橘氏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。Nao Costas (会話 | 投稿記録) による 2022年10月3日 (月) 01:22個人設定で未設定ならUTC)時点の版 (→‎清友・入居流)であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

橘氏

橘紋(代表的な家紋
※ 各、橘系氏族によって異なる。
氏姓宿禰
のち橘朝臣
氏祖 橘三千代
橘諸兄
種別 皇別
著名な人物 橘奈良麻呂
小式部内侍
橘嘉智子(檀林皇后)
橘逸勢
橘好古
橘遠保
楠木正成
後裔 有良朝臣
広岡朝臣
薄家公家[1]
武者小路家(公家)[2]
青山家(地下家
深井家(地下家)
和田家(地下家)
袖岡家(地下家)
角田家(地下家)
橘氏 (筑後国)武家
岩室氏(武家)
渋江氏武家
楠木氏?(武家、伝承)など
凡例 / Category:氏

橘氏(たちばなうじ)は、日本氏族のひとつ。姓(カバネ)は宿禰、のち朝臣

飛鳥時代末期に県犬養三千代(橘三千代)葛城王(橘諸兄)を祖として興った皇別氏族

概要

の代表的なものの一つとして源氏平氏藤原氏とともに「源平藤橘」(四姓)と総称されている[3]

飛鳥時代末、県犬養三千代元明天皇から「橘宿禰(たちばなのすくね)」の氏姓を賜った[4] ことに始まる。その子・葛城王が橘諸兄へ改名した後、諸兄の子孫は橘氏を称した。諸兄は初め「橘宿禰」の姓を受け、その後「橘朝臣」の姓を賜与された。平安時代に入ると、橘氏の多くは「橘朝臣」を称した。

平安時代中期まで代々公卿を輩出したが、その後は橘氏公卿が絶え、以後振るわなかった。ただし、楠木氏は本姓を橘氏と自称し、南北朝時代弘和2年/永徳2年(1382年)に楠木正儀楠木正成の三男)が南朝参議に任じられ、公卿となっている。

出自

橘氏は、県犬養三千代(橘三千代)が姓を賜ったのち、子の葛城王(橘諸兄)・佐為王(橘佐為)も橘宿禰の姓を賜ったことに始まる[5]

県犬養三千代は天武朝から命婦として仕えたほか文武天皇の乳母を務めたともされ、後宮の実力者として皇室と深い関係にあった。三千代は初め美努王の妻となり、葛城王や佐為王を生んだ。694年に美努王が大宰帥として九州へ赴任すると、代わって藤原不比等の夫人となり、藤原光明子(光明皇后)らを生んだ。和銅元年(708年)11月25日、元明天皇大嘗祭に際して、天武天皇治世期から永く仕えてきた三千代の功績が称えられ、橘の浮かんだ杯とともに「宿禰」の氏姓が賜与された。

橘三千代が天平5年(733年)に没すると、同8年(736年)11月11日に三千代の子の葛城王と佐為王が橘宿禰の氏姓継承を朝廷へ申請し、同月17日に許された。葛城王は橘諸兄と改名し、佐為王は橘佐為を称した。諸兄は既に天平3年(731年)から参議に就いて議政官(公卿)を勤めていたが、天平9年(737年)には大納言へのぼると、翌10年(738年)には右大臣へ、同15年(743年)には左大臣へ昇進し、聖武孝謙両天皇の治世期に太政官首班として政治に当たった。天平勝宝2年(750年)正月16日には朝臣の姓を賜り、これ以降、諸兄は「橘朝臣」を称した[5]。橘氏の歴史の中で最も権勢を誇ったのがこの諸兄の時期である[5]

歴史

奈良時代

橘諸兄が天平勝宝9年(757年)正月に薨御すると、その子・橘奈良麻呂藤原仲麻呂との政権争いに敗れ、同年7月に謀叛の疑いをかけられて獄死した(橘奈良麻呂の乱)。

平安時代

その後しばらく橘氏は議政官(公卿)に名を連ねることはなかったが、奈良麻呂孫の橘嘉智子(檀林皇后)が嵯峨天皇皇后となると、状況は一変した[5]。当時、皇后を輩出した臣下氏族は藤原氏のみであり、橘氏からの立后は貴族社会における橘氏の地位を上昇させた。弘仁13年(822年)に橘常主(奈良麻呂孫)が約70年ぶりの橘氏公卿となり、さらに嘉智子出生の皇子仁明天皇として即位すると、嘉智子の兄橘氏公外戚として目覚ましい昇進を遂げ、承和11年(844年)には右大臣に至った。一方で、橘氏傍系の橘逸勢(奈良麻呂孫)が承和の変により排斥される事件も発生したが、嘉智子が健在の時期に橘氏は総じて勢力を大きく伸長している。橘氏の子弟教育を行う大学別曹学館院は、嘉智子により設立されたものである。

9世紀半ばから10世紀後半の時期の橘氏公卿は、橘岑継(氏公長男)、橘広相(奈良麻呂5代の孫)、橘澄清(常主曾孫)、橘良殖(常主孫)、橘公頼(広相6男)、橘好古(広相孫)、橘恒平(良殖孫)ら7名にのぼった。その多くは参議または中納言止まりであったが、好古は大納言まで昇進した。永観元年(983年)に参議在任3日で薨去した恒平を最後として、橘氏公卿は絶えた[5]

以降、橘氏は受領クラスの中下流貴族となり、中には地方に土着する者も現れた。例えば藤原純友の鎮圧のために大宰権帥として九州下向した参議橘公頼子孫は、そのまま筑後に土着して武士となり、筑後橘氏を称したとされている。また、奥州にも定着した橘氏もおり、10世紀末に活躍した橘好則清原武則の甥で前九年の役で活躍した橘貞頼頼貞兄弟がその代表と言える[6]

鎌倉時代以降

中央では好古の孫にあたる則隆の子孫が嫡流として続き、中世にはこの系統から橘氏唯一の堂上家で、代々橘氏長者となった薄家が残る。しかし、薄家も山科言継の子で薄家に養子入りした諸光(以継)が羽柴秀吉に罰せられて横死し、天正13年(1585年)に絶家した。

江戸時代に入ると、元和6年(1620年九条家諸大夫であった信濃小路宗増関白九条幸家の命令により醍醐源氏から橘氏に改姓し、信濃小路家が橘氏の嫡流とされた[7]。また、そのほかに地下家として、外記方青山家中務省史生)・深井家(賛者)、官方和田家(弁侍)などが橘姓を称し、中でも深井家は薄家の直系(祖の定基を以継の子とする)を称した[8]。また、江戸時代後期の学者である頼山陽は薄家の庶流末裔といわれている。

系図

出自・嶋田麻呂流

清友・入居流

主な橘氏の人物

橘氏後裔

氏族
  • 有良朝臣
  • 広岡朝臣
  • 小鹿島氏
  • 楠木氏(伝承) - 『太平記』などの文学作品では、橘氏の支流で敏達天皇・橘諸兄の後裔とされる。後醍醐天皇を奉じた鎌倉幕府の打倒により楠木氏の名を一躍天下に知らしめた楠木正成自身、建武2年(1335年)8月25日の『法華経』奥書(湊川神社宝物)で橘朝臣正成を称している。また『橘氏系図』も正成を橘氏として扱っている。正成の三男、楠木正儀弘和2年/永徳2年(1382年)に南朝において参議へ昇任し、橘恒平以来399年ぶりの橘氏公卿となった(北朝を含め、11世紀以降で最後の任官)。しかし、歴史的事実としては出自不明。伊予橘氏の支流ではないか、という説もある。
人物

橘氏の現れる文学

文楽歌舞伎の演目のひとつである『芦屋道満大内鑑』では、内裏左大将である「橘 元方」が、秘伝書の相続人を身内の者にするため、また身内の御息所皇太子親王)の子を懐妊させることを意図して、誘拐殺人などを企てる。この陰謀芦屋道満安倍晴明の活躍で暴かれ、橘元方は流刑に処される。

脚注

  1. ^ 橘氏嫡流で唯一の堂上家。最後の当主薄諸光山科言継の子)が卒去し、後継者を欠いたため1585年絶家。
  2. ^ 室町時代初期に断絶。
  3. ^ 『国史大辞典』(吉川弘文館)四姓項。
  4. ^ 【橘氏(たちばなうじ)】”. 世界大百科事典 第2版 (1998年10月). 2013年4月11日閲覧。
  5. ^ a b c d e 『国史大辞典』(吉川弘文館)橘氏項。
  6. ^ 野口実『東国武士と京都』(同成社、2015年、ISBN 9784886217110) P110-111.
  7. ^ 地下家伝』巻21
  8. ^ 『地下家伝』巻4

参考文献

関連項目

外部リンク