橘公業

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橘公業
時代 平安時代末期 - 鎌倉時代前期
生誕 不明[1]
死没 不明[1]
改名 公業→公蓮(法名)
別名 公成、小鹿島公業、通称:橘次
官位 右馬允
幕府 鎌倉幕府 長門守護
主君 源頼朝
氏族 伊予橘氏または橘氏則光
父母 父:橘公長
兄弟 公忠公業公経公仲
公苗公義、公員
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橘 公業(たちばな の きみなり)は、平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての武士公成小鹿島公業とも[1]表記される。長門国守護。弓の名手であったと伝えられている。

略歴[編集]

橘公長の次男[1]として誕生。

元々平知盛の家人であった父に従い、治承四年(1180年)に平家を見限って源頼朝の麾下に入る[1]奥州合戦の論功で出羽国小鹿島(現秋田県男鹿市)の地頭に補された[1]文治5年(1189年)に起きた大河兼任の乱では敵前逃亡するなど一時は源頼朝の不興を買うが、結果として援軍を待ってから敵に当たった行為が適切であったとの評価を得、乱後も小鹿島の所領を維持したほか、加えて出羽国秋田郡(現秋田県南秋田郡潟上市秋田市)を得た。

承元3年(1209年)12月、御家人美作朝親の室と密通していたことから、朝親との間で合戦となり掛ける事態となり、実朝の命を受けた北条時房の仲介により事なきを得るという騒ぎにまで発展している。

承久3年(1221年)、長門守護となる[1]嘉禎2年(1236年)に、本領であった伊予国宇和郡[1]西園寺公経に譲り、替地として肥前国杵島郡長島庄、大隅国種ケ島豊前国副田庄、肥後国球磨郡久米郷を与えられ、子孫は肥前国杵島郡長島庄を中心に広がることとなり潮見山に潮見城を築き居城とす(1237年)。かつて所領とした小鹿島の地名をとった小鹿島氏として知られ、子の公義の子(公業の孫)の代に至り渋江、牛島、中村、中橋の四家に姓を改め肥前を中心に繁栄した。

出典[編集]

  1. ^ a b c d e f g h 【小鹿島公業(おがしま-きみなり)】”. デジタル版 日本人名大辞典+Plus (2009年1月). 2013年6月11日閲覧。

関連項目[編集]