広永益隆
基本情報 | |
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国籍 | 日本 |
出身地 | 徳島県徳島市 |
生年月日 | 1968年3月5日(56歳) |
身長 体重 |
172 cm 84 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投左打 |
ポジション | 外野手 |
プロ入り | 1985年 ドラフト3位 |
初出場 | 1989年4月8日 |
最終出場 | 1998年10月9日 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
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この表について
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広永 益隆(ひろなが やすたか、1968年3月5日 - )は徳島県出身の元プロ野球選手。右投げ左打ち。
通算34本塁打にもかかわらず、メモリアルアーチが多いことから「メモリアル男」あるいは「記憶より記録に残る男」と呼ばれた。
来歴・人物
徳島商業では四国屈指のスラッガーとして名を売り甲子園には4度出場。1985年、ドラフト3位で南海ホークスに入団。球団がダイエーへと変わった4年目の1989年に初めて一軍に昇格、代打を中心に活躍。日本ハムファイターズとの開幕戦で迎えたプロ初打席では杉浦忠監督の代打起用に応え当時の日本ハムのエース・西崎幸広から逆転3点初打席初本塁打を放つ。この一打は、福岡ダイエーホークス球団史上第1号であると同時に、パリーグ平成第1号でもあった[1]。監督が田淵幸一に代わった1990年には規定打席未満ながら打率.313をマーク。同年9月26日オリックス戦で日本プロ野球通算6万号となる本塁打を放つ。1992年6月6日の西武戦ではパ・リーグ通算3万号を放ち、同年10月1日の近鉄バファローズ戦で野茂英雄から放ったソロ本塁打は平和台野球場のプロ野球公式戦としての最後の本塁打となった(ルーキー若田部健一が1-0の完封勝利)[2]。しかし、1993年にチームの本拠地が福岡ドームになってから本塁打数が減少。
1994年途中、金銭トレードでヤクルトスワローズへ移籍、代打の切り札として活躍。1995年のリーグ優勝に大きく貢献し野村克也を胴上げ、1996年8月の東京ドームでの読売ジャイアンツ戦で斎藤雅樹が通算150勝記録した試合でも代打本塁打を放った。1997年途中、馬場敏史・岩崎久則との交換トレードで小倉恒とともにオリックス・ブルーウェーブへ移籍。1998年7月7日、当時連敗記録(16連敗)を続けていたロッテとの試合で、同点で迎えた延長12回裏に近藤芳久から代打サヨナラ満塁本塁打を放ち(ヤクルト時代の1995年にも代打サヨナラ本塁打を放っており、史上2人目の両リーグ代打サヨナラ本塁打記録者となっている。また、このときは五十嵐章人の代打として登場した藤本博史の代打であり、代打の代打によるサヨナラ本塁打はパリーグ史上初)、ロッテの連敗を17に伸ばさせ、日本プロ野球の連敗記録を62年ぶりに塗り替えた。1999年には一軍出場がなく、この年限りで引退。
引退後はアークバリアドリームクラブの総監督を務めている。また、マスターズリーグの初年度には福岡ドンタクズに所属していた。現在は地元四国の少年野球チームを指導している。
詳細情報
年度別打撃成績
年 度 |
球 団 |
試 合 |
打 席 |
打 数 |
得 点 |
安 打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
塁 打 |
打 点 |
盗 塁 |
盗 塁 死 |
犠 打 |
犠 飛 |
四 球 |
敬 遠 |
死 球 |
三 振 |
併 殺 打 |
打 率 |
出 塁 率 |
長 打 率 |
O P S |
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1989 | ダイエー | 35 | 49 | 47 | 11 | 14 | 4 | 0 | 4 | 30 | 15 | 0 | 0 | 0 | 0 | 2 | 1 | 0 | 17 | 1 | .298 | .327 | .638 | .965 |
1990 | 80 | 217 | 198 | 27 | 62 | 11 | 1 | 8 | 99 | 23 | 1 | 2 | 2 | 0 | 15 | 0 | 2 | 49 | 8 | .313 | .367 | .500 | .867 | |
1991 | 91 | 161 | 138 | 25 | 32 | 4 | 0 | 8 | 60 | 25 | 0 | 0 | 0 | 2 | 21 | 1 | 0 | 40 | 3 | .232 | .329 | .435 | .764 | |
1992 | 81 | 171 | 153 | 13 | 27 | 4 | 1 | 6 | 51 | 18 | 0 | 1 | 0 | 0 | 18 | 0 | 0 | 48 | 0 | .176 | .263 | .333 | .596 | |
1993 | 19 | 25 | 23 | 0 | 4 | 1 | 0 | 0 | 5 | 3 | 0 | 0 | 0 | 0 | 2 | 0 | 0 | 11 | 1 | .174 | .240 | .217 | .457 | |
1994 | ヤクルト | 44 | 49 | 42 | 1 | 10 | 2 | 0 | 1 | 15 | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | 7 | 0 | 0 | 14 | 2 | .238 | .347 | .357 | .704 |
1995 | 39 | 52 | 47 | 3 | 9 | 1 | 0 | 2 | 16 | 9 | 0 | 0 | 0 | 0 | 5 | 1 | 0 | 15 | 0 | .191 | .269 | .340 | .610 | |
1996 | 20 | 32 | 29 | 5 | 11 | 1 | 1 | 2 | 20 | 10 | 0 | 0 | 0 | 0 | 3 | 1 | 0 | 7 | 0 | .379 | .438 | .690 | 1.127 | |
1997 | 5 | 5 | 5 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 1 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 3 | 0 | .200 | .200 | .200 | .400 | |
オリックス | 8 | 11 | 9 | 1 | 2 | 0 | 0 | 1 | 5 | 1 | 0 | 1 | 0 | 0 | 1 | 0 | 1 | 3 | 0 | .222 | .364 | .556 | .919 | |
1998 | 41 | 56 | 50 | 4 | 11 | 1 | 0 | 2 | 18 | 9 | 0 | 0 | 0 | 1 | 4 | 0 | 1 | 16 | 3 | .220 | .286 | .360 | .646 | |
通算:10年 | 463 | 828 | 741 | 90 | 183 | 29 | 3 | 34 | 320 | 116 | 1 | 4 | 2 | 3 | 78 | 4 | 4 | 223 | 18 | .247 | .321 | .432 | .753 |
記録
- 初記録
- 初出場:1989年4月8日、対日本ハムファイターズ1回戦(東京ドーム)、5回表に坂口千仙の代打で出場
- 初打席・初安打・初本塁打・初打点:同上、5回表に西崎幸広から右越逆転3ラン ※史上25人目の初打席初本塁打(初打席代打本塁打は史上9人目)
- 初先発出場:1989年5月7日、対ロッテオリオンズ4回戦(平和台野球場)、6番・右翼手で先発出場
- 本塁打に関する記録
- 代打本塁打14本:史上7位
- 福岡ダイエーホークス球団第1号本塁打:初本塁打の項を参照
- パ・リーグ平成第1号本塁打:同上
- 開幕戦プロ初打席本塁打:同上 ※史上初
- 開幕戦代打本塁打:同上 ※史上11人目(パ・リーグ8人目)
- 日本プロ野球通算6万号本塁打:1990年9月26日、対オリックス・ブレーブス24回戦(阪急西宮球場)、6回表に山沖之彦から
- パ・リーグ通算3万号本塁打:1992年6月5日、対西武ライオンズ10回戦(西武ライオンズ球場)、6回表に藤本博史の代打で出場、潮崎哲也から2ラン
- 平和台球場公式最終戦本塁打:1992年10月1日、対近鉄バファローズ21回戦(平和台野球場)、8回裏に野茂英雄から先制決勝ソロ
- 代打サヨナラ満塁本塁打:1998年7月7日、対千葉ロッテマリーンズ13回戦(グリーンスタジアム神戸)、11回裏に藤本博史の代打で出場、近藤芳久から右越サヨナラ満塁本塁打 ※史上11人目(敗れたロッテの連敗日本記録が樹立)
- 代打の代打でサヨナラ本塁打:同上 ※史上2人目[3]、パリーグ史上初
- 代打の代打で満塁本塁打:同上 ※NPB史上6人目[4]
- 両リーグ代打サヨナラ本塁打:同上 ※史上2人目
背番号
脚注
- ^ 同日予定されていた残りの2カード(西武対ロッテ、近鉄対オリックス)は共に雨天中止
- ^ “【10月1日】1992年(平4) さらば平和台…フィナーレを飾ったのはルーキーと記録男”. SPORTS NIPPON NEWSPAPERS. 2011年10月28日閲覧。
- ^ 【8月5日】2006年(平18) 外国人初!パスクチ、代打の代打サヨナラ弾スポーツニッポン2010年8月12日
- ^ 週刊ベースボール2014年6月30日号97ページ