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内田良平 (俳優)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
うちだ りょうへい
内田 良平
生年月日 (1924-02-05) 1924年2月5日
没年月日 (1984-06-15) 1984年6月15日(60歳没)
出生地 千葉県銚子市
国籍 日本の旗 日本
民族 日本人
職業 俳優
ジャンル 映画テレビドラマ
主な作品
映画
『ギャング同盟』
やくざ刑事シリーズ
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内田 良平(うちだ りょうへい、1924年2月5日 - 1984年6月15日)は、日本俳優詩人千葉県銚子市出身。

来歴・人物

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法政大学予科在学中の内田は、戦況が悪化すると「いずれ自分も特攻隊員に採られて死ぬのだから、学校に居ても仕方が無い」と思い、帰郷後にブラブラしていると家のすぐ近くにある銚子市立飯沼小学校から「教師が不足しているのでどうだ?」と声が掛かり、1945年夏から1946年の夏までの1年間代用教員を務めた[1]。法政大学経済学部在学中の1951年新協劇団に入って演劇を始める[注釈 1][2]1951年杉浦直樹小松方正らと劇団「新演劇研究所」を結成して活動するが、ほどなく解散した。東映での映画出演を経て1953年に友人から小林正樹を紹介され、その伝手で松竹映画にも出演。日活の『機動捜査班』シリーズに出演した後、1963年に東映の『ギャング同盟』で初主演を果たす。

1965年、愛人に「へそ下」を切られるスキャンダルが起きる。これまでは「34歳・独身」という触れ込みだったが、東京・京都に別々の内妻がいる「41歳」だったことが報道で明らかになった。

彫りの深い日本人離れした精悍なマスクから、ギャング役などの悪役を中心に様々な映画・テレビドラマで助演を果し、映画『やくざ刑事シリーズ』『青春の殺人者』『ザ・スパイダースのバリ島珍道中』などの話題作でコミカルものからアクション・世相実録ものでシニカルな作品まで幅広い演技で出演した。1963年の映画『十三人の刺客』で、思慮遠望巡らす鬼頭半兵衛役は当たり役の一つとされる。

詩人としても知られており、動物や昆虫をテーマにした詩を多く作っている。その中でも詩集『おれは石川五右衛門が好きなんだ』の「ハチのミヤモトムサシは死んだんだ」に、むろふしチコが補作詞した楽曲「ハチのムサシは死んだのさ」は、1972年平田隆夫とセルスターズの歌唱で大ヒットとなった。

1984年6月15日、演劇の巡業先で心筋梗塞のため急死した。60歳没。

エピソード

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  • 私生活ではチロリアンハットを愛用・収集しており、演劇仲間がそれを着用しているとその入手先を必ず尋ねるほどだった。

出演

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映画

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人生劇場 第二部 残侠風雲篇』(1953年)

テレビドラマ

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演劇

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バラエティー番組

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吹き替え

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アニメ

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CM

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  • 一力本店(宮城県仙台市の下関活ふぐ料理店)

著書

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  • 『おれは石川五右衛門が好きなんだ 内田良平詩集』サンケイ新聞社出版局、1974年
  • 『虫の気持ちがわかるかい』婦人生活社、1977年
  • 『内田良平のやさぐれ交遊録』ちはら書房、1979年
  • 『みんな笑ってる 内田良平詩集』河出文庫、1984年4月
  • 『朱いかもめ 内田良平遺稿詩集』作品社、1984年11月
    後半部は俳優仲間・友人たち十数名の追悼回想
  • 『乙姫様の玉手箱』潮出版社、1984年12月
    童話・自伝小説・紀行エッセイ

参考資料

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  • 梅林敏彦「内田良平インタビュー〜俺は映画俳優ってのに誇りが持てなくてね」『アウトローに挽歌はいらない』北宋社、1979年、113-127頁。 

脚注

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注釈

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  1. ^ 同郷の先輩岡田英次が所属、演出部に加入した。

出典

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  1. ^ TBSテレビ「3時にあいましょう」1974年5月31日放送 内田良平 俺の教員時代
  2. ^ 梅林敏彦 1979, p. 115
  3. ^ 東宝特撮映画全史 1983, p. 538, 「主要特撮作品配役リスト」

参考文献

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  • 『東宝特撮映画全史』監修 田中友幸東宝出版事業室、1983年12月10日。ISBN 4-924609-00-5 

関連項目

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外部リンク

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