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火箱芳文

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
火箱 芳文
帝国ホテルで開催された
太平洋地域陸軍参謀総長等会議にて(2009年8月24日
生誕 (1951-05-15) 1951年5月15日(73歳)
日本の旗 日本 福岡県
所属組織 陸上自衛隊
軍歴 1974 - 2011
最終階級 陸上幕僚長たる陸将
除隊後 三菱重工業株式会社顧問
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火箱 芳文(ひばこ よしふみ、1951年昭和26年〉5月15日[1] - )は、日本陸上自衛官三菱重工業株式会社顧問全日本柔道連盟特別顧問公益財団法人偕行社理事長。日本会議代表委員[2]

概要

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福岡県出身の陸上自衛官である。第10師団長や中部方面総監を経て、第32代陸上幕僚長に就任した。

2009年に訪米した際には、アーリントン国立墓地ウォルター・リード陸軍医療センター英語版のほか、ワシントンD.C.全米日系米国人記念碑を訪れた[3]。当時陸上幕僚長だった火箱は、それまで同記念碑を訪れた者のうち最高位の自衛官であったという。

2011年に退官し、その後は三菱重工業に顧問として再就職した[4]

日本戦略研究フォーラム評議員[5]国家基本問題研究所理事[6]日本会議代表委員などを務める。

東日本大震災発生時の行動

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2011年3月11日、東日本大震災の発生した際、陸上幕僚長の職にあった火箱は防衛事務次官室において防衛省幹部と会議を行っていた。強い揺れとマグニチュード8.4の地震が発生したことを報道で知った火箱は、会議を行っていた11階から陸上幕僚長執務室のある4階まで階段で駆け降りた。執務室に戻った火箱は、後の講演記録で本人が語ったところによれば、まず東北方面総監君塚栄治陸将に電話連絡、知事らからの要請を待つことなく出動するよう指示し増援を約束、さらに全国残りの総監部に相次いで連絡し、出動させる師団・施設団と動かしてはならない部隊を指示した[7]。当時の自衛隊法においても緊急の場合には特例として知事らの要請なく出動できる定めはあったものの、自衛隊の全国動員となるまでのことに火箱自身も独断のきらいを気にしつつも必要と確信し行ったという[7]。しかし同日午後3時半の対策会議で、火箱の判断は追認された[7]

略歴

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栄典

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著書

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  • 火箱芳文『即動必遂』マネジメント社、2015年。ISBN 4837804713 

脚注・出典

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  • 防衛省人事発令(2007年~2011年)
  1. ^ 海上自衛新聞(平成21年3月27日)第1面「新統幕長等の略歴」
  2. ^ 役員名簿(令和5年6月1日現在)”. 日本会議. 2023年12月29日閲覧。
  3. ^ JAVA ADVOCATE (October 2009)”. Japanese American Veterans Association. 2015年5月15日閲覧。
  4. ^ 議決案(24.3.5及び19)” (PDF). 防衛省. 2015年5月15日閲覧。
  5. ^ 役員・政策提言委員等”. 日本戦略研究フォーラム. 2015年5月15日閲覧。
  6. ^ 役員紹介”. 国家基本問題研究所. 2016年9月29日閲覧。
  7. ^ a b c 五百旗頭真「大災害の時代 第31回 自衛隊の任務 覚悟が生む瞬時の判断」『毎日新聞』2014年12月18日付東京本社朝刊11面。
  8. ^ 『官報』号外第250号、令和3年11月4日
  9. ^ a b 令和3年秋の叙勲受章者名簿(令和3年11月3日付)
  10. ^ 陸幕長が訪米勲功章を受章『朝雲』2011年6月[リンク切れ]
  11. ^ GENERAL ORDERS NO.2013–39” (PDF). US Army. 2019年5月19日閲覧。

関連項目

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外部リンク

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先代
折木良一
陸上幕僚長
第32代:2009年 - 2011年
次代
君塚栄治
先代
中村信悟
中部方面総監
第27代:2008年 - 2009年
次代
角南俊彦