治的急進派となって、ナチ党や突撃隊に続々と参加した。1930年には7万人だった突撃隊隊員数は1931年末には17万人、ナチ党政権掌握直前には70万人に達した[6][51]。そのため突撃隊はますます過激化し、隊員達はヒトラーの「合法路線」にしびれを切らして、武装蜂起を求めるようになった。レームも隊員の不満を抑えるためにこうした声を代弁するようになり、1931年末にはヒトラーに武装蜂起を進言している[52]

突撃隊員の街頭などでの暴力活動が増えたため、1932年4月13日にハインリヒ・ブリューニング首相やヴィルヘルム・グレーナー内相の進言によりパウル・フォン・ヒンデンブルク大統領が突撃隊と親衛隊の禁止命令を出した[53]。5月8日にヒトラーとレームは、ナチス弾圧の命令に反対していた大統領側近クルト・フォン・シュライヒャー将軍と面会し、ブリューニングとグレーナーの失脚工作について話し合った[54]。シュライヒャーとナチ党は5月13日にグレーナーを辞職させ、つづいて5月30日にはブリューニング内閣を総辞職に追い込んだ[55]。その後、シュライヒャーの推薦によって首相に就任したフランツ・フォン・パーペンは6月16日に突撃隊と親衛隊の禁止令を解除した[56]

ナチ党政権獲得後

1933年8月にニュルンベルクで行われたナチ党党大会。ヒトラーとレーム。

1933年1月30日ヒトラー内閣が発足したが、国軍への配慮のためかレームには閣僚職は与えられなかった。

1933年3月5日に行われた国会議員選挙でナチ党は44.1%を得票し、ナチ党の連立与党国家人民党と合わせて過半数を得た。ナチ党政権は、この選挙結果はナチ党が国民の信任を受けている証拠として、ナチ党が参加していない州政府は民意を反映していないので退陣すべきと主張し、各州に対する介入を開始した[57]

しかしバイエルン州首相ハインリヒ・ヘルトはナチ党中央政府の介入に反抗した。そのため3月9日にレームは、エップヴァーグナーヒムラーらとともにヘルト政府の解体にあたった[58][57]。翌3月10日、バイエルン州の国家弁務官となったエップよりレームは州委員に任命された[59][60]

レームは3月12日にバイエルンの7つの群知事庁に治安維持と政敵排除に責任を負う「突撃隊最高指導部特別委員」を設置させ、彼らの指揮下に突撃隊を補助警察官として採用した[61]。レームはこの制度を他の州にも導入させようと図り、5月にプロイセン州で導入され、その後他の州も続々と導入した。突撃隊員達は補助警察官としてドイツ各地で政敵を予防検束していった[60]

しかしヒトラーも、ドイツ内相ヴィルヘルム・フリックも、プロイセン州首相・内相ヘルマン・ゲーリングも突撃隊に警察権限を認めることには反対だった。ゲーリングは1933年8月には補助警官隊に解散を命じ、他の州も続々とゲーリングに倣って補助警官隊を解散させた。ごく一部の突撃隊員が正規の警察官として採用されたが、他の大多数の突撃隊員は補助警察官として支給されていた給料を切られ、失業者に戻された。そのため突撃隊の不満が高まり、彼らは「第二革命」を叫ぶようになり、1933年8月以降にはドイツ各地で暴動を起こすようになった[51]

突撃隊員の声を代弁するレームも公然と「第二革命」を唱え、ヒトラーの革命終了宣言に抵抗した。レームは9月1日にバイエルンの突撃隊最高指導部特別委員制度を廃止し、かわりにバイエルン州政府に突撃隊特別全権官、群政府に突撃隊特別委任官を置いた。彼らの任務は「国家社会主義革命による発展が続けられているかを官庁と協力しながら監視する」ことであった。これによって地方行政機関を第二革命に動かそうとしたのだった。10月にはゲーリングの支配するプロイセン州にも突撃隊特別全権官の設置を認めさせた。ゲーリングは突撃隊政治部長ゲオルク・フォン・デッテン(de)から国会議事堂放火事件の真相を暴露すると強請られて渋々認めたという。各州もプロイセン州に倣って突撃隊特別全権官の設置を認めた。結果、突撃隊特別全権官による行政への横やりや命令無視が横行し、ヒトラー政権は早晩崩壊するだろうという噂がたった[62]

無任所相に任命された直後のレーム。左はフランツ・フォン・シュテファニー(de)。右はカール・エルンスト

ヒトラーは突撃隊特別全権官と州政府を少しでも一体化させるため、1933年12月1日に「党と州の統一のための法律」(de)を成立させるとともにエルンスト・レームを無任所相に任じた[63][64][65]。ゲーリングは12月15日に「プロイセン州市町村制度法」を導入して市町村の地方評議会メンバーを25歳以上に限定すると定めることで25歳以下未満の若者がほとんどを占める突撃隊員をプロイセンの地方自治から締め出した[66][67]

ドイツの国際連盟脱退によってポーランドフランスがドイツへ侵攻してくるのではないかという危機感がドイツで高まり、再軍備問題が関心を集めるようになると、レームは1934年1月15日に突撃隊特別全権官の任務を「反国家的陰謀との闘争」に限定させるなど第二革命問題で一定の譲歩の姿勢を見せるようになったが、代わりに再軍備問題に関連して突撃隊をドイツの正規軍にするという野望を本格的に抱くようになった。突撃隊を正規軍にすることができれば突撃隊員の失業問題は大きく改善し、第二革命など起こす必要はなくなるため、レームは第二革命より突撃隊正規軍化に力を入れるようになった[66]

軍との軋轢

レームの軍事的野心は正規軍である国軍と軋轢を生んだ[68]

もともとレームは、貴族が幹部を占める今の正規軍「国軍(Reichswehr)」では、ヴェルサイユ条約を打破して再軍備がかなったとしても結局、旧プロイセン王国的な旧式軍隊にしかならず、近代戦争に対応できる軍隊にはならないと考えていた。彼が理想とするのは国民軍の形態であった[69]。突撃隊は5つの突撃隊上級集団(軍隊の「軍団」に相当)と18の突撃隊集団(「師団」相当)で構成され、国軍の5倍にあたる兵力を保持し、軍隊と同等の規律を有し、その指揮官達は元将校たちで占められていた。いつでも国軍(Reichswehr)に取って代わることができる状態であった[70]

軍と突撃隊は1933年5月に協定を結んでおり、突撃隊と親衛隊と鉄兜団は国防省の管轄に入ることになっていた。国軍からのスタッフの手も借りてフリードリヒ・ヴィルヘルム・クリューガー突撃隊大将の下に突撃隊員の訓練が行われ、国軍に送りだしていた。しかしやがてレームは東部国境守備隊の指揮権を要求しまたその武器庫を管理下に置こうとし、軍と対立を深めていた[71]

一方ヒトラーは国軍をもって再軍備を行うことを決めており、レームの国民軍構想を厳しくはねつけていた[72]。1934年2月28日にはヒトラー立ち会いのもとに国防相ヴェルナー・フォン・ブロンベルク上級大将以下国防省の幹部とレーム以下突撃隊の幹部が会談した。ヒトラーの希望で両者は国軍がドイツ唯一の国防兵力と認め、突撃隊は準国軍としての役割に徹し、訓練などを主任務とすることで合意した。しかし会談後にレームは「あのふざけた伍長の言う事に何の意味がある。俺はこんな協定全く守る気はない。ヒトラーのような裏切り者は追い出さねば駄目だ。奴を排除した後、我々が権力を握るのだ。」と吐き捨てたという[73][74][75]

長いナイフの夜

左からダリューゲヒムラー、レーム

国軍軍務局長ヴァルター・フォン・ライヒェナウ少将親衛隊SD長官ラインハルト・ハイドリヒ親衛隊少将は突撃隊の排除のために連絡を取り合っていた。ハイドリヒはレームとその一派全員の抹殺を決意していた。彼は親衛隊全国指導者ハインリヒ・ヒムラーを説き伏せてレームの粛清を決意させた。親衛隊はプロイセン州首相ヘルマン・ゲーリングと連携してレーム抹殺計画を進めた[76][77]。ゲーリングにとってレームはプロイセンにおける警察権力、および国防軍総司令官の地位をめぐっての脅威であった[78]

突撃隊問題に曖昧な態度をとるヒトラーに粛清を決意させるため、ヒムラー、ハイドリヒ、ゲーリングらは突撃隊の「武装蜂起計画」をでっち上げることにした。1934年4月下旬から5月末にかけてハイドリヒはレームと突撃隊の「武装蜂起」の証拠の収集・偽造を行った[78][79]

そして1934年6月はじめ頃からそれらがばら撒かれて、突撃隊「武装蜂起」の噂が流れた。この噂を重く受け止めた大統領パウル・フォン・ヒンデンブルクと国防相ヴェルナー・フォン・ブロンベルクは、1934年6月21日に首相ヒトラーに対し、もし突撃隊問題が解決できないならヒトラーの権限を陸軍に移して代わりに処置させると通告した。この通告によりヒトラーは粛清を実行するしかなくなった。またこの頃すでにヒンデンブルクの死が近いことは明らかだった。ヒンデンブルクの死後、ヒトラーは軍に忠誠を誓わせねばならず、そのためには軍が望むレーム以下突撃隊幹部の粛清が必要だった。ヒトラーはこの日に突撃隊の粛清を決意したという[80][81]

6月28日にヒトラーはリューマチ療養でバイエルン州バート・ヴィースゼー(de)にいたレームと連絡を取り、そちらで6月30日に会議を行いたいので突撃隊幹部を集めて置くようにと指示した。突撃隊幹部は疑うこともなく召集に応じた。6月30日午前6時30分頃、ヒトラーはバイエルン州バート。ヴィースゼーにあるレーム達が就寝中の突撃隊保養クラブ「ハンゼルバウアー」に押し入った[82][83][84]。ヒトラーはレームに拳銃を突きつけ、「エルンスト、きみを逮捕する」と述べた。この時ヒトラーは親しみをこめた「きみ(Du)」の二人称を使っている。レームは反逆を否定したが、ヒトラーは服を着るよう命じてすぐに部屋を出ていった[85]

逮捕された他の突撃隊幹部たちとともにミュンヘンのシュターデルハイム刑務所(de)に移送された。ヒトラーの命令により6月30日のうちにシュターデルハイム刑務所に入れられた突撃隊幹部のうち、突撃隊大将エドムント・ハイネス突撃隊大将アウグスト・シュナイトフーバー突撃隊中将ペーター・フォン・ハイデブレック突撃隊中将ヴィルヘルム・シュミット(de)、突撃隊中将ハンス・ハイン(de)、突撃隊大佐ハンス・フォン・シュプレーティ=ヴァイルバッハ伯爵の6名が銃殺された。しかしヒトラーはレームについてはこの日処刑を見送っている[86]。ヒトラーはミュンヘンを発つ際に「レームは彼の功績に免じて許した」と述べた[86]

処刑

しかしベルリンに戻った後、ヒトラーのレームを助命しようという意志は、7月1日正午頃までにはヒムラーとゲーリングによって崩された。ヒトラーはダッハウ強制収容所所長テオドール・アイケにレームに自決の機会を与え、自決しないようなら彼を処刑するよう命じた[87]

午後3時頃、アイケは部下のダッハウ副所長ミヒャエル・リッペルトを引き連れて、シュターデルハイム刑務所のレームの独房を訪れた。アイケはレームに対して「貴方は死刑に処される。総統は最終決断のための機会を貴方に与えた」と宣告し、「レーム逮捕」を報じるナチ党機関紙『フェルキッシャー・ベオバハター』紙と自決用の一発だけ弾の入った拳銃を置いて独房から立ち去った。しかしいつまでも銃声がしないため、アイケ達は再度レームの独房に戻った。アイケはリッペルトにレームを撃つよう命じ、リッペルトがレームに向けて2発発砲した。撃たれたレームは床に倒れながら「わが総統よ…(meine Führer...)」[88]と呟いた。アイケは「貴方はもっと早くそれを言うべきだった…。」と返したという。レームにはまだ息があったので、もう一発胸に撃ち込んで殺害した(とどめを刺したのがアイケ・リッペルトのどちらであるかは不明)[89][90]

長いナイフの夜」と呼ばれるこの粛清によって200人以上の突撃隊幹部、ナチ党の政敵、党内の反ヒトラー分子らが捕えられて法的手続きを経ることなく処刑されている。粛清された人物にはミュンヘン一揆を鎮圧した騎士グスタフ・フォン・カール元バイエルン州総督やナチス左派の元指導者グレゴール・シュトラッサー、陸軍中将クルト・フォン・シュライヒャー元首相などがいる。これによって親衛隊の超法規的措置の前例が生まれ、また国防軍はナチスに対して完全な協力を約束することになった。男色、乱暴、酒乱など評判の悪かった突撃隊幹部の粛清に市民の反応は冷静で、ニュースはおおむね好感をもって伝えられた。

人物

1933年2月、レームと彼の同性愛の相手である副官の突撃隊大佐ハンス・フォン・シュプレーティ=ヴァイルバッハ伯爵[91]
  • ヒトラーを「Du」(「お前」「きみ」などと訳される。親しい間柄で使う二人称)で呼ぶことが許されていたごくわずかな人物の一人だった[65]
  • ナチ党は公式には1928年以来同性愛者を党の敵と見なすとしていたが[92]、レームは公然たる同性愛者であり、刑法175条(同性愛を罰する条項)の撤廃を主張している人物だった[93]。近代家族主義擁護の立場から同性愛に反対する党幹部アルフレート・ローゼンベルクのことを「間抜けなモラルを説く奴」と呼んで批判していた[93]。レームは「私のところにいる男たちは法律に反した特別な事(=同性愛)に慣れねばならない」とも述べており、突撃隊で横行していた同性愛は彼らの革命的性質と無関係ではなかったようである[93]。レームが突撃隊幕僚長に就任した1931年以降には社民党など敵対政党の機関紙は「ナチ党は刑法175条の維持を主張する癖に身内には公然と同性愛を許している」としてレームの同性愛疑惑の追及を行った[93]。それでもヒトラーはレームの重要性から彼と彼の部下たちによる同性愛行為を大目に見ていたが、長いナイフの夜で彼を粛清することになるや一転して彼の同性愛を激しく非難するようになった[94]。レーム粛清後、突撃隊に取って代わった親衛隊(SS)によって同性愛者の取り締まりは強化されるようになった[95]

関連作品

ナチス関連映画作品の中では、比較的、エルンスト・レーム登場場面が多い。PETER STORMAREが演じている。

参考文献

  • 村瀬興雄『ナチズム―ドイツ保守主義の一系譜』中公新書エラー: この日付はリンクしないでください。ISBN 978-4121001542 
  • ジェフリー・プリダム(en) 著、垂水節子豊永泰子 訳『ヒトラー・権力への道:ナチズムとバイエルン1923-1933年』時事通信社エラー: この日付はリンクしないでください。 
  • 桧山良昭『ナチス突撃隊』白金書房エラー: この日付はリンクしないでください。 
  • ジョン・トーランド(en) 著、永井淳 訳『アドルフ・ヒトラー 上・下』集英社エラー: この日付はリンクしないでください。 
    • ジョン・トーランド 著、永井淳 訳『アドルフ・ヒトラー 全4巻』集英社文庫、1990。 
  • ハインツ・ヘーネ(de) 著、森亮一 訳『SSの歴史 -髑髏の結社-』フジ出版社エラー: この日付はリンクしないでください。ISBN 978-4892260506 
    • ハインツ・ヘーネ 著、森亮一 訳『髑髏の結社・SSの歴史〈上〉』講談社学術文庫エラー: この日付はリンクしないでください。ISBN 978-4061594937 
    • ハインツ・ヘーネ 著、森亮一 訳『髑髏の結社・SSの歴史〈下〉』講談社学術文庫、2001。ISBN 978-4061594944 
  • ノルベルト・フライ(de) 著、芝健介 訳『総統国家:ナチスの支配 1933-1945年』岩波書店エラー: この日付はリンクしないでください。ISBN 978-4000012409 
  • ハンス・モムゼン(de) 著、関口宏道 訳『ヴァイマール共和国史―民主主義の崩壊とナチスの台頭』水声社エラー: この日付はリンクしないでください。ISBN 978-4891764494 
  • 阿部良男『ヒトラー全記録:1889-1945 20645日の軌跡』柏書房エラー: この日付はリンクしないでください。ISBN 978-4760120581 
  • ロベルト・S・ヴィストリヒ(en) 著、滝川義人 訳『ナチス時代 ドイツ人名事典』東洋書林エラー: この日付はリンクしないでください。ISBN 978-4887215733 
  • 星乃治彦『男たちの帝国 ヴィルヘルム2世からナチスへ』岩波書店エラー: この日付はリンクしないでください。ISBN 978-4000223881 

脚注

  1. ^ a b 阿部、174頁
  2. ^ 阿部、259頁
  3. ^ 阿部、278頁
  4. ^ a b c d e f g h i j k l LeMO
  5. ^ a b c 桧山、39頁
  6. ^ a b c d e ヴィストリヒ、316頁
  7. ^ a b トーランド、上巻111頁
  8. ^ Axis Biographical Researchの"STURMABTEILUNG (SA)"の項目
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