ポール・ウォルフォウィッツ

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ポール・ウォルフォウィッツ
Paul Dundes Wolfowitz
生年月日 (1943-12-22) 1943年12月22日(80歳)
出生地 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
ニューヨーク州ニューヨーク
出身校 コーネル大学
シカゴ大学
所属政党 共和党
配偶者 クレア・セルジン・ウォルフォウィッツ
公式サイト [1]

在任期間 2005年6月1日 - 2007年6月30日
大統領 ジョージ・W・ブッシュ

アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
25代目国防副長官
在任期間 2001年1月3日 - 2005年5月31日
国防長官 ドナルド・ラムズフェルド
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ポール・ダンデス・ウォルフォウィッツ(Paul Dundes Wolfowitz,1943年12月22日 - )は、アメリカ合衆国政治家ジョージ・W・ブッシュ政権1期目で25代目アメリカ合衆国国防副長官、10代目世界銀行グループ総裁などを歴任した。

代表的なネオコンの論客の1人であり、冷戦時代はアメリカのタカ派グループチームBの1人としても知られ、また親イスラエル派でブルー・チームと呼ばれる親台派である。イラク戦争建築家的存在で、ブッシュ大統領の政策顧問団バルカンズの一人でもあった。大中東構想(後に拡大中東・北アフリカ構想に改称)の発案者でもあるが、現在はイラクを含む中東政策に関しては一切口を閉ざしている。

プロフィール

1943年12月22日にポーランドからの移民である東欧系ユダヤ人の血を引く数学ジェイコブ・ウォルフォウィッツ英語: Jacob Wolfowitz(「ウォルフォウィッツ」とは「狼の子」という意味の東欧系ユダヤ人の姓)とリリアン・ダンデスの次男としてニューヨークブルックリン区に誕生し、主に父が奉職していたコーネル大学のあるイサカで育った。父は1920年にポールの祖父母とアメリカに移民したが、ポーランドに残った親類の多くは逮捕され、ホロコーストの犠牲となった。そのため父はシオニズムに傾倒し、ソ連による反体制派やマイノリティへの弾圧に反対運動を行っていた。1957年、ポールが14歳の時に父がハイファイスラエル工科大学で教鞭をとることになり、これに付き添いイスラエルに渡った。この際、彼の姉妹はイスラエルに永住を決意している。1961年に高校を卒業後、コーネル大学で、数学化学を学ぶ。他の多くのネオコン人士の例に漏れず、学生時代は熱心な民主党支持者で、当時のケネディ政権を支持し、公民権運動にも積極的に参加していた。1965年にコーネル大学を数学の学位で卒業するも、政治学への転身を決意し、政治学を「占星術」と呼んではばからない父親をいたく失望させる。シカゴ大学レオ・シュトラウスの下で学び、1972年、政治学の博士号(Ph.D.)を取得。一時イェール大学で教職に就く。1970年代から約20年間、国務省国防総省で勤務。

ロナルド・レーガン政権で国務次官補(東アジア・太平洋担当)を務めた。この際に中華人民共和国への輸出管理を同盟国の日本と同等にまで緩和するも[1]、後にビル・クリントン政権が中国を「戦略的パートナー」と看做すとソ連が解体した今は「戦略的競争相手」であって継続すべきでないとした。

また、スハルト体制下のインドネシアに大使として3年間赴任。後にインドネシアの大統領となるアブドゥルラフマン・ワヒドと親交を深め、イスラム教への深い信仰と宗教的寛容・世俗主義が共存しうることに強い感銘を受けたといわれる。インドネシア滞在時は、文化人類学者のクレア夫人と共に現地の文化に魅せられ、インドネシア語を学び、ユダヤ系アメリカ人であるにもかかわらず、世界最大のイスラム人口を抱える国で高い評価を得る。離任時には、スハルト体制を批判する演説も行なっている。

ブッシュSr.政権下では国防次官(政策担当)クリントン政権時にはジョンズ・ホプキンス大学SAISの学長を務める。

2001年1月よりジョージ・W・ブッシュ政権1期目で25代目アメリカ合衆国国防副長官を務めた。アメリカ新世紀プロジェクトのメンバーであり、ブッシュ政権内のネオコン陣営の要石の1人である。ドナルド・ラムズフェルド国防長官とともに、「中東民主化」の大義名分の下でイラク戦争への道を推し進めた。その際「イラクの戦後復興費用はイラクの石油で賄える」と極めて楽観的な見解を示したため、その見通しの甘さに厳しい批判が浴びせられている。

2001年頃にリビア出身でイギリス国籍の世界銀行職員であるシャーハー・リザー(en:Shaha Riza)と交際し始め、妻のクレア・セルギン・ウォルフォウィッツとは別居した。そして翌年に離婚した。

2005年3月にブッシュ大統領により世界銀行グループ総裁に指名され、同年6月に就任した。しかし、ネオコン出身で元々評判が悪かったうえに、世界銀行は元より国際開発関係の勤務経験がまったく無かったことから、ボルトン国連大使同様「ブッシュによる国際社会への嫌がらせ人事」と揶揄された。総裁就任後は「世界銀行の汚職体質の一掃」を目標に掲げ、自身の政策スタッフを大量に引き連れて来たため、従来の世界銀行職員たちとの間に深刻な感情的対立を引き起こし、後に内部告発で足をすくわれる原因となった。

2007年4月、内部告発により「恋人」関係にある同行職員のシャーハー・リザーを厚遇していたことが報道され、同月13日、記者会見において謝罪した。配偶者その他の同職場での勤務禁止規定からリザーは国務省に出向、管理職扱いとなるとともに、ウォルフォウィッツは世界銀行人事担当者に職級、給与額などを指示し、リザーの年収は昇給幅に関する内規を超える40%以上の昇給により約19万ドルとなった。同月15日、世界銀行と国際通貨基金との合同開発委員会は、この問題に対し強い懸念を表明し、また、欧州の加盟国政府などが辞任を強く要求したため、6月30日付けで総裁を辞任した。

2008年1月24日、米国務省は軍備管理や不拡散問題で政策提言する同省の「国際安全保障諮問委員会」の委員長にウォルフォウィッツを指名すると発表した。同ポストは議会の承認を必要としないため、ブッシュ政権内では3度目の公職に復帰することになった。

湾岸戦争時に行われたチェイニー国防長官記者会見を聞くウォルフォウィッツ(右)とコリン・パウエル大将(左)、ノーマン・シュワルツコフ大将(中央)

脚注

  1. ^ 加藤洋子『アメリカの世界戦略とココム 1945‐1992―転機にたつ日本の貿易政策』有信堂高文社、1992年7月1日、202-203頁。ISBN 978-4842075068 

関連項目

外部リンク

公職
先代
W・アンソニー・レイク
アメリカ合衆国国務省政策企画本部長
1981年2月13日 - 1982年12月22日
次代
スティーヴン・W・ボズワース
先代
リチャード・ホルブルック
アメリカ合衆国国務次官補(東アジア・太平洋担当)
1982年12月22日 - 1986年3月12日
次代
ガストン・シグール
先代
フレッド・チャールズ・イクレ
アメリカ合衆国国防次官(政策担当)
1989年5月15日 - 1993年1月19日
次代
フランク・ジョージ・ウィズナー
先代
ルディ・デ・レオン
アメリカ合衆国国防副長官
2001年1月3日 - 2005年5月31日
次代
ゴードン・イングランド
先代
ジェイムズ・ウォルフェンソン
世界銀行グループ総裁
2005年6月1日 - 2007年6月30日
次代
ロバート・ゼーリック