露天神社
露天神社 | |
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拝殿 | |
所在地 | |
位置 | 北緯34度41分57.4秒 東経135度30分2.9秒 / 北緯34.699278度 東経135.500806度座標: 北緯34度41分57.4秒 東経135度30分2.9秒 / 北緯34.699278度 東経135.500806度 |
主祭神 |
大己貴大神 少彦名大神 天照皇大神 豊受姫大神 菅原道真 |
社格等 | 郷社 |
創建 | 大宝元年(700年)頃 |
本殿の様式 | 神明造 |
別名 | お初天神 |
札所等 | 菅公聖蹟二十五拝 |
地図 |
露天神社(つゆのてんじんしゃ)は、大阪府大阪市北区曽根崎二丁目にある神社。旧社格は郷社。通称はお初天神。
祭神
祭神は大己貴大神、少彦名大神、天照皇大神、豊受姫大神、菅原道真の五柱の神を祀る。
歴史
社伝によれば、この地はかつて曾根崎洲という大阪湾に浮ぶ孤島で、そこに「住吉住地曾根神」と祀っていたとされる。創建は大宝元年(700年)頃とされ、「難波八十島祭」旧跡の一社とされている。社名は、「梅雨のころに神社の前の井戸から水がわき出たため」ともいうもののほか、菅原道真が太宰府へ左遷される途中、ここで都を偲んで、
露とちる 涙に袖は朽ちにけり 都のことを思い出づれば
との一首を詠んで涙を流したからとも伝えられている。
時代が下ると祭神を天照皇大神として祀っていたことから、かつては難波神明社とも呼ばれ、日本七神明(東京芝神明宮、京都松原神明宮、京都東山神明宮、大阪難波神明宮、加賀金沢神明宮、信濃安曇神明宮、出羽湯殿山神明宮)の一つにも挙げられた[1]。
近世に入ると概ね摂津国西成郡曾根崎村(キタの西半)が氏地となる。近松門左衛門のいたころの天神の境内は560余坪の広さがあり、近松は当時の天神の様子を「影暗く風しんしんたる曽根崎の森」、「天神の森」と書き記すほど木が鬱蒼と茂っていた。しかし、太平洋戦争による戦火と、その後の社殿復興のための境内の切り売りが行われた結果、現在の広さとなったものである[2]。
お初天神
元禄16年(1703年)に堂島新地の天満屋の遊女「お初」と内本町平野屋の手代「徳兵衛」が「天神の森(現在の社の裏手)」にて心中を遂げた。1ヶ月後、近松門左衛門はこの2人の悲恋を人形浄瑠璃『曽根崎心中』として発表したところ、当時の大きな話題となった。事件の神社は一躍有名となり、そのヒロインである「お初」の名前から以後今日に至るまで「お初天神」と通称されている。曽根崎心中の中では「三十三に御身を変へ、色で導き情けで教へ、恋を菩提の橋となし、渡して観世音、誓ひは妙に有難し」とお妙の名と観音信仰(明治以前は神仏習合が常態であった)をかけている。なお「お初」は天満屋での呼び名であり、墓所(慰霊碑)に記された久成寺(大阪市中央区中寺)での戒名は妙力信女であることから「お妙」などが推測される。
境内
ギャラリー
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拝殿
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お初と徳兵衛のブロンズ像
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郷社の表示がある社標
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表参道
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裏参道
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西側参道
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東側参道
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左近の桜
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右近の橘
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祓戸大神・御井神
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神牛舎
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玉津稲荷
境末社
- 金刀比羅宮・水天宮(祭神:天乃御中主大神、安徳天皇、大物主大神、崇徳天皇、住吉大神、他二柱)
- 開運稲荷社(祭神:玉津大神、天信大神、融通大神、磯島大神)
- 難波神明社(祭神:天照皇大神・豊受姫大神) 大阪三神明の夕日神明社
主な行事
現地情報
- 所在地
- 交通アクセス
- 最寄駅:Osaka Metro谷町線東梅田駅下車後、徒歩約2分
- 最寄駅:Osaka Metro御堂筋線梅田駅及びJR東西線北新地駅下車後、徒歩約3分
- 周辺
脚注
注釈
- ^ 2世鴈治郎と3世鴈治郎(当時扇雀)の歌舞伎「曽根崎心中」の舞台写真をモチーフに作成された。