加清純子

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加清 純子
北海タイムス』1950年4月28日 夕刊
「女人百態 画壇のホープ 情熱と精進の加清純子さん」[1]
誕生日 (1933-07-03) 1933年7月3日[2]
出生地 北海道札幌市[3]
死没年 (1952-01-23) 1952年1月23日(18歳没)[4][5][注 1]
死没地 北海道釧路市 阿寒湖湖畔[4]
国籍 日本の旗 日本
流派 写実主義
シュルレアリスム[6]
芸術分野 絵画
出身校 北海道札幌南高等学校[7]
活動期間 1948年[8] - 1952年[4]
影響を受けた
芸術家
菊地又男[9]
影響を与えた
芸術家
岡村昭彦[4]
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加清 純子(かせい じゅんこ[10][注 3]1933年昭和8年〉7月3日[2] - 1952年〈昭和27年〉1月23日[4][5][注 1])は、日本画家。北海道札幌市出身[3]。十代半ばにして北海道の道展[注 4]を始めとする多くの展覧会に入選し、「天才少女画家」と呼ばれたが[16]、満18歳で早世した[17]。死因は自殺とされるが、その理由は不明である[6][17]。後には渡辺淳一の代表作の1つである自伝的小説阿寒に果つ』のモデルとして、また渡辺自身の初恋の相手として話題となった[16]。父親は札幌市立幌北小学校の校長を務めた加清保[1][18]、兄は札幌トヨペット副社長、北海道テレビ放送取締役[19]学校法人希望学園理事長を歴任した経営者・教育者の加清準[20]。弟は詩人の暮尾淳[21](加清鍾[22])、伯父(母の兄[23])は創価学会の第二代会長の戸田城聖[24]

経歴

札幌市の教育者の家庭に誕生した[7]。父の加清保は児童文化方面に貢献した人物で[1]、児童向け雑誌『ひばり』を発行していた[21]。純子は中学時代より、この『ひばり』に「じゅんこ」の筆名(目次では「加清ジュンコ」)で漫画を描くなど[25]、画家としての才能の片鱗を見せていた[7]。1947年(昭和22年)には純子の案による漫画本『水中もぐり』が発行された[23][26]

1948年(昭和23年)4月[8]、中学2年生の頃に数枚の作品を携え、同郷の画家である菊地又男のもとを訪ねた。3度にわたる訪問に根負けし、菊地が純子に面会したところ、彼女の作品の1つ『ホオズキと日記[注 2]』に純子の才能を感じ、彼女を師事することとなった[9]。同作の評価は純子にしてみれば意外なことで、学校での画の成績は常に「乙」であり、『ホオズキと日記』はむしろ勝手に描いた画で、教員に叱責されたという[9]。同1948年9月、純子はこの『ホオズキと日記』により15歳にして、道展で最年少で入選した[27]。これが実質的なデビュー作である[13]

菊地に師事した翌年の1949年(昭和24年)、中学3年生の夏休みを利用し、菊地の案内で北海道内を3泊4日の写生旅行で回った[6]。阿寒湖を訪れた際には、純子は「こんな景色の中で死にたい」と語っていたという[28]。翌1950年(昭和25年)4月には、東京で開催された女流画家協会展覧会に出品した[1][5]。同1950年の自由美術展には、『ロミオとジュリエット』を題材とした作品で初入選した[29]

高校2年時の1950年(昭和25年)の学制改革により、札幌女子高等学校から北海道札幌南高等学校に編入されて男女共学となり、渡辺淳一荒巻義雄らと級友となった[7]。荒巻によれば純子は同期のマドンナだったという[30]。この時点で純子はすでに女流美術協会に所属し、道展にも入選したことで「天才少女」と呼ばれていた[31]。その活躍が新聞でも報じられ、いわば「女王蜂」ともいえる存在だった[32]。翌1951年(昭和26年)の冬が終わった頃、渡辺淳一と恋愛関係となった[33]後述)。

同校の後輩には、東京からの転校生である岡村春彦がいた[34]。純子は岡村に興味を抱いたことで、岡村の主宰する文芸同人誌『青銅文学』に参加し、『二重SEX』と題した大胆な小説や[34]随筆挿絵などを寄せた[6][16]

失踪〜死

高校卒業を控えた1952年(昭和27年)1月16日、「当分、札幌の地を踏みたくない」との置き手紙を残し[16]、行き先を告げずに、高校の制服姿で自宅を発った[3][16]。1月18日には、渡辺淳一を含め、それまで交際した男性たちの家を密かに回り、雪の上に深紅のカーネーション[注 5]を置いて、札幌を去った[38]

この純子の失踪は、札幌で起きた警察官射殺事件である白鳥事件と同時期であったことで、当局を緊張させた[39]。純子の最後の恋人である岡村昭彦(後述)が地下運動員であったこと、純子の兄である加清準が学生運動のリーダーであったこと、純子の姉の加清蘭[注 6]の所属する俳句誌『青炎』の主催者である富岡木之介が左翼系文学グループである新日本文学会札幌支部のリーダーであったことから、純子は中国共産党へ密航したとの噂もあった[39]

冬季の阿寒湖畔(2004年12月)

自宅を発ってから6日目の1月22日に、純子は釧路市の雄阿寒ホテル[注 7]に宿泊した。ここは師の菊地又男と写生旅行で宿泊した場所でもあり、従業員に「1人で冬景色を描きに来た」と語っていた[41]。翌23日に、純子は「阿寒湖を見に行く」と言って雪の中を発ち、消息を絶った[5]。自室には未完成の阿寒湖の風景画が3枚、イーゼルに残されていた[4][42][注 8]

警察と地元民が協力して、その後の純子の足取りを捜索したが、1月の現地は雪が深く、捜索は難航した[18][43]。以前にも2度の自殺未遂があったことから、自殺の可能性も示唆された[41]。失踪して間もない1月30日時点での知人男性の証言によれば、1月中旬に純子に会った際に「阿寒に行って死ぬ」と言われたが、純子は人を驚かすような軽口を叩くことが多いため、信じてはいなかったという[44]

2月に入ると、医師法違反で釧路刑務所に勾留中であった岡村昭彦と、失踪直前の1月17日、19日、21日と3回にわたって面会していたことが判明し[39]、純子の失踪はさらに謎が深まった[43]。21日の面会時には、岡村は純子に保釈運動を願い、金が5万円ほど必要と金策を頼んだところ、純子は「5万円くらいならなんとかできる」「今日は弟子屈へ行って、26日ごろ帰る」と答えたという[43]。兄の加清準は母親にせがまれ、何人もの占い師のもとを回り、高額な鑑定料のもとに「大丈夫、生きている」と高言されていた[4]

約3か月が経過して雪解けの時期を迎えた後[3]、同1952年4月14日、阿寒湖の湖畔より6キロメートルの地点で、純子が凍死体で発見された[16][45]。周囲には赤いコート、ベレー帽、たばこの箱、アドルム(催眠剤[46])の瓶などが円を描いて並べられていた[39]。発見当時には苦しんで死亡した様子は見られず、雪道での遭難とも思われた[16]

遺体のそばにアドルムがあったこともあり、釧路地警による検死の結果、死因はアドルムによる自殺とされ、死亡日は1月23日と推定された[4]。遺体を棺に修めた消防団長によれば、「凍った体が解けた状態で、顔は崩れていなかった」という[17]

遺書は遺されておらず、自殺の理由は不明である[6]。自殺ではなく遭難死との説もあるが、真相は定かではない[7]。葬儀は札幌市中央区の新善光寺で行われた[47]

没後

純子の失踪は「天才少女画家が失踪」[37]、その死は「天才少女画家の自殺」として、北海道内限定ではあるものの、新聞各紙でこぞって大きく報じられた[16]。渡辺淳一は「生きて、どれほどの作品を残すかが本当の勝負じゃなかったのか[注 9]」と、早すぎる死を惜しんだ[22]。純子の没後、彼女が参加していた『青銅文学』は、純子の死、および岡村春彦の退学などが不祥事と見なされたことで、1967年(昭和42年)1月発行の27号をもって解散に至った[5][48][49]。岡村自身は、札幌南高等学校を追い出される形で母の住む浜松へ転校したと、終刊号で述べている[48]

1971年(昭和46年)、渡辺淳一による小説『阿寒に果つ』の連載が『婦人公論』誌上で開始された[50]。これは渡辺の自伝作品ともいえ、純子との初恋と彼女の自殺までが描かれている[51]。同1971年、渡辺が自身の随筆『雪のなかの日々』において、『阿寒に果つ』作中のヒロイン「時任純子」のモデルが加清純子であることを明らかにした[52][53]。この『阿寒に果つ』が大ヒットして映画化までされたことで、それまで北海道内で知られているに過ぎなかった純子の名が、全国的に広まることとなった[16]。渡辺の純子に関する資料収集にあたり、純子の姉である加清蘭は非常に協力的であったという[54]。渡辺は、本作に先立つ作品『自殺のすすめ』でも、純子を「時任純子」の前身「K子」として登場させている[50][52]

1972年(昭和47年)、渡辺と同じく純子の同級生だった荒巻義雄が『白き日旅立てば不死』を刊行しており、この作中にも純子をモデルとした女性「加能純子[55]」が登場する[30][56]。荒巻は後に「ふっと気付くと彼女の気配がして…[注 10]」「執筆中に加清さんが傍らにいて、小説に出せと言っている気がした[注 11]」と語っている[55][57]

純子の死から40年以上後の1995年(平成7年)4月、純子の姉である加清蘭(筆名:日野原冬子)の編集による遺作画集『わがいのち『阿寒に果つ』とも』が発行された[3]。純子の作品はまとまって収蔵されておらず、散逸を懸念した親族が1989年頃から手分けして捜し回った結果、札幌を中心に釧路、小樽、東京など各地に分散していた物が発見され、画集発刊にこぎつけた[3]。参拝のために実家を訪れた純子の参拝者が受け取った絵、純子が写生旅行先で飲み代代りに酒場に置いた絵が店に飾られたものもあったため、収集作業は困難を極めた[58]。純子の作品は約200点あったというが、発見時には破損していた作品もあり、本書の収録作品は約40点に留まった[3]。渡辺淳一もこの画集のために文章を寄せた[3]。絶筆となった阿寒湖の風景も、遺族により『阿寒湖風景』と題されて収録されている[59][60]。この画集には、主に十代から二十代にかけての若い世代から、純子の青春に感動したことなどの大きな反響があり、純子の生涯の結末に対しての共感や、死に対しての憧れすら見られた[61]

この画集に対してテレビ局から番組制作の申込みがあったことで[61][62]、1996年(平成8年)8月3日、純子の死の謎に迫るテレビ番組として、ドキュメンタリーとドラマを組合せた特別番組『もうひとつの「阿寒に果つ」〜氷の自画像を尋ねて〜』が放映された[63]北海道放送(HBC)による制作で、純子の死が本当に自殺だったのか、なぜその地を死に場所に選んだのか、などの謎に加えて[63]、散逸した純子の作品を実姉が訪ね歩く模様も取り上げられた[64]。案内役兼主演は宝生舞が務め[63]、渡辺淳一、日野原冬子も出演した[65]

地図
渡辺淳一文学館の位置

1998年(平成10年)1月、札幌市内に「渡辺淳一文学館」が開館された[66]。館内には純子から渡辺に宛てて送られたラブレター(後述)や、渡辺と純子の2人で撮った写真なども展示されている[67][68]。館内では『阿寒に果つ』の映画版も上映されており、2000年代以降も純子の命日には、花を持参して来館する女性客がいるという[68]

2015年(平成27年)4月、札幌市の北海道立文学館で、渡辺淳一の没後1年を記念した特別展「没後1年 渡辺淳一の世界」が開催された[69]。最大の特色として。若年期の北海道時代にスポットを当てたコーナーが設けられ、純子との恋と彼女の死についてなどの展示が行われた[70]

2016年(平成28年)3月17日、北海道旭川市出身のアイドルである橋本奈々未主演によるテレビ番組『乃木坂46 橋本奈々未の恋する文学』の最終回で『阿寒に果つ』が取り上げられ、橋本による純子の自殺の場面の再現などが放映された[71][72]

2018年(平成30年)、弟の暮尾淳ら遺族により、純子の絵画15点が奇跡的に保管されていたことが判明した[7]。この作品群や絶筆作品『阿寒湖風景』を含めての展示企画として、翌2019年(平成31年)4月に、初の回顧展『よみがえれ! とこしえの加清純子』が、北海道立文学館で開催された[7][73]。『阿寒湖風景』を含め、実物が揃って公開される企画は、没後初めてのことである[73]。5月11日時点で、入館者の数は通常の2倍から3倍に昇ったといい、文学館の副館長である野村六三は「主催した側が驚くほど」と驚きの声を上げていた[74]

人物

実弟の暮尾淳の証言によれば、戦前の純子は典型的な軍国少女、戦後はアプレゲール(反権威世代)だったという[22]。敗戦によって戦前の価値観や権威が崩壊し、抑圧された時代から解放され、既成の道徳や規範に捉われない若者たちが出現する中、純子もまた芸術を糸口に自由な表現を追及しており、学校は休みがちで、酒もたばこも口にしていた[22]。テストの答案を常に一番先に出していたが、答案用紙にフランス語で「私は書けない」と書いていたこともあった[75]

渡辺淳一によれば、渡辺らと共学となった頃の純子は、デッサンや東京の展覧会を見に行くためと言って勝手に学校を欠席したり、授業に遅れて来たり、途中で抜け出すことも頻繁にあった[76]。深夜まで喫茶店や居酒屋に入り浸ることも多かった[6]。しかし教員たちはそれを黙認しており、純子のみが別格扱いであった[76]。髪はオキシドールで脱色して赤く染めており、後に言うところの「茶髪」であった[32][77]。後に渡辺は、純子の人物像について「表現の世界では平凡なものには価値はなく、だから彼女は常に異常であり続けようとしたのだと思います[注 9]」と話している[22]

肺結核を患っているといわれ、渡辺は純子が吐血する場面を目撃したこともある[37]。しかし純子の死後、彼女と交際していたある内科教授は、結核は虚偽だったと渡辺に打ち明けた[37]。虚偽だとすれば、渡辺の目にした吐血は何だったのか、単なる赤い溶液を口に含んで周囲を脅かしたに過ぎないのか、真相は不明である[37]

一方では、普段から激しい気質の持ち主であり[41]、絵画グループと意見が合わず、友人と紛争が絶えなかったという[43]。正月には「狂賀新年、純子、お前は死ね」との年賀状が自宅に舞い込んでいた[43]。このことから、失踪後から遺体発見まで純子の家族では、純子はこれらのことに嫌気がさして、自殺と見せかけ、以前から憧れていた東京へ出奔したとも考えられていた[43]

交際関係

先述の通り純子は渡辺の作品『阿寒に果つ』のモデルとして、そして渡辺の交際相手として有名になったが、その交際のきっかけは、純子が渡辺に宛てた「今度のあなたの誕生日、わたしが祝ってあげる」とのラブレターであった[76]。それまでは挨拶を交わす程度の仲に過ぎず、渡辺は「なぜ俺に?」と驚いたが[76]、姉の加清蘭によれば、純子のノートには「渡辺淳一という真面目そうな男がいるので、いつか誘惑してやる」と記されていたという[78]

しかし純子は実際には、渡辺との交際以前からも、複数の中年男性と深い関係を持っていた[16]。実姉は純子が師の菊地又男とも深い仲にあったとみており、歳の差がある上に妻子持ちの菊地を「又男」と下の名で呼んでいた[27]。また渡辺との交際以降も他の男性と関係を持っており[16]、渡辺と純子が喫茶店などに行けば、年上の男性たちが純子に話しかけ「これから飲みに行こう」などと誘っていたという[77]。中には高名な画家、医師、新聞記者らもいた[35][36]。渡辺の知る限り、その人数は渡辺を含めて計7人に昇った[37]。後の北海道議会議員である渡部五郎、東京中日新聞に勤める佐藤俊らの名もあった。純子はこうした男性たちの心を狂わせるような、妖しい魔性を秘めた少女ともいわれた[39]。その最もたるものとして、純子の絵のパトロンでありながら、純子に失恋したと言って、デパートの屋上から飛び降り自殺した、中小企業の社長もいた[39]。純子は彼の弔いと称して、そのデパートの屋上から赤いカーネーションを1本1本、地上に撒き、その件を絵と文にして新聞に投稿していた[39]

先述の高校の後輩である岡村春彦とも交際しており、岡村は「恋人同士でした」と話している[6]。岡村の兄である岡村昭彦が刑務所に勾留中、純子は1952年1月18日に、弟の岡村春彦と共に面会に赴き、その途中の夜行列車の中でずっと抱き合っていたという[6]

また純子は、その岡村昭彦とも交際しており、岡村昭彦が最後の恋人とされる[39][注 12]。純子は死の前年である1951年(昭和26年)に、『青銅文学』を通じて岡村昭彦と知り合った[43]。同1951年に岡村が釧路刑務所に収容された直後には、釧路に行って「岡村の恋人」を名乗り、当局を相手に保釈運動を行ったこともある[43]。荒巻義雄によれば、純子は阿寒に経つ前に勾留中の岡村昭彦に面会した際、持ち金の全部を差し入れたという[4][79]。また面会時に、面会簿に純子のことを「知人」と書かれたところ、岡村は「知人ではない、愛人と直してくれ」と言った[6]

勾留中に純子の失踪を知った岡村は「僕が刑務所を出たら半日で探して見せる」と言っていた[80]。同1952年3月3日に保釈で釧路刑務所を出所した後、岡村もまた消息を絶っていたが[80]、純子の遺体発見後には、岡村は阿寒まで60キロメートルもの山道を駆けつけた[6]。岡村は「純子の兄の友人の佐藤」と偽名を名乗り、遺体を見たいと懇願した[4]。しかし警察に拒まれて叶わず。警察は遺体を車に乗せ「不審な者の同乗不許可。出発!」の声と共にその場を発った[4]。悲嘆にくれた岡村は[6]、「純子がどんなに苦しんだか見たかったのだ。そして苦しみを分ち合いたかったのだ。もうなんのために保釈になったかわからない。ぼくは他人の患者を救い自分の妻を殺してしまった[注 13]」と嘆いた[4]。このことは『北海道新聞』1952年4月18日朝刊で、大見出しの記事として掲載となった[4]。同紙によれば、純子の遺体が阿寒湖畔から運び去られた後も、岡村はそこに留まり「純子は可哀想な奴だった」と口走り、地元の人たちの同情を集めていたとある[4]。また同新聞の同1952年4月17日朝刊によれば、岡村が駆けつける前夜に、遺族関係者から「佐藤と名乗る男が行っても、遺留品や遺体に手を付けさせないでほしい」と依頼があったというが、遺族関係者から本当にそのような依頼があったか、関係者とは誰か、なぜ岡村にそのような疑いを持ったかのかは不明である[4]。検死前だったため、現場が乱されることを恐れ、警察関係者が虚偽の話を流したとの見方もある[4]

純子の兄である加清準によれば、その後の岡村は準に「僕がつくまで火葬にしないと約束してくれ。逢って詫びない限り僕は生きられない[注 14]」と請うた[4]。火葬場で加清の柩が炉に入れられる寸前、泥まみれの岡村が「待ってくれ!」と叫びながら駆け込み、柩の上に倒れ込みつつ「純ちゃん、逢いたかった。すまぬ。兄貴! このまま一緒に押し込んでくれ[注 15]」と準に願ったという[4]。写真家となった岡村は後年、準と酒を酌み交わしながら、ベトナム戦争の撮影にあたり「おれは指差して、人間の心を踏みにじる権力者の手先、奴らを、純子! いつまでも呪い続けろ、と叫んだ[注 16]」と語ったという[4]

自殺の理由

純子の死因が自殺と考えられている理由には、過去にも2度、自殺を図ったことがある点が挙げられている[81]。警察では死因について、純子が札幌の文学グループで複数の男性たちと関係を持っていたため、その関係を清算したものと見られた[82]

師の菊地又男は自殺の理由について、純子が好奇心や感情の赴くままに男性たちと戯れており、忍耐や自制を重んじる菊地自身が彼女の行動に耐えきれずに師弟関係を解いたことで、純子が生きる方向や支えを失い、人生から脱線していたと見ている[83]。阿寒湖畔に死去したことについて、菊池は自身が阿寒湖の魅力を純子に教え、その阿寒湖の素晴らしさゆえに、純子はそこを死に場所に選んだと見ている[6]

姉の加清蘭は、純子が芸術活動の上で行き詰まったこと、交際相手とのトラブル、周囲から「天才少女」と称賛されたことに対する重圧などの可能性を示唆しており[6]、「18歳という危険な年齢を乗り越えられなかったのかもしれない」とも語っている[58]。なお姉は純子の没年には東京在住であり、休暇を利用しての帰省を終えて東京に戻る間際、純子は「もう会えないよ。本当だよ。私、死ぬんだよ」と泣き叫んで姉を引き留めようとしており、純子の失踪はその数日後のことであった[84]

弟の暮尾淳も、周囲から将来を期待されたものの行き詰ったことでの自殺と推定しており[4]、「姉は死と戯れているようなところがあった。自殺を初めから考えていたのではなく、道に迷い、死ぬならここでも良いと思ったのでは[注 17]」とも語っている[85]。『毎日新聞』では「札幌の文学グループで数名の男性たちと交際しており、その男女関係を精算したもの」と推定する記事が報じられた[39]。また純子が札幌を発ったのは、同時期に最後の恋人とされる岡本昭彦が医師法違反で勾留されたためとする見方もある[39]

一方で文芸評論家の山下武は、そうした芸術活動上や男性関係での解釈を月並みの解釈とし、純子が自分の交際相手たちに、18歳当時の自分の姿を強く印象付け、永遠にその姿を留めるために自殺した可能性を示唆している[16]。札幌を発つ前に交際相手の家々に花を遺すとの、芝居がかった振る舞いからも、そうした心理が垣間見えるとしている[16]

渡辺淳一は「若い時から背伸びしすぎて疲れたのか[注 9]」と語っているが[22][38]、その一方では、純子はもともと自殺願望があったとも語っている[38]。純子の生前、渡辺がそうした彼女の心情を知らずに、「死のうかな」と呟いた純子に対して、「死ねないくせに」と言い返したことがあった[38]。後に渡辺は「どうだ、死んだでしょ」と言われる夢を見たという[38]。また渡辺は、純子が若さの輝きのまま自らを封印した可能性も示唆しており、「燦然たる頂点のまま死ぬのは素晴らしいことだ[注 18]」「結局、純子が愛していたのは彼女自身だったのだと思う[注 18]」とも語っている[6]

岡村春彦は、純子の失踪当時に自殺の可能性を示唆する周囲の声に対し、自殺の原因が見当たらないと主張していた[18]。後年のテレビ番組においても自殺を否定し、「死に走る材料は見当たらない。吹雪の中をどのくらい歩けるか、ぎりぎりの感覚に自分を立たせ、そう生きるんだと自分を追い込んだかもしれない。そうなら自殺とは言えない[注 9]」と証言していた[22]。学校での同級生の1人もまた、純子が学芸大学に志願していたことを理由として、「自殺の原因など見当たらない」と、自殺説に疑問を唱えていた[86]。こうした証言に加えて、自殺を強く考えていたならば一刻も早く死に走ったはずが、札幌を去ってから阿寒での6日間を悠々と過ごしていたことから、自殺説を否定する意見も挙げられている[86]

影響

渡辺が純子との交際と彼女の死によって受けた影響は大きく[87][88]、渡辺はこの影響により作品上で性や情愛を多く取り上げるようになった[67]。渡辺はその純子からの影響について、後に「わたしにとっては真剣すぎる恋であった。それまで硬派一筋だったわたしが軟派になったのは、まさしく彼女との恋がきっかけであった[注 19]」と語っている[89][90]

僕はその頃、文学志望というわけではなかった。純子との体験がなかったら、作家になっていなかったかもしれない。(中略) 常識を覆す芸術なるものと、女性の不可解さを教えられた。 — 渡辺淳一、小山内 2006, p. 9より引用
彼女と付き合うことで、大人の別の世界を垣間見た、背伸びした喜びとともに、何か自分がどんどん外れて堕落していくような不安も感じていました。そう、そのころはやったジャン・コクトーの「恐るべき子供たち」の一人になっていくような気がしたのです。

しかし、純子さんは当然のことながら動じる気配はありませんでした。私以外の男性ともいろいろ付き合っていたようですが、私はそんな彼女を否定しながら、もう一方ではあこがれていました。(中略)

いずれにせよ、彼女をモデルにした小説「阿寒に果つ」を書くことによって、私はあらためて彼女の心象風景を探りたかったのです。彼女について書かねば、私自身が彼女への思いから解き放たれないと思いました。それを書いてようやく、彼女のことを葬れるというか、記憶の沼に沈めることができるというか。もっとも筆を執るまでには二十年の歳月が必要でした。 — 渡辺淳一「初恋 大人の世界 垣間見る」、石田 2005a, p. 3より引用
彼女からは酒やたばこだけでなく、異常なもののすごみ、それが芸術なのだということを教えられた気がします。(中略)小説も、正常な中に異常さを秘めていないと読まれませんが、その原点は彼女に培われました。 — 渡辺淳一「別離『秘めた異常』小説の原点に」、石田 2005b, p. 3より引用
若かったわたしは彼女から、見知らぬ異国の、いわば禁断の香りをふんだんに嗅ぎとることができた。(中略)彼女とつきあったために、わたしは煙草を覚え、酒を覚え、さらに当時高校生が行かなかった喫茶店とかレストランなどにも行くようになった。さらに夜遅くまでたむろして芸術論などを語り、(中略) そしておそらく、わたしが小説というか、いわゆる芸術のジャンルに関心を抱きはじめたのは、まさしく彼女のおかげでもあった。 — 渡辺淳一「純子の章」、渡辺 1996, p. 2より引用

また渡辺が1995年(平成7年)から新聞連載を開始した小説『失楽園』は、純子との恋におちた時から感じていた空しさを感じていたことから、「愛は常に移ろう虚しさがある」として、それまで作品上で取り上げた性や情愛に、新たに死や心中を取り入れた、渡辺の転機ともいえる作品であった[91]。後に渡辺は1997年(平成9年)に阿寒を訪れ、純子の最後の足取りを辿り、そのことを自著『マイセンチメンタルジャーニイ』に著している[40]

兄の加清準は札幌で財界人となり、岡村昭彦を講演に呼ぶこともあったが、準と岡村の出会いは純子の失踪と死を介してであった[4]。岡村の娘である岡村純子によれば、「純子」の名は父により、最初の恋人の名として名づけられたという[54][92]

弟の暮尾淳は、姉の純子に加え、1975年に末弟が30歳で自殺し、長期にわたって姉や弟のことを深く考えるのを避けてきた[85]。しかし2000年、自身が生死の淵をさまよう大病を患い、1か月後に治癒した後「姉と弟、2人が自分に寄せた思いに後押しされ、生き返った気がした」といい、2人について書いた作品も収めた詩集『地球の上で』を執筆した[85]。版元である青娥書房は、姉の蘭が経営する出版社である[93]。この作品は2013年(平成25年)に、優れた現代詩集に愛知県豊橋市から贈られる「丸山薫賞」を受賞した[85][94]

俳優・朗読家の白坂道子は高校時代、純子の2年後輩であり、純子の自殺を最もショックだったことと回想している[95]

『阿寒に果つ』の映画化が決定した際の、純子の存在感を示すエピソードの1つとして、同映画の主演には、自薦と他薦を含めて、信じられないほど多くの女優たちが主演候補の名乗りを上げたという[11]

評価

映像外部リンク
加清純子さんの回顧展 札幌「阿寒に果つ」モデル - 北海道新聞(1:25時点で『ホオズキと日記』が紹介されている)

十代半ばにして道展に入選し、中央の女流画家展にも出品していたことから、「天才少女画家」の名をほしいままにした[6]。地元の北海道の新聞紙上では「画壇のホープ」と報じられた[1][6]野見山暁治ら、実力派の画家たちからも注目を集めていた[73]

渡辺淳一全集『阿寒に果つ 冬の花火』に解説を寄せた北海道放送のディレクターの森開逞次は、初の道展入選作『ホオズキと日記』や、遺作画集『わがいのち『阿寒に果つ』とも』に掲載されている『鱒[96]』『漁港[97]』、遺作『阿寒湖風景』を指し、「いずれも少女の作とは思えない確信に満ちた力強いタッチの作品[注 20]」と評価している[98]

師の菊地又男は当時の純子のことを「こわいほどの光の見えた少女画家の姿を見た[注 21]」と語っており、『ホオズキと日記』のことは「少女の夢と自由な構成、何よりも純子の楽しそうな歌が聞こえてくる[注 22]」と評した[13]。遺作画集『わがいのち『阿寒に果つ』とも』発行にあたって菊地は「道展入選作『ホオズキと日記』は忘れられない。描き続けていたらと、悔やまれる。ただ、今回画集に収められなかった中にもっといい作品があったはずだ[注 23]」との言葉を寄せた[3][83]

当初は写実的な作風だったが[6]、初の道展入選作『ホオズキと日記』以降は抽象絵画となり[16]、後のある時期からシュルレアリスムに変容していた。姉の蘭は、当初の作品を周囲から称賛されたものの、純子自身には自信が足りず、シュルレアリスムに走ったと見ている[6]。1949年(昭和24年)に自由美術北海道展が企画された際には、東京から北海道を訪れた自由美術家協会会員である井上長三郎大野五郎鶴岡政男村井正誠といった画家たちにも注目された[29]

菊地又男は札幌における反道展、反権威主義を主軸した美術運動として「道アンデパンダン展」を展開しており、菊地に師事した後の純子もまた、菊地の主義手動に賛同した[29]。菊地は、純子の理解度を「1を教えれば3まで憶える」と評している[29]。先述の写生旅行の際に、旅行先の校長、名士、美術関係者による歓迎会の席で、菊地が「ここにいる純子は、道展に入選、アンデパンダン出品作家です」と紹介すると、皆は一様に驚き、賛辞の念を隠せない様子だったという[29]

文芸評論家の川西政明は純子を、敗戦後の日本が生み出した、早熟な天才型の芸術家の典型の1つと考えている。デッサンなどの絵の基本を正確に習得するタイプではなく、才能に任せ、一気に自分の世界を絵に描くタイプと見ている[8]。また絵画以外にも、先述の通り文芸同人誌『青銅文学』で小説、詩、随筆など、早熟な多才ぶりを発揮しており[99]、その感受性豊かな物語世界は大人たちをも驚かせた[22]

しかしながら、中学時代から18歳までという年齢と活動期間は、その才能を開花させるには不十分であり、幼稚さ、未熟さを否定できない作品もあった[16]。渡辺淳一もそれを認め「せめてあと十年長生きしたら、それらのものはより充実し、進化したに違いない[注 24]」と語っている。菊地又男も、初めて純子に逢ったとき、高く評価した『ホオズキと日記』以外の作品は、菊地の目から見れば教科書通りに描いたようなもので、芸術というより物真似の写し物に過ぎず「興味も無い、批評もできない」と言うのが精一杯だった[9]。後には彼女の荒削りな素質を認めていたものの、慎重に言葉を選び、「立派な作品」のような言い方はせず「伸びる素地がある」とのみ語っていた[1][5][16]。先述のように才能に任せて一気に描く手法に対し、理論的なものを卒業してから始めるべきとの声、振る舞いが向う見ずで軌道外れのところがあるので困るとの声もあった[1][5]

文学

画家としての実績の一方で、中学2年生であった1947年3月には演劇コンクールでの上演で演出賞を受賞し、1950年には北海道立札幌女子高校の自治会雑誌「楡」に初めての創作『無筆の画家』を掲載したことで話題を呼んだ[100]。同1950年10月には生徒会文学部の「感覚」創刊号に、セーラー服姿で雌阿寒岳を制覇する模様を記した紀行文『雌阿寒岳を登る』を寄せて[100]、各方面の批評家たちから絶賛された[101]。その後も高校生にして週刊誌「北海ウイクリー」に定期的に随想を寄せ、先述の通り文芸同人誌『青銅文学』でも活躍していた[100]。荒巻義雄はこうした文学上の実績について、「絵描きとしてよりも作家として大成したのではないか」と評している[100]

1951年11月に『青銅文学』第2号に純子が『二重SEX』を寄せた際には、数通のファンレターが純子のもとに届いた[102]。さらに文学誌『札幌文学』の発行人である西田喜代司の目にとまったことで、同誌第9号の「同人雑誌往来欄」にも取り上げられた[102]。『青銅文学』の発行人である樫村幹夫は同作について、異常な性愛を題材とすることのユニークさ、物語性に富む作風、読者を惹きつける観点を評価する一方で、「ミーハー的小説愛好家に喜ばれこそすれ、宝塚歌劇のような作品はまぬがれ得ない[注 25]」とも語っている[102]

著作

  • 『水中もぐり』後藤ひさお画、北日本社〈プランゲ文庫〉、1947年6月20日。国立国会図書館書誌ID:023487235 

年譜

  • 1933年(昭和8年)0歳
    • 7月3日 - 札幌市の教育者の家庭に誕生[2]
  • 1947年(昭和22年)13歳
    • 6月 - 純子の案による漫画『水中もぐり』発行[23][26]
  • 1948年(昭和23年)14 - 15歳
    • 4月 - 菊地又男のもとを訪問。菊地に才能を認められ、彼の師事を受ける[8][9]
    • 9月 - 『ホオズキと日記』により15歳にして、道展で最年少で入選[27]
  • 1949年(昭和24年)15歳 - 16歳
    • 夏季 - 中学3年生の夏休みを利用し、菊地の案内で北海道内を写生旅行で回る[28]
  • 1951年(昭和26年)17歳
    • 春頃 - 渡辺淳一と恋愛関係となる[33]
  • 1952年(昭和27年)18歳
    • 1月16日 - 札幌を去る旨の置き手紙を残し、自宅を発つ[3][16]
    • 1月17日 - 釧路刑務所に勾留中であった岡村昭彦と面会[39]
    • 1月18日 - 渡辺淳一を含め、それまで交際した男性たちの家にカーネーションを残し、札幌を去る[38]
    • 1月19日、21日 - 岡村昭彦と面会[39]
    • 1月22日 - 釧路市の雄阿寒ホテルに宿泊[41]
    • 1月23日 - 雄阿寒ホテルを発ち、失踪[5]。同日、阿寒湖畔で自殺[4][注 1]
    • 4月14日 - 阿寒湖畔で、純子が凍死体で発見される[5]
  • 1967年
    • 1月 - 純子の彼女が参加していた同人誌『青銅文学』が、純子の死などに影響により、27号をもって解散[48][49]
  • 1969年(昭和44年)
    • 8月 - 渡辺淳一が短編小説『自殺のすすめ』において、加清純子を「K子」の名で登場させる[50][104]
  • 1971年(昭和46年)
    • 7月 - 『婦人公論』誌上で渡辺淳一による小説『阿寒に果つ』の連載開始が『婦人公論』誌上で開始[50]。後に大ヒットにより、そのモデルとして純子の知名度が全国に広まる[16]
  • 1972年(昭和47年)
    • 12月 - 荒巻義雄が『白き日旅立てば不死』を刊行。純子をモデルとした女性「加能純子[55]」が登場する[30][56]
  • 1996年(平成8年)
    • 8月3日 - 純子の死の謎に迫るテレビ番組『もうひとつの「阿寒に果つ」〜氷の自画像を尋ねて〜』が放映[63]
  • 1998年(平成10年)
    • 1月 - 札幌市内に「渡辺淳一文学館」が開館[66]。純子から渡辺に宛てて送られたラブレターが展示される[67]
  • 2013年
    • 9月 - 純子の弟の暮尾淳が姉らについて書いた詩集『地球の上で』で丸山薫賞」を受賞[85][94]
  • 2015年
    • 4月18日 - 北海道立文学館で特別展「没後1年 渡辺淳一の世界」が開催され、渡辺淳一と純子の恋と彼女の死などが取り上げられる[69][70]
  • 2016年(平成28年)
    • 3月17日 - 橋本奈々未主演によるテレビ番組『乃木坂46 橋本奈々未の恋する文学』の最終回で『阿寒に果つ』が取り上げられる[71]
  • 2019年(平成31年、令和元年)
    • 4月13日 - 初の回顧展『よみがえれ! とこしえの加清純子』が、札幌市の北海道立文学館で開催[7]

脚注

注釈

  1. ^ a b c 没年月日は検死による推定[4]
  2. ^ a b 『ホオズキと日記』は、資料によっては『ほうづきと日記』との表記もある[12]
  3. ^ 姓の読みは、資料によっては「かせ」とある[11]。道展入選作『ホオズキと日記[注 2]』には「Junko Kasei」とサインがあるが[13][14]、友人たちは「かせ」と呼ぶのが普通だった[14]
  4. ^ 道展(どうてん)。北海道の美術団体・北海道美術協会による美術公募展[15]
  5. ^ 1990年(平成2年)の『朝日新聞』紙上では、渡辺淳一は純子が札幌を去る前に遺した花を、カーネーションではなくバラと書いているが[35][36]、当の渡辺自身、後の2013年(平成25年)の『日本経済新聞』ではカーネーションと語っている[37]
  6. ^ 加清純子の姉である加清蘭は、「蘭子」と表記もある[39]。純子失踪時は札幌市立図書館に勤務[39]
  7. ^ 雄阿寒ホテルは後に取り壊されている[17]。その跡地にはラビスタ阿寒川というホテルが建てられている[40]
  8. ^ 失踪時に残されていた風景画は、2枚との説もある[5]
  9. ^ a b c d 小杉 2019, p. 3より引用。
  10. ^ 道新 1995b, p. 2より引用。
  11. ^ 久才 2017, p. 10より引用。
  12. ^ 渡辺淳一は、純子の最後の交際相手として「ベトナムの写真家として高名だったO・A」とイニシャルのみ挙げている[35][36]
  13. ^ 暮尾 2005, pp. 62–63より引用。
  14. ^ 暮尾 2005, p. 1より引用。
  15. ^ 暮尾 2005, p. 62より引用。
  16. ^ 暮尾 2005, p. 63より引用。
  17. ^ 植村 2014, p. 13より引用。
  18. ^ a b 小山内 2006, p. 9より引用。
  19. ^ 渡辺 1995c, p. 184より引用。
  20. ^ 森開 1996, p. 436より引用。
  21. ^ 菊地 1995, p. 56より引用。
  22. ^ 北海道立文学館 2019, p. 12より引用。
  23. ^ 道新 1995a, p. 31より引用。
  24. ^ 渡辺 1995a, p. 3より引用。
  25. ^ 北海道立文学館 2019, p. 159より引用。

出典

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参考文献

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  • 川西政明『リラ冷え伝説 渡辺淳一の世界』集英社、1993年11月25日。ISBN 978-4-08-774038-7 
    • 暮尾淳「アキヒコ回想手帖 1 天才少女画家抄」『シャッター以前』 Vol.4(原著1990年)。 
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  • 須賀章雅『貧乏暇あり 札幌古本屋日記』論創社、2012年12月30日。ISBN 978-4-8460-1205-2 
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  • 長谷川泉 編『近代名作のふるさと』 東日本篇、至文堂國文學 解釈と鑑賞 別冊〉、1991年3月10日。ISBN 978-4-7843-0114-0 
    • 石川奈保子「北海道 阿寒『阿寒に果つ』渡辺淳一」『近代名作のふるさと』 東日本篇。 
  • 日野原冬子 編『わがいのち『阿寒に果つ』とも 遺作画集』青娥書房、1995年4月14日。ISBN 978-4-7906-0150-0 
    • 渡辺淳一「痛ましさと傲慢さと」『わがいのち『阿寒に果つ』とも 遺作画集』。 
    • 渡辺淳一「少女へのレクイエム」『わがいのち『阿寒に果つ』とも 遺作画集』。 
    • 菊地又男「純子と画」『わがいのち『阿寒に果つ』とも 遺作画集』。 
    • 日野原冬子「不死鳥のように舞い上がる」『わがいのち『阿寒に果つ』とも 遺作画集』。 
  • 山下武『夭折の天才群像 神に召された少年少女たち』本の友社、2004年11月20日。ISBN 978-4-89439-474-2 
  • 渡辺淳一『渡辺淳一全集』 第5巻、角川書店、1996年2月27日。ISBN 978-4-04-573605-6 
    • 森開逞次「解説」『渡辺淳一全集』 第5巻。 
    • 渡辺淳一「告白的女性論 連載 (3) 純子の章」『渡辺淳一全集 月報』第4号。 (上記全集の付録)
  • 渡辺淳一『渡辺淳一作品集』 第6巻、文藝春秋、1981年1月20日。 NCID BN05925402 
    • 川西政明「解説」『渡辺淳一作品集』 第6巻。 
    • 渡辺淳一「南風の吹く夜」『渡辺淳一作品集 月報』第13号。 (上記作品集の付録)
  • 「小説「阿寒に果つ」で甦える 故 加清純子」『月刊さっぽろ』第13巻第8号、財界さっぽろ、1971年8月1日、NCID AA11792493 
  • 「編集後記」『青銅文学』第27号、青銅文学会、1967年1月1日、NCID AA11684843 
  • 『よみがえれ! とこしえの加清純子 画と文と』北海道立文学館、2019年4月13日。 NCID BB2982356X 
  • 『よみがえれ! とこしえの加清純子 再び 特別展』北海道立文学館、2022年1月22日。 NCID BC1411552X 
  • 「著者をたずねてみました 日野原冬子編『わがいのち 阿寒に果つとも』青娥書房 18歳で夭折した天才少女画家の散逸していた絵を集めた遺作画集」『女性セブン』第33巻第25号、小学館、1995年7月6日、大宅壮一文庫所蔵:20002302