「デビット・ケネディ (レーサー)」の版間の差分
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* {{Cite web|url=http://www.derekdaly.com/documents/AutosportDecember16-23sm.pdf|title=Shock And (Iron) Ore|website=DerekDaly.com|accessdate=20191002|publisher=}} |
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[[Category:シャドウのF1ドライバー]] |
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2020年2月10日 (月) 17:17時点における版
David Kennedy | |
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基本情報 | |
国籍 | Irish |
出身地 | Sligo, Ireland |
生年月日 | 1953年1月15日(71歳) |
F1での経歴 | |
活動時期 | 1980年 |
所属チーム | Shadow |
出走回数 | 7 (0 starts) |
タイトル | 0 |
優勝回数 | 0 |
表彰台(3位以内)回数 | 0 |
通算獲得ポイント | 0 |
ポールポジション | 0 |
ファステストラップ | 0 |
初戦 | 1980 Argentine Grand Prix |
最終戦 | 1980 French Grand Prix |
デビット・ケネディ(David Kennedy、1953年1月13日‐)は、アイルランドのレーシングドライバー。彼は同国初のグランプリドライバーの一人であり、アイルランドの国際レースへの移行の先駆者となったと広く知られている。 [要出典]
1970年代から、アイルランドのレースで活躍。1980年からはF1にも参戦した。1983年からは、ル・マン24時間レースに出場し、翌年からは、マツダスピードからルマン24時間に参戦、1987年から3年間クラス優勝を果たした。また、ルマンと並行して全日本ツーリングカー選手権や全日本耐久選手権にも出場し、ツーリングカー選手権では、土屋圭市とコンビを組み、耐久選手権では、ルマンと同じくマツダ陣営のドライバーとして参戦していた。その後も1990年代まで国際レースで活躍し、引退後は解説者やレース役員を務めている。
成功したレーシングドライバーであるだけでなく、ケネディは著名なドライバー・マネージャーでもあり、F1の人気TVアナリストであり、シングルレースで優勝したシングルシートレースチームの株主であり、アイルランドのモンデロパークレースサーキットの役員でもある。
経歴
ケネディは、1970年代のアイルランド国際レースの才能の先駆者で、1976年にRACとタウンゼントトーセンフォーミュラフォード1600チャンピオンシップで優勝。クロスルミニスター30Fを走らせ、アイルランド人でイギリスのシングルシーターチャンピオンシップの初代勝者となる。また、その年のヨーロッパFF1600シリーズで2位に入賞。1977年にAFMPマーチ欧州フォーミュラ3チームをサポートするファクトリーを卒業したが、チームは年の初めに店じまいし、ケネディはすぐにアルゴという小さなチームに切り替え、ジョー・マーコートが設計したJM1シャーシで多くの奇跡的な結果を記録した。
1978年にシリーズで6位に入賞したが、年末までにイギリスのF1シリーズに切り替え、スネッタートンで行われたレースでセオドア・レーシングからウルフWR3で出走し勝利を収めた。1979年に英国F1で準優勝し、1980年にシャドウチームとグランプリレースに進出。 しかし、チームは慢性的に資金不足で、DN11シャーシの設計が不十分で テディ・イップがセオドールを数レースの後、チームの所有権を引き継いだが、新しいDN12のデザインが似て異なる失敗作であることが判明。 しかしケネディは1980年のスペイングランプリで予選とレースを行う。このイベントはその後、世界選手権の地位を奪われた。
Frissbeeシャーシで1981年に北アメリカのカンナムレースで一部のシーズンを過ごした後、ケネディはヨーロッパに戻り、のちにチーム運営のためスポーツカーレースで成功したキャリアを築くために、日本のマツダスピード、ルマンで広く知られたチームで一連の象徴的クラスを獲得していたロータリー式マシンでスポーツカー世界選手権を戦っていく。ケネディは90年代前半の日本で、有利なレースシーンで生計を立てているクラブ専属のプロドライバーの一員として、卓越した存在であった。 引退前にはドライバー管理方面でも動き始め、1991年にル・マンでブレークスルーの勝利を獲得したジョニー・ハーバート、フォルカー・ワイドラー、ベルトラン・ガショーのドライバーチームを選出する。彼自身もF1とF3のチームメイトであるステファン・ヨハンソンとマウリツィオ・サンドロ・サラとで総合5位に入賞。1994年に一線を退いた後フルタイムのドライバー管理者へ移行してル・マンでも先駆として有名なエディションであった。シングルシートのキャリアでケネディから支援をうけたドライバーの中には、元ジョーダングランプリでF1ドライバーとなったフォーミュラ・ニッポンチャンピオンのラルフ・ファーマン、フォーミュラニッポンチャンピオンのリチャード・ライアン、フォーミュラー・パーマー・アウディのチャンピオン、GTおよびスポーツカーレースでキャリアを積みインディ・ライト2位のダミアン・フォークナーがいる。
またこの時期ケネディは、ピーター・コリンズと一緒にRTÉで永久の共同コメンテーターを開始しフォーミュラワンレースのテレビアナリストとしてのキャリアを開発、後の1995年から2003年にはアイルランドのデクラン・クイグリーのためのF1レースでセタンタ・スポーツを2004年から2009年まで率いる。
彼は長年にわたりサンデー・インディペンデント新聞で定期的な意見コラムを執筆しており、F1レースの進行状況を風変わりで側面から見た鋭いアナリストとしての評価を得ている。
常にクラブレースに深い関心を抱いており、1970年代初頭にキャリアを開始してから以降、1986年からはモンデロ・パーク・レース・サーキットのディレクターを務める。
ケネディは、2006年に開催されたA1GPワールドカップオブモータースポーツのアイルランドチームを管理するコンソーシアムの一員で、チームは2008/09年に最終シリーズチャンピオンになり、アダム・キャロルがハンドルを握った後、チームは2009年にステータスグランプリとして新しいGP3シリーズに移行した。なおステータス・モータースポーツのチーム・プリンシパルは、ケネディが1978年から1980年まで参戦したセオドアとジャドウF1チームを所有していたテディ・イップの息子テディ・イップ・ジュニアである[1]。
ケネディには、モータースポーツ以外のビジネスへの関心もあるという。彼の妻フィオナは、彼と3人の子供を持ち、彼女自身も元フォーミュラ・フォードのレーサーである。
レース戦績
全日本ツーリングカー選手権
年 | チーム | クラス | 使用車両 | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 順位 | ポイント |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1988 | COSMO OIl | JTC-2 | BMW・M3 | SUZ | NIS 3 |
SEN 5 |
TSU 3 |
SUG 3 |
FSW 5 |
||
1989 | JTC-1 | フォード・シエラRS500 | NIS 5 |
SEN | TSU | SUG Ret |
SUZ 5 |
FSW 3 |
フォーミュラワン
年 | 応募者 | シャシー | エンジン | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 13 | 14 | WDC | ポイント |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1980 | シャドーカー | シャドウ DN11 | コスワース V8 | ARG DNQ |
BRA DNQ |
RSA DNQ |
USW DNQ |
BEL DNQ |
NC | 0 | |||||||||
セオドアシャドウ | MON DNQ |
||||||||||||||||||
シャドウ DN12 | FRA DNQ |
GBR | GER | AUT | NED | ITA | CAN | USA |
ルマン24時間
年 | チーム | 共同ドライバー | 車 | クラス | ラップ | Pos. | Class Pos. Class Pos. |
---|---|---|---|---|---|---|---|
1983 | ピアレーシング | フランソワ・ミゴール マーティン・ビレーン |
フォード・C100 | C | 16 | DNF | DNF |
1984 | マツダスピード株式会社 | フィリップ・マーティン ジャン=ミシェル・マーティン |
マツダ・727C | C2 | 291 | 19位 | 4位 |
1985 | マツダスピード株式会社 | フィリップ・マーティン ジャン=ミシェル・マーティン |
マツダ・737C | C2 | 283 | 19位 | 3位 |
1986 | マツダスピード株式会社 | ピエール・デュドネ マーク・ガルビン |
マツダ・757 | GTP | 137 | DNF | DNF |
1987 | マツダスピード株式会社 | ピエール・デュドネ マーク・ガルビン |
マツダ・757 | GTP | 319 | 7位 | 1位 |
1988 | マツダスピード株式会社 | 寺田洋次郎 ピエール・デュドネ |
マツダ・757 | GTP | 337 | 15位 | 1位 |
1989 | マツダスピード株式会社 | ピエール・デュドネ クリス・ホジェッツ |
マツダ・767B | GTP | 368 | 7位 | 1位 |
1990 | マツダスピード株式会社 | ステファン・ヨハンソン ピエール・デュドネ |
マツダ・787 | GTP | 147 | DNF | DNF |
1991 | マツダスピード株式会社 オレカ |
ステファン・ヨハンソン マウリツィオ・サンドロ・サラ |
マツダ・787B | C2 | 355 | 6位 | 6位 |
参照資料
- ^ “Moving Status to GP2”. mark-gallagher.com. 20191002閲覧。
参考サイト
- “Shock And (Iron) Ore”. DerekDaly.com. 20191002閲覧。