パブロ・エスコバル
この名前は、スペイン語圏の人名慣習に従っています。第一姓(父方の姓)はエスコバル、第二姓(母方の姓)はガビリアです。(Template:スペイン語圏の姓名) |
パブロ・エスコバル | |
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![]() パブロ・エスコバル | |
生誕 | 1949年12月1日![]() |
死没 | 1993年12月2日(44歳没)![]() |
職業 | 犯罪者、テロリスト、実業家、政治家 |
配偶者 | あり |
パブロ・エミリオ・エスコバル・ガビリア (Pablo Emilio Escobar Gaviria、1949年12月1日 - 1993年12月2日) は、コロンビアの麻薬王。
概要[編集]
エスコバルはコロンビア最大の麻薬密売組織「メデジン・カルテル」を創設し、「麻薬王」として世界中に悪名を轟かせた。世界最大の麻薬消費国であるアメリカをはじめ世界中でコカインを密売し世界有数の大富豪の一人に上りつめた。
エスコバルの命令によって3000人[1]以上の人間が殺されたと言われている。それを表す言葉が「Sometimes I am God, if I say a man dies, he dies that same day.」(私は時々神になる。私が死を命じた者は、その日に死ぬ)である。そのためコロンビアやアメリカでは「史上最も凶悪非情な野心に満ちた麻薬王の一人」として知られている。
大富豪であったエスコバルは自宅に飛行場、動物園、私設軍隊まで所有していた。ボニーとクライドが乗ったとされる車やクラシックカーも所有していた。自身はコカインはいっさい嗜まず大麻を愛用したと伝えられる。
生涯[編集]
メデジン・カルテル[編集]
メデジンの中流家庭に育った少年エスコバルは、兄のロベルトによると、頭が良く成績は学校で一番だったという[1]。父は畜産業、母は教師であったが、10代で墓石を盗んで墓碑名を消して転売したのを皮切りに高校を中退、犯罪に目覚め自動車盗、強盗、誘拐、殺人に手を染め始めた。その後、コカイン取引が金になることを知って、1970年代までにメデジン・カルテルを築きあげた。
カルテルの拡大[編集]
1980年代、メデジン・カルテルは販売ルートを拡大して、ペルーとボリビアから持ち込んだ良質のコカインをメキシコ、プエルトリコ、ドミニカに売り込んだ。その後も販売ルートを拡大して、南北アメリカ大陸や一部アジアとも取引するようになりコロンビア政府やアメリカ政府と激しく対立するようになる。
最盛期のメデジン・カルテルは、世界のコカイン市場の8割を支配し年間最大250億ドルの収入を得ていたと見積もられ、エスコバル自身もフォーブス誌で世界で7番目の大富豪として取り上げられた[1]。エスコバルはコロンビア政府やアメリカ政府の敵であったが、貧困層の住宅建設、サッカースタジアム建設などの慈善事業に熱心で、無知で無学な貧困層を中心とした一部のメデジン市民の支持を得て彼らの英雄となった。だが彼の目的は、自分を頼らせることで住民から情報を得て、安全を確保することだった[1]。また複合施設アシェンダ・ナポレスを建設し、恐竜の模型やカバなどの野生動物を入れた巨大な敷地を公開した。
援助を受けたメデジン市民の中には、自ら警護役や見張役をかって出てエスコバルの身を官憲から守る者もいた。1982年には与党・コロンビア自由党に所属する上院議員となったが、翌1983年にはカルテルとの関係が露見し職を追われた。
テロ[編集]
1980年代後半、コカイン流入に頭を痛めたアメリカ政府は、「エスコバルの引渡しとアメリカ国内での裁判」を条件にコロンビア政府と協定を結んだ。これに激しく反発したエスコバルは「plata o plomo (直訳すると「銀か鉛か」、意訳すれば「お金か銃弾か」)と称し、政治家・役人・裁判官への贈賄工作を活発化させる一方、敵対者への暗殺・テロを敢行した。1985年に発生した左派ゲリラによるコロンビア最高裁占拠事件はエスコバルの関与が噂された。
さらに1989年、メデジン・カルテルは、ルイス・カルロス・ガラン・サルミエントら大統領候補者3人の暗殺、アビアンカ航空機203便の爆破、ボゴタの治安ビルの爆破などのテロ行為を実行している。そしてライバル組織であるカリ・カルテルとの抗争も激化し、メデジン周辺は無政府状態に陥った。
「刑務所」への収監[編集]
1990年、セサル・ガビリアが大統領に就任。彼は大統領候補時代に暗殺されかけた事から、エスコバルを恐れ、そして屈服してしまった[1]。アメリカへの引き渡し制度を廃止し、有罪を1つ認めれば、他のすべての犯罪は不問にするとした。この前代未聞の判断にアメリカ大使館、国務省、大統領は激怒した[1]。
1991年、エスコバルは5年の服役とアメリカへの引渡忌避を条件にコロンビア政府と合意すると、「ラ・カテドラル(La Catedral、教会や大聖堂[1]の意)」または「オテル(ホテル)・エスコバル」と称されるエスコバル個人用の豪華な設備を備えた刑務所(この施設自体がエスコバルによって建設されたものだった)に収監された。エスコバルの部屋はベッドやソファ、ウォークインクローゼットまで備わるスイートルームで[1]、他にも、サッカー場やディスコ、執務室さえ完備していた。看守や他の囚人さえもエスコバルによって選ばれており[1]、危険などはまったくなかった。警察は周囲3キロ以内へ立ち入る事さえ禁止されていた[1]。「ラ・カテドラル」での生活は快適で、エスコバルは今までどおりここから組織に指示を出し続け、豪勢なパーティーを開いては、美女を呼んで乱交をした[1]。メデジン市内にも自由に外出し、買い物やサッカー見物を楽しんだ。
しかし1992年にエスコバルが刑務所内で2件の殺人事件を起こし(殺された2人の内、1人はエスコバルの幼馴染だった。幼馴染の友人は、囚人の前で幼馴染であるエスコバルに気安い態度を取り、それに激昂したエスコバルが男性を射殺した)、事件が表面化すると、さすがに世論も沸騰、及び腰だった政府も動き、別の刑務所への移管が計画された。1992年7月22日移管の日、エスコバルは刑務官の前を堂々と歩いて刑務所を出ると、移管先の刑務所に向かわず、そのままメデジン市中に姿を隠した。
殺害[編集]
潜伏したエスコバルは、コロンビア政府、アメリカの諜報部隊・情報支援隊(当時のコードネーム central spike)、カリ・カルテルに追われる身となったが、独裁的なエスコバルの追い落としを目的とする「Los Pepes(パブロ・エスコバルに虐待された人々)」と称する闇のグループからもつけ狙われた。「Los Pepes」は、エスコバルの家族や手下300人以上を殺害してメデジン・カルテルに大打撃を与えた。犯行現場には必ず「Los Pepes」の署名を残したという。エスコバルは味方には多くの恩恵を与えたが、敵対者を殺害する前に指を切り落とすなどの残虐行為を犯したため、多くの人々の恨みもかっていた。その後、「Los Pepes」は、敵対するカリ・カルテルが組織したグループだと判明し、市民は愕然としたという。
しかしながら「Los Pepes」の身元に関しては明確な証拠がなく、カリ・カルテル出自のものであるという確認もなく、軍と警察を支援していたデルタフォースの関与も取りざたされているが真偽の程は明らかではない。確かなのは、争いが激しさを増す状況でエスコバルに身近な人々の殺害を積み重ねて行くだけの組織的な実行力を備えていたということである。これらに関してはナショナルジオグラフィックチャンネルで放映された Situation Critical シリーズの「Hunting Pablo Escobar」でも触れられており、デルタフォースの関与を危惧したアメリカ政府による懸念も伝えられている。
その後政府はエスコバルの一部の家族の身柄を確保し、さらに1993年12月2日、コロンビア国家警察直下のコロンビア治安部隊の電波調査斑が、メデジンの中産階級住宅街の隠れ家から息子と携帯電話で通話するエスコバルの居場所を突き止め、治安部隊の特捜チームが突入して屋根の上に逃れたエスコバルに一斉射撃を加えて殺害した。44歳没。エスコバルの脚と背中、さらに耳の後ろに致命傷の銃弾痕が残っていたという。
なお、「密かに出動していたデルタフォースの狙撃手がエスコバルを仕留めた」と信じる者や、「自殺した」と信じる者、さらには、「射殺されたのは別人でエスコバルは逃走して優雅な生活を続けている」と信じる者がいる。エスコバルは死によって伝説化され、今でもメデジンの英雄として信望する者が多い。エスコバルの妻子は敵対者の報復を恐れて各地を転々としたが、現在、名前を変えてアルゼンチンに住んでいるという。
遺体の確認[編集]
発掘に反対していた母エルミルダ・ガビリアの死後2日経った2006年10月28日、エスコバルの遺体が甥のニコラス・エスコバルの要請で掘り出され、DNAの採取・鑑定の結果、遺体が実際にエスコバルのものであったことが確かめられた。エル・ティエンポ紙の報道によれば、エスコバルの先妻マリア・ビクトリアは、ビデオカメラで発掘を記録していた。家族の何人かは、エスコバルが自殺したと信じていた[2][3]。
死後[編集]
エスコバルの死後、メデジン・カルテルは分断され、そのリーダー達も1990年代半ばまでに殺害または逮捕され、現在、コカイン市場はカリ・カルテルの支配下に移っている。エスコバル亡き現在、コカインの単価は低下し取引量は増加の一途をたどっている。 アシェンダ・ナポレスはコロンビア麻薬取締局によって差し押さえられたがその後放置され、後にテーマパークとして再開発された[4]。
置き土産[編集]
エスコバルの死後、彼が作った私設動物園は解体されたが、アメリカから持ち込まれた4頭のカバは運搬が困難などの理由で現地で放置された。このカバはマグダレナ川の自然条件下で繁殖を続け、2034年には最大1400頭前後にまで増殖すると見込まれている。2021年現在、個体数の調整の是非が地域の中で議論されている[5]。
パブロ・エスコバルを扱った作品[編集]
映画[編集]
- わが父の大罪 〜麻薬王パブロ・エスコバル〜
- (2009年、コロンビア=アルゼンチン。監督:ニコラス・エンテル。ドキュメンタリー作品)
- (2016年、アメリカ合衆国。監督:ブラッド・ファーマン。ロバート・メイザーの回顧録『The Infiltrator』が原作。)
- (2017年、アメリカ。監督:ダグ・リーマン、主演:トム・クルーズ)
テレビドラマ[編集]
- パブロ・エスコバル 悪魔に守られた男(2012年、原作・制作:フアナ・ウリベ、カミロ・カノ)
- ナルコス(2015年8月28日 - 、脚本・製作総指揮:クリス・ブランカトー)
ドキュメンタリー[編集]
- パブロ・エスコバルが作り上げた時代(2012年、監督:アレッサンドロ・アングロ)
- ライバルが暴く 真実と秘密「パブロ・エスコバル」(ナショナルジオグラフィック)
伝記[編集]
- Killing Pablo(著:Mark Bowden、1992年、Penguin Books、paperback) ISBN 0-14-200095-7
- パブロを殺せ(訳:伏見威蕃、2002年4月、早川書房) ISBN 4-15-208413-8
- Mi hermano Pablo (My Brother Pablo) (著:Roberto Escobar Gaviria、2000年、Quintero Editores)
- 当書を原作とした映画『Escobar』が、オリバー・ストーンの監督で2008年に制作される予定だったが、中止となった。
- エスコバル狩り(原題:Killing Pablo、2001年、著:マーク・ボウデン)
- 当書を原作とした同名映画の公開が2009年に予定されていたが、プロデューサーが2008年に破産申請したために制作中止となった。
音楽[編集]
- ヒップホップアーティストのナズがパブロ・エスコバルを敬愛し、自らの別名として「ナズ・エスコバル」を名乗っている。
- El Pablo(ヒップホップアーティストのSnootie Wildによる楽曲。2016年)
脚註[編集]
- ^ a b c d e f g h i j k ナショナルジオグラフィック『ライバルが暴く 真実と秘密「パブロ・エスコバル」』
- ^ EL TIEMPO - Pablo Escobar's body exhumed (スペイン語)
- ^ Video of Escobar's exhumation (スペイン語)
- ^ http://jp.vice.com/others/pablo-escobars-old-house
- ^ “「麻薬王」のカバ増殖…「駆除すべき」「観光資源だ」で論争”. 読売新聞 (2021年2月22日). 2021年2月22日閲覧。
参考文献[編集]
- Noticia de un secuestro(著:ガブリエル・ガルシア=マルケス、1996年6月) ISBN 978-0-14-026247-6
- 誘拐(訳:旦敬介、1997年11月、角川春樹事務所) ISBN 978-4-89456-043-7
- キラー・エリート 〜 極秘諜報部隊ISA
- (著:マイケル・スミス、訳:伏見威蕃、2009年11月、集英社文庫) ISBN 978-4-08-760592-1
関連項目[編集]
- セバスチャン・マキロン - 実子
- アンドレス・エスコバル
- アルバロ・ウリベ
- カルロス・カスターニョ・ヒル
- ジョージ・ユング
- アルベルト・フジモリ
- クンサー
- ブロウ (映画)
- ナルコス・アメリカ合衆国で製作されたパブロと取締捜査官達の戦いを描いたドラマシリーズ
- デルタフォース2
- ジョン・ハイロ・ベラスケス - エスコバルの下で活動していた殺し屋の元締め
外部リンク[編集]
- 麻薬王パブロ・エスコバルの生涯を映画化 ストーン監督など AFP 2007年10月10日