「植原・笹川事件」の版間の差分

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'''植原・笹川事件'''(うえはら・ささがわじけん)は、[[1920年|1920]] - [[1921年]](大正9 - 10年)に[[明治大学]]で発生した[[学校騒動]]・学園紛争である。
'''植原・笹川事件'''(うえはら・ささがわじけん)は、[[1920年|1920]] - [[1921年]](大正9 - 10年)に[[明治大学]]で発生した[[学校騒動]]・学園紛争である。


== 概要 ==
== 概要 ==
[[ファイル:植原・笹川事件1.jpg|thumb|200px|right|学長退陣を訴える明大生]]
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=== 第1段階(学生対大学当局) ===
=== 第1段階(学生対大学当局) ===
[[1920年]](大正9年)12月1日、明治大学で学生大会が開催され、学長[[木下友三郎]]と学監田島義方の退陣を勧告する決議を行った。この運動の中心を担ったのは[[大学令]]による学部昇格を見送られた[[明治大学大学院政治経済学研究科・政治経済学部|政治学科]]の学生たちで、その背景には法学重視の講座配置や合併授業の多さに対する不満があった。大学当局はこれに対して学生リーダー8名を放校処分とし、さらに12月10日、学生たちを扇動した廉で[[植原悦二郎]]・[[笹川臨風]]両教授を解職した<ref>『東京朝日新聞』 1920年12月11日</ref>。
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=== 第2段階(学生対文部省) ===
=== 第2段階(学生対文部省) ===
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[[image:明治大学記念館(二代目).jpg|thumb|150px|記念館(2代目)]]

しかし[[1921年]](大正10年)4月28日、[[文部省]]は笹川の復職のみを認め、植原については復職を認めなかった(笹川も復職を辞退)<ref>『東京朝日新聞』 1921年5月5日</ref>。争いは学生対大学当局から学生対文部省へと変質していった。
しかし[[1921年]](大正10年)4月28日、[[文部省]]は笹川の復職のみを認め、植原については復職を認めなかった(笹川も復職を辞退)<ref>『東京朝日新聞』 1921年5月5日</ref>。争いは学生対大学当局から学生対文部省へと変質していった。



2021年8月25日 (水) 03:12時点における版

大正時代の明治大学

植原・笹川事件(うえはら・ささがわじけん)は、1920 - 1921年(大正9 - 10年)に明治大学で発生した学校騒動・学園紛争である。

概要

学長退陣を訴える明大生

第1段階(学生対大学当局)

1920年(大正9年)12月1日、明治大学で学生大会が開催され、学長木下友三郎と学監田島義方の退陣を勧告する決議を行った。この運動の中心を担ったのは大学令による学部昇格を見送られた政治学科の学生たちで、その背景には法学重視の講座配置や合併授業の多さに対する不満があった。大学当局はこれに対して学生リーダー8名を放校処分とし、さらに12月10日、学生たちを扇動した廉で植原悦二郎笹川臨風両教授を解職した[1]

学生たちは両教授の復職と放校処分の撤回を強く要求した。結局、大学当局は両教授の復職を認め、被処分学生も復学した。学生側も木下学長と田島学監の退陣要求を撤回した。

第2段階(学生対文部省)

文部省に押し寄せた明大生

しかし1921年(大正10年)4月28日、文部省は笹川の復職のみを認め、植原については復職を認めなかった(笹川も復職を辞退)[2]。争いは学生対大学当局から学生対文部省へと変質していった。

  • 5月16日、明大生約2千名は文部省に押し寄せ、植原の復職と私学圧迫排除、学問の独立自由の保証を要求[3]
  • 5月18日、明大記念館で各私立大学連合大演説大会を挙行。
  • 5月24日、大学当局は学生運動の首謀者13名の退学・放校処分を断行、学生側は全学ストライキを決行[4]
  • 5月30日、警官隊が大学に突入。記念館に籠城した学生たちは校歌を高唱しながら激しく抵抗し、警官が記念館2階から転落して負傷する事態も起きた。

結局、木下学長以下首脳陣4名は引責辞任し(後任の学長は富谷鉎太郎)、植原の復職も実現せず、明治大学を舞台にした勝者なき大学紛争は幕を下ろした。

脚注

  1. ^ 『東京朝日新聞』 1920年12月11日
  2. ^ 『東京朝日新聞』 1921年5月5日
  3. ^ 『東京朝日新聞』 1921年5月17日夕刊
  4. ^ 『東京朝日新聞』 1921年5月25日夕刊

参考文献

  • 明治大学 『図録明治大学百年』 1980年
  • 明治大学百年史編纂委員会 『明治大学百年史』 全4巻、1986-1994年

関連項目

外部リンク