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大山捨松

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大山捨松

大山 捨松(おおやま すてまつ、安政7年2月24日1860年3月16日)- 大正8年(1919年2月18日)は、明治の知識人、教育者。大山巌の妻。旧姓は山川(やまかわ)、幼名はさき、のち咲子(さきこ)。愛国婦人会理事。赤十字篤志看護会理事。

来歴・人物

生い立ち

官軍の砲弾を浴びて激しく損傷した会津若松城

山川さきは、会津藩国家老山川尚江重固(なおえ しげかた)の二男五女の末娘として、安政7年(1860年)に会津若松に生まれた。さきが生まれたときに父は既に亡く、幼少の頃は祖父の兵衛重英(ひょうえ しげひで)が、後には長兄の大蔵(おおくら、後の山川浩)が父親がわりとなった。

知行1,000石の家老の家でなに不自由なく育ったさきの運命を変えたのは、会津戦争だった。慶応4年(1868年)8月、板垣退助伊地知正治らが率いる新政府軍が会津若松城に迫ると、かぞえ8歳のさきは家族と共に籠城し、負傷兵の手当や炊き出しなどを手伝った。女たちは城内に着弾した焼玉不発弾に一斉に駆け寄り、これに濡れた布団をかぶせて炸裂を防ぐ「焼玉押さえ」という危険な作業をしていたが、さきはこれも手伝って大怪我をしている。すぐそばでは大蔵の妻が重傷を負って落命した。このとき城にその大砲を雨霰のように撃ち込んでいた官軍の砲兵隊長は、西郷隆盛の従弟にあたる薩摩の大山弥助という男だった。

近代装備を取り入れた官軍の圧倒的な戦力の前に会津藩は抗戦むなしく降伏。会津23万石は改易となり、一年後藩主の嫡男が改めて陸奥斗南3万石に封じられた。しかし斗南藩下北半島最北端の不毛の地で、3万石とは名ばかり。実質石高は7,000石足らずしかなかった。藩士達の新天地での生活は過酷を極めた。飢えと寒さで命を落とす者も出る中、山川家では末娘のさきを海を隔てた函館の沢辺琢磨のもとに里子に出し、その紹介でフランス人の家庭に引き取ってもらうことにした。

官費留学

新政府の米国留学女学生
左から、永井しげ (10)、上田てい (16)、吉益りょう (16)、津田うめ (9)、山川捨松 (12)。明治4年。姓名はいずれも当時のもの、数字はかぞえ歳 [1]

明治4年(1871年)、アメリカ視察旅行から帰国した北海道開拓使次官の黒田清隆は、数人の若者をアメリカに留学生として送り、未開の地を開拓する方法や技術など、北海道開拓に有用な知識を学ばせることにした。黒田は西部の荒野で男性と肩を並べて汗をかくアメリカ人女性にいたく感銘を受けたようで、留学生の募集は当初から「男女」若干名という例のないものとなった。

開拓使のこの計画は、やがて政府主導による10年間の官費留学という大掛りなものとなり、この年出発することになっていた岩倉使節団に随行して渡米することが決まった。この留学生に選抜された若者の一人が、さきの兄・山川健次郎である。健次郎をはじめとして、戊辰戦争で賊軍の名に甘んじた東北諸藩の上級士族の中には、この官費留学を名誉挽回の好機ととらえ、教養のある子弟を積極的にこれに応募させたのである。その一方で、女子の応募者は皆無だった。女子に高等教育を受けさせることはもとより、そもそも10年間もの間うら若き乙女を単身異国の地に送り出すなどということは、とても考えられない時代だったのである。

しかしさきは利発で、フランス人家庭での生活を通じて西洋式の生活習慣にもある程度慣れていた。またいざという時はやはり留学生として渡米する兄の健次郎を頼りにできるだろうという目論見もあって、山川家では女子留学生の再募集があった際に、満11歳になっていたさきを思いきって応募させることにした。今回も応募者は低調で、さきを含めてたったの五人。全員が旧幕臣や賊軍の娘[1]で、全員が合格となった。

こうしてさきは横浜港から船上の人となる。この先10年という長い歳月を見ず知らずの異国で過ごすことになる娘を、母のえんが「娘のことは一度捨てたと思って帰国を待つ(松)のみ」という思いから「捨松」と改名させたのはこの時である。捨松がアメリカに向けて船出した翌日、横浜港にはジュネーヴへ留学に旅立つ一人の男の姿があった。大山弥助改め大山巌である。

滞米生活

ヴァッサー大学在学中

五人の女子留学生のうち、すでに思春期を過ぎていた年長の二人はほどなくホームシックにかかり、病気などを理由にその年のうちには帰国してしまった。逆に年少の捨松、永井しげ津田うめの三人は異文化での暮らしにも無理なく順応していった。この三人は後々までも親友として、また盟友として交流を続け、日本の女子教育の発展に寄与していくことになる。

捨松はコネチカット州ニューヘイブンのリオナード・ベーコン牧師宅に寄宿し、そこで四年近くをベーコン家の娘同様に過ごして英語を習得した。このベーコン家の14人兄妹の末娘が、捨松の生涯の親友の一人となるアリス・ベーコンである。捨松はその後、地元ニューヘイブンのヒルハウス高校を経て、永井しげとともにニューヨーク州ポキプシーヴァッサー大学に進んだ。しげが専門科である音楽学校を選んだのに対し、この頃までに英語をほぼ完璧に習得していた捨松は通常科大学に入学した。

ヴァッサーは全寮制の女子大学[2]で、ジーン・ウェブスターエドナ・ミレイなど、アメリカを代表する女性知識人を輩出した名門校である。東洋人の留学生などはただでさえ珍しい時代、「焼玉押さえ」など武勇談にも事欠かない[3]サムライの娘・スティマツ[4]は、すぐに学内の人気者となった。しかしそれにも増して、捨松の端麗な美しさと知性は、同学年の他の学生を魅了して止まなかったのである。大学二年の時には学生会の学年会会長に選ばれ、また傑出した頭脳をもった学生のみが入会を許されるシェークスピア研究会やフィラレシーズ会[5]にも入会している。

ヴァッサー大学1882年度卒業写真、4列目の左から5番目が山川捨松

捨松の成績はいたって優秀だった。得意科目は生物学だったが、官費留学生としての強い自覚を持っていたようで、日本が置かれた国際情勢や内政上の課題にも明るかった。学年三番目の通年成績で「偉大な名誉」(magna cum laude ) の称号を得て卒業。卒業式に際しては卒業生総代の一人に選ばれ、卒業論文「英国の対日外交政策」をもとにした講演を行ったが、その内容は地元新聞に掲載されるほどの出来だった。アメリカの大学を卒業した初の日本人女性は、この捨松である。

このとき北海道開拓使はすでに廃止されることが決定しており、留学生には帰国命令が出ていたが、捨松は滞在延長を申請、これが許可されている。卒業後はさらにコネチカット看護婦養成学校に一年近く通い、上級看護婦の免許を取得した。捨松はこの前年に設立されたアメリカ赤十字社に強い関心を寄せていたのである。

帰国子女

帰国報告に参内した捨松

捨松が再び日本の地を踏んだのは明治15年(1882年)暮れ、出発から11年目のことだった。新知識を身につけて故国に錦を飾り、今後は日本における赤十字社の設立や女子教育の発展に専心しようと、意気揚々と帰国した捨松だったが、彼女を待っていたのは失望以外のなにものでもなかった。

捨松がアメリカで過ごした11年間は、今でいえば小学校高学年から大学卒業までの期間であり、個人の人格や言語が完成される時期である。帰国した捨松は、ものの考え方から物腰まで、すべてがアメリカ式になっていた。在学中、捨松は親友の永井しげとは極力日本語を使うようにしており、母にも毎日のようにつたない日本語で手紙を書き綴っていたが[6]、それでも帰国の頃には日本語が相当怪しくなっていた。日常会話は数ヵ月でなんとかなるようになったが、漢字の読み書きとなるともうお手上げだった。

そんな捨松の受け皿となるような職場は、まだ日本にはなかったのである。頼みの北海道開拓使もすでになく、仕事を斡旋してくれるような者すらいない状態。孤立無援の捨松を人は物珍しげに見るだけで、「アメリカ娘」と陰口まで叩かれる始末だった。しかも娘は十代で嫁に出す時代、23歳になっていた捨松は、当時の女性としてはすでに「婚期を逃した」年齢にあった。二歳年下の永井繁子が早々に瓜生外吉と結婚する中[7]、捨松は英語学者の神田乃武から縁談の申し出を受けるが、にべもなく断ってしまう[8]。この頃アリス・ベーコンに書き送った手紙には、「20歳を過ぎたばかりなのにもう売れ残りですって。想像できる? 母はこれでもう縁談も来ないでしょうなんて言っているの」と愚痴をこぼしている。

恋愛結婚

大山巌

ちょうどその頃、後妻を捜していたのが大山巌だった。

大山は捨松と時を同じくしてジュネーヴに留学するが、国内の政局は彼の長期海外留学を許さなかった。明治六年の政変で明治政府の半分近くが下野すると、大山は留学三年目に入ったところで帰国を余儀なくさせられ、愛してやまない欧州の地を後ろ髪引かれる想いで後にした。帰国後すぐに西南戦争となり、従兄の西郷隆盛に泣いて弓を引く。西郷が戦死し、その後を追うかのように大久保利通が暗殺されると、大山は従弟の西郷従道とともに薩摩閥の屋台骨を背負う立場に置かれることになった。

以後要職を歴任。参議陸軍卿伯爵となっていた。この間に同じ薩摩の吉井友実の長女・沢子と結婚して三人の娘を儲けていたが、沢子は三女出産後の肥立ちが悪く死去。大山の将来に期待をかけていた吉井は、我子同然に可愛がっていたこの婿のために、後添えとなる女性を探し求めはじめる。そこで白羽の矢が立ったのが捨松だった。

当時の日本陸軍はフランス式兵制からドイツ式兵制への過渡期という難しい時期にあった。フランス語やドイツ語を流暢に話す大山は、列強の外交官武官たちとの膝詰め談判に自らあたることのできる、陸軍卿としては当時最適の人材だったが、この時代の外交の大きな部分を占めていたのは夫人同伴の夜会や舞踏会だった。アメリカの名門大学を成績優秀で卒業し、やはりフランス語やドイツ語に堪能だった捨松は、その大山の夫人としては、当時最適の候補だったのである。

吉井のお膳立てで大山が捨松に初めて会ったのは、永井繁子と瓜生外吉の結婚披露宴でのことだった。そこで大山は一目で恋に落ちる。自他共に認める西洋かぶれだった大山は、パリのマドモアゼルをも彷彿とさせる捨松の洗練された美しさにすっかり心を奪われてしまったのである。

しかし吉井を通じて大山からの縁談の申し入れを受けた山川家では、これを即座に断ってしまう。家長の浩は当然猛反対だった。縁談の相手は誰あろう、あの会津戦争で砲弾を会津若松城に雨霰のように打ち込んでいた砲兵隊長その人だというのだ。亡き妻の仇敵でもあり、心情として許せなかった。しかし大山も粘った。吉井から山川家に断られたことを知らされると、今度は農商務卿の西郷従道を山川家に遣わして説得にあたらせた。「山川家は賊軍の家臣ゆえ」という浩の逃げ口上は、「大山も自分も逆賊(西郷隆盛)の身内でごわす」という従道の前では通じなかった。この従道が連日のように、しかも時には夜通しで説得にあたるうちに、大山の誠意が山川家にも伝わり、何がなんでも反対という態度は軟化した。最終的に浩は「本人次第」という回答をするに至ったのである。

これをうけた捨松の答えがまたいかにも西洋的だった。「閣下のお人柄を知らないうちはお返事もできません」と、デートを提案したのである。大山はもちろんこれに応じた。捨松ははじめ濃い薩摩弁を使う大山が何を言っているのかさっぱり分らなかったが、英語で話し始めるととたんに会話がはずんだ。大山は欧州仕込みのジェントルマンだった。二人には親子ほどの歳の開きがあったが[9]、デートを重ねるうちに捨松は大山の心の広さと茶目っ気のある人柄に惹かれていった。この頃アリスに書いた手紙には捨松は、「たとえどんなに家族から反対されても、私は彼と結婚するつもりです」と記している。交際を初めてわずか三ヵ月で、捨松は大山との結婚を決意したのだった。

明治16年(1883年)11月8日、参議陸軍卿大山巌と山川重固息女捨松との婚儀が厳かに行われた。その一ヵ月後、完成したばかりの鹿鳴館[10]大山夫妻は盛大な結婚披露宴を催した[11]。千人を超える招待者でごった返す披露宴。普通の新婦なら気が動転して会話もままならないような状況のなかで、気さくな捨松には誰もが目を止め、話しかけ、また捨松の話に耳を傾けた。

活躍の場

鹿鳴館時代の捨松

会議は踊る」の言葉を借りるまでもなく、近世以後ヨーロッパで確立された外交プロトコルでは、夜会や舞踏会が大きな役割を果たしていたが、その風潮は19世紀後半になってもあまり変ってはいなかった。列強の外交官は夫人同伴で食事や舞踏を楽しみ、時にはそうした席で重要な外交上の駆け引きも行う。幕末から明治初年にかけて欧米を視察した日本人にとって、それはひとつの大きな衝撃だった。日本人の女性がまだ人前での立ち振る舞いにまったく慣れていなかった時代、新政府の高官の多くが即戦力となる玄人芸者娼妓を正妻として迎えた理由のひとつもここにある。

早期の条約改正を国是としていた明治政府は、こうした宴席外交を行うことの出来る施設の必要性を痛感していた。当時は、別に正規の用途がある施設をその時々の必要に応じて借り上げるかたちで間に合わせていたが、代替施設はやはり不便だった。そこで外務卿井上馨が中心となって、こうした代替施設に代わる恒常の官立社交場を新築することを決定した。鹿鳴館である。

鹿鳴館では連日のように夜会や舞踏会が開かれ、諸外国の外交官はもとより、明治政府の高官たちもそうした外交官たちとのパイプを構築するため、夜な夜な宴に加わった。そこには日本が文明国であることを示すという涙ぐましい努力があったのだが、そうした「鹿鳴館外交」の評判は必ずしも良いものではなかった。外交官たちはうわべでは宴を楽しみながらも、文書や日記などには日本人の「滑稽な踊り」の様子を詳細に記して彼らを嘲笑していたのである。体格に合わない燕尾服や窮屈な夜会服に四苦八苦しながら、真剣な面持ちで覚えたてのぎごちないダンスに臨む日本政府の高官やその妻たちの姿が、特筆せざるを得ないほど可笑しいものだったのも無理はなかった。

その中で、一人水を得た魚のように生き生きとしていたのが捨松だった。英・仏・独語を駆使して、時には冗談を織り交ぜながら諸外国の外交官たちと談笑する。12歳の時から身につけていた社交ダンスのステップは堂に入ったものだった。当時の日本人女性には珍しい長身と、センスのいいドレスの着こなしも光っていた。そんな伯爵夫人のことを、人はやがて「鹿鳴館の花」と呼んで感嘆するようになった。

『於鹿鳴館貴婦人慈善會之圖』(当時の錦絵新聞より)

夜会や舞踏会だけではない。ある時有志共立東京病院を見学した捨松は、そこに看護婦の姿がなく、病人の世話をしているのは雑用係の男性が数名であることに衝撃を受ける。そこで院長の高木兼寛に自らの経験を語り、患者のためにも、そして女性のための職場を開拓するためにも、日本に看護婦養成学校が必要なことを説き、高木にその開設を提言した。高木もイギリスのセントトーマス病院に留学した経験があり、そこで専門教育を受けた看護婦たちと日々を過ごしていた。またナイチンゲールが運営する看護学校も見学するなど、看護婦の必要性は早くから認めていたのである。しかし如何せん資金がなかった。捨松には賛成しつつも、財政難で実施は難しいと白状せざるを得なかったのである。

それならば、と捨松は明治17年(1884年)6月12日から三日間にわたって「鹿鳴館慈善会」を開いた。日本初のチャリティーバザーである。捨松は品揃えから告知、そして販売にいたるまで、率先して並みいる政府高官の妻たちの陣頭指揮をとった。ある紳士に「これはいくらかね?」と聞かれ「四円です」、「ではこれで」とこの年発行されたばかりの日本銀行券5円札を渡された捨松は、すかさず「慈善なのでお釣りは出ませんよ」と微笑みかける。そうしたテクニックも、他の高官の妻たちにはなかなか真似のできないものだった。3日間で予想を大幅に上回る、鹿鳴館がもう一つ建つぐらいの莫大な収益をあげ、その全額を共立病院へ寄付して高木兼寛を感激させている。この資金をもとに、2年後には日本初の看護婦学校・有志共立病院看護婦教育所が設立された。

日清日露の両戦争では、大山巌が参謀総長満州軍総司令官として、国運を賭けた大勝負の戦略上の責任者という重責を担っていた。捨松はその妻として、銃後で寄付金集めや婦人会活動に時間を割くかたわら、看護婦の資格を生かして日本赤十字社で戦傷者の看護もこなし、政府高官夫人たちを動員して包帯作りを行うなどの活動も行った。また積極的にアメリカの新聞に投稿を行い、日本の置かれた立場や苦しい財政事情などを訴えた。日本軍の総司令官の妻がニューヘイヴン出身・ヴァッサー大卒というもの珍しさも手伝って、アメリカ人は捨松のこうした投稿を好意的に受け止め、これがアメリカ世論を親日的に導くことにも役立った。アメリカで集まった義援金はアリス・ベーコンによって直ちに捨松のもとに送金され、さまざまな慈善活動に活用された。

近代日本におけるチャリティー企画やボランティア活動の草分けは、この大山捨松である。

女子教育

旧友の再会
左から、津田梅子、アリス・ベーコン、瓜生繁子、大山捨松

日本に帰ったら教職に就いて日本の女子教育の先駆けとなる、というのが捨松の留学時代の夢だった。しかし政府の要職にある大山巌と結婚したことで、彼女自身が教壇に立つことはあり得なくなった。それでも捨松の女子教育にかける熱意は冷めることなく、生涯にわたって陰に日向にこれを支援している。

早くも結婚の翌年の明治17年(1884年)には、伊藤博文の依頼により下田歌子とともに華族女学校(後の学習院女学部)の設立準備委員になり、津田梅子やアリス・ベーコンらを教師として招聘するなど、その整備に貢献している。しかしそうして出来上がった華族女学校では古式ゆかしい儒教的道徳感にのっとった教育が行われ[12]、捨松はまたしても失望を味わう。

その後、明治33年(1900年)に津田梅子が女子英学塾(後の津田塾大学)を設立することになると、捨松は瓜生繁子ともにこれを全面的に支援した。アリスも日本に再招聘して、今度は自分たちの手で、自分たちが理想とする学校を設立したのである。教育方針に第三者の容喙を許さないという立場から、津田が誰からの金銭的援助もかたくなに拒んでいたこともあり、捨松も繁子もアリスもボランティアとして奉仕した。それでも捨松は英学塾の顧問となり、後には理事や同窓会長を務めるなど、積極的に塾の運営にも関与している。生涯独身で、パトロンもいなかった津田が、民間の女子英学塾であれだけの成功を収めることが出来たのも、捨松らの多大な支援があったがことが大きな理由のひとつだった。

晩年と死

晩年の捨松

捨松は大山との間に二男一女に恵まれた。これに大山の三人の連れ子を合せた大家族となったが、自らが二男五女の家に生まれ、その後ベーコン家の14人兄弟に揉まれて成長した経験のある捨松にとって、賑やかな家庭は幸せだった。40代半ばまで跡継ぎに恵まれなかった巌に、二人の立派な男子をもたらしたことも誇りだった。

巌は日清戦争後に元帥侯爵、日露戦争後には元老公爵となり、位人臣を極めた。それでいて政治には興味を示さず、何度総理候補に擬せられても断るほどで、そのため敵らしい敵もなく、誰からも慕われた。晩年は第一線を退いて内大臣として宮中にまわり、時間のあるときは東京の喧噪を離れて愛する那須で家族団欒を楽しんだ。

長男の高は「陸軍では親の七光りと言われる」とあえて海軍を選んだ気骨ある青年だったが、明治41年(1908年海軍兵学校卒業直後の遠洋航海で乗り組んだ巡洋艦・松島が、寄港していた台湾馬公軍港で原因不明の火薬庫爆発を起こし沈没、高は艦と運命を共にした。

次男の近衛文麿の妹・武子を娶り、大正5年(1916年)には嫡孫(なお翌年にはが生まれた)が誕生したが、その直後より、巌は体調を崩し療養生活に入る。長年にわたる糖尿の既往症に胃病が追い討ちをかけていた。内大臣在任のまま12月10日に満75歳で逝去。

巌の国葬後、捨松は公の場にはほとんど姿を見せず、亡夫の冥福を祈りつつ静かな余生を過ごしていたが、大正8年(1919年)に津田梅子が病に倒れて女子英学塾が混乱すると、捨松は自らが先頭に立ってその運営を取り仕切った。津田は病気療養のために退任することになり、捨松は紆余曲折の末津田の後任を指名したが、新塾長の就任を見届けた翌日、当時世界各国で流行していたスペイン風邪で倒れ、そのまま回復することなく急逝した。満58歳没。

逸話

『不如帰』

『不如帰』初版本

大山巌は先妻との間に娘が三人いた。長女の信子は結核のため20歳で早世したが、彼女をモデルとして徳冨蘆花が書いた小説が、「あああ、人間はなぜ死ぬのでしょう! 生きたいわ! 千年も万年も生きたいわ!」の名セリフが当時の流行語にまでなったベストセラー『不如歸』である。

小説の中で主人公の浪子は結核のため幸せな結婚生活を引き裂かれた挙げ句、実家に戻ると今度は非情冷徹な継母によって離れに押し込まれ、寂しくはかない生涯を終える。ところがこの小説に描かれた継母が捨松の実像と信じた読者の中には彼女に嫌悪感を抱く者が多く、誹謗中傷の言葉を連ねた匿名の投書を受け取ることすらあった。捨松は晩年までそうした風評に悩んでいたという。

実際は小説とはまったく逆で、信子の発病後、離縁を一方的に申し入れてきたのは夫の三島彌太郎とその母で、悩む捨松を見るに見かねた津田梅子は三島家に乗り込んで姑に猛抗議している。看護婦の資格を活かし親身になって信子の看護をしたのも捨松自身で、信子のためにわざわざ離れを建てさせたのも、信子が伝染病持ちであることに気兼ねせずに自宅で落ち着いて療養に専念できるようにとの思いやりからだった。巌が日清戦争の戦地から戻ると、信子の小康を見計らって親子三人水入らずで関西旅行までしている。捨松は巌の連れ子たちからも「ママちゃん」と呼ばれて慕われていた。家庭は円満で、実際には絵に描いたような良妻賢母だったという。

しかし蘆花からこの件に関して公に謝罪があったのは、『不如帰』上梓から実に19年を経た大正8年、捨松が急逝する直前のことだった。雑誌『婦人世界』で盧花は「『不如歸』の小說は姑と繼母を惡者にしなければ、人の淚をそゝることが出來ぬから誇張して書いてある」と認めた上で、捨松に対しては「お氣の毒にたえない」と遅きに失した詫びを入れている。

洋風夫妻

晩年の大山夫妻

大山巌・捨松夫妻はおしどり夫婦として有名だった。

ある時新聞記者から「閣下はやはり奥様の事を一番お好きでいらっしゃるのでしょうね」と下世話な質問を受けた捨松は、「違いますよ。一番お好きなのは児玉さん(=児玉源太郎)、二番目が私で、三番目がビーフステーキ。ステーキには勝てますけど、児玉さんには勝てませんの」と言いつつ、まんざらでもないところを見せている。「いえいえそんなこと」などと言葉を濁さず、機智に富んだ会話で逆に質問者の愚問を際立たせてしまう話術も、当時の日本人にはなかなか真似のできないものだった。

巌は実際にビーフステーキが大好物で、フランスの赤ワインを愛した。大食漢で、栄養価の高い食物を好んだため、従兄の西郷隆盛を彷彿とさせるような大柄な体格になり、体重が100kgに迫ることもあったという。捨松はアリスへの手紙の中で「彼はますま肥え太り、私はますます痩せ細っているの」と愚痴をこぼしている。

巌は欧州の生活文化をこよなく愛し、食事から衣服まで徹底した西洋かぶれだった。日清戦争後に新築した自邸はドイツの古城を模したもので近所を驚かせたが、その出来はというとお世辞にも趣味の良いものとはいえなかった。再来日したアリスにまで酷評される有様だったが、当の巌は人から何といわれてもこの邸宅にご満悦だった。しかし捨松は自分の経験から子供の将来を心配し、「あまりにも洋式生活に慣れてしまうと日本の風俗に馴染めないのでは」と、子供部屋だけは和室に変更させている。

一般の日本人から見れば浮いてしまう「西洋かぶれ」の巌と「アメリカ娘」捨松。しかしそれ故にこの夫婦は深い理解に拠った堅い絆で結ばれていた。夫妻の遺骨は、二人が晩年に愛した栃木県那須野ののどかな田園の墓地に埋葬されている。

家族

大山捨松公爵夫人
実家
  • 父: 山川重固(しげかた、会津藩国家老)
  • 母: 艶(えん)
    • 兄: (ひろし、陸軍少将、男爵)
    • 兄: 健次郎(けんじろう、東京帝国大学総長、男爵)
    • 姉: 操(みさお、明治天皇フランス語通訳昭憲皇太后付女官)
    • 姉: 二葉(ふたば、女子教育者)

婚家

  • 夫: 大山巌(いわお、元老元帥 陸軍大将公爵
    • 長女/義娘: 信子(のぶこ、『不如帰』浪子のモデル)
    • 次女/義娘: 美津子(みつこ、夭折)
    • 三女/義娘: 芙蓉子(ふよこ)
    • 四女/義娘: 留子(とめこ、『鹿鳴館の貴婦人』の著者・久野明子の祖母)
    • 五女: 久子(ひさこ)
    • 長男: 高(たかし、海軍少尉候補生、練習航海中に事故死
    • 六女: 永子(ながこ、流産)
    • 次男: (かしわ、考古学者、戊辰戦争研究家、公爵、妻は近衛文麿の妹・武子)

脚注

  1. ^ a b 各学生の概歴は以下の通り:
    上田てい:上田悌子(うえだ ていこ)、満14歳、旧幕臣・上田畯の娘、後に医師・桂川甫純と結婚、没年不詳。
    吉益りょう:吉益亮子(よします りょうこ)、満14歳、旧幕臣・吉益正雄の娘、1885年以前に死去。
    永井しげ:永井繁子(ながい しげこ)、満8歳、旧幕臣・益田鷹之助の娘(旧幕臣・永井久太郎の養女)。
    津田うめ:津田梅子(つだ うめこ)、満6歳、旧幕臣・津田仙の娘。
  2. ^ ヴァッサー大学は1969年に共学校となっている。
  3. ^ 捨松が語った会津戦争の体験談は、地元の雑誌にも記事として取り上げられている。
  4. ^ 山川捨松(やまかわすてまつ)は名前の英語の綴りを “Stematz Yamakawa” としていた。
  5. ^ 「真実を愛する者の会」(Philalethes Society)。
  6. ^ 捨松は筆まめで、イェール大学に留学していた兄の健次郎やモスクワに留学していた姉の操(みさお)ともこまめに文通していたが、兄には英語で、姉にはフランス語で手紙を書いている。
  7. ^ 瓜生外吉も6年間をアメリカ・アナポリス合衆国海軍兵学校で過ごし、この年に帰国したばかりだった。
  8. ^ 神田はこの後、今度は津田梅子に縁談を申し入れているが、やはり同じように断られている。
  9. ^ こととき捨松24歳、大山は42歳だった。
  10. ^ 鹿鳴館落成祝宴は明治16年11月28日、大山家結婚披露宴は二週間後の同年12月12日のことだった。
  11. ^ このときの招待状は全文がフランス語で書かれており、人々を仰天させたという。
  12. ^ 学監の下田歌子は儒学者を祖父にもつ歌人で、才女として皇后の寵愛は厚かったが、女子教育者としてはまだ見識が浅かった。下田はこののち二年間欧米に留学し、そこで初めて新時代の女子教育のあり方に目覚めることになる。

関連項目

参考文献

  • 久野明子『鹿鳴館の貴婦人 大山捨松』 中央公論社、1988年、ISBN 4120017508中公文庫、1993年、ISBN 4122019990
  • アリス・ベーコン『華族女学校教師の見た明治日本の内側』 久野明子 訳、中央公論社、1994年。
  • アリス・ベーコン『明治日本の女たち』 矢口祐人・砂田恵理加 訳、みすず書房大人の本棚、2003年。
  • 大山柏『金星の追憶』–『母の生涯と我が思い出』 鳳書房、絶版。

外部リンク