「ハプスブルク=ロートリンゲン家」の版間の差分
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'''ハプスブルク=ロートリンゲン家'''([[ドイツ語|独]]:Haus Habsburg-Lothringen)は、[[ロレーヌ家]]出身の[[神聖ローマ皇帝]]兼[[トスカーナ大公国|トスカーナ大公]](元[[ロレーヌ公]])[[フランツ1世 (神聖ローマ皇帝)|フランツ・シュテファン(フランツ1世)]]と[[ハプスブルク家]]の[[オーストリア大公]]兼[[ハンガリー |
'''ハプスブルク=ロートリンゲン家'''([[ドイツ語|独]]:Haus Habsburg-Lothringen)は、[[ロレーヌ家]]出身の[[神聖ローマ皇帝]]兼[[トスカーナ大公国|トスカーナ大公]](元[[ロレーヌ公]])[[フランツ1世 (神聖ローマ皇帝)|フランツ・シュテファン(フランツ1世)]]と[[ハプスブルク家]]の[[オーストリア大公]]兼[[ハンガリー国王一覧|ハンガリー]]・[[ボヘミア君主一覧|ボヘミア女王]][[マリア・テレジア]]夫妻に始まる家系。 |
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神聖ローマ皇帝[[カール6世 (神聖ローマ皇帝)|カール6世]]は男子に恵まれず、長女マリア・テレジアの婿としてロレーヌ公フランツ・シュテファンを迎えて帝位を継がせた。従ってハプスブルク家はマリア・テレジアの代で男系が絶えており、以後はハプスブルク=ロートリンゲン家と呼ぶのが正しい。実際、現在でもハプスブルク家の正式名称はハプスブルク=ロートリンゲン家である。これは[[紋章]]にも表れており、そこには[[神聖ローマ帝国|帝国]]の[[双頭の鷲]]とともに[[ロレーヌ公国|ロレーヌの公章]]も描かれている。 |
神聖ローマ皇帝[[カール6世 (神聖ローマ皇帝)|カール6世]]は男子に恵まれず、長女マリア・テレジアの婿としてロレーヌ公フランツ・シュテファンを迎えて帝位を継がせた。従ってハプスブルク家はマリア・テレジアの代で男系が絶えており、以後はハプスブルク=ロートリンゲン家と呼ぶのが正しい。実際、現在でもハプスブルク家の正式名称はハプスブルク=ロートリンゲン家である。これは[[紋章]]にも表れており、そこには[[神聖ローマ帝国|帝国]]の[[双頭の鷲]]とともに[[ロレーヌ公国|ロレーヌの公章]]も描かれている。 |
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=== ロレーヌ家 === |
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{{See also|:en:House of Lorraine|ロレーヌ公}} |
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[[ロレーヌ家]]は、現在は[[フランス]]の[[ドイツ]]との国境地帯にある[[ロレーヌ地域圏|ロレーヌ地方]]を統治した公爵家である。ロレーヌは古の[[ロタリンギア]]に由来し、[[カロリング朝]]期には[[フランク王国]]の心臓部とも言うべき場所であった。従って領域は小さいものの、地理的には非常に重要な位置にあるため、その帰属を巡って紛争が絶えなかった。[[15世紀]]には[[ブルゴーニュ公国|ブルゴーニュ]]の[[シャルル (ブルゴーニュ公)|シャルル突進公]]が自領の間に挟まったロレーヌの併合を企てたが、[[ナンシーの戦い]]に敗れて自身と[[ブルゴーニュ公国]]の破滅を招いた。この戦いで突進公を敗死させたロレーヌ公[[ルネ2世 (ロレーヌ公)|ルネ2世]]は、フランツ・シュテファンの直接の先祖である。ルネ2世は母方の[[ヴァロワ=アンジュー家]]から公位を継承しているが、父方のヴォーデモン家は母方の祖母[[イザベル (ロレーヌ女公)|イザベル]]女公まで続いていたロレーヌ家(シャトノワ家)の傍系であり、以後フランツ・シュテファンまでの歴代のロレーヌ公はこの家系から出た。また、ルネ2世の次男[[クロード (ギーズ公)|ギーズ公クロード]]に始まる分枝のギーズ家は、[[ヴァロワ朝]]後期にフランスで権勢を振るった。 |
[[ロレーヌ家]]は、現在は[[フランス]]の[[ドイツ]]との国境地帯にある[[ロレーヌ地域圏|ロレーヌ地方]]を統治した公爵家である。ロレーヌは古の[[ロタリンギア]]に由来し、[[カロリング朝]]期には[[フランク王国]]の心臓部とも言うべき場所であった。従って領域は小さいものの、地理的には非常に重要な位置にあるため、その帰属を巡って紛争が絶えなかった。[[15世紀]]には[[ブルゴーニュ公国|ブルゴーニュ]]の[[シャルル (ブルゴーニュ公)|シャルル突進公]]が自領の間に挟まったロレーヌの併合を企てたが、[[ナンシーの戦い]]に敗れて自身と[[ブルゴーニュ公国]]の破滅を招いた。この戦いで突進公を敗死させたロレーヌ公[[ルネ2世 (ロレーヌ公)|ルネ2世]]は、フランツ・シュテファンの直接の先祖である。ルネ2世は母方の[[ヴァロワ=アンジュー家]]から公位を継承しているが、父方のヴォーデモン家は母方の祖母[[イザベル (ロレーヌ女公)|イザベル]]女公まで続いていたロレーヌ家(シャトノワ家)の傍系であり、以後フランツ・シュテファンまでの歴代のロレーヌ公はこの家系から出た。また、ルネ2世の次男[[クロード (ギーズ公)|ギーズ公クロード]]に始まる分枝のギーズ家は、[[ヴァロワ朝]]後期に[[フランス王国|フランス]]で権勢を振るった。 |
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1670年から1714年の間にロレーヌは2度[[フランス |
1670年から1714年の間にロレーヌは2度[[フランス君主一覧|フランス王]][[ルイ14世 (フランス王)|ルイ14世]]に占領されており、ロレーヌ公の一族はオーストリアへ亡命してハプスブルク家の皇帝に仕えた。元来ロレーヌ家はフランス王家との関係が強かったが、これ以後はハプスブルク家との関係を深めた。[[シャルル5世 (ロレーヌ公)|シャルル5世]]は在位中に公国を統治できず名目のみに終わったロレーヌ公であるが、皇帝[[フェルディナント3世 (神聖ローマ皇帝)|フェルディナント3世]]の娘[[エレオノーレ・マリア・ヨーゼファ・フォン・エスターライヒ|エレオノーレ]]と結婚し、嗣子[[レオポルト (ロレーヌ公)|レオポルト]]をオーストリア領内でもうけている。レオポルトは1697年の[[レイスウェイク条約]]でロレーヌを一旦返還され、翌1698年にルイ14世の姪[[エリザベート・シャルロット・ドルレアン|エリザベート・シャルロット]]と結婚した。フランツ・シュテファンは2人の間の息子である。 |
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フランツ・シュテファンはロレーヌ家の当主であり、皇帝フェルディナント3世とフランス王[[ルイ13世 (フランス王)|ルイ13世]]の曾孫でもあった。マリア・テレジアとは恋仲であったが、結婚とともに帝位継承者となるに際して、その国際的承認と引き換えにロレーヌをフランス王[[ルイ15世 (フランス王)|ルイ15世]]に譲渡しなければならなかった。ルイ15世はロレーヌ公位を舅の元[[ポーランド |
フランツ・シュテファンはロレーヌ家の当主であり、皇帝フェルディナント3世とフランス王[[ルイ13世 (フランス王)|ルイ13世]]の曾孫でもあった。マリア・テレジアとは恋仲であったが、結婚とともに帝位継承者となるに際して、その国際的承認と引き換えにロレーヌをフランス王[[ルイ15世 (フランス王)|ルイ15世]]に譲渡しなければならなかった。ルイ15世はロレーヌ公位を舅の元[[ポーランド君主一覧|ポーランド王]][[スタニスワフ・レシチニスキ]]に与え、その死後にフランス王領へ併合した。代償としてフランツは[[トスカーナ大公国]]の大公位を継承した。 |
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=== オーストリア継承戦争 === |
=== オーストリア継承戦争 === |
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{{See also|オーストリア継承戦争|ハプスブルク君主国}} |
{{See also|オーストリア継承戦争|ハプスブルク君主国}} |
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[[神聖ローマ皇帝]][[カール6世 (神聖ローマ皇帝)|カール6世]]は帝位および家督を継がせる男子を得られず、同族にも後継者たり得る男子がなかったため、娘[[マリア・テレジア]]を相続人として[[ハプスブルク君主国|ハプスブルク家領]]および[[ボヘミア]]や[[ハンガリー王国|ハンガリー]]の王位、[[オーストリア大公]]位などを継がせ、帝位にはその夫のロレーヌ公[[フランツ1世 (神聖ローマ皇帝)|フランツ・シュテファン]]を就かせることを取り決めた。そして、[[国事勅書]]を発して[[神聖ローマ帝国]]の諸侯に承認させた。 |
[[神聖ローマ皇帝]][[カール6世 (神聖ローマ皇帝)|カール6世]]は帝位および家督を継がせる男子を得られず、同族にも後継者たり得る男子がなかったため、娘[[マリア・テレジア]]を相続人として[[ハプスブルク君主国|ハプスブルク家領]]および[[ボヘミア王国|ボヘミア]]や[[ハンガリー王国|ハンガリー]]の王位、[[オーストリア大公]]位などを継がせ、帝位にはその夫のロレーヌ公[[フランツ1世 (神聖ローマ皇帝)|フランツ・シュテファン]]を就かせることを取り決めた。そして、[[国事勅書]]を発して[[神聖ローマ帝国]]の諸侯に承認させた。 |
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カール6世が1740年に没すると、[[プロイセン |
カール6世が1740年に没すると、[[プロイセン国王|プロイセン王]][[フリードリヒ2世 (プロイセン王)|フリードリヒ2世]]、[[バイエルン大公|バイエルン選帝侯]][[カール7世 (神聖ローマ皇帝)|カール・アルブレヒト]]、ポーランド王兼[[ザクセン君主一覧|ザクセン選帝侯]][[アウグスト3世 (ポーランド王)|アウグスト3世]]らがルイ15世と同盟を結び、先の取り決めを無視して領土の割譲や帝位を要求し、[[オーストリア継承戦争]]が勃発した。カール・アルブレヒトとアウグスト3世はそれぞれカール6世の兄[[ヨーゼフ1世 (神聖ローマ皇帝)|ヨーゼフ1世]]の娘(マリア・テレジアの従姉)[[マリア・アマーリエ・フォン・エスターライヒ|マリア・アマーリエ]]と[[マリア・ヨーゼファ・フォン・エスターライヒ (1699-1757)|マリア・ヨーゼファ]]を妃としており、妻の相続権を主張していた。この戦争によって[[ハプスブルク君主国|オーストリア]]はフリードリヒ2世に[[シレジア]]を奪われ、またカール・アルブレヒトがボヘミアを一時占領した上に皇帝[[カール7世 (神聖ローマ皇帝)|カール7世]]として戴冠した。しかしマリア・テレジアの下でオーストリアは反撃に転じ、シレジアを取り戻すことはできなかったものの、ボヘミアから[[バイエルン選帝侯領|バイエルン]]を撃退し、カール7世がわずかな在位期間ののち1745年に没すると、フランツ・シュテファンがフランツ1世として皇帝位に就いた。以後、神聖ローマ皇帝位は帝国の解体までフランツ1世、およびフランツ1世とマリア・テレジアの間の子、孫によって継承された。 |
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=== ブルボン家との同盟 === |
=== ブルボン家との同盟 === |
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=== オーストリア皇帝家 === |
=== オーストリア皇帝家 === |
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{{See also|オーストリア皇帝}} |
{{See also|オーストリア皇帝}} |
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ハプスブルク=ロートリンゲン家の宗家にあたる。[[神聖ローマ皇帝]]・[[オーストリア大公]]の他に[[ハンガリー |
ハプスブルク=ロートリンゲン家の宗家にあたる。[[神聖ローマ皇帝]]・[[オーストリア大公]]の他に[[ハンガリー国王一覧|ハンガリー王]]、[[ボヘミア君主一覧|ボヘミア王]]も兼ねていた。[[神聖ローマ帝国]]は1806年に解体し、[[フランツ2世 (神聖ローマ皇帝)|フランツ2世]]は帝位を降りたが、これに先立つ1804年から[[オーストリア皇帝]]フランツ'''1世'''を称しており、以後はこの皇帝位が[[オーストリア=ハンガリー帝国]]の滅亡まで継承された。これらの帝位および王位はフランツ・シュテファンとマリア・テレジアの夫妻から最後の[[カール1世 (オーストリア皇帝)|カール1世]]まで7代にわたって継承されたが、直系継承されたのは3度だけである。 |
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フランツ・シュテファンとマリア・テレジアの長男[[ヨーゼフ2世 (神聖ローマ皇帝)|ヨーゼフ2世]]は父から帝位を、母からオーストリア大公位およびハンガリーとボヘミアの王位を継承したが、子供がなく、[[トスカーナ |
フランツ・シュテファンとマリア・テレジアの長男[[ヨーゼフ2世 (神聖ローマ皇帝)|ヨーゼフ2世]]は父から帝位を、母からオーストリア大公位およびハンガリーとボヘミアの王位を継承したが、子供がなく、[[トスカーナの支配者一覧|トスカーナ大公]]位を継承していた弟[[レオポルト2世 (神聖ローマ皇帝)|レオポルト2世]]が代わって帝位および王位に就いた。レオポルト2世から[[フランツ2世 (神聖ローマ皇帝)|フランツ2世/1世]]、[[フェルディナント1世 (オーストリア皇帝)|フェルディナント1世]]までは直系継承が続いたが、子供のないフェルディナント1世が[[1848年]]の[[1848年革命|3月革命]]で退位すると、弟[[フランツ・カール・フォン・エスターライヒ|フランツ・カール]]大公(帝位を辞退)の長男[[フランツ・ヨーゼフ1世 (オーストリア皇帝)|フランツ・ヨーゼフ1世]]が即位した。なお、フランツ・ヨーゼフの弟[[マクシミリアン (メキシコ皇帝)|マクシミリアン]]は[[メキシコ帝国]]の皇帝となったが、メキシコの自由主義勢力によって銃殺刑に処せられた。 |
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フランツ・ヨーゼフ1世の下、[[1867年]]に[[オーストリア帝国]]は[[オーストリア=ハンガリー帝国|オーストリア=ハンガリー二重帝国]]に再編される。オーストリア皇帝がハンガリー王を兼ねる点はそれまでと同様であったが、軍事・外交・財政を除いてはオーストリアとハンガリーの2つの政府が独自の政策を行うという体制であった。フランツ・ヨーゼフは唯一の息子であった皇太子[[ルドルフ (オーストリア皇太子)|ルドルフ]]の死後、甥の[[フランツ・フェルディナント・フォン・エスターライヒ=エステ|フランツ・フェルディナント大公]]を皇位継承者としたが、[[1914年]]の[[サラエボ事件|サラエヴォ事件]]で暗殺され、これがきっかけとなって[[第一次世界大戦]]が勃発する。大戦中にフランツ・ヨーゼフは死去し、フランツ・フェルディナントの甥[[カール1世 (オーストリア皇帝)|カール1世]]が帝位を継ぐが、大戦末期の[[1918年]]に帝国は滅亡し、[[第一共和国 (オーストリア)|オーストリア共和国]]が成立するとともに、[[ハンガリー王国 (1920-1946)|ハンガリー]]や[[チェコスロバキア|チェコスロヴァキア]]を始めとする多くの国々が独立した。カール1世は亡命し、1922年に病死した。 |
フランツ・ヨーゼフ1世の下、[[1867年]]に[[オーストリア帝国]]は[[オーストリア=ハンガリー帝国|オーストリア=ハンガリー二重帝国]]に再編される。オーストリア皇帝がハンガリー王を兼ねる点はそれまでと同様であったが、軍事・外交・財政を除いてはオーストリアとハンガリーの2つの政府が独自の政策を行うという体制であった。フランツ・ヨーゼフは唯一の息子であった皇太子[[ルドルフ (オーストリア皇太子)|ルドルフ]]の死後、甥の[[フランツ・フェルディナント・フォン・エスターライヒ=エステ|フランツ・フェルディナント大公]]を皇位継承者としたが、[[1914年]]の[[サラエボ事件|サラエヴォ事件]]で暗殺され、これがきっかけとなって[[第一次世界大戦]]が勃発する。大戦中にフランツ・ヨーゼフは死去し、フランツ・フェルディナントの甥[[カール1世 (オーストリア皇帝)|カール1世]]が帝位を継ぐが、大戦末期の[[1918年]]に帝国は滅亡し、[[第一共和国 (オーストリア)|オーストリア共和国]]が成立するとともに、[[ハンガリー王国 (1920-1946)|ハンガリー]]や[[チェコスロバキア|チェコスロヴァキア]]を始めとする多くの国々が独立した。カール1世は亡命し、1922年に病死した。 |
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[[シレジア]]南東部にあった[[チェシン公国]](ドイツ語ではテシェン公国)は、[[ピャスト家]]支族によって治められていたが、女公[[エルジュビェタ・ルクレツィア (チェシン女公)|エルジュビェタ・ルクレツィア]]が1653年に没した後、[[ボヘミア]]王としてのハプスブルク家君主の支配下に入った。しかし、皇帝[[カール6世 (神聖ローマ皇帝)|カール6世]]の時代にロレーヌ公[[レオポルト (ロレーヌ公)|レオポルト]]に譲られ、レオポルトの死後は息子フランツ・シュテファンが受け継いだ。 |
[[シレジア]]南東部にあった[[チェシン公国]](ドイツ語ではテシェン公国)は、[[ピャスト家]]支族によって治められていたが、女公[[エルジュビェタ・ルクレツィア (チェシン女公)|エルジュビェタ・ルクレツィア]]が1653年に没した後、[[ボヘミア]]王としてのハプスブルク家君主の支配下に入った。しかし、皇帝[[カール6世 (神聖ローマ皇帝)|カール6世]]の時代にロレーヌ公[[レオポルト (ロレーヌ公)|レオポルト]]に譲られ、レオポルトの死後は息子フランツ・シュテファンが受け継いだ。 |
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フランツ・シュテファンが皇帝位に就いたことで、チェシン公位は再び皇帝位と統合されるが、トスカーナと同様にハプスブルク家の本領とは別に相続されることになり、フランツの死後は長男[[ヨーゼフ2世 (神聖ローマ皇帝)|ヨーゼフ2世]]を経てその妹[[マリア・クリスティーナ・フォン・エスターライヒ (1742-1798)|マリア・クリスティーナ]]が夫の[[ザクセン |
フランツ・シュテファンが皇帝位に就いたことで、チェシン公位は再び皇帝位と統合されるが、トスカーナと同様にハプスブルク家の本領とは別に相続されることになり、フランツの死後は長男[[ヨーゼフ2世 (神聖ローマ皇帝)|ヨーゼフ2世]]を経てその妹[[マリア・クリスティーナ・フォン・エスターライヒ (1742-1798)|マリア・クリスティーナ]]が夫の[[ザクセン選帝侯領|ザクセン公子]][[アルベルト・カジミール・フォン・ザクセン=テシェン|アルベルト・カジミール]]と共同で受け継いだ。夫妻には実子がなかったため、マリア・クリスティーナの弟である皇帝[[レオポルト2世 (神聖ローマ皇帝)|レオポルト2世]]の三男[[カール・フォン・エスターライヒ=テシェン|カール大公]]を養子として公国を相続させた。カールは兄であるオーストリア皇帝[[フランツ2世 (神聖ローマ皇帝)|フランツ1世]]の治世に、オーストリア軍司令官として[[フランス革命戦争]]および[[ナポレオン戦争]]において活躍したことで知られるが、以後カールを祖とする家系が新たなチェシン公家(ハプスブルク=テシェン家)となった。 |
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この家系からは[[第一次世界大戦]]時にオーストリア=ハンガリー陸軍の最高司令官を務めた[[フリードリヒ・フォン・エスターライヒ=テシェン|フリードリヒ大公]]、ポーランド国王候補にもなった[[カール・シュテファン・フォン・エスターライヒ|カール・シュテファン大公]]、[[両シチリア王国|両シチリア王]][[フェルディナンド2世 (両シチリア王)|フェルディナンド2世]]妃[[マリーア・テレーザ・ダズブルゴ=テシェン|マリーア・テレーザ]]、[[スペイン]] |
この家系からは[[第一次世界大戦]]時にオーストリア=ハンガリー陸軍の最高司令官を務めた[[フリードリヒ・フォン・エスターライヒ=テシェン|フリードリヒ大公]]、ポーランド国王候補にもなった[[カール・シュテファン・フォン・エスターライヒ|カール・シュテファン大公]]、[[両シチリア王国|両シチリア王]][[フェルディナンド2世 (両シチリア王)|フェルディナンド2世]]妃[[マリーア・テレーザ・ダズブルゴ=テシェン|マリーア・テレーザ]]、[[スペイン君主一覧|スペイン王]][[アルフォンソ12世 (スペイン王)|アルフォンソ12世]]妃[[マリア・クリスティーナ・フォン・エスターライヒ (1858-1929)|マリア・クリスティーナ]]などが出ている。 |
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チェシン公国は第一次世界大戦後に[[チェコスロバキア|チェコスロヴァキア]]と[[ポーランド]]の間で分割されて消滅した。チェシン公家の血筋はその後も続いている。 |
チェシン公国は第一次世界大戦後に[[チェコスロバキア|チェコスロヴァキア]]と[[ポーランド]]の間で分割されて消滅した。チェシン公家の血筋はその後も続いている。 |
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=== その他 === |
=== その他 === |
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皇帝[[レオポルト2世 (神聖ローマ皇帝)|レオポルト2世]]の七男[[ヨーゼフ・アントン・フォン・エスターライヒ|ヨーゼフ・アントン大公]]は、早世した兄アレクサンダー・レオポルト大公に代わって1796年に[[ハンガリー王国|ハンガリー]][[副王]]([[:en:Palatine (Kingdom of Hungary)|nádor]])の地位に就いた。この家系もまたハプスブルク=ロートリンゲン家の有力な分家の一つとなっており、[[ベルギー]] |
皇帝[[レオポルト2世 (神聖ローマ皇帝)|レオポルト2世]]の七男[[ヨーゼフ・アントン・フォン・エスターライヒ|ヨーゼフ・アントン大公]]は、早世した兄アレクサンダー・レオポルト大公に代わって1796年に[[ハンガリー王国|ハンガリー]][[副王]]([[:en:Palatine (Kingdom of Hungary)|nádor]])の地位に就いた。この家系もまたハプスブルク=ロートリンゲン家の有力な分家の一つとなっており、[[ベルギー国王の一覧|ベルギー王]][[レオポルド2世 (ベルギー王)|レオポルド2世]]妃[[マリー=アンリエット・ド・アブスブール=ロレーヌ|マリー=アンリエット]]、第一次世界大戦後に新たな[[ハンガリー王国 (1920-1946)|ハンガリー王国]]の国王に一時擁立された[[ヨーゼフ・アウグスト・フォン・エスターライヒ|ヨーゼフ・アウグスト大公]]などが出ている。 |
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主要な家系としては他に、レオポルト2世の十男で[[ロンバルド=ヴェネト王国]]の副王となった[[ラニエーリ・ダズブルゴ|ライナー・ヨーゼフ大公]]の家系があり、サルデーニャ王、のち初代イタリア王となる[[ヴィットーリオ・エマヌエーレ]]の王妃[[マリーア・アデライデ・ダズブルゴ=ロレーナ|マリーア・アデライデ]]などが出ている。 |
主要な家系としては他に、レオポルト2世の十男で[[ロンバルド=ヴェネト王国]]の副王となった[[ラニエーリ・ダズブルゴ|ライナー・ヨーゼフ大公]]の家系があり、サルデーニャ王、のち初代[[イタリア王]]となる[[ヴィットーリオ・エマヌエーレ]]の王妃[[マリーア・アデライデ・ダズブルゴ=ロレーナ|マリーア・アデライデ]]などが出ている。 |
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[[貴賤結婚]]のためハプスブルク=ロートリンゲンの家名を許されなかった家系としては、レオポルト2世の九男で「アルプス王」と呼ばれた[[ヨハン・バプティスト・フォン・エスターライヒ|ヨハン大公]]と平民の娘[[アンナ・プロッフル]]の間の息子の家系であるメラン伯爵家、皇位継承者[[フランツ・フェルディナント・フォン・エスターライヒ=エステ|フランツ・フェルディナント大公]]と伯爵令嬢[[ゾフィー・ホテク]]の間の子供の家系であるホーエンベルク家が知られる。 |
[[貴賤結婚]]のためハプスブルク=ロートリンゲンの家名を許されなかった家系としては、レオポルト2世の九男で「アルプス王」と呼ばれた[[ヨハン・バプティスト・フォン・エスターライヒ|ヨハン大公]]と平民の娘[[アンナ・プロッフル]]の間の息子の家系であるメラン伯爵家、皇位継承者[[フランツ・フェルディナント・フォン・エスターライヒ=エステ|フランツ・フェルディナント大公]]と伯爵令嬢[[ゾフィー・ホテク]]の間の子供の家系であるホーエンベルク家が知られる。 |
2010年7月24日 (土) 18:50時点における版
ハプスブルク=ロートリンゲン家(独:Haus Habsburg-Lothringen)は、ロレーヌ家出身の神聖ローマ皇帝兼トスカーナ大公(元ロレーヌ公)フランツ・シュテファン(フランツ1世)とハプスブルク家のオーストリア大公兼ハンガリー・ボヘミア女王マリア・テレジア夫妻に始まる家系。
神聖ローマ皇帝カール6世は男子に恵まれず、長女マリア・テレジアの婿としてロレーヌ公フランツ・シュテファンを迎えて帝位を継がせた。従ってハプスブルク家はマリア・テレジアの代で男系が絶えており、以後はハプスブルク=ロートリンゲン家と呼ぶのが正しい。実際、現在でもハプスブルク家の正式名称はハプスブルク=ロートリンゲン家である。これは紋章にも表れており、そこには帝国の双頭の鷲とともにロレーヌの公章も描かれている。
概要
ロレーヌ家
ロレーヌ家は、現在はフランスのドイツとの国境地帯にあるロレーヌ地方を統治した公爵家である。ロレーヌは古のロタリンギアに由来し、カロリング朝期にはフランク王国の心臓部とも言うべき場所であった。従って領域は小さいものの、地理的には非常に重要な位置にあるため、その帰属を巡って紛争が絶えなかった。15世紀にはブルゴーニュのシャルル突進公が自領の間に挟まったロレーヌの併合を企てたが、ナンシーの戦いに敗れて自身とブルゴーニュ公国の破滅を招いた。この戦いで突進公を敗死させたロレーヌ公ルネ2世は、フランツ・シュテファンの直接の先祖である。ルネ2世は母方のヴァロワ=アンジュー家から公位を継承しているが、父方のヴォーデモン家は母方の祖母イザベル女公まで続いていたロレーヌ家(シャトノワ家)の傍系であり、以後フランツ・シュテファンまでの歴代のロレーヌ公はこの家系から出た。また、ルネ2世の次男ギーズ公クロードに始まる分枝のギーズ家は、ヴァロワ朝後期にフランスで権勢を振るった。
1670年から1714年の間にロレーヌは2度フランス王ルイ14世に占領されており、ロレーヌ公の一族はオーストリアへ亡命してハプスブルク家の皇帝に仕えた。元来ロレーヌ家はフランス王家との関係が強かったが、これ以後はハプスブルク家との関係を深めた。シャルル5世は在位中に公国を統治できず名目のみに終わったロレーヌ公であるが、皇帝フェルディナント3世の娘エレオノーレと結婚し、嗣子レオポルトをオーストリア領内でもうけている。レオポルトは1697年のレイスウェイク条約でロレーヌを一旦返還され、翌1698年にルイ14世の姪エリザベート・シャルロットと結婚した。フランツ・シュテファンは2人の間の息子である。
フランツ・シュテファンはロレーヌ家の当主であり、皇帝フェルディナント3世とフランス王ルイ13世の曾孫でもあった。マリア・テレジアとは恋仲であったが、結婚とともに帝位継承者となるに際して、その国際的承認と引き換えにロレーヌをフランス王ルイ15世に譲渡しなければならなかった。ルイ15世はロレーヌ公位を舅の元ポーランド王スタニスワフ・レシチニスキに与え、その死後にフランス王領へ併合した。代償としてフランツはトスカーナ大公国の大公位を継承した。
オーストリア継承戦争
神聖ローマ皇帝カール6世は帝位および家督を継がせる男子を得られず、同族にも後継者たり得る男子がなかったため、娘マリア・テレジアを相続人としてハプスブルク家領およびボヘミアやハンガリーの王位、オーストリア大公位などを継がせ、帝位にはその夫のロレーヌ公フランツ・シュテファンを就かせることを取り決めた。そして、国事勅書を発して神聖ローマ帝国の諸侯に承認させた。
カール6世が1740年に没すると、プロイセン王フリードリヒ2世、バイエルン選帝侯カール・アルブレヒト、ポーランド王兼ザクセン選帝侯アウグスト3世らがルイ15世と同盟を結び、先の取り決めを無視して領土の割譲や帝位を要求し、オーストリア継承戦争が勃発した。カール・アルブレヒトとアウグスト3世はそれぞれカール6世の兄ヨーゼフ1世の娘(マリア・テレジアの従姉)マリア・アマーリエとマリア・ヨーゼファを妃としており、妻の相続権を主張していた。この戦争によってオーストリアはフリードリヒ2世にシレジアを奪われ、またカール・アルブレヒトがボヘミアを一時占領した上に皇帝カール7世として戴冠した。しかしマリア・テレジアの下でオーストリアは反撃に転じ、シレジアを取り戻すことはできなかったものの、ボヘミアからバイエルンを撃退し、カール7世がわずかな在位期間ののち1745年に没すると、フランツ・シュテファンがフランツ1世として皇帝位に就いた。以後、神聖ローマ皇帝位は帝国の解体までフランツ1世、およびフランツ1世とマリア・テレジアの間の子、孫によって継承された。
ブルボン家との同盟
ハプスブルク家とフランス王家は長年にわたり敵対関係にあったが、マリア・テレジアの下で「外交革命」と呼ばれる外交方針の転換がなされ、両者の間に同盟関係が成立した。その一環として、フランツとマリア・テレジアの子女と、フランス・スペイン・イタリアのブルボン家諸家の間で政略結婚が頻繁に行われた。ハプスブルク・ブルボンの両家は古くから近親婚を重ねており、またブルボン家はハプスブルク家ともロレーヌ家とも色濃い血縁関係があったことから、両家の間でさらに近親婚を繰り返したことで早世したり体に障害を持った人物が続出した。
また、ブルボン家との関係の重視は反面でドイツ諸邦との関係の弱体化につながった。ハプスブルク家の皇帝は大国フランスに対抗する存在としてドイツ諸邦から支持されてきた一面があり、両大国が手を結んだことで諸侯は危機感を募らせた。それはやがてプロイセンに対するドイツ諸侯の支持を相対的に高め、神聖ローマ帝国の崩壊に始まり、普墺戦争を経て、ドイツ統一の主導権をプロイセンに奪われる結果につながった。さらに、南北イタリアのブルボン家との結びつきもハプスブルク家の北イタリア支配の維持にはつながらず、両家はともにサルデーニャ王国によるイタリア統一によってその座を追われた。
家系の主な系統
フランツ・シュテファンとマリア・テレジアの間には5人の男子がいたが、次男カール・ヨーゼフは成人に達せずに早世し、長男ヨーゼフ2世と五男マクシミリアン・フランツには子供がなかったため、三男レオポルト2世の系統と四男フェルディナントの系統のみが家系として継続した。しかしフェルディナントの系統は19世紀に断絶しており、現存する系統はいずれもレオポルト2世の男系子孫である。
オーストリア皇帝家
ハプスブルク=ロートリンゲン家の宗家にあたる。神聖ローマ皇帝・オーストリア大公の他にハンガリー王、ボヘミア王も兼ねていた。神聖ローマ帝国は1806年に解体し、フランツ2世は帝位を降りたが、これに先立つ1804年からオーストリア皇帝フランツ1世を称しており、以後はこの皇帝位がオーストリア=ハンガリー帝国の滅亡まで継承された。これらの帝位および王位はフランツ・シュテファンとマリア・テレジアの夫妻から最後のカール1世まで7代にわたって継承されたが、直系継承されたのは3度だけである。
フランツ・シュテファンとマリア・テレジアの長男ヨーゼフ2世は父から帝位を、母からオーストリア大公位およびハンガリーとボヘミアの王位を継承したが、子供がなく、トスカーナ大公位を継承していた弟レオポルト2世が代わって帝位および王位に就いた。レオポルト2世からフランツ2世/1世、フェルディナント1世までは直系継承が続いたが、子供のないフェルディナント1世が1848年の3月革命で退位すると、弟フランツ・カール大公(帝位を辞退)の長男フランツ・ヨーゼフ1世が即位した。なお、フランツ・ヨーゼフの弟マクシミリアンはメキシコ帝国の皇帝となったが、メキシコの自由主義勢力によって銃殺刑に処せられた。
フランツ・ヨーゼフ1世の下、1867年にオーストリア帝国はオーストリア=ハンガリー二重帝国に再編される。オーストリア皇帝がハンガリー王を兼ねる点はそれまでと同様であったが、軍事・外交・財政を除いてはオーストリアとハンガリーの2つの政府が独自の政策を行うという体制であった。フランツ・ヨーゼフは唯一の息子であった皇太子ルドルフの死後、甥のフランツ・フェルディナント大公を皇位継承者としたが、1914年のサラエヴォ事件で暗殺され、これがきっかけとなって第一次世界大戦が勃発する。大戦中にフランツ・ヨーゼフは死去し、フランツ・フェルディナントの甥カール1世が帝位を継ぐが、大戦末期の1918年に帝国は滅亡し、オーストリア共和国が成立するとともに、ハンガリーやチェコスロヴァキアを始めとする多くの国々が独立した。カール1世は亡命し、1922年に病死した。
6歳足らずで皇太子の地位を失ったカール1世の長男オットーは、20世紀の終わりにドイツ選出の欧州議会議員を務めた。現在も存命中であるが、高齢のためハプスブルク=ロートリンゲン家の家長の座は長男カールに譲っている。カールも欧州議会議員を務めたが、こちらはオーストリア選出である。
歴代君主
名前 | 神聖ローマ皇帝 | オーストリア皇帝 | オーストリア大公 | ハンガリー王 | ボヘミア王 | その他 |
---|---|---|---|---|---|---|
フランツ1世 | 1745年 - 1765年 |
― | ― | ― | ― | ロレーヌ公(譲位) トスカーナ大公 チェシン公 |
マリア・テレジア | ― | ― | 1740年 - 1780年 |
1740年 - 1780年 |
1743年 - 1780年 |
パルマ女公(譲位) |
ヨーゼフ2世 | 1765年 - 1790年 |
― | 1780年 - 1790年 |
1780年 - 1790年 |
1780年 - 1790年 |
― |
レオポルト2世 | 1790年 - 1792年 |
― | 1790年 - 1792年 |
1790年 - 1792年 |
1790年 - 1792年 |
トスカーナ大公(譲位) |
フランツ2世/ フランツ1世 |
1792年 - 1806年 |
1804年 - 1835年 |
1792年 - 1835年 |
1792年 - 1835年 |
1792年 - 1835年 |
― |
フェルディナント1世 | ― | 1835年 - 1848年 |
1835年 - 1848年 |
1835年 - 1848年 |
1835年 - 1848年 |
― |
フランツ・ヨーゼフ1世 | ― | 1848年 - 1916年 |
1848年 - 1916年 |
1848年 - 1916年 |
1848年 - 1916年 |
― |
カール1世 | ― | 1916年 - 1918年 |
1916年 - 1918年 |
1916年 - 1918年 |
1916年 - 1918年 |
― |
トスカーナ大公家
トスカーナ大公国は元来メディチ家が統治していたが、1737年に同家が断絶するとフランツ・シュテファンが大公フランチェスコ2世として継承した。しかしトスカーナはハプスブルク家の本領とは独立して統治される(本領を治める当主がトスカーナ大公を兼ねない)ことになり、フランツ・シュテファンから次男レオポルト2世へ、レオポルトが帝位を継いだ後はその次男フェルディナンド3世へと大公位が継承された。フェルディナンド3世をもってトスカーナ大公家(ハプスブルク=トスカーナ家)の始まりとする。
歴代の大公は良きトスカーナ人たろうと努めたが、それでもリソルジメントの波には勝てず、フェルディナンド4世が1860年に廃位され、住民投票の結果、サルデーニャ王国へ併合されて大公国は消滅した。大公国の首都フィレンツェは統一イタリア政府の暫定的首都になった。トスカーナ大公家はその後、オーストリアの宗家を頼った。
歴代君主
- フランチェスコ2世(1737年 - 1765年) 神聖ローマ皇帝フランツ1世
- レオポルド1世(1765年 - 1790年) 神聖ローマ皇帝レオポルト2世(帝位継承の際に大公位を譲位)
- フェルディナンド3世(1790年 - 1799年、1814年 - 1824年)
- (ナポレオン戦争による中断:1799年 - 1814年)
- レオポルド2世(1824年 - 1859年) 生前に大公位を譲位
- フェルディナンド4世(1859年 - 1860年) 廃位
モデナ公家
モデナ公国は元来エステ家が統治していたが、1803年エルコレ3世が男子を残すなく没して断絶した。エルコレ3世はフランツ・シュテファンの四男フェルディナント大公を相続人に指名し、また娘マリーア・ベアトリーチェ・デステと結婚させていた。フェルディナントはオーストリア=エステ大公を称し、新たなモデナ公家としてオーストリア=エステ家を興すが、ナポレオン戦争のさなかにあって公位を継ぐことができないまま1806年に没し、息子フランチェスコ4世が1814年に再興されたモデナ公国の公位に就いた。しかしモデナ公国もリソルジメントの中、1860年にサルデーニャ王国に併合された。
公国を追われたフランチェスコ5世には嗣子がなく、名目上のものとなったモデナ公位はフランツ・フェルディナント大公が継承した。フランツ・フェルディナントはエステ家の血を引いておらず、この継承はそれを根拠としないものだった。フランツ・フェルディナントが暗殺された後は甥カール1世へ、カールの皇帝即位後は次男ローベルトへと公位は継承された。
現在のモデナ公、オーストリア=エステ大公ローレンツはローベルトの息子であるが、ベルギー王女アストリッドと結婚して王室の一員となっており、ベルギー王子の称号も有する。
- モデナ公国の君主
チェシン公家
シレジア南東部にあったチェシン公国(ドイツ語ではテシェン公国)は、ピャスト家支族によって治められていたが、女公エルジュビェタ・ルクレツィアが1653年に没した後、ボヘミア王としてのハプスブルク家君主の支配下に入った。しかし、皇帝カール6世の時代にロレーヌ公レオポルトに譲られ、レオポルトの死後は息子フランツ・シュテファンが受け継いだ。
フランツ・シュテファンが皇帝位に就いたことで、チェシン公位は再び皇帝位と統合されるが、トスカーナと同様にハプスブルク家の本領とは別に相続されることになり、フランツの死後は長男ヨーゼフ2世を経てその妹マリア・クリスティーナが夫のザクセン公子アルベルト・カジミールと共同で受け継いだ。夫妻には実子がなかったため、マリア・クリスティーナの弟である皇帝レオポルト2世の三男カール大公を養子として公国を相続させた。カールは兄であるオーストリア皇帝フランツ1世の治世に、オーストリア軍司令官としてフランス革命戦争およびナポレオン戦争において活躍したことで知られるが、以後カールを祖とする家系が新たなチェシン公家(ハプスブルク=テシェン家)となった。
この家系からは第一次世界大戦時にオーストリア=ハンガリー陸軍の最高司令官を務めたフリードリヒ大公、ポーランド国王候補にもなったカール・シュテファン大公、両シチリア王フェルディナンド2世妃マリーア・テレーザ、スペイン王アルフォンソ12世妃マリア・クリスティーナなどが出ている。
チェシン公国は第一次世界大戦後にチェコスロヴァキアとポーランドの間で分割されて消滅した。チェシン公家の血筋はその後も続いている。
その他
皇帝レオポルト2世の七男ヨーゼフ・アントン大公は、早世した兄アレクサンダー・レオポルト大公に代わって1796年にハンガリー副王(nádor)の地位に就いた。この家系もまたハプスブルク=ロートリンゲン家の有力な分家の一つとなっており、ベルギー王レオポルド2世妃マリー=アンリエット、第一次世界大戦後に新たなハンガリー王国の国王に一時擁立されたヨーゼフ・アウグスト大公などが出ている。
主要な家系としては他に、レオポルト2世の十男でロンバルド=ヴェネト王国の副王となったライナー・ヨーゼフ大公の家系があり、サルデーニャ王、のち初代イタリア王となるヴィットーリオ・エマヌエーレの王妃マリーア・アデライデなどが出ている。
貴賤結婚のためハプスブルク=ロートリンゲンの家名を許されなかった家系としては、レオポルト2世の九男で「アルプス王」と呼ばれたヨハン大公と平民の娘アンナ・プロッフルの間の息子の家系であるメラン伯爵家、皇位継承者フランツ・フェルディナント大公と伯爵令嬢ゾフィー・ホテクの間の子供の家系であるホーエンベルク家が知られる。
備考
カール6世のもう一人の娘であるマリア・テレジアの妹マリア・アンナは、フランツ・シュテファンの弟カール・アレクサンダー公子と結婚した。カール・アレクサンダーはオーストリアの将軍としてオーストリア継承戦争や七年戦争で活躍し、また夫婦でオーストリア領ネーデルラント総督を務めた。マリア・アンナは子供をもうけることなく早世し、カール・アレクサンダーはその後再婚しなかったため、2人のいずれの血筋も絶えている。
系図
ロレーヌ家
アダルベール ロレーヌ公 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ジャン1世 ロレーヌ公 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
シャルル2世 ロレーヌ公 | フェリー1世 ヴォーデモン伯 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ルネ・ダンジュー ナポリ王 ロレーヌ公 | イザベル ロレーヌ女公 | アントワーヌ ヴォーデモン伯 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ジャン2世・ダンジュー ロレーヌ公 | ヨランド・ダンジュー ロレーヌ女公 | フェリー2世 ヴォーデモン伯 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ニコラ・ダンジュー ロレーヌ公 | ルネ アランソン公 | マルグリット | ルネ2世 ロレーヌ公 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
シャルル・ド・ブルボン ヴァンドーム公 | フランソワーズ・ダランソン | アントワーヌ ロレーヌ公 | クロード ギーズ公 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
アントワーヌ・ド・ブルボン ヴァンドーム公 ナバラ王 | アンリ2世 フランス王 | フランソワ1世 ロレーヌ公 | ニコラ メルクール公 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
クロード・ド・ヴァロワ | シャルル3世 ロレーヌ公 | アンリ3世 フランス王 | ルイーズ | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
アンリ4世 フランス王 | マルグリット・ド・ヴァロワ | カトリーヌ・ド・ブルボン | アンリ2世 ロレーヌ公 | フランソワ2世 ロレーヌ公 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ルイ13世 フランス王 | ガストン オルレアン公 | マルグリット | ニコル ロレーヌ女公 | シャルル4世 ロレーヌ公 | クロード | ニコラ2世 ロレーヌ公 | フェルディナント3世 神聖ローマ皇帝 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ルイ14世 フランス王 | フィリップ1世 オルレアン公 | シャルル5世 ロレーヌ公 | エレオノール・ドートリッシュ | レオポルト1世 神聖ローマ皇帝 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
エリザベート・シャルロット・ドルレアン | レオポルト ロレーヌ公 | ヨーゼフ1世 神聖ローマ皇帝 | カール6世 神聖ローマ皇帝 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
フランツ1世 ロレーヌ公 トスカーナ大公 神聖ローマ皇帝 | カール・アレクサンダー | エリザベート・テレーズ サルデーニャ王妃 | マリア・テレジア ハンガリー女王 ボヘミア女王 | マリア・アンナ | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ハプスブルク=ロートリンゲン家
レオポルト ロレーヌ公 | カール6世 神聖ローマ皇帝 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
フランツ1世 ロレーヌ公 トスカーナ大公 神聖ローマ皇帝 | マリア・テレジア ハンガリー女王 ボヘミア女王 | マリア・アンナ | カール・アレクサンダー | エルコレ3世 モデナ公 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ヨーゼフ2世 神聖ローマ皇帝 | マリア・クリスティーナ テシェン女公 | アルベルト・カジミール テシェン公 | カール・ヨーゼフ | レオポルト2世 トスカーナ大公 神聖ローマ皇帝 | マリーア・ベアトリーチェ・デステ | フェルディナント | マクシミリアン・フランツ ケルン大司教 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
フランツ2世/1世 神聖ローマ皇帝 オーストリ皇帝 | フェルディナンド3世 トスカーナ大公 | カール テシェン公 | ヨーゼフ・アントン | ヨハン | ライナー・ヨーゼフ | フランチェスコ4世 モデナ公 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
マリー・ルイーゼ フランス皇后 パルマ女公 | フェルディナント1世 オーストリア皇帝 | フランツ・カール | レオポルド2世 トスカーナ大公 | (メラン家) | フランチェスコ5世 モデナ公 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
フランツ・ヨーゼフ1世 オーストリア皇帝 | マクシミリアン メキシコ皇帝 | カール・ルートヴィヒ | フェルディナンド4世 トスカーナ大公 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ルドルフ オーストリア皇太子 | フランツ・フェルディナント | オットー・フランツ | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(ホーエンベルク家) | カール1世 オーストリア皇帝 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
オットー オーストリア皇太子 | ローベルト | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
カール | ローレンツ | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||