斎藤佑樹

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斎藤 佑樹
早稲田大学野球部 #1
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 群馬県新田郡新田町(現太田市
生年月日 (1988-06-06) 1988年6月6日(35歳)       
身長
体重
176 cm
74 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 投手
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

斎藤 佑樹(さいとう ゆうき、1988年6月6日 - )は、早稲田大学野球部に所属するアマチュア野球選手。群馬県出身。早稲田大学教育学部社会科社会科学専修に在学中。

2006年早稲田実業学校高等部3年生の時に夏の甲子園大会で優勝投手になる。折りたたんだハンカチで汗を拭う仕草から、マスコミ各社が「ハンカチ王子」と呼ぶようになる。また「佑ちゃん」という愛称でも親しまれ、このニックネームは現在東北楽天ゴールデンイーグルスに所属する田中将大投手が高校時代に名づけたもの。

人物

家族は父・母・兄・祖母がいる。兄は群馬県立桐生高等学校のキャプテンとして県大会ベスト4に進出している。斎藤も桐生高校進学を考えていたが、より高いレベルを求めて早稲田実業入りを決めた。母は過保護だが、富士重工業硬式野球部に所属していた父は野球の練習に厳しかった。

2002年夏の甲子園で群馬県代表・桐生市立商業高等学校の応援のために阪神甲子園球場へ足を運んだことが、甲子園に憧れを持つきっかけになったという。

高校3年の春季東京都大会で敗れて以来、2007年日米大学野球選手権大会第3戦までの間、登板した公式戦29試合で所属するチームが敗れていなかったため、マスコミはこれを“不敗神話”と呼んでいた。

経歴

中学時代まで

漫画『MAJOR』を兄とともに愛読し、小学校1年生から野球を始める。新田町立生品小学校在籍中は地元リトルリーグ「生品チャンピオンズ」に在籍し主将を務める。同町立生品中学校では軟式野球部に所属。県大会では準優勝、関東大会では準々決勝にまで進み、このころ地元紙『上毛新聞』に取り上げられる。

早稲田実業学校高等部時代

2004年、推薦入試で早稲田実業学校に進学。実家を離れ、東京で兄と二人暮しを始める。野球部では1年からベンチに入る。2005年、背番号1を着けて臨んだ2年夏の西東京大会では、日大三高との準決勝で、3本の本塁打を浴びてコールド負けを喫した。

2年秋の都大会では新チームの副キャプテンを任された。準決勝で再び日大三高と対戦、今度は完封勝利を挙げると、そのまま決勝も制した。11月の神宮大会はベスト4。2006年春の選抜に出場。2回戦で関西高引き分け再試合の末勝利を収めるも、準々決勝では横浜高に打ち込まれて敗退した。

決勝再試合のスコアボード

同年、3年夏の西東京大会では、決勝で三たび日大三高と対戦。延長戦の末サヨナラ勝ちを収め、夏の甲子園大会出場を決めた。甲子園では、準決勝までの5試合全てに先発して相手を2点以内に抑え、さらに3回戦では本塁打を放つなどして、早稲田実業の1980年以来26年ぶりとなる夏の決勝進出に貢献。夏の大会3連覇を目指す駒大苫小牧高田中将大との投手戦になった決勝戦は、延長15回でも決着がつかず、1969年夏松山商高三沢高戦以来37年振りの決勝引き分け再試合となった。翌日の再試合でも斎藤は自ら先発を志願、最後は田中を三振に打ち取って接戦を制し、早稲田実業を初めて夏の甲子園優勝に導いた。

この決勝戦はNHKで視聴率29.1%、決勝再試合も平日の日中にもかかわらず23.8%と高視聴率を記録。斎藤の延長になっても衰えない球速や落ち着いた様子は注目を集め、優勝後のインタビューで家族や野球部員への感謝の気持ちを素直に表した誠実さもあって、マスコミに取り上げられることが多くなった。なお、大会での登板回数69イニング[1]、投球数948球はどちらも一大会における記録としては史上1位。一大会における奪三振78個は、1958年の徳島商高板東英二の83個に次いで歴代2位。

当初から大学進学希望と伝えられていたが、甲子園での活躍に伴いドラフトを控えて報道が過熱、同年9月11日、自身の進路について異例の記者会見を開き、大学進学を表明。「自分は人間としても野球選手としても未熟。大学に進んで成長したい」と語る一方、日米親善高校野球でアメリカ遠征している間に気持ちが揺れたことも明かした。会見には150人以上の報道陣が集まり、テレビで生中継もされたが、会見終了後に斎藤が自分の椅子だけでなく、校長・監督ら同席者全員の椅子も直したところが礼儀正しいと評価された。

のじぎく兵庫国体では、試合前から斎藤の出場に関する問い合わせが野球会場がある高砂市に殺到[2]。早稲田実業の試合には連日観戦客の徹夜組も登場するなど試合前日から長蛇の列ができた。試合当日も観客が殺到し多くの警備員による厳戒態勢のもと、異例の入場整理券が発行され入場制限が行われるなど国体史上稀にみる盛り上がりを見せた。決勝戦は夏の甲子園大会決勝戦を再現する早稲田実業対駒大苫小牧の試合となり、斎藤は再び優勝投手となった。

早稲田大学時代

2007年早稲田大学教育学部社会科社会科学専修に入学。東京六大学野球春季リーグの開幕戦(東大戦)で、1年生としては1927年慶大宮武三郎以来80年ぶりとなる開幕投手での勝利を収めた。さらに、應武篤良監督の厚い信頼を得て、應武がこのシーズンで重視していた2戦目の先発を多く(法大戦・明大戦・早慶戦)任されている。「中学生の時から憧れていた」という早慶戦の第2戦で勝利投手となる。この試合で早大は2季連続リーグ優勝を達成。1年生ながら胴上げをされ「中学生の頃からあこがれていた早慶戦で投げて優勝を決めるということはとても嬉しい」と語った。また優勝パレード後の優勝報告会では「自分がいる4年間で再び早稲田の黄金時代を切り開きたいと思っています。わが早稲田大学野球部は一生勝ち続けます」と声も高らかに宣言した。2007年春季リーグ戦での成績は4勝(リーグ1位タイ)0敗、防御率1.65(同3位)。他にプロ野球ならセーブが付く場面での交代完了が2試合あり(東京六大学リーグにはセーブの制度はない)、チームの10勝中6勝に関与、秋春連続優勝に貢献した。1年生投手としては史上初めて、春季リーグ戦のベストナインに選出された。また東京六大学野球連盟がインターネット上で実施したファン投票によるMVPにも2位を大きく引き離す2,463票を集めて選出された。

同年6月、第56回全日本大学野球選手権大会では2回戦・準決勝・決勝の3試合に登板。準決勝・決勝では2日連続して先発を務め、それぞれ1失点で後続につないで2勝を記録、チーム33年ぶりの選手権制覇に貢献し大会最高殊勲選手に選ばれた。

同年7月、米国で開催される第36回日米大学野球選手権大会の日本代表に選出された。代表監督を務める河原井正雄青山学院大監督は「(不敗神話に賭けるというより)勝ってもらわないと困る」「空振りを取れる球を持っている選手を選んだ。順番的にはトップクラスでの当選。(斎藤を)先発で行こうという気はある」などと語り、期待を寄せた。代表チームでの背番号は「20」。第3戦で先発し、同大会日本代表の1年生投手として初の勝利投手となった。しかし、リリーフで登板した第5戦では一転して制球を乱し、敗戦投手となった。米メディアの取材に対し「日本のプロ野球を経験してから、メジャーに行きたい気持ちはある」と、将来的なメジャーリーグ行きの希望を示した。

同年9月に始まった東京六大学秋季リーグ戦では、開幕戦となる対東大戦で先発を務め、勝利投手となる。1年生投手が春秋ともに開幕戦の先発を務めるのは1929年帝大(現東大)の古館理三以来4人目、1年生投手が春秋ともに開幕戦勝利を収めたのは宮武以来80年ぶり。法大2回戦で6回2失点ながらもリーグ戦での初黒星を喫した。この試合で法大打線はグラブに入る右手の動きで球種を読んでいた。斎藤も降板直後は「頭がパニック状態」だったというが、控え部員らの分析をもとに矯正に成功し、2日後の4回戦ではリーグ戦初完投勝利(チームにとっても2季ぶり)を収めた。早大の3季連続優勝がかかった慶大との3回戦ではリーグ戦初完封に加え自己最多の15奪三振を記録、春に続き優勝決定試合での勝利投手となった。2007年秋期リーグでの成績のうち、防御率0.78は最優秀防御率賞で、2季連続のベストナインにも選ばれた。1年生選手の春秋連続ベストナイン受賞は2005年の上本博紀(早大)以来2人目、投手では初。また、4勝はリーグ最多勝、与四死球率1.55(投球回数57と2/3で四死球10)はリーグ最少だった。ファン投票によるMVPにも春秋連続で選ばれた。

第38回明治神宮野球大会大学の部では3試合全てに先発、東洋大大場翔太と投げ合った決勝戦では6回無失点ながらも、交代直後に味方投手が打たれて準優勝に終わった。

プレースタイル

140km/hを超える球速とコーナーを突く制球力を併せ持ち、変化球は切れのいいスライダーフォークなどを投げる。高校3年の時に覚えたツーシームは、大学に進学後に効果を発揮している。投球スタイルが早稲田実業の先輩荒木大輔に似ているため、高校時代(特に本人が甲子園で優勝するまで)はメディアから「荒木2世」と呼ばれていた。ちなみに、斎藤自身も荒木を尊敬しているという。サンデーモーニング内で大沢啓二は球威そのものはあまりないが、頭がよく駆け引きがうまいと評している。

主に直球、縦と横のスライダー、フォーク、ツーシームを使うが、時にカーブ、チェンジアップ、シュートを混ぜる。 決め球はフォーク・縦のスライダーとしているが、制球と緩急で抑えることが多い。

150球を超えても球速を維持するスタミナを有する。2006年夏の甲子園決勝だけでなく、2006年西東京予選決勝でも221球投げており、最終イニングとなった11回表には149km/hの直球を投げている。

高校2年までは、打たれたり味方がエラーをしたりすると不機嫌な表情を見せることもあったのだが、早稲田実業野球部OBから「投手がマウンド上で怒って、何か得をするのか?」と言われ、以来マウンド上であまり表情を変えないようにしている。また、高校2年春の選抜で打ち込まれたことをきっかけに、膝を折り曲げて腰の位置を強制的に落とす投球フォームに改造したところ、重心が安定してコントロールが良くなった。これが夏の大会での優勝につながったという。このフォームは早大の先輩である佐竹功年(現・トヨタ自動車)のフォームを参考にしたものであり、フォーム改造に一役買ったのは当時早大主将の宮本賢の助言であるという[3]

打者としては、3年時の甲子園大会で6番を打ち、選抜、夏の大会と本塁打を2本放っている。

ハンカチ王子フィーバー

2006年の夏の甲子園大会で早稲田実業が勝ち進むにつれて、斎藤が試合中にマウンド上でポケットに入れた青いハンカチで“上品に”顔の汗を拭く姿が、斎藤の端正な顔立ちも相まって徐々にマスコミに採り上げられるようになった。その頃から「ハンカチ王子」という愛称で呼ばれるようになる。さらに「斎藤が使っているハンカチはどこのものか」といった問い合わせが百貨店や早稲田実業に殺到し、Yahoo! オークションでは同じ種類のハンカチが1万円を超える値がついた。それに伴いジャスダック証券取引所に上場するハンカチメーカー川辺の株がストップ高をつけた。また、「輝け甲子園の星」など斎藤を扱った雑誌の売り上げが急激に伸び、写真集も発売された。

斎藤が使用していた青いハンカチは、初めのうちはブランドさえも分からなかったが、その後ニシオ株式会社が製造・販売していた「GIUSEPPE FRASSON(ジョゼッペ・フラッソン)」のものと判明した。ニシオは同年秋に開催されるのじぎく兵庫国体・のじぎく兵庫大会のマスコットキャラクター・はばタンを刺繍したハンカチも販売しており、斎藤が甲子園球場前の売店で購入したことが報じられるが、既に製造を中止していたためレアアイテムとなった。その後ニシオ株式会社はサンリオ社とタイアップし、「幸せの青いハンカチ」と銘打って、キティちゃんの顔をあしらった青いハンカチを販売した。

斎藤が日米大学野球選手権大会の選抜メンバーに選ばれ渡米すると、以前は大きく報道されることもほとんどなかった同大会の模様が毎日報道されるようになり、試合も生中継された。選抜メンバーには駒大苫小牧から田中将大も参加しており、インタビューでお互いをどう呼んでいるかと質問されたところ、それぞれ「佑ちゃんです」「マー君です」と答え(これは選抜チームの監督を務めた早実の和泉実監督が交流を図るため、名字で呼ぶことを禁止したためである)たため、以降マスコミではこの愛称も使用されるようになった。帰国の際には関西国際空港に500人以上のファンが集まった。

「ハンカチ王子」は2006年の流行語大賞有力候補となり、大賞こそ逃したが流行語大賞のトップテンに入った。なお、候補となった際に高野連から「アマチュアである高校野球が受賞するのは不適切」とのコメントが出された。また、伊藤忠商事を始めとして複数の企業から特許庁商標登録が出願されている[4]

「ハンカチ王子」と呼ばれることに対し斎藤本人はスポーツ報知のインタビューで「『ハンカチ王子』は、もう終わりです。国体で最後に出したので、もうあれでいいかなと」と語っている。ちなみに、青いハンカチを使う以前は、ロッテ黒木知宏投手の背番号54入りのタオルを愛用。高校に入ってから母親が近所の商店街で購入した青いハンカチを使うようになった。なおハンカチ使用については模倣しようとする動きもあったが、高野連に広告禁止の方針があるため兵庫県では「ハンカチを意図的に使うのは野球以外のパフォーマンスにつながり、フェアプレー精神に反する」として警告されている[5]

斎藤が登板する試合には、それまでの野球ファンに加え幅広い年齢層の女性ファンが球場に足を運んだり、週刊女性などの女性週刊誌で表紙を飾ったりした。野球評論家の広岡達朗は斎藤の快投や謙虚な物言い、すがすがしさを絶賛している。一方、決勝再試合直前の斎藤の「投げさせてください」という要望に「ノー」と言わなかった指導者を批判、また、一高校生がハンカチで汗をふいただけで大騒ぎをするマスコミのありかたも批判している。

人気が低迷していると言われていた東京六大学野球も、斎藤が早稲田大学野球部に入部した2007年から日本テレビが試合中継に乗り出し、春季リーグ対明大2回戦では観客3万人を超えた。同リーグで斎藤が登板し、早大の優勝が決まった対慶應2回戦では、神宮球場に約3万6000人の観衆が集まり立ち見が出るほどの超満員となった。満員になったのは1997年春の早慶戦第2戦以来10年ぶり。また、2007年の春季リーグの早大戦に訪れた観客数は、11試合で22万8000人、1試合平均2万727人集まり、前年度に比べ3倍近くに膨れあがった。この人気を受け、東京六大学野球連盟は史上初めてカレンダー(2008年度版、2009年度版)を発行した。

ハンカチ世代

斎藤と同学年の野球選手を指すハンカチ世代という言葉が生まれ、2007年新語・流行語大賞にノミネートされた。これは、斎藤が甲子園で「ハンカチ王子」と呼ばれていたこと、松坂大輔と同学年の野球選手を松坂世代と呼んだことに由来する。

斎藤自身は「ホント『ハンカチ世代』だけはやめてほしいです!」と述べたことがある。最近では田中将大プロで大活躍していることから「マー君世代」と呼ばれることの方が多い。また、野球雑誌などでは「田中・斎藤世代」「斎藤・田中世代」と書かれることもある。

年度別投球成績

早稲田大学






























2007春季 6 4 2 0 0 0 4 0 1.000 104 27.1 15 0 9 29 5 5 1.65 3
2007秋季 8 5 0 3 1 1 4 2 .667 227 57.2 45 1 10 52 7 5 0.78 1
2008春季 9 7 2 2 1 1 3 2 .600 182 46.1 34 2 15 36 9 9 1.75 6
2008秋季 9 9 0 2 2 1 7 1 .875 243 65 36 0 16 54 6 6 0.83 2
通算成績 32 25 4 7 4 3 18 5 .783 756 196.1 130 3 50 171 27 25 1.15
  • 2008年度春季リーグ戦終了時点
  • 各シーズンの太字はリーグ最高

タイトル・表彰・記録

(公式戦のみ)

  • 最優秀防御率(2007年秋季)
  • ベストナイン(2007年春季・秋季,2008年秋季)
  • ファン投票によるMVP(2007年春季・秋季,2008年秋季)
  • 第56回全日本大学野球選手権大会最高殊勲選手(2007年)

日本代表

引用文献

関連書籍

脚注

  1. ^ 準決勝からの4日間42イニングを全て1人で投げきっている。
  2. ^ 関連する外部リンク:国体がやってきた ハンカチ王子に徹夜の列(神戸新聞 2006年10月26日)
  3. ^ 和泉実早実監督の手記による。
  4. ^ 「ハンカチ王子」の商標登録?!商標サポート.com
  5. ^ “王子ハンカチ”使用ダメ 兵庫県高野連が加古川北高指導へ YOMIURI ONLINE 2008年8月8日

関連項目

外部リンク