大和守安定

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大和守 安定(やまとのかみ やすさだ)は江戸時代武蔵国刀工新刀上々作にして良業物

概要[編集]

越前国出身というのは最近では誤伝とされ、紀伊国石堂の出である。現に石堂出身であることを裏付ける資料[1]も確認されている。姓は「冨田(とんだ)」、通称は「宗兵衛」。

彼の刀に石堂の作風は見当たらない物が多く、石堂出身でありながら康継一門と相当密接な関係があったといわれる。初代康継の門人であったと言われているが、安定の作刀銘より考えて生年は元和4年(1618年)であり、初代康継が没したのが元和7年(1621年)であるから、初代康継と師弟関係が成立する事は考えにくい。

ただ、小笠原信夫は著書「長曽祢乕徹新考」において、康継一門よりは上総介兼重和泉守兼重と深い関わりがあったとしている。

安定の刀は茎に裁断銘が多くあり切れ味がよかった。山野加右衛門永久江戸幕府始まって以来五つ胴を切ったとされる刀もある。遊撃隊伊庭八郎[2]新撰組大石鍬次郎[2]沖田総司[3]が使っていたことでも有名。作風としては、虎徹と似る(一説には兄弟弟子。大和守安定の方が年紀は早い)。

慶安2年(1649年)ごろ、江戸神田白銀町に移住し鍛刀。明暦元年(1655年)に伊達家より仙台に招かれ、徳川家康命日仙台東照宮に一振り、伊達政宗の命日に瑞鳳殿に一振り、安定とその弟子達の合作である脇差が奉納刀として収められている。瑞鳳殿の奉納刀は戦後、伊達家より改めて瑞巌寺に奉納されている。

また、大和守安定の弟子である安倫はその後、仙台で刀工として明治時代まで続いている。

関連項目[編集]

関連書籍[編集]

外部リンク[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 父と言われる安廣(紀州石堂)との合作刀
  2. ^ a b 流泉小史『新選組剣豪秘話』
  3. ^ 沖田所持刀について、何であったかという明確な記録は見つかっていない。
  4. ^ 「紀州藩に召し抱えられた備前伝の「紀州石堂」は、吉宗以前の財政難でちりぢりになり、名工が全国に散逸してしまいました。武蔵国の名工で、多くの剣客が愛用した刀を打った「大和守安定」も紀州石堂の出身とされています。」