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栄村忠広

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
栄村 忠広
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 鹿児島県枕崎市
生年月日 (1961-09-10) 1961年9月10日(63歳)
身長
体重
174 cm
70 kg
選手情報
投球・打席 右投左打
ポジション 外野手
プロ入り 1982年 ドラフト外
初出場 1988年4月9日
最終出場 1991年6月28日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

栄村 忠広(さかえむら ただひろ、1961年9月10日 - )は、鹿児島県枕崎市[1]出身の元プロ野球選手外野手)。

来歴・人物

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鹿児島実業高では2年生の時、同期のエース鹿島忠を擁し、二塁手として1978年夏の甲子園に出場する[1]が、1回戦で静岡高に3-4で惜敗。1年上のチームメートに定岡徹久がいた。3番を打つも最後の打者となり(二飛)4番定岡徹久に回せなかった。翌1979年夏の甲子園にも連続出場、1回戦で相可高に2-4で敗退した。

高校卒業後は、軟式の日本専売公社鹿児島に進み、1982年オフに入団テストを経てドラフト外読売ジャイアンツ内野手として入団[1]。当初右打であったが、俊足を生かすためにスイッチヒッターへの転向を経て左打になった。1987年イースタン・リーグで27盗塁を記録し、盗塁王のタイトルを獲得[1]

1988年には初めて一軍に昇格[1]。開幕第2戦目となる4月9日の対ヤクルトスワローズ戦の8回裏に吉村禎章代走としてプロ初出場を果たすとプロ初盗塁を記録し、これが東京ドームでのプロ野球公式戦初盗塁となった。同年は中堅手として11試合に先発出場、うち4試合には一番打者として起用される。また同年の11盗塁はチーム最多だった。

同年6月14日、対ヤクルト戦で、吉村禎章の代走として登場した際、投手からの送球を頭部に受けて負傷退場。これを機にセ・リーグ会長は走者のヘルメット装着を義務づける通達を出した[2]

同年7月6日、対中日ドラゴンズ戦(札幌市円山球場)で8回表から中堅手の守備に入り、中尾孝義の打球を捕ろうとした左翼手の吉村禎章と衝突。吉村は左膝靭帯断裂の重傷を負い、そのまま担架で運ばれ退場し、北海道大学付属病院に搬送された(なお、栄村は無傷でそのまま試合に続けて出場した)[3]

1990年オフ、オリックス・ブルーウェーブに無償トレード[1]。しかし1年で自由契約となり現役を引退した[1]

吉村との衝突事故以降は、栄村本人が「ひっそり生活してきたい」との旨を表明し、球界関係者やマスコミとの接触を拒絶していたため、引退後の動向はしばらく不詳であった。

その後、テレビ番組やライター[4]の取材に応じ、テレビ番組[5]では本人のインタビューや草野球に興じる姿が紹介された。その中で、自身がバッシングや吉村の負傷に対する自責の念から苦悩していたころ、その吉村から激励されたことも明かした。

その後は野球教室の講師として日本プロ野球OBクラブの活動にも参加するなど、球界との関わりを取り戻している。

詳細情報

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年度別打撃成績

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O
P
S
1988 巨人 67 55 42 14 10 0 0 0 10 2 11 4 6 0 7 0 0 7 0 .238 .347 .238 .585
1991 オリックス 7 1 1 2 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 1 0 .000 .000 .000 .000
通算:2年 74 56 43 16 10 0 0 0 10 2 11 4 6 0 7 0 0 8 0 .233 .340 .233 .573

記録

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背番号

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  • 66 (1983年 - 1991年)

脚注

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  1. ^ a b c d e f g プロ野球人名事典 2003(2003年、日外アソシエーツ)、241ページ
  2. ^ 読売新聞1988年6月21日19面
  3. ^ 巨人軍5000勝の記憶読売新聞社ベースボールマガジン社、2007年。ISBN 9784583100296
  4. ^ 高山文彦 『運命(アクシデント)』 文藝春秋。同書の中で吉村は怪我をして結果的に人間的に成長できたので今では後悔していないと話している。なお、吉村の引退に際して、吉村と栄村がそれぞれ「Sports Graphic Number」に登場し、栄村の近況も紹介されていた。
  5. ^ 今夜解禁!石橋貴明のスポーツ伝説…光と影 - goo tv関東版,2014年9月17日

関連項目

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外部リンク

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