佐太天神宮

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佐太天神宮
所在地 大阪府守口市佐太中町7丁目16番25号
位置 北緯34度45分53.7秒
東経135度35分24.3秒
座標: 北緯34度45分53.7秒 東経135度35分24.3秒
主祭神 菅原道真
社格村社
創建 天暦年間
本殿の様式 一間社春日造
地図
佐太天神宮の位置(大阪府内)
佐太天神宮
佐太天神宮
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浪花百景にある佐太村天満宮

佐太天神宮(さたてんじんぐう)は、大阪府守口市にある神社。旧社格は村社

祭神[編集]

主祭神

歴史[編集]

「佐太天神宮記」によると、神社の所在地は道真公の領地であり、太宰府左遷に際してしばらく舟をつないで滞在した場所とされており、出立に際して自身の木像と自画像を残したとされている[1]。また、一説によると道真公が当地に滞在したのは宇多上皇の計らいにより無実の証明が為されることを期待して、都からの沙汰を待っていたためとされており、この「沙汰」が転訛して地名が佐太になったとされる[2]。道真公没後50年後の天暦年間に道真公を慕う里人によって、道真公が残した木像をご神体として祠を建てたのが由来とされている。

以降は河内国茨田郡大庭荘の惣社となり、1580年(天正8年)に小出秀政が、続いて大坂夏の陣の後である1615年(元和元年)に三代目にあたる小出吉英が社殿を再興したとされている[1]

現在の社殿は、淀城の城主である永井尚政によって1640年(寛永17年)に本殿、ついで1648年(慶安元年)に拝殿、幣殿、神門(石門)、神饌所、絵馬所、宝庫が造営された[3]1746年延享3年)初演の『菅原伝授手習鑑』にある「佐太村の段」はこの神社がゆかりとなっている[3]。また、1801年(享和元年)に発刊された『河内名所図会』にも見える江戸時代の景観を現在まで残している[3]

境内[編集]

境内は高さ20mを超える大樹など深い森におおわれており、大阪府の「大阪みどりの百選」に選ばれている[4]。また、長年にわたり奉賛会の氏子崇敬者によって梅が植栽されており、本殿から境内にわたって梅に彩られており初春の名所となっている[5]。また、境内には「菅公水鏡の池」があり、道真公の滞在のさいに、この池に自分の姿を写して自画像を描いたといわれる[2]

摂末社[編集]

文化財[編集]

有形文化財(府指定)[編集]

  • 佐太天神宮本殿
本殿は一間社春日造であり、正面に軒唐破風がつけられている。1640年(寛永17年)に神社が再興してから1683年(天和3年)まで、計9回の屋根替したことが棟札によって確認されている[6]。近世の村社会における神社の有様と役割が示されており、端正な本殿と規模が大きいシコロ葺風に下屋を付加した拝殿が特徴とする貴重なものとして府の有形文化財に登録されている[6]
  • 佐太天神宮太刀
拵は金梨子地塗糸巻太刀拵であり寛文10年(1670年)の銘が記されている[7]。また、刀身は大和守安定の作になっており、安定の作の中では大作に属する貴重なものとして府の有形文化財に登録されている[7]

有形文化財(市指定)[編集]

  • 紙本著色天神縁起絵巻
1446年(文安3年)製作の全6巻であり、願主は在地国人と考えられる三嶋太郎右衛門入道道妙で、詞書の筆者は当時守口周辺に勢力を持っていた河内守護畠山持国の被官である誉田遠江入道金宝と考えられている[8]。この誉田金宝は奈良の興福寺のとの繋がりが深かった関係から、絵は南都絵所の芝座の絵師である観深法眼の筆になるものと考えられている[8]。観深法眼の作品は非常に少なく、かつ詞書が「王城鎮守の神々おほくましませど」から始まる絵巻の中では、確認される最古のものとして貴重であるため、市の指定文化財に指定されている[8]

現地情報[編集]

所在地
交通アクセス
  • 最寄バス停:京阪バス バス停「佐太天神前」下車後、徒歩約7分

脚注[編集]

出典[編集]

[脚注の使い方]

外部リンク[編集]