ランボルギーニ・イオタ

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ランボルギーニ・イオタ
ミウラSVJ
概要
製造国 イタリアの旗 イタリア
販売期間 オリジナル: 1971年
レプリカ: 1972年-1975年
設計統括 ボブ・ウォレス
ボディ
乗車定員 2人
ボディタイプ 2ドアクーペ
駆動方式 MR
パワートレイン
エンジン 水冷 V12 DOHC 3,929cc
最高出力 J: 440ps/8,500rpm[1]
変速機 5MT
車両寸法
ホイールベース 2,505mm
全長 4,390mm
全幅 1,780mm(SVJ)
全高 1,000mm
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イオタLamborghini Jota)は、イタリア自動車メーカーであるランボルギーニ1969年に制作したレーシングカーの開発車両「J」、ならびにJを模倣して制作された車両の通称である[1]

車名の由来[編集]

当時、エンジニア、テストドライバーのBob Wallaceに由来し「ボブの車」「ボブのおもちゃ」と呼ばれ、公式レース参戦を目的とし国際レース基準を明記したFIAの競技規定に定められている付則J項目に合致するよう作製され、安易に英アルファベット読みで「 J (ジェイ)」と呼ばれた。イオタという名前はあくまでもニックネームであり、Jレギュレーションの”J”が近代西洋諸言語イタリア語では「J」の文字が無く発音できないため、スペイン語読みにしたJOTA(ホタ)、イオタと発音する事に由来する。イタリア語で正式には「Iota」であるが造語として「Jota」と表記された。ランボルギーニ社の見解で、イオタと呼ばれて作製された車体は1台も無く、後に周囲から俗称でイオタと呼ばれるようになり、世間で広まり、オリジナルJ以外は「イオタ・レプリカ」、洋書や海外では「ミウラ・イオタミウラP400SVイオタ」とも呼称される。近年、Jotaとは既に焼失廃車になった1台の「J」に後から名づけられた俗称とされているが、現在でもランボルギーニ社の見解では「J」のままである。

オリジナルJ[編集]

1969年11月から、ランボルギーニの走行実験を担当していたテストドライバーであるボブ・ウォレスの主導により、ミウラをベースに国際自動車連盟(FIA)の競技規則付則J項に適合させたレーシングカーのテスト車両が1台制作された。これがオリジナル「J」である[1]。開発は就業時間外に「ミウラ改良のための先行開発」という名目で進められたが、これはレース出場禁止が当時のランボルギーニにおける社是であったことによる[1]

シャシはリアセクションの一部を除いて新規に設計されたもので、サスペンション形式やジオメトリ、ステアリングラックのマウント位置も異なっていた[1]。フレームは鋼鉄を主な材質とし、部分的に軽合金も使用して軽量化が図られ、板金とパイプで作られた。トレッド幅は広げられ、コニ製レーシングサスペンションとベンチレーテッドディスクブレーキを備え、ホイールはウォレスが試作したウラッコラリーと同タイプのフロント9インチ幅、リア12インチ幅の軽量マグネシウム合金カンパニョーロセンターロックタイプで、ミウラのクラシカルなスピナー仕様ではなくレース現場に対応できる六角ナット式である。

シャシとボディパネルはブラインドリベットで接合されている。パネル表面の多数のリベットが薄いアルミのエッジからの破断防止のために打たれ、このリベットがミウラとの外観上の差異のひとつとなっている。ボディについて、ルーフはミウラの鋼鉄製のものを流用したが、前後のカウルはアルミニウム合金製でヒンジ開閉ではなく取り外し式である[1]。リアカウルは12インチ幅のホイールにあわせて幅が広げられている。ドアシル側面のダクトはなく、ラジエーターベントのグリルも取り外された。サイドガラスはアクリル樹脂Plexiglas製に置き換えられ、はめ殺しを経て一部スライド開閉付きに改められた。ヘッドライトはミウラのポップアップ式からアクリルのパースペックスキャップで覆われた埋め込み式に変更されている[1]。フロントホイールハウス後ろにはエアアウトレットが備わり、フロントのグリル面積は拡大され、グリルの両端にはダウンフォースを増加させる2つの大きなフロントウィスカーが追加され、給油口も左右フロントフェンダー上面に露出する形で作製された。燃料タンクは両サイドドアシルの下側[2]に1つずつ、合計2つ取りつけられている。

スペアタイヤはエンジンの後方に移され、小さいトランクも装備されたが、これらは競技車両規定を満たすためであり、内装もミウラとは全く異なる質素でレーシーな作りである。その他消火器やキルスイッチを装備する等、厳密にJ項に沿っている[1]

パワートレインはミウラの流用で排気量も不変であるが、圧縮比は10.4:1から11.5:1に高められ、カムの変更、電子点火、ドライサンプ潤滑、ストレート構造のエキゾーストシステムを採用し、4基のウェーバー46IDLキャブレターによって公称最高出力440ps[1]/8,500rpm(ボブの実測値では402PS[3])を発生する。

テスト終了後の処遇[編集]

オリジナルJはウォレスのチームによって3万kmほどの走行実験を行った後[1]、ミウラSVの続番となるシャシーナンバー#4683を与えられ、ジャリーノ・ジュリーニという人物に売却された。それからヴァルテル・ロンキという人物を経て、レーシング・チーム「スクーデリア・ブレシア・コルサ」(Scuderia Brescia Corse)のオーナーでカーコレクターであるアルフレッド・ベルポナー(Dr.Alfredo Belponer)が購入した。

1971年4月28日、ベルポナーの取引を担当したディーラー「インテルアウト」の経営者であるエンリコ・パゾリーニ (Enrico Pasolini) が、助手席に同ディーラーのジョパンニ・ペデリネリを乗せて納車前のテスト走行を行っていた[4]。しかし、ミラノ東部の開通前のブレシア高速道路を走行中、230km/hで5速にシフトアップした際にノーズが浮き上がり横転して出火。パゾリーニとペデリネリに命の別状はなかったが、オリジナルJは修復不能なダメージを負い廃車となった。その残骸はランボルギーニが回収した後、搭載されていたエンジンナンバー#20744はウェットサンプに改造され、シャシーナンバー#4878のミウラに搭載された[5]

レプリカ[編集]

オリジナルJの存在が一部の顧客に知られるようになると、ランボルギーニでは同様の仕様を希望する声に応え、ミウラをベースにオリジナルJのディテールを再現したレプリカ車両を新車販売、もしくは持ち込まれたイオタのモディファイで対応することとなった。これらはミウラSVJ(Sprint Veloce Jota)と呼称される。2000年代初頭以降にイタリア本国のランボルギーニ社へ再入庫した経歴のある個体には生産証明が発行され、シャシーナンバーが与えられている[1]

以下、特に著名な個体について記述する。このほかにも個人オーナーにより制作されたレプリカが多数存在する。

  • No.4860
    • ランボルギーニのドイツディーラー社長であったヘルベルト・ハーネの注文で新車のミウラP400SVをベースとして製作され、1971年4月29日にSVJとして工場から出た[1]。エンジンは「J」のスペアとして製作された440ps仕様[1]
  • No.4892
    • 1971年7月ミウラP400SVとして販売された後1972年頃工場に戻されてSVJに改装された。1977年に京都トミタ・オートにより日本へ輸入され、岡崎宏司によりテストレポートが執筆され1977年9月号のモーターファン誌上に掲載。各地スーパーカーショーで「本物のイオタ」として展示された[1]。エンジンはミウラSVを基本にライトチューンが行なわれたというがウェットサンプのままである[1]。日本に輸入されていた時のタイヤはピレリ・レーシングのオールウェザーであった[1]。輸入後、オーナーの手により各部にモディファイを施され、これに試乗した福野礼一郎はその仕上がりを絶賛している[1]奈良県東京都のオーナーを経て、2010年にアメリカに売却された。
  • No.4934
  • No.5090
    • 新品のミウラP400SVをベースに製作され1972年8月25日に工場を出た[1]。エンジンはドライサンプ、400ps[1]
  • No.5100
    • 新品のミウラP400SVをベースに製作され1972年8月31日に工場を出た[1]。エンジンはドライサンプ、400ps[1]
  • No.4990
    • 1972年4月18日に工場を出たミウラP400SVをベースに1972年秋頃SVJに改装されハイチの富豪に売却された。エンジンはミウラSVを基本にライトチューンが行なわれたというがウェットサンプのままである[1]。1998年現在は日本にある[1]
  • No.3781「SVR」
    • 1968年11月30日に工場を出たミウラP400をベースとし、ヘルベルト・ハーネの注文でSVJに改装され1975年11月工場を出た。当時の最新ロープロファイルタイヤ「ピレリP7[1]」装備のため、後輪用にノーマルと同じパターンの3ピース[1]ディープリムホイールがカンパニョーロ[1]によって作られ、それに合わせてリアフェンダーがかなり拡げられている[1]。ハーネは自分のディーラー工場でレカロのシート、AUTOFLUGのシートベルト、ブラウプンクトのオーディオ、BBSのホイール、ウォルター・ウルフがオーダーした極初期のカウンタックLP400に装着されていたものと同形のリアウイング[1]を取り付け、よりレーシーな外観に仕上がっている。この車はSVRと呼ばれ、一人のオーナーを経て当時30万米ドルで日本人に売却され、1976年6月2日に日本に上陸した。長らく愛知県小牧市のショップで保管されており、かつてはNo.4892と同様に各地のスーパーカーショーで展示されて回った。現在オーナーは代わったものの未だ日本にある。
  • No.3033「クローン・イオタ」
    • ランボルギーニの創立40周年記念、ランボルギーニの本社で開催されたイベントにて現れたもの。オリジナル・イオタが、現代にタイムスリップしてきたのではないかと思わせるその姿に誰もが驚いた車こそがNo.3033のイオタ、通称クローン・イオタ。オリジナルにそっくりなイオタであるが、ランボルギーニが製作した正規のイオタではなく、残されたオリジナルJの写真と一部の設計図を元にオリジナルを忠実に再現したものである。ミウラから流用した部品はオリジナルJと同様にルーフのみで、エンジンをはじめとしたメカニカル面はウォレス本人が手がけている。

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab 『幻のスーパーカー』pp.97-120「幻のランボルギーニ」。
  2. ^ 1968 Lamborghini Miura Jota SVR”. http://www.bingosports.co.jp/ (2015年8月26日). 2021年10月5日閲覧。
  3. ^ 【ランボルギーニ イオタは幻の一台】歴史や価格から謎のレプリカSVRについても”. https://car-moby.jp/ (2017年5月21日). 2021年10月5日閲覧。
  4. ^ 【ランボルギーニ イオタは幻の一台】歴史や価格から謎のレプリカSVRについても”. https://car-moby.jp/ (2017年5月21日). 2021年10月5日閲覧。
  5. ^ (株)ネコ・パブリッシング刊「Rosso」2008年11月号35ページ参照。

参考文献[編集]

  • 『イオタ白書 2002-2009』ネコ・パブリッシング〈NEKO MOOK〉、2009年9月。のち復刻版、2010年3月。
  • 『ザ・スーパーカー・シリーズ:ランボルギーニ・ミウラ&イオタ』ネコ・パブリッシング〈NEKO MOOK〉、2014年9月。
  • 福野礼一郎「イオタの真実」『福野礼一郎の晴れた日にはクルマに乗ろう総集編 vol.1』マガジンボックス〈M.B.MOOK〉、2015年2月。

関連項目[編集]


ランボルギーニ S.p.A. ロードカータイムライン 1963-
タイプ 1960年代 1970年代 1980年代 1990年代 2000年代 2010年代 2020年代
3 4 5 6 7 8 9 0 1 2 3 4 5 6 7 8 9 0 1 2 3 4 5 6 7 8 9 0 1 2 3 4 5 6 7 8 9 0 1 2 3 4 5 6 7 8 9 0 1 2 3 4 5 6 7 8 9 0 1 2 3
MR(含ミッドシップ4駆) V12 ミウラ カウンタック ディアブロ ムルシエラゴ アヴェンタドール レヴエルト
イオタ レヴェントン ヴェネーノ チェンテナリオ エッセンツァ シアン カウンタック
V8/V10 シルエット ジャルパ ガヤルド ウラカン
2+2 ウラッコ
FR GT 350GT
2+2 400GT イスレロ ハラマ
エスパーダ
クロスカントリー4WD
SUV
LM002 ウルス
オーナー
親会社
フェルッチオ・ランボルギーニ ロセッティ、
レイマー
イタリア政府管理下 ミムラン クライスラー メガテック Vパワー アウディ
試作レーシングカー: ランボルギーニ・イオタ(1969)、ランボルギーニ・ハラマRS(1973)、ランボルギーニ・ウラッコ・ラリー(1973)
コンセプトカー: ランボルギーニ・エストーケ(2008)、ランボルギーニ・エゴイスタ(2013)、ランボルギーニ・アステリオン(2014)、ランボルギーニ・テルツォ ミッレニオ(2017)
人物: フェルッチオ・ランボルギーニジャンパオロ・ダラーラマルチェロ・ガンディーニパオロ・スタンツァーニ
公式WEBサイト: Automobili Lamborghini Holding Spa