吉田白甲

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吉田 白甲(よしだ はっこう、1881年明治14年〉11月28日 - 1961年昭和36年〉11月3日)は、日本ドイツ文学者。元陸軍大学校勅任教授・教頭。本名は吉田 豊吉(よしだ とよきち)。

略歴[編集]

新潟県北蒲原郡新発田町(現 新発田市)出身。1899年明治32年)3月に新潟県尋常中学校を卒業、1902年(明治35年)7月に第一高等学校を卒業[注 1][注 2][注 3][注 4]、9月に東京帝国大学文科大学独逸文学科に入学。

1903年(明治36年)7月23日の夜に東京音楽学校奏楽堂日本人が初めて上演した歌劇グルック作曲のオペラオルフォイス』の歌詞の和訳を石倉小三郎乙骨三郎近藤逸五郎たちと4人で担当した[3][4][注 5]

1904年(明治37年)11月に第一高等学校の1年生の時からの友人の小山内薫川田順武林無想庵上村清延太田善男、高瀬精太たちと7人で同人雑誌『七人』を創刊[6][注 6][注 7]夏目漱石に短編小説『琴のそら音』を寄稿してもらった[9]

1905年(明治38年)7月に東京帝国大学文科大学文学科(独逸文学専修)を卒業[10][注 8][注 9][注 10]1909年(明治42年)10月に陸軍編修に任官、参謀本部に勤務[10][注 11][注 12]

1912年大正元年)11月に陸軍教授に任官、陸軍大学校に勤務[10]乃木希典の遺嘱でドイツの騎兵将校の体験談を書いたアントン・オーホルンドイツ語版の著書 Mit der großen Armee を和訳し、『大軍を率ゐて』という題名で刊行した[16]

1921年(大正10年)から陸軍大学校教授と早稲田大学講師を兼任[17]1927年昭和2年)8月にドイツのベルリンへ留学[10]1929年(昭和4年)に陸軍大学校教頭に就任[10]

1932年(昭和7年)4月に陸軍を依願退官、早稲田大学講師と第二早稲田高等学院講師を兼任[10]

1961年(昭和36年)11月3日午後3時20分に東京都世田谷区烏山町(現 北烏山)の自宅で胃癌のため死去[18]多磨霊園に眠る。

吉田白甲の霊前で川田順が詠んだ4首の献歌[19]
菊の日にいのち終りし吾が友に明治男はともしきろかな
雪国の越の田舎ゆ来し友はやさ男にてワグネルを訳す
見舞ひたる路加病院の君に添ひてさむき流れは大川の見つ
七人は二人になりぬ常臥しのめしひの友も数に加へて

東京帝国大学の1年生の時から、文芸雑誌の『帝國文學』、『七人』、『白百合』、『歌舞伎』、『新思潮』などに、ワーグナーシラーレッシングビョルンソンストリンドベリなど、ドイツ文学北欧文学を和訳・紹介した[20][注 13]

栄典・表彰[編集]

親族[編集]

著作物[編集]

著書[編集]

共著[編集]

  • 井上先生喜壽記念文集』巽軒会[編]、冨山房、1931年。
  • 『世界文學講座 第七卷 獨逸文學篇 上』新潮社[編]、新潮社、1932年。

編書[編集]

  • 『世界學説要覽』内田節三・勝屋英造[共編]、博文館、1914年。
  • 『獨逸新興文學傑作集 第二編』大学書林、1931年。
  • 『獨逸新興文學傑作集 第四編』大学書林、1932年。
  • 『戰爭話柄』大倉廣文堂、1932年。
  • 『祖國の爲に』大学書林、1934年。
  • 『滿洲と世界情勢』大倉廣文堂、1935年。
  • 『ハウフとチヨツケ』大学書林、1936年。
  • 『初級小説集』大学書林、1938年。
  • 『戰時挿話集』大学書林、1941年。
  • 『中級小説集』大学書林、1943年。
  • 『永遠の猶太人』ヴィルヘルム・ハウフ[著]、大学書林、1948年。

訳書[編集]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 吉田白甲は小山内薫と同じクラスで、夜は寄宿寮の西寮の三階の部屋で人生や文学を語った[1]
  2. ^ 小山内薫の陸軍軍医の叔父・島村信司新発田衛戍病院の院長を務めていた。それで、1900年明治33年)夏に小山内薫が吉田白甲の故郷の新発田町を訪れた。二人は諏訪神社の境内の掛茶屋式の氷水店で泉鏡花論を語ったり、近郷の山河を歩いたりした[1]
  3. ^ 吉田白甲は川田順和歌新体詩を作って見せ合ったり、荒川沿いの浮間ヶ原サクラソウを摘みに出かけたりした[2]
  4. ^ 幼い時に母を亡くした吉田白甲は川田順も同じ境涯であることに感傷的な感情を寄せ、東京都文京区本駒込吉祥寺にある川田順の母の墓に時々一人で参った[1]
  5. ^ 吉田白甲、石倉小三郎乙骨三郎近藤逸五郎の4人は日本での歌劇の発展を目指して「ワグネル会」を結成していた[5]
  6. ^ 1904年(明治37年)3月1日に同人雑誌『七人』の結社北斗会」の発会式を行った[7]
  7. ^ 1906年(明治39年)3月に廃刊[8]
  8. ^ 東京帝国大学文科大学の廊下の掲示板に張られた新学長の坪井九馬三の就任の訓示には文学を軽視する文言があり、吉田白甲は憤慨した上田萬年教授の「破いちまおう」という言葉を聞いて訓示に手を伸ばした。訓示の書かれた美濃紙が破られて床に散乱した[11]
  9. ^ 1905年(明治38年)夏に同人雑誌『七人』の7人と蒲原有明などで富士山に登った[12]
  10. ^ 1907年(明治40年)に吉田白甲は武林無想庵箱根から東海道を西に向かい、静岡市清水区龍華寺にある高山樗牛の墓に参ったのち、清水港で舟に乗り、夕映えの富士山を仰ぎ、三保松原を背景に田子の浦を揺られ漂った。また、二人で富士山に登った[13]
  11. ^ 吉田白甲がゲオルク・エンゲルドイツ語版の戯曲 Sturmglocken を和訳して『革命の鐘』という題名を付け、小山内薫が演出して1909年(明治42年)4月24・25日に上演したところ、吉田白甲は憲兵隊に調査され、監視されることになった[14]
  12. ^ 吉田白甲の伯父が師団長で参謀長で参謀本部にいた。その伯父が仲人となり、1910年(明治43年)に吉田白甲は千葉県荻生徂徠の末裔の女性と結婚した。この時も憲兵隊が吉田白甲の故郷に出張して吉田白甲の思想や家庭の状況を調査した[15]
  13. ^ 東京帝国大学の1年生の時から、ワーグナーオペラローエングリン』の主人公・ローエングリンの銀の兜にあやかって「白甲」というペンネームを用いた[21]。ちなみに吉田白甲の父の名は甲次郎である[10]

出典[編集]

  1. ^ a b c 北國文化』第63号、28頁。
  2. ^ 北國文化』第63号、29頁。
  3. ^ 《オルフォイス》関連の資料をご寄贈いただきました東京藝術大学音楽学部 大学史史料室
  4. ^ 20世紀日本人名事典 そ〜わ』2738頁。『日本近代文学大事典 第三巻 人名(に〜わ)』481頁。『近代文学研究叢書 37』402頁。『日本社会主義演劇史 明治大正篇』221頁。
  5. ^ 近代文学研究叢書 37』387頁。
  6. ^ 近代文学研究叢書 30』135頁。『武林無想庵盲目日記』473頁。『日本社会主義演劇史 明治大正篇』220-221頁。
  7. ^ 北國文化』第63号、33頁。
  8. ^ 日本近代文学大事典 第五巻 新聞・雑誌』144頁。
  9. ^ 20世紀日本人名事典 そ〜わ』2738頁。『日本近代文学大事典 第三巻 人名(に〜わ)』481頁。『日本近代文学大事典 第五巻 新聞・雑誌』144頁。『私の履歴書 文化人 2』91頁。
  10. ^ a b c d e f g 越佐人物誌 中巻』1029頁。
  11. ^ 北國文化』第63号、30頁。
  12. ^ 北國文化』第63号、32頁。
  13. ^ 北國文化』第63号、32-33頁。
  14. ^ 日本社会主義演劇史 明治大正篇』8-9・207・209・223・225・494頁。
  15. ^ 日本社会主義演劇史 明治大正篇』223頁。
  16. ^ 日本社会主義演劇史 明治大正篇』221-222頁。『大軍を率ゐて』前付。
  17. ^ 早稲田大学百年史 別巻I』757頁。
  18. ^ 新潟日報』1961年11月5日付朝刊、11面。
  19. ^ 武林無想庵盲目日記』447頁。
  20. ^ 20世紀日本人名事典 そ〜わ』2738頁。『日本近代文学大事典 第三巻 人名(に〜わ)』481頁。『日本近代文学大事典 第五巻 新聞・雑誌』144頁。『日本社会主義演劇史 明治大正篇』221頁。
  21. ^ 日本社会主義演劇史 明治大正篇』221頁。
  22. ^ 敍任及辭令」『官報』第478号、779頁、内閣印刷局、1928年7月31日。
  23. ^ 敍任及辭令」『官報』第1599号、37頁、内閣印刷局、1932年5月3日。
  24. ^ 辭令二」『官報』第4438号付録、24頁、内閣印刷局、1941年10月23日。

参考文献[編集]

関連文献[編集]

外部リンク[編集]