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岩崎弥之助

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男爵
岩崎 彌之助
いわさき やのすけ
第2代 三菱財閥総帥
任期
1885年(明治18年) – 1893年(明治26年)
前任者岩崎弥太郎
後任者岩崎久弥
日本の旗 第4代 日本銀行総裁
任期
1896年11月11日 – 1898年10月20日
前任者川田小一郎
後任者山本達雄
個人情報
生誕1851年2月8日
土佐国
死没 (1908-03-25) 1908年3月25日(57歳没)
東大病院
国籍日本の旗 日本
子供繁子
小弥太
俊弥
輝弥
職業実業家

岩崎 弥之助(いわさき やのすけ、1851年2月8日嘉永4年1月8日〉 - 1908年3月25日)は、日本実業家で、三菱財閥の2代目総帥。男爵。三菱の創業者・岩崎弥太郎の弟に当たる。

人物

岩崎弥次郎美和夫妻の三男[1]として土佐国(現在の高知県安芸市)に生まれた。

兄弥太郎の事業を助けるとともに、2代目総帥として三菱の多角化に尽力。銀行倉庫・地所・造船などの事業を興した。三菱の総帥の座を甥の岩崎久弥(弥太郎の長男)に譲った後に第4代日本銀行総裁となった。

1874年の秋、弥之助は後藤象二郎の長女である早苗夫人と結婚した。弥之助・早苗夫妻は、元は後藤象二郎の家であり、東京湾が見渡せる駿河台東紅梅町の高台の洋館(現在の御茶ノ水駅付近、日立製作所旧本社の辺り)に住み、長女・繁子、長男・小弥太、次男・俊弥、三男・輝弥の3男1女をもうけた。

3男1女はこの洋館で生まれ育ち、このうち息子は3人とも、私邸からお茶の水橋聖橋は未完成)で神田川を渡った向かい側の湯島の丘(現在の東京医科歯科大学湯島キャンパス)にあった、官立東京高等師範学校附属小・中学校(現・筑波大学附属小筑波大学附属中・高)に通った。

長男・小弥太は三菱の4代目総帥で、次男・俊弥は旭硝子の創業者。三男・輝弥は分家して子安農園の経営に当たった。また、長女・繁子は、松方正義の次男で外交官松方正作と結婚した。なお輝弥の次男・英二郎(弥之助の孫でドイツ語学者)は北原白秋の長女と結婚している。 また、ベンチャーキャピタルの分野で活動しているキャピタリスト・岩崎俊男は弥之助の曾孫にあたる[2]

弥之助は学問を好み、蔵書家・美術収集家としても知られた。重野安繹を師として漢学を学び、重野の研究を助けるために始めた古典籍収集は、の刊本をはじめとする貴重書の宝庫となっており、これを収蔵するために弥之助が自邸内に設けたのが重野を文庫長とする「静嘉堂文庫」である。

また、弥之助は古典籍に加えて書画・茶道具・刀剣などの古美術を多数収集した。これらの収集は長男・小弥太に引き継がれ、1940年に小弥太が創設した財団法人静嘉堂文庫(東京都世田谷区岡本)に寄付された[3]国宝重要文化財を含む数多くの古典籍と古美術品からなる文庫の所蔵品は、1977年より一般公開されており、現在では静嘉堂文庫美術館として常設の美術館になっている。

そのほか

NHK大河ドラマ『龍馬伝』では今井隆文(少年時代:ささの友間 幼年時代:須田直樹)が演じている。

関連項目

外部リンク

脚注

  1. ^ 『岩崎彌之助傳 (上下)』、上巻p.10 、岩崎家傳記刊行会編纂会刊、1971年/復刊東京大学出版会。1986年。但し次男は夭折しており、三男の弥之助が戸籍上は次男となっている。
  2. ^ 俊男の母は俊弥の三女、すなわち弥之助の孫娘にあたる。ちなみに俊男の父・寿男は俊弥未亡人・八穂の婿養子。
  3. ^ 「静嘉堂文庫」で蒐集の図録が出されている。