第6歩兵師団 (韓国陸軍)
第6歩兵師団 | |
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創設 | 1948年4月29日 |
所属政体 | 大韓民国 |
所属組織 | 大韓民国陸軍 |
部隊編制単位 | 師団 |
兵科 | 歩兵 |
愛称 | 青星(청성) |
上級単位 | 第5軍団 |
戦歴 |
第6歩兵師団(だい6ほへいしだん、朝鮮語: 제6보병사단、第六步兵師團)は大韓民国陸軍の師団の1つ。
歴史
[編集]第6師団の始まりは1948年4月29日に創設された第4旅団(初代旅団長、蔡秉徳大佐)で、同年11月20日に第6旅団に改称され1949年5月12日に師団に昇格した。
当初、第7連隊、第8連隊、第10連隊の3個連隊を擁し、春川から洪川までの38度線警備を担当した。しかし、1949年5月4日午後から翌5日にかけ、第1大隊長・表武源少領、第2大隊長・姜太武少領が部隊を率い相次いで越北。それに反発した中隊長チェ・ドンソプ中尉、キム・インシク中尉らにより第1大隊415名中239名、第2大隊約300名中143名が脱出し原隊に帰還できた。1950年5月1日に第10連隊に代わって第19連隊が、6月20日には第8連隊に代わって首都警備司令部から第2連隊(長:咸炳善大領)が移管[1]。
1950年6月25日、朝鮮戦争が勃発すると北朝鮮第2軍団(軍団長:金光侠中将)の第2師団(師団長:李青松少将)が春川に、第12師団(師団長:全宇少将)と独立戦車連隊が洪川に侵攻した(国境会戦)。第6師団は地形を利用した防御で北朝鮮第2軍団に損害を与えた。これにより春川の攻略は遅れ、北朝鮮軍の計画に躓きが生じた。この戦いで第6師団は「春川の岩」、「華の第6師団」と呼ばれるようになった。マシュー・リッジウェイは、よく戦闘の準備をした勇敢な部隊の1つとし、「攻撃が始まった時、韓国第6師団は踏みとどまって防戦する準備ができていた。彼等は勇敢に戦い、北朝鮮軍が京城へ進撃するのを3日間も阻止した。」と評価している[2]。
1950年7月初旬、第6師団は安城付近から忠州までの約70キロメートルの範囲に展開して西部の第1軍団を援護した。7月7日から忠州付近で第12師団(師団長:崔春国少将)の攻撃を受けたが、短切な攻撃を繰り返して12日までこれを阻止した[3]。
同月中旬、各所で抵抗しながら後退し、15日に新編の第2軍団に編入された。
下旬、尚州市咸昌で増援の第1師団と共に北朝鮮第1師団、第13師団と攻防戦を繰り広げた。
1950年8月2日、第2軍団の命令により洛東江を渡河して洛東江防御線の防御に就くが、翌3日に早くも北朝鮮第1師団が攻撃を開始し、第6師団は抵抗しながら後退した。その後、陸軍本部の命令で義城方面に後退して、右翼の第8師団の担当正面を肩代わりさせた。ここで新たに北朝鮮第8師団が加わった。第6師団は新寧まで後退し、ここで2個師団の攻勢を阻止した。
1950年9月初旬、北朝鮮軍の9月攻勢が開始され、第6師団は北朝鮮第8師団と交戦した。
1950年9月15日の仁川上陸作戦を皮切りに第8軍は攻勢に転移し、第6師団も翌16日に攻勢をかけた。最初は進展しなかったが21日に北朝鮮第8師団を殲滅して北上した。
1950年10月15日、38度線を越えて北進し先鋒隊が鴨緑江に到達したが25日以降の中共軍の第1次攻勢で隷下の2個連隊が包囲され、開戦以来建制を保ってきた第6師団は壊走した。
1950年11月下旬、第6師団はクリスマス攻勢に参加するが、中共軍の第2次攻勢で再び壊走する。
1951年1月、第2軍団が解体されたためアメリカ第9軍団に配属された。
1951年3月、リッパー作戦で第2連隊第1大隊が1人の兵士も失うことなく、1個大隊を全滅させ、大砲4門と迫撃砲7門を含む多数の装備を鹵獲した[4]。
1951年4月、史倉里で中共軍第20軍の攻勢を受けて崩壊。
1952年1月9日、陸軍本部直轄となり、1月12日から3月20日まで楊口で部隊整備と教育訓練を実施[5]。
1952年4月、再建された第2軍団に配属された。
1975年、江原道鉄原郡にて第2南侵トンネルを発見した。
編制
[編集]- 第2連隊
- 本部中隊
- 第1大隊
- 第2大隊
- 第3大隊
- 第7連隊
- 本部中隊
- 第1大隊
- 第2大隊
- 第3大隊
- 第19連隊
- 本部中隊
- 第1大隊
- 第2大隊
- 第3大隊
- 砲兵旅団
- 第27砲兵大隊
- 第76砲兵大隊
- 第77砲兵大隊
- 第88砲兵大隊
師団長
[編集]この節の加筆が望まれています。 |
代 | 氏名 | 在任期間 | 出身校・期 | 前職 | 後職 | 備考 | |
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漢字/片仮名表記 | 原語表記 | ||||||
1 | 蔡秉徳 | 채병덕 | 1948.4.29 - 1948.10.11 | 日本陸士49期 軍英2期 |
統衛部特別部隊長 | 参謀総長 | |
2 | 劉載興 | 유재흥 | 1948.10.11 - 1949.1.15 | 日本陸士55期 | 第1旅団参謀長 | 陸軍士官学校副校長 | |
3 | 金白一 | 김백일 | 1949.1.15 - 1949.5.12 | 奉天5期 軍英1期 |
第5旅団長 | 留任 | |
1 | 金白一 | 김백일 | 1949.5.12 - 1949.5.14 | 奉天5期 軍英1期 |
第6旅団長(留任) | 甕津地区戦闘司令官 | |
2 | 劉載興 | 유재흥 | 1949.5.14 - 1950.1.5 | 日本陸士55期 | 済州地区戦闘司令官 | 第2師団長 | |
3 | 申尚澈 | 신상철 | 1950.1.5 - 1950.6.10 | 日本航士58期 | 陸本情報局長 | 陸本人事局長 | |
4 | 金鐘五 | 김종오 | 1950.6.10 - 1950.10.31 | 軍英1期 | 第1連隊長 | 第9師団長 | |
5 | 張都暎 | 장도영 | 1950.10 - 1952.1 | 軍英1期 | 陸本情報局長 | 第1訓練所長 | |
6 | 白仁燁 | 백인엽 | 1952.1 - 1953.6 | 軍英1期 | 第1訓練所長 | 第9師団長 | |
代 | 金龍周 | 김용주 | 1953.5.9[6] - 1953.6.18 | 大領副師団長 | |||
7 | 金點坤 | 김점곤 | 1953.6.29[6] - 1954.3 | 軍英1期 | 陸本人事局長 | 第1軍参謀副長 | |
李白雨 | 이백우 | ? - 1957.8[7] | 軍英1期 | 陸軍大学入校 | |||
李源長 | 이원장 | 1957.8[7] - 1958.3.12 | 軍英1期 | 陸本人事局長[8] | 予備役 | ||
李昌成 | 이창성 | 1958.3.12[9] - ? | 陸軍報道室長 | 准将 | |||
李龍 | 이용 | 1959.7 - 1960.4 | 陸士5期 | 第12師団長 | 歩兵学校長 | ||
12 | チェ・ムンホ | 최문호 | ? - ? | ||||
13 | キム・テジュン | 김태준 | ? - 1961.12.29 | 准将 | |||
14 | ユン・テクジュン | 윤택중[10] | 1961.12.29[10] - 1963.9.4 | 准将 | |||
15 | 金載圭 | 김재규 | 1963.9.4[11][10] - 1966.1.21 | 警士2期 | 湖南肥料社長 | 第6管区司令官[12] | |
16 | 朴賢植 | 박현식 | 1966.1.21[10] - 1967.7.3[10] | 陸士5期 | 第9師団長 | ||
17 | 金鍾洙 | 김종수 | 1967.7.3 - 1969 | 陸士3期 | 第30師団長[13] | 駐越韓国軍作戦副司令官 | 准将 |
19 | 李建栄 | 이건영 | 1971 - 1972.1 | 陸士7期 | 第6副師団長 | 陸大総長 | |
21 | 鄭名煥 | 정명환 | 1973.8.18[14] - 1976 | 陸士8期 | 陸本人事運営管 | 准将、75年少将 | |
24 | 呉滋福 | 오자복 | 1979 - 1980 | 甲種3期 | 軍事作戦処長 | 国保委文公分科委員長 | |
25 | 韓哲洙 | 한철수 | 1980 - 1982 | 陸士12期 | 陸本管理参謀部長 | ||
26 | 閔庚培 | 민경배 | 1982 - 1984.1.18 | 陸士14期 | |||
27 | 権寧海 | 권영해 | 1984.1.18 - 1986.1.16 | 陸士15期 | 第88旅団長 | オリンピック警備司令官 | |
28 | 李海龍[15] | 이해룡 | 1986.1.16 - 1988.1 | 陸士17期 | 陸軍本部本部司令官 | 第3軍参謀長[16] | ハナフェ |
29 | 尹龍男 | 윤용남 | 1988 - 1990 | 陸士19期 | 第5軍団参謀長 | 第5軍団長 | |
31 | 韓勝義 | 한승의 | 1991 - 1993.10.27 | 陸士22期 | 韓米連合司令部作戦処長 | 国防部政策企画官 | |
32 | 朴奉植 | 박봉식 | 1993.10.27[17][10] - 1995.10.23 | 陸士24期 | 国防部人事福祉局長 | ||
33 | 南在俊 | 남재준 | 1995.10.23[10] - 1997.10.28 | 陸士25期 | 首防司参謀長 | 陸本人事参謀部長 | |
34 | 金章洙 | 김장수 | 1997.10.28[10] - 1999.11.9 | 陸士27期 | 第1軍作戦処長 | 合同参謀作戦部長[18] | |
35 | キム・ハクヨン | 김학연 | 1999.11.9[10] - 2001.1.17 | 陸士28期 | 予備役 | セクハラ疑惑により解任 | |
36 | 崔光燮[19] | 최광섭 | 2001.1.17 - 2002 | 陸士29期 | 27師団長 | ||
37 | 許坪桓 | 허평환 | 2002 - 2004 | 陸士30期 | 国防部人事福祉局次長 | 陸軍訓練所長 | |
38 | 任官彬 | 임관빈 | 2004 - 2006.5.2 | 陸士32期 | 陸本秘書室長 | 陸本政策広報室長[20] | |
39 | 尹英範 | 윤영범 | 2006.5.2 - 2007.4.29[21] | 陸士33期 | 陸本作戦部長 | ザイトゥーン部隊長 | |
40 | ジョ・ビョンオ | 조병오 | 2007.4.29 - 2008.12 | 学軍16期 | 第2軍団副軍団長 | GP手榴弾投擲事件で更迭 | |
41 | ファン・チュンシク | 황충식 | 2008.12.3 - 2010.12 | 陸士36期 | 陸本情報作戦処長 | ||
42 | 任浩永 | 임호영 | 2010.12 - 2012.11.8 | 陸士38期 | 第1軍団参謀長 | 陸本監察室長 | |
43 | イ・ジェヒョン | 이재형 | 2012.11.8 - 2014.10.16 | 学軍21期 | 砲兵学校教授部長 | 陸軍砲兵学校長 | |
44 | イ・グクジェ | 이국재 | 2014.10.16[22] - 2016 | 陸士42期 | 陸本情報作戦部第1次長 | 第3軍参謀長 | |
45 | イ・ジンヒョン | 이진형 | 2016 - 2018.11 | 陸士44期 | 合同参謀本部作戦1処長 | 国防部政策企画官 | |
46 | シム・ジンソン | 심진선 | 2018.11 - 2020.12 | 陸士46期 | 第3軍作戦処長 | 陸軍教育司令部教義発展部長 | |
47 | パク・ジョンテク | 박정택 | 2020.12 - 現 | 学軍30期 | 地上作戦司令部作戦処長 | 現職 |
脚注
[編集]出典
[編集]- ^ 정안기 2018, p. 179.
- ^ リッジウェイ 1976, pp. 36–37.
- ^ 田中 2011, p. 36.
- ^ リッジウェイ 1976, p. 139.
- ^ 国防部戦史編纂委員会 1986, p. 291.
- ^ a b 国防部戦史編纂委員会 1976, p. 370.
- ^ a b “師團長級異動” (朝鮮語). 부산일보. (1957年8月7日) 2019年10月24日閲覧。
- ^ “李源長” (韓国語). 国立大田顕忠院. 2016年5月26日閲覧。
- ^ “六師團長에 李 准將” (朝鮮語). [[[釜山日報]]. (1958年3月13日) 2021年9月7日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i パク・ソンジン (2019年10月30日). “金載圭前中情部長、南在俊前陸軍総長 写真はなぜ並んでかかる(김재규 전 중정부장, 남재준 전 육군총장 사진은 왜 나란히 걸렸나 )”. 京郷新聞 2021年9月5日閲覧。
- ^ “有故(2)―金泳三総裁の登場と金載圭の葛藤(3)” (韓国語). 趙甲濟ドットコム. 2016年7月15日閲覧。
- ^ “金載圭” (韓国語). 民族文化大百科事典. 2016年7月15日閲覧。
- ^ “白馬部隊長に朴賢植少将(백마 부대장에 박현식 소령)”. 中央日報. (1967年6月29日) 2015年12月15日閲覧。
- ^ 서울 근교 지하 기계음(2) 한국의 심장부로...(3)
- ^ 한국의 人脈 : 系譜와 派閥의 뿌리
- ^ “観公新監査 李海龍さん(백마 부대장에 박현식 소령)”. 旅行新聞. (1992年9月4日) 2015年12月15日閲覧。
- ^ “仕上げ入った「軍の脱政治化」/ 3群中・少将人事背景 (마무리 접어든 「군의 탈정치화」/3군 중·소장인사 배경)”. 中央日報. (1993年10月19日) 2016年5月26日閲覧。
- ^ “[プロフィール]金章洙駐中国大使内定者([프로필]김장수 주중국대사 내정자)”. ニューシス. (2015年2月15日) 2016年5月26日閲覧。
- ^ “国防部、資源管理本部長特別採用 (국방부, 자원관리본부장 특별채용)”. ニュースワイヤー. (2006年3月2日) 2016年5月26日閲覧。
- ^ “「戦作権」韓国代表 任官彬って誰?忠州出身国防部政策室長...陸士32期・中将(‘전작권’ 한국대표 임관빈은 누구충주 출신 국방부정책실장… 육사 32기·중장)”. 世宗デイリー. (2013年7月30日) 2016年5月26日閲覧。
- ^ “ザイトゥーン部隊の師団長 尹英範少将 29日に就任(자이툰 부대 사단장 윤영범 소장 29일 취임)”. 江原道民日報. (2007年4月25日) 2016年5月26日閲覧。
- ^ “最前方鉄原で国防守護尽くす青星部隊(최전방 철원서 국방수호 다하는 청성부대)”. 新亜日報. (2014年10月17日) 2016年5月26日閲覧。
参考文献
[編集]- マシュウ・B・リッジウェイ 著、熊谷正巳,秦恒彦 訳『朝鮮戦争』恒文社、1976年。
- 佐々木春隆『朝鮮戦争/韓国篇 上・中・下巻』原書房、1979年。
- 田中恒夫『図説朝鮮戦争』河出書房新社、2011年。
- “韓國戰爭史第9巻 對陣末期(1953.1.1~1953.7.27)” (PDF). 韓国国防部軍史編纂研究所. 2020年2月21日閲覧。
- “韓國戰爭要約” (PDF). 韓国国防部軍史編纂研究所. 2020年2月8日閲覧。
- 정안기 (2018). “한국전쟁기 육군특별지원병의 군사적 역량”. 군사연구 (육군군사연구소) 146: 171-206.