コンテンツにスキップ

イスラエルの失われた10支族

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。F-mikanBot (会話 | 投稿記録) による 2012年5月26日 (土) 11:35個人設定で未設定ならUTC)時点の版 (ロボットによる: 良質な記事へのリンク tr:Kayıp On Kabile)であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

イスラエルの失われた10支族(イスラエルのうしなわれたじゅうしぞく)とは、旧約聖書に記されたイスラエルの12部族のうち、行方が知られていない10部族を指す。

古代イスラエルの歴史

イスラエルの聖書時代の歴史[1]によると、族長アブラハム紀元前17世紀)がメソポタミアウルの地からカナンの地を目指して出発したことによりイスラエルの記録がはじまる。孫のヤコブ(ヤアコブ)の時代にエジプトに移住するが、子孫はやがてエジプト人の奴隷となる。奴隷の時代が400年程続いた後に紀元前13世紀モーセ(モーゼ)が民族をエジプトから連れ出しシナイ半島を40年間放浪し定住を始めた。200年程かけて一帯を征服して行く。

ダビデ王(紀元前1004年紀元前965年)の時代に統一イスラエル王国として12部族がひとつにされる。しかし、ソロモン王(紀元前965年‐紀元前930年)の死後、南北に分裂し、サマリヤ首都に10部族による北王国イスラエルと、エルサレムを首都にする2部族による南王国ユダに分かれた。

北王国のイスラエルは、現在のユダヤ人のような一神教的宗教を奉じていなかった可能性が高い。エルサレムのヤハウェ信仰にも一定の尊重を払っていたが、首都サマリヤに金の子牛の像をおいて祭祀の中心としていた。

北王国は紀元前722年アッシリアにより滅ぼされ、10支族のうち指導者層は虜囚としてアッシリアに連行された。この10支族の行方が文書に残されていないため、2部族によって「失われた10支族」と呼ばれた。実際には10支族のうち、虜囚にされず故郷に残った人々も多かった。しかし指導者を連行によって失った上にアッシリアの支配下に置かれたことが、彼らの支族としての文化や一体感に打撃を与えた。さらに、周辺の異民族や、アッシリアによって逆に旧北王国の地に移住させられた異民族と通婚し混血することが続くうちに、次第に10支族としてのアイデンティティを失っていった。10支族の指導者たちも、連行された異郷で異民族と暮らすうちにアイデンティティを失った。後に南王国が滅ぼされその指導者がバビロンなどで虜囚となったが、彼らは先に虜囚として来ていたはずの北王国の末裔をついに見つけ出すことができなかった。

なお、南王国のユダは、紀元前586年新バビロニアに滅ぼされた。指導者層はバビロンなどへ連行され虜囚となったが(バビロン捕囚)、宗教的な繋がりを強め、失ったエルサレムの町と神殿の代わりに律法を心のよりどころとするようになり、神殿宗教であるだけではなく律法を重んじる宗教としてのユダヤ教を確立することになる。「ユダヤ」の名は直接にはローマ帝国ユダヤ属州の名からきている。ユダヤ人は宗教的な性格を強くし、のちに商業を営みつつ世界に広がっていくことになるが、このバビロニア捕囚時代に他民族の中においてユダヤ民族としての独自性を保つための基礎が作られた。

ユダヤに対して、旧北王国の版図は、ヘレニズム期には「サマリア」また「ガリラヤ」と呼ばれた。サマリアにはゲリジム山を中心にユダヤ教と一部を共有する独自の祭祀が発達し、この人々が「サマリア人」と呼ばれた。今日の研究者は、サマリア人は婚姻などによって周辺民族と同化したかつての10支族の子孫であると推測している。一方、復興したエルサレム神殿を中心とする宗教的アイデンティティを固めていたユダヤ人は、祭祀を異にするサマリヤ人を同族と認めず、異教徒として扱った。捕囚期以後のユダヤ人は、文化的アイデンティティを確保するために、異民族との通婚を嫌い、2支族においても異民族と結婚したものを、ユダヤ人のコミュニティから排除することが行われた。このためユダヤ人の側からは10支族とサマリア人の関連を認めず、10支族は失われたとする見方が生じた。

研究者のなかには、2世紀初頭のバル・コクバの乱ローマ帝国によってパレスチナからユダヤ色が一掃された後も、サマリヤ人の大部分とユダヤ人の一部はこの地に残り、のちにイスラム教に改宗し、現在のパレスチナ人の遠祖となったと指摘するものがある。一方、いわゆるシオニズムを支持する学者の一部は、こうした指摘を否定している。

失われた10支族

失われた10支族とは、以下の者達を祖とする部族のことである。

一方、南王国ユダの2支族とは、以下の者達を祖とする部族のことで、ユダヤ民族の直系の祖となったとされる。

彼らがユダヤ2支族の祖とされるが、実際には3支族となっている。これは、レビ族祭司の家系であって継承する土地を持たないためで、12部族には入らないためである。

失われた10支族の行方

イスラエルの12支族は、聖書の記述でも考古学による考察でも、北王国の10支族とユダヤ2支族とは完全に分かれてはいなかったことが明らかになっている。

聖書の記述によると、まず、シメオン族は早期にユダ族に吸収されており[1]、非主流の部族としてユダ王国内にあった。そして、エフライム族マナセ族の一部はユダ族やベニヤミン族と共にエルサレムに居住し[2]、イスラエル王国は南北に分裂した後、アサ王の治世にエフライム族、マナセ族、シメオン族の者たちの多くはヤロブアム1世の北王国からユダ王国へと下ったともされている[3]。これらユダ王国内の非主流の部族は、バビロン捕囚の際に各部族としてのアイデンティティを失い、ユダヤ人(ユダ族、ベニヤミン族、レビ族)に同化した。さらに聖書においては、北王国滅亡後、唯一アシェル族に関しての詳細な記述が存在している。これは、虜囚にされなかったアシェル族の一部はユダヤ教に改宗し、ユダヤ人に同化していったことを意味している、とされている。

以下に挙げる説は伝承または仮説として立てられたものである。必ずしも通説には至っていないものを含む。

  • 一部はアフガニスタンに暮らしている。
  • 一部はインドカシミール地方に暮らしている。またインド東部にはマナセ族の末裔と称するブネイ・メナシェという人々がいる。
  • 一部はミャンマーに。
  • 一部は中国に。
  • 一部は日本にまでやって来たという説(日ユ同祖論)もある。六芒星などのマークが日本古来の籠目紋や麻の葉紋と似ていること、日本語の「帝(みかど)」の発音は古くは「ミガド」と発音され、古代ヘブライ語でガド族の王と云う意味(ミ・ガド)であることなどが、その根拠とされる。また、かつて北海道の先住民族アイヌ人は、周囲の諸民族とは異なる、そのヨーロッパ人的な風貌のために、古代イスラエル人の末裔だと思われていたこともあった。
  • 一部は朝鮮に。日本に渡った10支族は朝鮮半島を経由した折りに、ダン族などの一部支族が定住したと言うものである。
  • 一部はイギリスに。経緯不明のユート人はユダヤ人の一部族であると言う説。
  • 一部は新大陸アメリカ)に。ミシシッピ文化を作った民族・マウンドビルダーはアメリカ先住民の祖先であることが明らかになっているが、19世紀にはマウンドビルダーの正体は謎であり、アメリカに渡った10支族がこれらの遺跡を築いたマウンドビルダーなのではないかとする説もあった。
  • 一部はスキタイに。後にスキタイの遊牧性を利用して、さらに東アジアへ向かったと言う説もあり、日ユ同祖論と繋げる説もある。
  • 一部はイエメンを経由してアフリカに入りジンバブエを通過して南アフリカに到達してレンバ族となった。

伝説

(キリストが磔にあったのち、救い出されカシミールに逃れて100歳以上まで暮らしたという伝説がある。)

関連項目

出典

  1. ^ 関根正雄・訳 (1956). 旧約聖書 創世記. 岩波文庫. pp. p.244. ISBN 4-00-338011-8 
  2. ^ 歴代誌上 第9章3節
  3. ^ 歴代誌下 第15章9節

外部リンク

Template:Link GA