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'''レイ・ウィルキンス [[大英帝国勲章|MBE]]'''('''Ray Wilkins MBE''', [[1956年]][[9月14日]] - )は、[[イングランド]]、[[ロンドン]]出身の元[[サッカー選手]]、サッカー指導者。現役時代のポジションは[[ミッドフィールダー|MF]]。父親のジョージ・ウィルキンス、兄弟であるグレアム、スティーヴンもサッカー選手である。現ヨルダン代表監督
'''レイ・ウィルキンス [[大英帝国勲章|MBE]]'''('''Ray Wilkins MBE''', [[1956年]][[9月14日]] - )は、[[イングランド]]、[[ロンドン]]出身の元[[サッカー選手]]、サッカー指導者。現役時代のポジションは[[ミッドフィールダー|MF]]。父親のジョージ・ウィルキンス、兄弟であるグレアム、スティーヴンもサッカー選手である。


== 経歴 ==
== 経歴 ==
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そして、[[1994年]]に選手兼コーチとしてのオファーを受け、[[クリスタル・パレスFC]]の一員となった。しかし、そのデビュー戦で左足に怪我を負ってしまう。その怪我が癒えた後、再びクイーンズ・パーク・レンジャーズへ今度は[[選手兼任監督]]として加わった。2年後に[[ウィコム・ワンダラーズFC]]へと移籍、その後もクラブを転々とし、翌年に[[レイトン・オリエントFC]]にて引退した。引退後は、1年間のみ[[フラムFC]]の監督をしていた他、1998-2000シーズンはチェルシーのアシスタントコーチをしていた。
そして、[[1994年]]に選手兼コーチとしてのオファーを受け、[[クリスタル・パレスFC]]の一員となった。しかし、そのデビュー戦で左足に怪我を負ってしまう。その怪我が癒えた後、再びクイーンズ・パーク・レンジャーズへ今度は[[選手兼任監督]]として加わった。2年後に[[ウィコム・ワンダラーズFC]]へと移籍、その後もクラブを転々とし、翌年に[[レイトン・オリエントFC]]にて引退した。引退後は、1年間のみ[[フラムFC]]の監督をしていた他、1998-2000シーズンはチェルシーのアシスタントコーチをしていた。


イングランド代表としては84試合キャップ。[[UEFA欧州選手権1980]]、[[1982 FIFAワールドカップ]]、[[1986 FIFAワールドカップ]]にも招集された。2014年9月にヨルダン代表チームの監督に就任した。
イングランド代表としては84試合キャップ。[[UEFA欧州選手権1980]]、[[1982 FIFAワールドカップ]]、[[1986 FIFAワールドカップ]]にも招集された。2014年9月にヨルダン代表チームの監督に就任したが2015年に退任した。


== 所属クラブ ==
== 所属クラブ ==

2017年6月10日 (土) 06:33時点における版

レイ・ウィルキンス
名前
本名 レイモンド・コリン・ウィルキンス
Raymond Colin Wilkins
ラテン文字 Ray Wilkins
基本情報
国籍 イングランドの旗 イングランド
生年月日 (1956-09-14) 1956年9月14日(67歳)
出身地 ロンドン
身長 173cm
選手情報
ポジション MF
代表歴
1976-1986 イングランドの旗 イングランド [1] 84 (3)
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

レイ・ウィルキンス MBERay Wilkins MBE, 1956年9月14日 - )は、イングランドロンドン出身の元サッカー選手、サッカー指導者。現役時代のポジションはMF。父親のジョージ・ウィルキンス、兄弟であるグレアム、スティーヴンもサッカー選手である。

経歴

1973年チェルシーFCでデビュー。この時グレアム、スティーヴンもチェルシーに所属していたが、レイほどの活躍は出来なかった。チェルシーではタイトルにこそあまり恵まれなかったものの、1975年からは18歳の若さでキャプテンを任され、その翌年にはイングランド代表としても初招集を受けた。

その後、1979年マンチェスター・ユナイテッドFCへと移籍し、1983年FAカップコミュニティーシールドを獲得した。1984年ACミランへと移籍。しかし、ここでもタイトルには恵まれず、オランダトリオと入れ替わるようにパリ・サンジェルマンFCへと移籍した。その後に所属したレンジャーズFCでは、リーグ優勝、スコティッシュリーグカップ連覇などを手にした。1989年クイーンズ・パーク・レンジャーズへと移籍し、5年間を同クラブで過ごした。

そして、1994年に選手兼コーチとしてのオファーを受け、クリスタル・パレスFCの一員となった。しかし、そのデビュー戦で左足に怪我を負ってしまう。その怪我が癒えた後、再びクイーンズ・パーク・レンジャーズへ今度は選手兼任監督として加わった。2年後にウィコム・ワンダラーズFCへと移籍、その後もクラブを転々とし、翌年にレイトン・オリエントFCにて引退した。引退後は、1年間のみフラムFCの監督をしていた他、1998-2000シーズンはチェルシーのアシスタントコーチをしていた。

イングランド代表としては84試合キャップ。UEFA欧州選手権19801982 FIFAワールドカップ1986 FIFAワールドカップにも招集された。2014年9月にヨルダン代表チームの監督に就任したが2015年に退任した。

所属クラブ

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