パブロ・オズーナ

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パブロ・オズーナ
Pablo Ozuna
ホワイトソックス時代
基本情報
国籍 ドミニカ共和国の旗 ドミニカ共和国
出身地 サントドミンゴ
生年月日 (1974-08-25) 1974年8月25日(49歳)
身長
体重
5' 11" =約180.3 cm
200 lb =約90.7 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション ユーティリティプレーヤー(主に外野手三塁手二塁手
プロ入り 1996年 アマチュア・フリーエージェントとしてセントルイス・カージナルスと契約
初出場 2000年4月23日
最終出場 2008年9月28日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

パブロ・ホセ・オズーナ(Pablo Jose Ozuna、1974年8月25日 - )は、ドミニカ共和国サントドミンゴ出身の元プロ野球選手ユーティリティプレーヤー)。右投右打。

ポジションは主に外野手で、他に二塁手遊撃手三塁手一塁手でのプレー経験がある。

経歴

プロ入りとカージナルス傘下時代

プロ入り2年目の1998年セントルイス・カージナルス傘下のA級ピオリア・チーフスで133試合に出場して打率.357・出塁率.400・OPS.894・62盗塁の好成績を収め、ベースボール・アメリカ誌のマイナー代表チームとミッドウェスト・リーグのトップ・プロスペクトに選出され、MVPにも輝くなど、メジャー昇格への足がかりを掴む。

マーリンズ時代

同年12月14日エドガー・レンテリアとのトレードで、アーマンド・アルマンザブレイデン・ルーパーの両投手と共にフロリダ・マーリンズへ移籍。

2000年にマーリンズからメジャーデビュー。わずか14試合の出場ながら、打率.333をマーク。翌年以降の期待を抱かせた。

2001年は怪我に泣いて全休したが、2002年は2年前の2倍以上の34試合に出場し、打率.277をマーク。

ロッキーズ時代

2003年コロラド・ロッキーズへ移籍。わずか17試合・打率.200に終わった。

2004年はメジャーリーグでのプレー機会は無かった。

ホワイトソックス時代

2005年シカゴ・ホワイトソックスに移籍すると、複数のポジションをこなすユーティリティープレーヤー代走・右の代打として、チームの世界一に貢献。当時、腰に故障を抱えていたジョー・クリーディやメジャー1年目だった井口資仁らの休養日の代役として、ウィリー・ハリスティモ・ペレスらと共に大きな役目を担った。そして、主に控えでの出場ながら、自己最多の14盗塁をマーク。

2006年アレックス・シントロンロブ・マコーヴィアクらと共にユーティリティーとしてプレーし、自己最多の79試合に出場し、打率.328・メジャー初本塁打を含む2本塁打をマークした。また、8月24日デトロイト・タイガース戦では左翼の守備で、ショーン・ケーシーを一塁でアウトにしてレフトゴロを記録した。

ドジャース時代

2008年7月20日ロサンゼルス・ドジャースと契約した。オフにFAとなった。

フィリーズ傘下時代

2009年1月15日フィラデルフィア・フィリーズとマイナー契約。同年6月11日、禁止薬物に陽性反応を示し、50試合の出場停止処分が下る。

独立リーグ時代

2010年独立リーグニューアーク・ベアーズでプレーした。

プレースタイル

1999年当時は、「選球眼が甘く四球を選べないものの、コンタクトに優れ、スピードとクイックネス(初動の速さ)を兼ね備えた優れた走者で遊撃守備も上手い」と評され、「(前年オフに)マーリンズがレンテリアを放出してまでトレードに応じたのは、オズーナを欲したからだ」と言われたほど将来を嘱望されていた[1]

詳細情報

背番号

  • 3 (2000年、2002年)
  • 1 (2003年)
  • 38 (2005年 - 2008年途中)
  • 14 (2008年途中 - 同年終了)

脚注

  1. ^ 谷口輝世子 「Future Impact ― 未来を約束された7人のルーキー」『月刊スラッガー No.13 , 1999年5月号』日本スポーツ企画出版社、51-55頁頁。 

関連項目

外部リンク