山の上ホテル

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山の上ホテル
本館正面
本館正面
ホテル概要
設計 本館:ウィリアム・メレル・ヴォーリズ
別館:山本嘉史[1]
運営 株式会社山の上ホテル
階数 本館:B2 - 6階
別館:B2 - 7階
レストラン数 6[2]
部屋数 74[2]
スイート数 3室
駐車場 40[2]
開業 1953年昭和28年)12月23日
最寄駅 御茶ノ水駅神保町駅[3]
最寄IC 首都高速都心環状線 神田橋出入口
所在地 〒101-0062
東京都千代田区神田駿河台1-1
位置 北緯35度41分53.2秒 東経139度45分40.1秒 / 北緯35.698111度 東経139.761139度 / 35.698111; 139.761139座標: 北緯35度41分53.2秒 東経139度45分40.1秒 / 北緯35.698111度 東経139.761139度 / 35.698111; 139.761139
公式サイト 公式サイト
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株式会社山の上ホテル
種類 株式会社
市場情報 非上場
本社所在地 101-0062
東京都千代田区神田駿河台1-1
設立 1953年昭和28年)12月23日
業種 サービス業
法人番号 4010001163436 ウィキデータを編集
事業内容 ホテル事業、レストラン事業
資本金 3600万円
従業員数 280名(2008年2月現在)
関係する人物 吉田俊男
外部リンク http://www.yamanoue-hotel.co.jp
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山の上ホテル(やまのうえホテル、Hilltop Hotel)は、東京都千代田区神田駿河台にあるホテルである。日本におけるクラシックホテルのひとつであり、特に1936年昭和11年)に完成した旧館の建物はアール・デコ調のクラシカルな内外装を残している。

沿革

ホテルは1954年(昭和29年)の開業で、表通りからは奥まった神田駿河台の高台に位置している。

シンボルとも言える鉄筋コンクリート建築の旧館は、1936年(昭和11年)に明治大学OBで石炭商だった佐藤慶太郎の寄付を基にアメリカ出身の建築家ウィリアム・メレル・ヴォーリズの設計により「佐藤新興生活館」として完成した。当初は財団法人日本生活協会の管理下に置かれ、太平洋戦争大東亜戦争)中には帝国海軍に徴用、日本の敗戦後には連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)に接収されて陸軍婦人部隊の宿舎として用いられていた。

ホテルとしての開業は1954年(昭和29年)1月20日で、GHQの接収解除を機に、実業家・吉田俊男(1913-1992)が佐藤家から建物を借り入れる形で創業した。ホテル名は、GHQ接収時代にアメリカの女性兵士・軍属の間で建物の愛称になっていた「Hilltop」が起源で、これを吉田が「丘の上」でなく敢えて「山の上」と意訳したことによる。

吉田は長く旭硝子の営業部門につとめていた人物で、この前年に独立して個人事務所を設立、知人から旧・佐藤新興生活館の接収解除を伝えられたことを機にホテル業に参入した。吉田は自らの手で花森安治のコピーライティング等とも通底する個性ある広告コピーを執筆し、ホテル経営の素人であることを逆手に取った懇切な接客体制に務めるなど、その後半生を費やしてこのホテル独特のアットホームなサービス文化を築いた。吉田俊男の死後、ホテルの運営は吉田の子孫によって行われている。

1970年、別館が増築された。2012年平成24年)時点でも総室数74室と小規模ながら、瀟洒なしつらえと行き届いたサービスによって知られ、レストラン・バーなどの付属供食部門が充実していることでも評価を受けている。

2013年4月5日午後4時35分頃、別館屋上の機械室から出火、廃材などが燃える火事があり、宿泊客らが避難した。けが人はなく、客室部分への延焼も免れた[4]神田警察署によると、現場検証の結果機械室から煙草の吸殻が複数見つかり、他に火の気がないため、出火原因は煙草の火の不始末と見られるという[5]。機械室は従業員の休憩所として使用されており、喫煙もしていた。ホテル側は屋上で喫煙しないよう指導していたという。

2014年6月、別館が閉鎖された[6]。以後、本館35室のみの営業となる。

2014年9月、別館が売却され、隣接する明治大学の所有となる[7]

文人の宿

かつて出版社の密集していた神田に近いところから、作家の滞在や缶詰(ここでは執筆促進目的の軟禁場所としてホテルに強制滞在させられること)に使われることが多く、そのため「文人の宿」ともなっており、川端康成三島由紀夫池波正太郎伊集院静らの作家の定宿としても知られる。三島は1955年(昭和30年)当時、「東京の真中にかういふ静かな宿があるとは思はなかつた。設備も清潔を極め、サービスもまだ少し素人つぽい処が実にいい。ねがはくは、ここが有名になりすぎたり、はやりすぎたりしませんやうに」と使い心地の感想を語っている[8]。檀一雄は舞台女優・入江杏子と愛人関係になり山の上ホテルで同棲し、入江との生活そして破局を描いたのが代表作『火宅の人』である。柚木麻子は2012年に、本ホテルにおける作家の「カンヅメ」に憧れ、自腹で宿泊する駆け出しの女性作家が主人公の小説『私にふさわしいホテル』を発表した[9]

下水道不正使用により行政処分

2012年10月1日東京都下水道局は山の上ホテルが井戸水の使用量を過少に申告し、下水道料金の徴収を不正に免れていたため、東京都下水道条例に基づき、ホテルに対し未払いの下水道料金約1800万円を追加徴収するとともに、過料約3600万円を上乗せした計約5400万円の支払いを命じる行政処分を行ったことを発表した。不正配管を使用した下水道料金の支払い逃れ、及びそれに対する過料処分は東京都下水道局管内ではいずれも初めての事例。山の上ホテルは2009年(平成21年)4月に敷地内の井戸の使用を開始。その際、井戸水の使用を下水道局に届け出なかった上、検針メーターのある管を迂回するバイパス管を取り付け、手動バルブでメーターを通る水量を調整できる不正な配管を行っていた。下水道料金は水道や井戸の給水量の合計で算定されるが、井戸の配管には水量を測る検針メーターが取り付けられ、くみ上げ量を水道局が検針して料金を請求する。ホテルでは手動バルブを通常閉めた状態にしておき、検針前などに従業員が開いていた。下水道局は、井戸水の使用量が0では不審に思われると考えたホテルが検針メーターの使用量を調整し、偽装工作をしていたとみている。2009年4月5日から2012年6月21日までの2年2ヶ月の間、給水量を実際の使用量より少なく装い、下水約4万9600立方メートルを不正に使用、下水道局は不正発覚後の給水量との比較から、毎月約1300トンの水を不正に使用し、年間数百万円の下水道料金をごまかしていたとみている。またホテルは2010年平成22年)5月になって井戸水使用の届け出を行っているが、実際の使用開始は2009年(平成21年)4月であり、1年に渡って井戸水を無届けで使用していた。下水道局は2012年4月、匿名の情報提供を受け、同年6月中旬よりホテルの井戸水の使用量を精査、井戸水の使用量が大きく変動していることなどから立ち入り調査を行い、ホテルの不正が発覚した。立ち入り調査の際には検針メーターの設置された配管には水が流れないよう弁が閉められていた。井戸水の無届け使用に加え不正な配管の設置や検針時の偽装など手口が悪質であるとして、下水道局は法律違反に当たる可能性を視野に入れ警視庁に被害を相談、告訴も検討した。ホテル側の釈明によると、井戸水は上水道を節約するため調理場の清掃などに使い、不正の認識はなかったという。また10月中に追加料金と過料を納めるとの誓約書を都水道局に提出したという[10][11][12][13]。その後10月中にホテル側が追加料金と過料を全額支払ったため、告訴については見送られた。

関連書籍

脚注

参考文献

  • NHK「美の壺」制作班編「NHK美の壺 アール・デコの建築」NHK出版
  • 三島由紀夫『決定版 三島由紀夫全集28巻 評論3』新潮社、2003年3月。ISBN 978-4106425684 

外部リンク