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[[兵庫県]]出身<ref name="re"/>。[[第三高等学校 (旧制)|第三高等学校]]を卒業。[[1922年]]11月、[[高等文官試験|文官高等試験行政科試験]]に合格。[[1923年]]、[[京都大学|京都帝国大学]][[法学部]]法律学科を卒業。[[内務省 (日本)|内務省]]に入省し[[静岡県庁|静岡県]]属となる<ref name="re"/><ref name="ji">『日本官僚制総合事典:1868 - 2000』238頁。</ref>。 |
[[兵庫県]]出身<ref name="re"/>。[[第三高等学校 (旧制)|第三高等学校]]を卒業。[[1922年]]11月、[[高等文官試験|文官高等試験行政科試験]]に合格。[[1923年]]、[[京都大学|京都帝国大学]][[法学部]]法律学科を卒業。[[内務省 (日本)|内務省]]に入省し[[静岡県庁|静岡県]]属となる<ref name="re"/><ref name="ji">『日本官僚制総合事典:1868 - 2000』238頁。</ref>。 |
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以後、[[静岡県警察部|静岡県]][[警視]]、[[神奈川県庁|神奈川県]]勤務、[[福岡県庁|福岡県]]勤務、[[兵庫県庁|兵庫県]]勤務、[[宮崎県庁|宮崎県]][[書記官]]・[[宮崎県警察部|警察部]]長、[[高知県]]書記官・[[高知県警察部|警察部]]長、[[岡山県庁|岡山県]]書記官・[[岡山県警察部|警察部]]長、[[福岡県警察部]]長、[[兵庫県警察部]]長、[[警視庁 (内務省)|警視庁]]警務部長などを歴任<ref name="re"/>。 |
以後、[[静岡県警察部|静岡県]][[警視]]、[[神奈川県庁|神奈川県]]勤務、[[福岡県庁|福岡県]]勤務、[[兵庫県庁|兵庫県]]勤務、[[宮崎県庁|宮崎県]][[書記官]]・[[宮崎県警察部|警察部]]長、[[高知県]]書記官・[[高知県警察部|警察部]]長、[[岡山県庁|岡山県]]書記官・[[岡山県警察部|警察部]]長、[[福岡県警察部]]長、[[兵庫県警察部]]長、[[大阪府警察部]]長、[[警視庁 (内務省)|警視庁]]警務部長などを歴任<ref name="re"/>。 |
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[[1941年]]10月、和歌山県知事に就任。戦時下の対応に尽力<ref name="re"/>。[[1944年]]8月1日、知事を依願免本官となり退官した<ref >『官報』第5265号、昭和19年8月2日。</ref>。戦後、[[公職追放]]となった<ref name="ji"/>。 |
[[1941年]]10月、和歌山県知事に就任。戦時下の対応に尽力<ref name="re"/>。[[1944年]]8月1日、知事を依願免本官となり退官した<ref >『官報』第5265号、昭和19年8月2日。</ref>。戦後、[[公職追放]]となった<ref name="ji"/>。 |
2015年6月20日 (土) 13:10時点における版
広瀬 永造(ひろせ えいぞう、1899年(明治32年)3月[1] - 1951年(昭和26年)1月7日[2])は、日本の内務・警察官僚。官選和歌山県知事。
経歴
兵庫県出身[1]。第三高等学校を卒業。1922年11月、文官高等試験行政科試験に合格。1923年、京都帝国大学法学部法律学科を卒業。内務省に入省し静岡県属となる[1][3]。
以後、静岡県警視、神奈川県勤務、福岡県勤務、兵庫県勤務、宮崎県書記官・警察部長、高知県書記官・警察部長、岡山県書記官・警察部長、福岡県警察部長、兵庫県警察部長、大阪府警察部長、警視庁警務部長などを歴任[1]。
1941年10月、和歌山県知事に就任。戦時下の対応に尽力[1]。1944年8月1日、知事を依願免本官となり退官した[4]。戦後、公職追放となった[3]。