コンテンツにスキップ

露天神社

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。220.254.165.73 (会話) による 2023年6月11日 (日) 00:53個人設定で未設定ならUTC)時点の版であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

露天神社

拝殿
所在地

大阪府大阪市北区曽根崎2-5-4

地図
位置 北緯34度41分57.4秒 東経135度30分2.9秒 / 北緯34.699278度 東経135.500806度 / 34.699278; 135.500806 (露天神社)座標: 北緯34度41分57.4秒 東経135度30分2.9秒 / 北緯34.699278度 東経135.500806度 / 34.699278; 135.500806 (露天神社)
主祭神 大己貴大神
少彦名大神
天照皇大神
豊受姫大神
菅原道真
社格 郷社
創建 大宝元年(700年)頃
本殿の様式 神明造
別名 お初天神
札所等 菅公聖蹟二十五拝
地図
露天神社の位置(大阪市内)
露天神社
露天神社
テンプレートを表示

露天神社(つゆのてんじんしゃ)は、大阪府大阪市北区曽根崎二丁目にある神社旧社格郷社。通称はお初天神

祭神

祭神は大己貴大神少彦名大神天照皇大神豊受姫大神菅原道真の五柱の神を祀る。

歴史

社伝によれば、この地はかつて曾根崎洲という大阪湾に浮ぶ孤島で、そこに「住吉住地曾根神」と祀っていたとされる。創建は大宝元年(700年)頃とされ、「難波八十島祭」旧跡の一社とされている。社名は、「梅雨のころに神社の前の井戸からがわき出たため」ともいうもののほか、菅原道真が太宰府へ左遷される途中、ここで都を偲んで、

露とちる 涙に袖は朽ちにけり 都のことを思い出づれば

との一首を詠んで涙を流したからとも伝えられている。

時代が下ると祭神を天照皇大神として祀っていたことから、かつては難波神明社とも呼ばれ、日本七神明(東京芝神明宮、京都松原神明宮、京都東山神明宮、大阪難波神明宮、加賀金沢神明宮、信濃安曇神明宮、出羽湯殿山神明宮)の一つにも挙げられた[1]

近世に入ると概ね摂津国西成郡曾根崎村キタの西半)が氏地となる。近松門左衛門のいたころの天神の境内は560余の広さがあり、近松は当時の天神の様子を「影暗く風しんしんたる曽根崎の森」、「天神の森」と書き記すほど木が鬱蒼と茂っていた。しかし、太平洋戦争による戦火と、その後の社殿復興のための境内の切り売りが行われた結果、現在の広さとなったものである[2]

お初天神

元禄16年(1703年)に堂島新地の天満屋の遊女「お初」と内本町平野屋の手代「徳兵衛」が「天神の森(現在の社の裏手)」にて心中を遂げた。1ヶ月後、近松門左衛門はこの2人の悲恋を人形浄瑠璃曽根崎心中』として発表したところ、当時の大きな話題となった。事件の神社は一躍有名となり、そのヒロインである「お初」の名前から以後今日に至るまで「お初天神」と通称されている。曽根崎心中の中では「三十三に御身を変へ、色で導き情けで教へ、恋を菩提の橋となし、渡して観世音、誓ひは妙に有難し」とお妙の名と観音信仰(明治以前は神仏習合が常態であった)をかけている。なお「お初」は天満屋での呼び名であり、墓所(慰霊碑)に記された久成寺(大阪市中央区中寺)での戒名は妙力信女であることから「お妙」などが推測される。

境内

P-51による機銃掃射の跡

ギャラリー

境末社

主な行事

現地情報

所在地
交通アクセス
周辺

脚注

注釈

  1. ^ 2世鴈治郎と3世鴈治郎(当時扇雀)の歌舞伎「曽根崎心中」の舞台写真をモチーフに作成された。

出典

  1. ^ 露天神社|境内末社
  2. ^ 『大阪の史跡を訪ねて3 近世篇』(ナンバー出版)「お初天神 近松門左衛門名作の舞台」より

関連項目

外部リンク