承久の乱

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承久の乱

瀬田の唐橋朝廷にとって宇治川とともに瀬田川は防衛の要衝で、現在の滋賀県大津市の瀬田一帯も戦場となった[1]
戦争:承久の乱
年月日:(旧暦承久3年6月
ユリウス暦1221年6月 (802年前) (1221-06)
場所平安京周辺、北陸道東山道東海道
結果鎌倉幕府の圧勝
交戦勢力
鎌倉幕府 朝廷
指導者・指揮官
北条義時
北条泰時
北条時房
北条朝時
武田信光
三浦義村
後鳥羽上皇
藤原秀康
大内惟信
三浦胤義
山田重忠
戦力
約190,000(吾妻鏡 約1,700(諸説あり)

承久の乱(じょうきゅうのらん)は、1221年承久3年)に、後鳥羽上皇鎌倉幕府執権北条義時に対して討伐の兵を挙げて敗れた兵乱。日本初の武家政権という新興勢力を倒し、古代より続く朝廷の復権を目的とした争いである[2]承久の変承久合戦ともいう[3]

日本史上初の朝廷武家政権の間で起きた武力による争いである。鎌倉幕府の初代将軍源頼朝から3代将軍実朝までの3人は清和天皇の血を引く源氏将軍であり、朝廷にとって身内ともいえ、この間は武力行使には至らなかった。しかし、3代将軍実朝が暗殺されて鎌倉から源氏将軍が途絶えると、幕府は朝廷から形だけの4代将軍を迎え入れ、実際は将軍の補佐役である執権北条義時が幕府の実権を握ったことで、この2年後、後鳥羽上皇は挙兵したが幕府に敗北し隠岐に配流された[2][4]

以後、鎌倉幕府は、朝廷の権力を制限し、京都に朝廷を監視する六波羅探題を置き、皇位継承等にも影響力を持つようになった。承久の乱の勝利で、それまで3代にわたる源氏将軍の時代は東国一帯に影響力を持つ地方政権に過ぎなかった鎌倉幕府は、朝廷の支配が強固だった西日本を支配下に加えることができ日本全土の統治を進めることとなった。

概要

平安時代末期の保元の乱平治の乱などにより、貴族階級の衰退と武士階級の飛躍的な台頭の後、1185年に初めての武家政権となる鎌倉幕府が成立したが、東日本を勢力下においた鎌倉幕府と、西日本の支配を保った朝廷による2頭政治となり、朝廷では新興の武家政権への反感が募っていったが、源氏将軍が鎌倉幕府を率いている間は挙兵とはならなかった。しかし、鎌倉幕府の初代将軍源頼朝が落馬で死亡、2代将軍の頼家と3代将軍の実朝が次々と暗殺され、源氏将軍が断絶し、この実朝が暗殺された1219年以降、北条氏執権職にもかかわらず鎌倉幕府を実質的に手中に収めるに至り、朝廷は、武家政権打倒と日本全土の統治回復を目指すこととなり、この2年後に承久の乱が勃発した[4]

背景

治承・寿永の乱の過程で、鎌倉を本拠に源頼朝武家の棟梁として東国武士を中心に樹立された鎌倉幕府では、東国を中心として諸国に守護地頭を設置して警察権を掌握していた。一方で西国への支配は充分ではなく、依然として朝廷の力は強く、幕府と朝廷の二元政治の状態にあった。

後鳥羽上皇は多芸多才で『新古今和歌集』を自ら撰するなど学芸に優れるだけでなく、武芸にも通じ狩猟を好む異色の天皇であった。それまでの北面武士に加えて西面武士を設置し、軍事力の強化を図った。後鳥羽上皇の財源は長講堂領八条院領などの諸国に置かれた膨大な荘園群にあった。ところが、これらの荘園の多くに幕府の地頭が置かれるようになると、しばしば年貢の未納などが起こり、荘園領主である後鳥羽上皇やその近臣と紛争を起こすようになった。

承久元年(1219年)1月、幕府将軍の源実朝が甥の公暁に暗殺された[注 1]。実朝の急死により、鎌倉殿の政務は実朝の母である北条政子が代行し、執権である弟の北条義時がこれを補佐することとなった。また、新たな京都守護として義時の妻の兄の伊賀光季と、幕府の宿老大江広元の嫡男で源通親猶子として朝廷と深いつながりのあった大江親広を派遣した。

幕府は新しい鎌倉殿として、後鳥羽上皇の皇子である雅成親王(六条宮)を迎えたいと後鳥羽上皇に申し出る。これに対し、後鳥羽上皇は近臣藤原忠綱を鎌倉に送り、愛妾亀菊の所領である摂津国長江荘、椋橋荘の地頭職の撤廃と院に近い御家人仁科盛遠(西面武士)への処分の撤回を条件として提示した。義時はこれを幕府の根幹を揺るがすとして拒否する。義時は弟の北条時房に1000騎を与えて上洛させ、武力による恫喝を背景に交渉を試みるが、朝廷の態度は強硬で不調に終わる。ただし後鳥羽上皇は、皇子でさえなければ摂関家の子弟であろうと鎌倉殿として下して構わないと妥協案を示した。このため義時は皇族将軍を諦め、摂関家から将軍を迎えることとし、同年6月に九条道家の子・三寅(後の九条頼経)を鎌倉殿として迎え、執権が中心となって政務を執る執権体制となる。将軍継嗣問題は後鳥羽上皇にも、義時にもしこりが残った。

ここで、将軍継嗣問題について語る上で問題とされているのは、実朝が生前から既に自己の後継者として皇族将軍の迎え入れを検討していたとする説である。上横手雅敬が唱えたもので、建保4年(1216年)の9月に実朝が大江広元に語ったとされる「源氏の正統この時に縮まり、子孫はこれを継ぐべからず。しかればあくまで官職を帯し、家名を挙げんと欲す」(『吾妻鏡』)を、然るべき家柄(皇室)から後継を求め、それ(皇族将軍の父)に相応しい官位を求めたとし、後鳥羽上皇もこれを承諾したために実朝を昇進させたという説である。この説の弱点として、実朝暗殺後に後鳥羽上皇が皇族将軍を拒絶したことに説明がつかなくなることが挙げられる。これについて河内祥輔は、現職将軍である実朝が暗殺されたことで、実朝が皇子を猶子などの形で後継指名して将軍の地位を譲り実朝はその後見となる構想が破綻してしまったことと、新将軍に反対する勢力による皇子の暗殺が危惧される状況となったために、後鳥羽上皇が皇子の安全を図るさらなる保障(河内はこれを幕府機構および北条氏以下主要御家人の鎌倉から京都への移転とみる)を求めて幕府側が拒絶したとしている。逆にこの時に、皇族将軍のみならず摂家将軍の擁立も後鳥羽上皇が拒絶すれば、追い込まれるのは主の目処を失ってしまう幕府側である。河内は、後鳥羽上皇が必ずしも倒幕を目指していた訳ではなかったため三寅の鎌倉下向を容認したのであり、承久の乱における最終目的も「鎌倉における現行の幕府体制」の打倒であって、後鳥羽上皇影響下の京都において「幕府」が存続することまでは反対していなかった、と説く。また、これらとは別に白根靖大は、後鳥羽上皇は治天としての政治力を背景として家格上昇を望む中級公家層を自己の支配下に置き、さらに後鳥羽院政の元で摂関家に準じた家格上昇を手に入れていた(公家社会的な見方からすれば軍事を家職とする新興公家である)鎌倉将軍家=源氏将軍への影響力強化を図ったとする。だが、後鳥羽上皇が将軍後継問題において、北条氏(公家社会の認識では、鎌倉将軍家の家司筆頭で諸大夫名家級の中級公家に過ぎないとみなされる者)によってその介入を果たせなかったことにより、北条氏の排除を考えるようになったとする。

同年7月、大内守護源頼茂源頼政の孫)が後鳥羽上皇の命によって在京の武士に攻め殺される事件が起きた。理由は『吾妻鏡』では後鳥羽上皇の意志に背いたためとし、『愚管抄』『保暦間記』では頼茂が将軍に就こうと図ったためとされているが、幕府の問題のために後鳥羽上皇が朝廷の兵力を動かすのは不自然であり、頼茂が後鳥羽上皇による鎌倉調伏の加持祈祷を行っていた動きを知ったためとする説もある。そのためか、事件の直後に後鳥羽上皇が祈願に使っていた最勝四天王院が取り壊されている。また『愚管抄』には頼茂と藤原忠綱の間に怪しい共謀があったとし、忠綱は実朝暗殺後に九条基家を次期将軍にしようと画策して後鳥羽上皇に解官・所領没収されており、その赦免を願っていたのが卿二位兼子だったと記されている。そのことから、卿二位の推す頼仁親王の将軍就任が後鳥羽上皇によって拒絶され、卿二位の政敵西園寺公経の外孫三寅が有力な将軍候補となったため、卿二位が何らかの妨害を企み発覚したのが頼茂謀反の真相で、後鳥羽上皇は在京武士の訴えで頼茂捕縛を試みたが召喚に応じず討伐に至ったとして、承久の乱に至る公武対立の図式ではなく後鳥羽院政下における権力闘争の一コマとして位置付ける説もある[6][7]

朝廷と幕府の緊張は次第に高まり、後鳥羽上皇は義時を討つ意志を固めたが、土御門上皇はこれに反対し、摂政近衛家実やその父基通をはじめ多くの公卿たちも反対または消極的であった。順徳天皇は討幕に積極的で、承久3年(1221年)に懐成親王(仲恭天皇)に譲位し、自由な立場になって協力する。また、近衛家実が退けられて、新帝外戚の九条道家が摂政となった。さらに、寺社に密かに命じて義時調伏の加持祈祷が行われた。討幕の流説が流れ、朝廷と幕府の対決は不可避の情勢となった。

上皇挙兵

後鳥羽上皇

承久3年(1221年)5月14日、後鳥羽上皇は城南宮で催す「流鏑馬揃え」を口実に諸国の兵を集め[8]、北面・西面武士や近国の武士、大番役の在京の武士1700余騎が集まった。その中には有力御家人の尾張守護小野盛綱近江守護佐々木広綱検非違使判官三浦胤義も含まれていた。幕府の出先機関である京都守護大江親広(大江広元の子)は京方に加わり、同じく京都守護の伊賀光季は招聘を拒んだ。同時に親幕派の大納言西園寺公経は幽閉された。翌15日に京方の藤原秀康近畿やその近国6か国[注 2]守護大内惟信率いる800騎が伊賀光季邸を襲撃、光季はわずかな兵で奮戦して討死したが、下人を落ち延びさせ変事を鎌倉に知らせた。

後鳥羽上皇は三浦氏小山氏武田氏などの有力御家人に対して、義時追討の院宣を発する[注 3]。また、同日に朝廷からも諸国の御家人、守護、地頭ら不特定の人々を対象に義時追討の官宣旨が出されている。同時に備えとして、近国の関所を固めさせた。京方の士気は大いに上がり、「朝敵となった以上は、義時に参じる者は千人もいないだろう」と楽観的だった。これに対して東国武士の庄家定は「義時方の武士は万を下るまい。自分も関東にあったなら義時に味方していた」と楽観論を戒め、後鳥羽上皇の不興を買った。

京方は院宣の効果を絶対視しており、諸国の武士はこぞって味方すると確信していた。前述の通り、後鳥羽上皇は三浦義村をはじめ幕府の有力御家人には格別の院宣を添えて使者を鎌倉に送った。特に三浦義村については弟の三浦胤義が「(実朝の後継の)日本総追捕使に任じられるなら必ず御味方しましょう」と約束しており、大いに期待されていた。

鎌倉へは、西園寺公経の家司三善長衡と伊賀光季からの上皇挙兵の急報が19日に届けられた。京方の使者はその少し後に到着し、警戒していた幕府方に捕らえられた。胤義からの密書を受けた三浦義村は使者を追い返し、ただちに密書を幕府に届けた。21日には院近臣でありながら挙兵に反対していた一条頼氏が鎌倉に逃れてきた。

上皇挙兵の報に鎌倉の武士は大いに動揺したが、北条政子は上皇の挙兵は鎌倉幕府全体への攻撃であるとして御家人達に鎌倉創設以来の頼朝の恩顧を訴え、「讒言に基づいた理不尽な義時追討の綸旨を出してこの鎌倉を滅ぼそうとしている上皇方をいち早く討伐して、実朝の遺業を引き継いでゆく」よう命じたことで、動揺は鎮まった。『承久記』には、政子が館の庭先にまで溢れるばかりの御家人たちを前に涙ながらの大演説を行ったことで彼らの心が動かされ、義時を中心に鎌倉武士を結集させることに成功したという記述がある。一方、『吾妻鏡』では、御家人の前に進み出た政子の傍らで安達景盛が政子の声明文を代読したと記されている。

皆心を一にして奉るべし。これ最期の詞なり。故右大將軍朝敵を征罰し、關東を草創してより以降、官位と云ひ俸祿と云ひ、其の恩既に山嶽よりも高く、溟渤よりも深し。報謝の志これ淺からんや。而るに今逆臣の讒に依り非義の綸旨を下さる。名を惜しむの族は、早く秀康・胤義等を討取り三代將軍の遺蹟を全うすべし。但し院中に參らんと慾する者は、只今申し切るべし。 — 『吾妻鏡』承久三年辛巳五月十九日壬寅条(原文は変体漢文)

もっとも、鎌倉の武士はこの演説に心打たれて安易に鎌倉方についたとみるべきではなく、むしろ打算的であった。『承久記』慈光寺本には、政子の演説に心動かされた甲斐国の武田信光が出陣後に隣国の小笠原長清に対して「鎌倉が勝てば鎌倉につき、京方が勝てば京方につく」のが武士の習わしであると公言し、北条時房から恩賞の約束をする書状が届けられると積極的に進軍を始める姿が描かれている。鎌倉の武士はどちらに味方をすれば勝てるかという状況分析や、一族内の利害関係(勝利すれば、敵方についた一族の所領を奪うことが出来る)なども検討した上で、その多くが損得勘定に基づいて鎌倉への支持を決めたのであった[10]

乱の経過

承久の乱幕府軍進路

5月19日の北条義時、北条泰時、北条時房、大江広元、三浦義村、安達景盛らによる軍議では、箱根足柄で徹底抗戦をする迎撃論が有力であったが、広元は逡巡して幕府方の団結がくずれる恐れがあるという理由で即時京への積極的な出撃を主張した。政子も広元に賛成して武蔵の国の軍勢が到着次第、上洛するように命じた。ところが武蔵の国の軍勢を待っている中に、21日には再度慎重論が盛り返してきた。広元は「武蔵勢を待つのも上策ではない。泰時一人でも出発されたら、他の勇士達は続々ついて行くでしょう」と述べたので、泰時は早速鎌倉を発向した。従うもの、子息時氏以下十八騎に過ぎなかった(『承久記』によれば慎重論者は他ならぬ泰時であったとされる。上横手雅敬によれば、泰時の主張が通された場合、幕府側の団結が崩れたことはあり得た。この時の泰時の態度は、彼の生涯における最大の過誤であったとしている)。5月22日には軍勢を東海道東山道北陸道の三方から京へ向けて派遣した。泰時は途中で鎌倉へ引き返し、上皇が自ら兵を率いた場合の対処を義時に尋ねた。義時は「君の輿には弓は引けぬ、ただちにを脱いで、の弦を切って降伏せよ。都から兵だけを送ってくるのであれば力の限り戦え」と命じたと言う(『増鏡』)。幕府軍は道々で徐々に兵力を増し、『吾妻鏡』によれば最終的には19万騎に膨れ上がった。

義時は捕らえていた上皇の使者に宣戦布告の書状を持たせて京へ追い返す。鎌倉の武士たちが院宣に従い、義時は討滅されるであろうと信じきり、幕府軍の出撃を予測していなかった後鳥羽上皇ら京方首脳は狼狽した。とりあえず、藤原秀康を総大将として幕府軍を迎え撃つこととして、1万7500余騎を美濃国へ差し向ける。京方は美濃と尾張の国境の尾張川に布陣するが、少ない兵力を分散させる愚を犯していた。6月5日、甲斐源氏武田信光小笠原長清が率いる東山道軍5万騎[注 4]は、大井戸渡に布陣する大内惟信高桑大将軍(実名不詳)が率いる京方2000騎を撃破した。この戦いで戦死した高桑大将軍は、『承久記』によると、幕府軍、朝廷軍、通して承久の乱での戦死第一号とされる。藤原秀康と三浦胤義は支えきれないと判断し、宇治瀬田で京を守るとして早々に退却を決める。6日に泰時、時房の率いる主力の東海道軍10万騎が尾張川を渡河し、墨俣の陣に攻めかかった時にはもぬけの殻、山田重忠のみが杭瀬川で奮戦するが、京方は総崩れになり、大敗を喫した。

北条朝時率いる北陸道軍4万騎も5月30日には宮崎定範が守る蒲原の難関を突破、同日夕には宮崎城も落として越中国に乱入[11]、6月9日[注 5]には砺波山での激戦[注 6]も制して京をめざした[注 7]

当初見込んでいた鎌倉方の離反がなく、予想外の防禦戦を強いられた京方は、西国の武士に対する公権力による動員の発動に追い込まれた。実際の兵力の動員状況からは京都周辺地域からの兵力の確保に成功していたものの、鎌倉方の進撃が予想以上に早く(鎌倉方の出陣から京までの進軍に22日間)、西国の武士の中には上皇の命を受けて京方に参戦するため上洛する前に勝敗が決してしまった事例もあったとみられている[10]

美濃・尾張での敗報に京方は動揺して洛中は大混乱となった。後鳥羽上皇は自ら武装して比叡山に登り、僧兵の協力を求めるが、上皇の寺社抑制策が災いして比叡山延暦寺はこれを拒絶した。やむなく、京方は残る全兵力をもって宇治・瀬田に布陣し、宇治川で幕府軍を防ぐことに決め、公家も大将軍として参陣した。6月13日、京方と幕府軍は衝突した。京方は宇治川の橋を落とし、雨のように矢を射かけ必死に防戦する。幕府軍は豪雨による増水のため川を渡れず攻めあぐねたが、翌14日に佐々木信綱を先頭として強引に敵前渡河し、多数の溺死者を出しながらも敵陣の突破に成功した[注 8]。京方は潰走し、14日夜には幕府軍は京へ雪崩れ込んだ。幕府軍は寺社や京方の公家・武士の屋敷に火を放ち、略奪暴行を働いた。

『承久記』によると、敗走した京方の藤原秀康、三浦胤義、山田重忠は最後の一戦をせんと御所に駆けつけるが、上皇は門を固く閉じて彼らを追い返してしまう。山田重忠は「大臆病の君に騙られたわ」と門を叩き憤慨した。

後鳥羽上皇は幕府軍に使者を送り、この度の乱は謀臣の企てであったとして義時追討の院宣を取り消し、藤原秀康、三浦胤義らの逮捕を命じる院宣を下す。上皇に見捨てられた藤原秀康、三浦胤義、山田重忠ら京方の武士は東寺に立て篭もって抵抗した。三浦義村の軍勢がこれを攻め、藤原秀康、山田重忠は敗走し、三浦胤義は奮戦して自害した。その後、山田重忠も落ち延びた先の嵯峨般若寺山で自害、藤原秀康は河内国において幕府軍の捕虜となった。

戦後処理

7月、首謀者である後鳥羽上皇は隠岐島、順徳上皇は佐渡島にそれぞれ配流された。討幕計画に反対していた土御門上皇は自ら望んで土佐国へ配流された(後に阿波国へ移される)。後鳥羽上皇の皇子の雅成親王(六条宮)、頼仁親王(冷泉宮)もそれぞれ但馬国備前国へ配流された。仲恭天皇(九条廃帝、仲恭の贈諡明治以降)は廃され、後鳥羽の同母兄行助入道親王(守貞親王)の子が即位した(後堀河天皇)。親幕派で後鳥羽上皇に拘束されていた西園寺公経内大臣に任じられ、幕府の意向を受けて朝廷を主導することになる。

後鳥羽上皇の下にあった膨大な荘園群は没収され、新たに治天として後堀河天皇の院政を執ることになった行助入道親王(後高倉院)に与えられた。ただしその支配権は幕府が握っていた。

討幕計画に参加した上皇方の「合戦張本公卿」と名指しされた一条信能葉室光親源有雅葉室宗行高倉範茂ら公卿は鎌倉に送られる途上で処刑され、坊門忠信らその他の院近臣も各地に流罪または謹慎処分となった。また藤原秀康、藤原秀澄後藤基清佐々木経高河野通信加藤光員ら御家人を含む京方の武士が多数粛清、追放された。しかし大江親広は父広元の嘆願もあり赦免されている[注 9]

乱後、幕府軍の総大将の泰時、時房らは京の六波羅に滞在し、朝廷の監視や西国武士の統率を行う。朝廷は京都守護に代り新たに設置された六波羅探題の監視を受けるようになり、皇位継承をも含む朝廷に対する鎌倉幕府の統制が強化された。

京方の公家、武士の所領約3000箇所が没収され、幕府方の御家人に分け与えられ新補地頭が大量に補任された。

事件後

承久の乱後、朝廷は幕府に完全に従属した。幕府は朝廷を監視して皇位継承も管理するようになり、朝廷は幕府をはばかって細大漏らさず幕府に伺いを立てるようになった。院政の財政的基盤であった八条院領などの所領も一旦幕府に没収され、治天の管理下に戻された後もその実質的な所有権は幕府に帰属した。承久の乱には鎌倉と京都の二元政治を終わらせて武家政権を確立する意義があったといえる[12]

鎌倉幕府の御家人で源氏一門(御門葉)の重鎮だった大内惟信は敵方である後鳥羽上皇に味方して敗死し、源頼朝が最も信頼を置いていた平賀氏大内氏は没落することになる。

処刑された院近臣の多くは後鳥羽上皇の支持を受けて家格の上昇を目指した家々だったが、乱によって逆に衰退あるいは没落することとなり、院近臣層にも変化が見られるようになった。これは父が初めて大臣となり、自身の昇進も類似した経歴をたどっていた反対派の西園寺公経と挙兵派の坊門忠信のそれぞれの後裔の浮沈が、この乱を契機に大きく分かれることが物語っている。

また西国で京方の公家や武家から多くの没収地を得、これを戦功があった御家人に大量に給付した。このため多くの東国御家人が西国に所領を獲得し、幕府の支配が畿内や西国にも強く及ぶようになる。

承久の乱の翌年に生まれた日蓮は、この事件を「先代未聞の下剋上」として捉えた。この時の朝廷には既に国家を統治する力がなかったとし、「王法すでに尽ぬ」と解釈した。東国人である日蓮は自身の京都への反発もあり、実質的な武家の指導者である鎌倉の北条得宗家こそが真の「日本の国主(国王)」であると考えていた。このため数々の弾圧にもかかわらず国家諌暁の対象を鎌倉幕府にのみ行い、京都や朝廷に対する自己の教えの布教には消極的あるいは否定的であったとする見方がある[13]

参戦武将

幕府軍

承久の「乱」と「変」

安田元久[14]によると、本事件についての呼称は、鎌倉幕府側の文献『吾妻鏡』では「承久兵乱」「承久逆乱」「承久三年合戦」「承久三年大乱」といった表記を用いた。南北朝時代には、北朝方の武士の手によると推定される『保暦間記』では「承久ノ乱」「承久ノ事」、南朝方の北畠親房神皇正統記』でも「承久の乱」と表記された。こうして、大正中期まで「承久の乱」の表記が主流となり、次いで「承久の役」が使われることもあった。

江戸時代になると尊王論に基づく『大日本史』が「承久の難」と表記し、後鳥羽上皇を逆臣・北条義時の被害者として書く主張が生まれた。『大日本史』編纂に携わった安積澹泊は、『大日本史賛藪』で「乱」「難」と共に、初めて「承久の変」表記を用いた。さらに大正時代になると、皇国史観から「承久の変」の表記を積極的に使うようになり、国定教科書でも大正9年(1920年)版『尋常小学国史』から「変」表記になった。これは、上皇が起こしたのだから「反乱」ではないという思想からである。その後も学界では「乱」「役」「合戦」表記も使われたが、昭和10年代後半、太平洋戦争期になると、専門書でも「承久の変」表記にほぼ統一されるに至った。しかし、「変」は主に不意の政治的・社会的事件に、「乱」は主に武力を伴う事件に使われていることから、安田は戦乱の発生した本事件を「乱」と呼称すべきことは疑問の余地もないとしている。

第二次世界大戦後は、「乱」表記が主流になっている。しかし、田中卓の『教養日本史』を始め、明成社の高等学校用教科書『最新日本史』、新しい歴史教科書をつくる会の中学校用教科書『新しい歴史教科書』など、保守派には「変」の表記も一部に見られる。

承久の乱の目的は討幕だったのか?

今日において、承久の乱は後鳥羽上皇が鎌倉幕府を打倒するために挙兵したとする見方が通説[注 10]となっているが、実はこの見方にはいくつもの問題がある。後鳥羽上皇が義時を討伐するために出された院宣および続いて朝廷から出された官宣旨において示された討伐の対象がいずれも義時個人であること、その討伐理由として次期将軍である九条三寅(後の頼経)を軽んじていることを挙げて院宣には討伐の前に鎌倉幕府内部で義時の幕政「奉行」の停止(政治的引退)を説得させようとしていること(討幕目的であれば三寅またはその後見人である北条政子の追討を命じる文言が含まれるはずである)、そしてそれらの文書が送付された対象の中に鎌倉幕府の機関の末端である守護・地頭や御家人が含まれていること、そして京都守護である大江親広在京御家人らがこの命令を奉じて鎌倉の義時討伐に向かっていることなど、討幕を目的とするのであれば矛盾する内容になっている。そのため近年の研究者の間では承久の乱は討幕目的ではなく、北条義時を幕府から排除する目的であったとする説が有力だが、通説を塗り替えるには至っていない[16]

京都府京都文化博物館学芸員で中世の公武関係史が専門の長村祥知の研究によれば、承久の乱が討幕目的と認識されるようになった背景には、義時を実質上の首班とする鎌倉幕府があたかも上皇が討幕を目的として兵を挙げたとして「京都対坂東」の戦いであると称して御家人を招集したことがあり、その影響を受けた鎌倉幕府編纂の『吾妻鏡』や『承久記』の一部本がこの見方に基づいて承久の乱を描いた。さらに『太平記』や『梅松論』などもこれを受け継ぐ形で承久の乱に触れるという形で広まりを見せた。これに対して『百錬抄』『皇代暦』など京都で編纂された歴史書の中には、院宣や官宣旨の内容を受けて義時討伐の戦いとして承久の乱を描いた書が存在していたが、室町時代に入ると京都でも朝廷の事務方を担う外記のトップであった清原業忠および養子の宣賢が『御成敗式目』の注釈において『吾妻鏡』の解釈に基づいて上皇の挙兵を「関東」「武家」の「退治」が目的であったとする解釈を行なった。『吾妻鏡』および清原氏による『御成敗式目』の注釈は戦国時代に知識人の間で広く読まれており、承久の乱を討幕目的とする見方の一般化に大きな影響を与えた。こうして、14世紀から16世紀にかけて承久の乱が実在の文書から裏付けられる事件の実態から乖離した討幕事件として変容・再構成されたと考えられ、それがその後においても大きな影響を与えているとみられている。

一方で、承久の乱当時は“鎌倉幕府”というような武家政権を表現する言葉がなく、討伐の対象としては個人名を上げるのが自然である。平安末期の以仁王の令旨においても討伐対象としては平清盛個人の名前が挙げられており、鎌倉末期の後醍醐天皇の綸旨においても北条高時個人の名前が討伐対象として挙げられている。だからといって以仁王や後醍醐天皇が清盛や高時の排除のみを目指し、平氏政権や鎌倉幕府の打倒を目指していなかったとは考えられない。また幼児の三寅や女性の政子は討伐対象としては不適当であり、義時が当時の幕府の最高権力者であることは明らかなため(後醍醐天皇の綸旨にも、実権の全くなかった当時の幕府の将軍守邦親王の名は成人男性であるにもかかわらず挙げられていない)、義時の打倒=倒幕と考えるのが自然だとする反論もある[17][18][19]

また倒幕説を採用した場合、疑問として残されるのは、「何故、九条三寅(後の頼経)の鎌倉下向を後鳥羽上皇が認めたのか?」という点である。仲恭天皇の母九条立子は三寅の伯母であり、何事もなければ仲恭天皇の治世を祖父である後鳥羽上皇と外戚である九条家がこれを支え、九条家出身の将軍を擁した幕府もその影響下に置かれるからである。つまり、後鳥羽上皇と彼を頂点とする「王家」は外戚政策を介して幕府の包括に向かって進んでいたと言える[20]のに倒幕説はこの流れに矛盾することになり、この説明が求められることになる[注 11]

ただし、慈円は西園寺公経(三寅の外祖父)に宛てた書状で「実は後鳥羽院は大変にご立腹である。三寅の下向を本心では納得せず反対していたのを、自分がいろいろと工作して漸く下向に漕ぎつけた。やはり院は自分が武士を思うようにできないのは、不本意だと思っておられるようだ」(『門葉記』)と述べており、後鳥羽の挙兵の動機は将軍擁立問題に対する不満にあると認識している[22]

史料

歴史書

  • 愚管抄』:慈円著。一説に慈円はこの書をもって後鳥羽上皇に討幕を思いとどまらせようとしたという。
  • 吾妻鏡』:編纂物。鎌倉幕府の半公式記録。

軍記物

  • 承久記』:全2巻。承久の乱を記した軍記物。乱の原因を後鳥羽上皇の不徳であると記している。異本が多い。これを基に江戸時代に描かれた『承久記絵巻』が個人蔵で現存している[5]

歴史物語

  • 六代勝事記』:承久の乱を後鳥羽上皇が不徳の「悪王」であったことに原因があるとしている。
  • 増鏡』:前述の北条義時と泰時の逸話と後鳥羽上皇の隠岐での様子を伝える。

脚注

注釈

  1. ^ 承久記』など旧来の説では、これは「官打ち」(身分不相応な位にのぼると不幸になるという考え)などの呪詛調伏の効果であり、後鳥羽上皇は実朝の死を聞いて喜悦したとしている。しかし上横手雅敬は、後鳥羽は武士の臣従を前提とした公武融和路線を進めており、官打ち説は取るに足らぬ俗説とし、幕府と後鳥羽間で、建保六年(1218年)の政子上洛時に、後鳥羽の皇子を実朝の養子とし、将来の将軍として東下させる密約が成立したとした。近年では、後鳥羽上皇は武家政権との対立ではなく、当初は公武融和による政治を図っており、そのために実朝の官位を進め優遇していたとの見方が強い[5]
  2. ^ 伊勢伊賀越前美濃丹波摂津
  3. ^ 慈光寺本『承久記』には武田氏、小笠原氏、小山氏、宇都宮氏長沼氏足利氏三浦氏及び北条時房に対して発したとする。他の『承久記』諸本には武田氏、小笠原氏、千葉氏、小山氏、宇都宮氏、三浦氏、葛西氏に対して出されたとする。慈光寺本は成立が一番古い上に『承久記』の中で唯一院宣本文を採録されていること、その内容が現存する後鳥羽上皇の他の院宣に類似の形式が見られることから、慈光寺本に記された院宣は実際に発給されたものの引き写しであった可能性が高いとされる[9]
  4. ^ 『吾妻鏡』ではこのほか下野国小山朝長下総国結城朝光も大将軍に任じられたとしているが、『承久記』ではこの事実は見られず、旗下の兵もほとんど甲斐・信濃の出身者で構成されており、東山道軍は甲斐源氏を主体とした軍勢であったと考えられている。なお、乱の論功行賞で甲斐源氏の一族は畿内・西国の所領を与えられており、承久の乱を契機に甲斐源氏の一族は西国へ進出している。
  5. ^ 砺波山の戦いを6月9日とするのは、『吾妻鏡』等で8日に越中の般若野に着いたとされる朝時軍が翌明け方に砺波山に攻め入った(「しきぶのせい未だあけがたの事なるに、うんがのせいをもてをしよせ時をどつとつくりければ」云々)とする『承久軍物語』や夜通しかけて山を越えた(「よをこめて、いがらしとうをさきとして、山をこえけれハ」云々)とする『承久兵乱記』の記載を根拠とする。
  6. ^ この戦いで京方の糟屋有久有長仁科盛遠、宮崎定範らが戦死しており、激戦であったことが裏付けられる。
  7. ^ ただし義時は『大日本史料』所引の現地指揮官(市河六郎刑部)宛て御教書(『市河文書』所収)で「たしかにやまふみをして、めしとらるへく候、おひおとしたれはとて、うちすてゝなましひにて京へいそきのほる事あるへからす」と、山狩りをして一人残らず召し捕るよう命じており、決して入京を急ぐことがないよう念押しもしている。そのためか、北陸道軍が入京を果たしたのは、『承久記』慈光寺本では6月17日、『百練抄』では20日、『武家年代記』では24日と、いずれにしても戦いの帰趨が決したあととなっている。
  8. ^ ただし幕府方のこうむった損害も甚大で、この戦闘において桃井義助伊佐為宗熊谷直国津々見忠季庄忠家安保実光関政綱といった諸将が犠牲となっている。
  9. ^ その他京方では、藤原朝俊平保教らの廷臣、多田基綱佐々木高重大内惟忠八田知尚小野成時らの武将が各地で戦死。山田重継佐々木勢多伽丸も戦後処刑されている。また僧尊長は、この後6年に及ぶ潜伏の後、幕府方に発見され誅殺されている。
  10. ^ 例えば『新版 日本史辞典』[15]には「後鳥羽上皇が鎌倉幕府をうつためにおこした兵乱」と定義されている。
  11. ^ 河内祥輔のように後鳥羽上皇に摂家将軍を廃止する意思があり、それが慈円の『愚管抄』における後鳥羽批判につながっているとする説もある[21]が、河内も承久の乱を倒幕説ではなく親王将軍への交代を目的とする見地に立っているため、倒幕説の観点からの反論ではない。

出典

  1. ^ 参考:琵琶湖を源とする「淀川」は、上流部は「瀬田川」、中流部は「宇治川」、京都・大阪府境界付近で「桂川」と呼ばれ、大阪府内で「木津川」と合流して「淀川」となり大阪湾に注ぐ一級河川国土交通省 水管理・国土保全局
  2. ^ a b 高校「新選日本史 B」東京書籍
  3. ^ 承久の変(じょうきゅうのへん)とは”. 2020年7月6日閲覧。
  4. ^ a b 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)。鎌倉幕府の歴史を3つに分けた場合、源氏将軍・執権政治得宗専制となる。執権政治については、北条義時の実姉の北条政子が、朝廷側の有力貴族の藤原氏から2歳の三寅丸(みとらまる(幼名)、後の藤原頼経)を将軍後継に迎えたが、実質的な鎌倉幕府の運営は、執権職にあった北条義時に行なわせた。この執権政治は、鎌倉時代後期から始まる得宗専制まで続いた
  5. ^ a b 「後鳥羽上皇は倒幕を目指さなかった」承久の乱800年 新解釈や資料発見『読売新聞』朝刊2021年5月13日(文化面)
  6. ^ 佐々木紀一「源頼茂謀反の政治的背景について」(『山形県立米沢女子短期大学附属生活文化研究所報告』第31号、2004年)
  7. ^ 山本みなみ『史伝 北条義時』小学館、2021年
  8. ^ 承久の乱800年 追討令一転「武士の世」促す”. 日本経済新聞 (2021年4月15日). 2022年5月21日閲覧。
  9. ^ 長村祥知「承久三年五月十五日付の院宣と官宣旨-後鳥羽院宣と伝奏葉室光親-」(初出:『日本歴史』744号、2010年 所収:『中世公武関係と承久の乱』(吉川弘文館、2015年)ISBN 978-4642029285
  10. ^ a b 長村祥知「承久の乱にみる政治構造」『中世公武関係と承久の乱』(吉川弘文館、2015年)ISBN 978-4642029285
  11. ^ 大日本史料』第4編第16冊65-71頁
  12. ^ 鈴木かほる『相模三浦一族とその周辺史』(新人物往来社、2007年)
  13. ^ 坂井法曄 著「日蓮と鎌倉政権ノート」、佐藤博信 編『中世東国の社会構造 中世東国論』 下、岩田書院、2007。ISBN 978-4-87294-473-0 
  14. ^ 安田元久「歴史事象の呼称について : 「承久の乱」「承久の変」を中心に」『学習院大学文学部研究年報』第30号、学習院大学、1983年、p145-167、ISSN 04331117NAID 110007563533 
  15. ^ 朝尾直弘編『新版 日本史辞典』(角川書店、1996年)ISBN 4-04-032000-X
  16. ^ 長村、2015年、pp.110-114、p.131
  17. ^ 日本史史料研究会・監修、関口崇史・編『征夷大将軍研究の最前線 ここまでわかった「武家の棟梁」の実像洋泉社歴史新書y、2018年
  18. ^ 本郷和人『承久の乱 日本史のターニングポイント文春新書、2019年
  19. ^ 鈴木由美『中先代の乱 北条時行、鎌倉幕府再興の夢中公新書、2021年
  20. ^ 曽我部愛「後宮からみた後鳥羽王家の構造」(初出:野口実 編『承久の乱の構造と展開-転換する朝廷と幕府の権力』(戎光祥出版、2019年)/所収:曽我部『中世王家の政治と構造』(同成社、2021年) ISBN 978-4-88621-879-7)2021年、P175-176.
  21. ^ 河内祥輔「朝廷再建運動と朝廷・幕府体制の成立」所収:『日本中世の朝廷・幕府体制』(吉川弘文館、2007年) ISBN 978-4-642-02863-9
  22. ^ 山本みなみ『史伝 北条義時』小学館、2021年

参考文献

  • 上横手雅敬『北条泰時』吉川弘文館、1958年
  • 村上光徳 『慈光寺本承久記の成立年代考』「駒澤國文」駒澤大学文学部国文学研究室 1960年
  • 上横手雅敬「承久の乱」『岩波講座日本歴史5 中世1』1962年
  • 『日本の歴史 (7) 鎌倉幕府』中公文庫、1974年、ISBN 412200070X
  • 安田元久「歴史事象の呼称について」『学習院大学文学部紀要』30号、1983年
  • 渡辺保『北条政子』吉川弘文館人物叢書〉、1985年。ISBN 4642050027 
  • 別冊歴史読本『後鳥羽上皇 野望!承久の乱』新人物往来社、1990年
  • 河内祥輔「日本中世の朝廷・幕府体制」『歴史評論』500号、1991年12月。 /改題所収:河内祥輔「朝廷・幕府体制の諸相」『日本中世の朝廷・幕府体制』吉川弘文館、2007年。ISBN 4642028633 
  • 栃木孝惟、益田宗、日下力久保田淳『保元物語;平治物語;承久記』岩波書店、1992年、ISBN 4002400433
  • 須藤敬「慈光寺本『承久記』--一つの歴史叙述の試み」『日本文学』日本文学協会 1997年
  • 白根靖大「承久の乱の歴史的意義-公家社会の立場から-」『日本歴史』603号、1998年。 /所収:白根靖大『中世の王朝社会と院政』吉川弘文館、2000年。ISBN 4642027874 
  • 弓削繁『六代勝事記の成立と展開』風間書房 2003年
  • 関幸彦『北条政子―母が嘆きは浅からぬことに候』ミネルヴァ書房、2004年
  • 野口実「慈光寺本『承久記』の史料的評価に関する一考察」『研究紀要 第18巻』京都女子大学宗教・文化研究所 2005年
  • 長村祥知「〈承久の乱〉像の変容-『承久記』の変容と討幕像の展開-」『文化史学』68号、2012年。 /所収:長村祥知『中世公武関係と承久の乱』吉川弘文館、2015年。ISBN 978-4642029285 
  • 長村祥知「『六代勝事記』の歴史思想--承久の乱と帝徳批判」『年報中世史研究』、中世史研究会、2006年。 
  • 坂井孝一『承久の乱 - 真の「武者の世」を告げる大乱』〈中公新書〉2018年。ISBN 978-4121025173 

関連項目