ロリー・ギャラガー

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ロリー・ギャラガー

ロリー・ギャラガー(Rory Gallagher、1948年3月2日 - 1995年6月14日)は、アイルランド出身のブルース・ロック・ギタリスト。バリーシャノン生まれ、コーク育ち。死後もなお、ジョニー・マー[1]グレン・ティプトン[2]など、ロックのジャンルを超越して多くの後進に影響を与え続けている。なお、英語での発音は「ギャラハー」に近い。

2011年、「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のギタリスト」において第57位。

生涯[編集]

誕生~テイスト結成・解散‏[編集]

ギャラガーは1948年3月2日、アイルランドのバリーシャノンに生まれ、デリーを経て、8歳頃からコークで育った。 幼い頃にテレビでエルヴィス・プレスリーを観て音楽に目覚め、9歳頃、初めてのアコースティック・ギターを両親から贈られている。 レッドベリーチャック・ベリーロニー・ドネガンマディ・ウォーターズなどのレコードを聴き漁り、独学でどんどんギターの腕前を上げていったギャラガーは、12歳の時に地元のタレント・コンテストで賞を取り、その賞金で初のエレキ・ギターを入手した。

そして1963年、15歳の時に、地元の楽器屋で中古の61年製フェンダー・ストラトキャスターを100ポンドで購入。(ストラトを選んだ理由は、当時からギャラガーのアイドルだったバディ・ホリーが使用していたため。)アイルランドに上陸した初めてのストラトだとも、2本目だったとも言われている。

この頃、ギャラガーはすでにバンドに加入し、プロとしての活動を始めていた。1960年代半ばには、国内のみならず、スペインマドリード米空軍基地や、ロンドンなどにも演奏に出かけている。またその後、ドイツハンブルクにも渡った。

1966年にギャラガーは、地元コークでテイストを結成する(最初はザ・テイストと“ザ”が付いていた。)ボーカル&ギター担当のロリーを中心に据えたトリオだった。ギターの自由度を最大限に生かし、インプロヴィゼーションを重視したブルース・ロックが、彼らの目指すところだった。 そんな彼らを世間は、同じくトリオで、当時すでに大きな話題となっていたクリームの再来と称した。しかし、ギャラガーはハンブルク巡業時代にすでにトリオで活動していた。つまり、トリオという発想はギャラガーのほうが先だったのだ。

ところが1967年頃、アイルランドのダブリンでギャラガーのストラトが盗まれた。10日後に市内の公園で発見されたが、雨風に打たれたせいだろう、酷い状態になっていたそうだ。このことからギャラガーのストラトの塗装が剥げ落ちたのは、長年の使用によるものではなく、このときの事件によるものだと見る向きもある。

さて、テイストは1968年にロンドンに進出するが、そこでギャラガー以外のメンバーチェンジが行われ第2期に突入した。彼らはクリームのマネージャーでもあるロバート・スティグウッドと契約を結び、その関係もあってか、1968年11月のロイヤル・アルバート・ホールでのクリーム解散コンサートでは前座を務めた。

テイストは1969年、同名アルバムでデビューを飾った。その人気ぶりは、マーキー・クラブの観客動員数を塗り替えたことや、ライヴを観たジョン・レノンが「素晴らしい才能を持った新人」と評したというエピソードからもうかがえる。またその年、ブラインド・フェイスのアメリカ・ツアーにフリーと共に同行した。

1970年には2nd『オン・ザ・ボード』を発表。その年のワイト島フェスティバルは亡くなる20日ほど前にジミ・ヘンドリックスが出演したことで有名だが、5回ものアンコールを受けたテイストのステージも伝説となっている。しかしその年いっぱいでバンドは解散、ギャラガーはソロ活動を開始した。

ソロ時代~絶頂期‏[編集]

ロリー・ギャラガー 1975

1971年、『ロリー・ギャラガー』でソロ・デビューを飾ったギャラガーは、同年、早くも2作目『デュース』を発表した。これ以降、毎年恒例のようにヨーロッパとアメリカ・ツアーを行い、また、恩師アレクシス・コーナーからの推薦もあり、マディ・ウォーターズの『ロンドン・セッションズ』にも参加した。

1972年、ライヴ・アルバム『ライヴ・イン・ヨーロッパ』を発表、イギリスでトップ10に入るヒットとなった。この年には、メロディーメイカー誌こトップ・ミュージシャン・オブ・ザ・イヤーに選出された。

1973年には『ブルー・プリント』と『タトゥー』を発表。この2作からキーボードが導入されている。また、この年にはジェリー・リー・ルイスの『ザ・ロンドン・セッション』にも参加している。

1974年にはアイルランド・ツアーを行い、その様子はトニー・パーマー監督によってフィルムに収められた。このツアーから、『ライヴ・イン・アイルランド』が生まれた。これは、世界で200万枚以上のセールスを上げる大ヒットとなった。そして、この年には初めて来日、東京、名古屋、大阪で公演が行われている。

1975年には、ポリドールからクリサリスに移籍し、『アゲインスト・ザ・グレイン』を発表。再び来日ツアーを行なった。スイスモントルー・ジャズ・フェスティバルのステージでアルバート・キングと共演したのもこの年のことだった。 この頃、ミック・テイラーの後任としてザ・ローリング・ストーンズに加入する話が持ち上がった。ギャラガーがそれを断った説、オーディションで落ちた説、契約寸前までいっていたとする説、また一緒にレコーディングをしたとする説など、一体どれが真実なのかわからないが、少なくともギャラガーに対してストーンズが強い興味を示し、しかしながらバンドへの加入は実現しなかった、ということだけは確かだ。 ちなみに同じ頃、ディープ・パープルを抜けたリッチー・ブラックモアの後釜に、デイヴィッド・カヴァデールは第一候補にジェフ・ベック、第二候補にギャラガーを考えていたという話もある(結局バンドにはトミー・ボーリンが加入した)。

1976年にはそのディープ・パープルのベーシスト、ロジャー・グローヴァーを共同プロデュースに迎えた『コーリング・カード』を発表した。

1977年には、ドイツのテレビ番組『ロックパラスト』に出演し、その模様はヨーロッパ全土にオンエアされた。また、3度目の来日公演も行なった。その後、再びトリオ編成に戻って、1978年には『フォト・フィニッシュ』、1979年には『トップ・プライオリティ』、1980年には『ステージ・ストラック』をリリース。また、ヨーロッパやアメリカ・ツアーなど、ライヴ活動も変わらず精力的に行っていた。

模索の時代~不遇の晩年‏[編集]

1982年に発表した『ジンクス』は、クリサリスとの契約最後のアルバムとなった。これをリリースし、ツアーを終えると、ギャラガーの活動は緩やかなものになっていく。ヤードバーズの元メンバーが結集したボックス・オブ・フロッグスの2枚のアルバムにゲスト参加したり、東欧の国々をツアーしたり、チャーリー・ワッツジャック・ブルースらと共にエチオピア難民救済コンサートに出演したり、単発のライヴを行ったりなどはしていたが、決してこれまでのように精力的とは言い難い状況だった。

何よりも、ギャラガーはどこのレコード会社とも契約しておらず、そのため作品のリリースがなかった。 そのような状況が数年間続いたが、その結果として、自らレコード・レーベル、カポを設立した。

1987年に、カポから初めての、そしてギャラガーにとって5年ぶりとなるアルバム、『ディフェンダー』を発表した。その後、ヨーロッパ・ツアーにも出かけた。 翌年にも、アイルランド、イギリス・ツアーを敢行。1989年にも何組かのアーティストのアルバムに参加したほか、ヨーロッパ数ヵ国でもライヴを行なった。

1990年には、『フレッシュ・エヴィデンス』を発表。イギリス・ツアーも行なった。また、モントルー・ジャズ・フェスティバルではジャック・ブルースとセッションもしている。そして、1991年には4度目の来日を果たし、その後オーストラリア、アメリカにも足を伸ばした。

1992年にはバンド・メンバーを一新。そのメンバーでのアルバム製作は行われなかったが、ライヴ活動は続けられた。とは言うものの、ギャラガーの活動はまた緩やかなものになっていった。この頃には、長年の飲酒癖のせいで、ギャラガーの体調はかなり悪くなっていった。 しかし、ギャラガーは1994年にヨーロッパ・ツアーを始めた。

そして1995年、ツアー先のオランダロッテルダムで倒れた。ギャラガーの肝臓は限界まで来ていた。4月に肝臓移植手術を受けたが6月14日、その手術が原因となり合併症のため47歳で逝去した。

主な使用ギター‏[編集]

実際のギターの所有数は120本ほどだったらしく、またそれらすべてを使い分けていたと言われているがここではその中でもギャラガーが特に愛用した物を挙げる。

その他[編集]

  • テイスト時代にギャラガーが使用していたこともあり、彼と日本グヤトーンとは非常に関係が深かったらしく、76年発売のLG880マロリーはギャラガーが来日時にオーダーしたものがもとになって製作され、その後継機にあたる、LG1000グローリーのプロトタイプはギャラガーに渡されたといわれている。
  • 1967年にイギリスのウィヴン・アビーで野外コンサート(現在のグラストンベリー・フェスティバルのようなもの)が行われた際、テイストはジミ・ヘンドリックスやティム・ローズ(ジミ・ヘンドリックスの代表曲"Hey Joe"の作者) と共に参加した。その時、ティム・ローズのバンドでドラムを担当していたのがジョン・ボーナムだった。当時既にギャラガーの大ファンだったボーナムは、その場で1曲だけギャラガーと演奏したという。

ディスコグラフィー[編集]

<TASTE>
1969年 Taste
1970年 On the Boards
1971年 Live Taste
1972年 Live at Isle of Wight
1974年 In the Beginning 
1976年 Take It Easy Baby *「In The Beginning」と内容は同じUS盤
1994年 The Best of Taste
<SOLO>
1971年 Rory Gallagher
1972年 Deuce
1972年 Live in Europe
1973年 Blueprint
1973年 Tattoo
1974年 Irish Tour'74
1974年 The Story So Far
1975年 Sinner... and Saint
1975年 Against the Grain
1976年 Calling Card
1978年 Photo Finish
1979年 Top Priority
1980年 Stage Struck
1982年 Jinx
1988年 Defender
1991年 Fresh Evidence
1992年 Etched in Blue
1992年 The G-Man Bootleg Series Vol.1
1995年 A Blue Day for the Blues
1995年 Last of the Independants
1999年 BBC Sessions
2001年 Let's Go to Work 
2003年 Meeting With the G-Man
2003年 Wheels Within Wheels 
2005年 Big Guns: The Very Best of Rory Gallagher 
2006年 Live at Montreux 

脚注[編集]

  1. ^ JOHNNY MARR PLAYS RORY GALLAGHER’S STRAT”. Fender (2013年2月28日). 2015年2月3日閲覧。
  2. ^ グレン・ティプトン公式サイト

外部リンク[編集]