コンテンツにスキップ

荻浜

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
日本 > 宮城県 > 石巻市 > 荻浜
荻浜
大字
荻浜港
地図北緯38度22分56秒 東経141度27分00秒 / 北緯38.382294度 東経141.449921度 / 38.382294; 141.449921座標: 北緯38度22分56秒 東経141度27分00秒 / 北緯38.382294度 東経141.449921度 / 38.382294; 141.449921
日本の旗 日本
都道府県 宮城県の旗 宮城県
市町村 石巻市
地域 本庁地域
地区 荻浜地区
人口情報2024年4月末現在[1]
 人口 36 人
 世帯数 15 世帯
設置日 1889年明治22年)
4月1日
郵便番号 986-2341[2]
市外局番 0225[3]
ナンバープレート 宮城
町字ID[4] 0131000
運輸局住所コード[5] 04501-0485
ウィキポータル 日本の町・字
宮城県の旗 ウィキポータル 宮城県
ウィキプロジェクト 日本の町・字
テンプレートを表示

荻浜(おぎのはま)は、宮城県石巻市にある大字であり、旧牡鹿郡荻浜、旧牡鹿郡荻浜村荻浜に相当する。郵便番号は986-2341[2]2024年(令和6年)2月時点では住居表示未実施[6]。石巻市の住民基本台帳によると、2023年令和5年)7月時点での人口は38人、世帯数は16世帯である[1]。また、ここでは、荻浜を擁する地区である荻浜地区(おぎのはまちく)についても、解説する。

地理[編集]

牡鹿半島中部西岸に位置し、北西で侍浜と、東で小積浜と、山を挟んで北東で牡鹿郡女川町野々浜および同町大石原浜と接し、南で石巻湾(荻浜湾)に面する。

域内の一部が土石流危険渓流(土石流危険区域)および急傾斜地崩壊危険個所に指定されている[7]

主に中生代ジュラ紀の約1.5億年前の地層が北北東 - 南南西の軸をもった摺曲及び断層を繰返し、全体として北部に古い地層が、南部に新しい地層が分布している[8]

山々[編集]

  • 袴ケ岳 - 江戸時代には、この森林地帯から流留や渡波の製塩所へと薪を供給していた[9]

河川[編集]

方孔石[編集]

荻浜および桃浦、女川の海岸でのみとれる人工的に穴が開けられたような石を方孔石(ほうこうせき)という。1901年に初めて発見されたが、なぜ穴が開いているのかは未だ解明されていない。震災以後、岸壁整理・防波堤が建設されたため、現在、方孔石をとることは難しくなっている[11]

小字[編集]

2024年2月現在における域内の小字は以下の通りである[5]

  • 有田浜
  • 有田浜山
  • 家ノ入
  • 家前
  • 石峠
  • 荻浜
  • 小浜山
  • 近藤
  • 崎山
  • 白浜
  • 白浜山
  • 田浜
  • 田ノ浜山
  • 葉山
  • 稗山
  • 横浜山
  • 穴ノ入
  • 石峠山

明治期の小字[編集]

宮城県各村字調書によると明治17、18年頃の荻浜村の小字は以下の通りである[12]

  • 三京田
  • 家ノ前
  • 小浜
  • 松嶺山
  • 桐木沢山
  • 崎山
  • 東衡山
  • 松岸
  • 横浜
  • 上櫓
  • マヤタ山
  • 山境山
  • 花ノ浜山
  • 小浜山
  • 菖蒲町
  • 太田
  • 横須賀
  • 石峙山
  • ムツナ沢山
  • 横浜山
  • 谷地山
  • 中細田
  • 田ノ浜
  • 日陰山
  • 田ノ浜山
  • 白浜山
  • 近藤山
  • 垣根
  • 西脇
  • 荻ノ浜
  • アナノ入山
  • ヒユバタキ山
  • 西衡山
  • 壁端
  • 日陰沢
  • 葉山
  • 平倉東山
  • 平畑山
  • 上櫓山
  • 関口
  • 目倉木
  • 音ノ嶺山
  • コヒ倉山
  • 碁石浜山

歴史[編集]

字有田浜の丘陵斜面に石槍を出土する縄文時代の荻浜遺跡が存在する[9]

史料上の地名の初出は正保年間の成立郷帳であるとされる[13]。それには、

遠嶋之内荻之浜

と記されている[13]

江戸時代には狐崎組大肝煎扱いの小さな漁村であったとされ、元禄年間では、村高約20石[注 1]の蔵入地で人口117人、10世帯、封内風土記によると明和年間の家数は26軒、天保郷帳によると天保年間の村高は24石余であったとされる[14][9]。村落の規模は1698年元禄11年)の牡鹿郡万御改書上によると東西二十九丁四十間[注 2]南北十七丁二十間[注 3] ほどであったとされる[13]

江戸期には、荻浜・小積浜(小炭浜)の両村民が度々係争を起こしていたことが文書から判明している。1646年(正保3年)の小炭浜茶売の訴状には、

過ぎる三月三つらめの汐引に、小炭浜の男おんなごを相出し、おいらが、いわし引場をこしらい置候処へ、荻浜のやつべらどもが来て網引申候、ないな引くなちや引くなちやと申候へば、おいらも引かなければならないちやと申して網引申候、昔より、てんでの浜に御座候処、うぬらが浜をばこしらいないで、おいらが浜で網引申候、此処を御代官衆へいつて御吟味被成下度候

とあり、網場を巡って係争があったとされる[15]。これに対し、遠島大肝入阿立与三郎はこれ以降荻浜の者が小積浜(小炭浜)で網引することを禁止する裁定を下したとされる[15]。この一件以降も1718年(享保3年)の小積浜・荻浜村境出入御尋返答書、1737年(元文2年)の小積浜・荻浜村境ニ付荻浜御百姓御尋返答書、1746年(延享3年)の遠島小積浜・荻浜村境見通之古塚堀崩一件、同年の牡鹿郡荻浜領分いるか漁越境御尋ニ付口上書などの係争文章に徴すれば、両村民の対立が続いていたことがわかる[15]

明治元年になっても江戸時代の頃と同様に一面荻の生い茂るわずか十八戸の寒村であった[13][9]。しかし、野蒜築港の第一期工事の完成に伴い、1881年(明治14年)に三菱財閥三菱汽船が新しく横浜 - 函館間の定期航路を開通するにあたって、淡路丸や九州丸といった船による精密な調査の末、三面山に囲まれ風波を直接受けることのない平穏な港であり、1万トン以上の大型船が容易に入港できる深水港湾であるという点から、荻浜港が中継地に選ばれた[注 4][16][17]。汽船は荻浜港に寄港し荷客の積み卸しを開始すると同時に石巻町本町と荻浜村の両方に営業事務所を設置した[16]。そして、三菱財閥に対抗するために、1882年(明治15年)に共同運輸会社が設立され、さらに1883年(明治16年)には宮城県令松平正直は東北独自の汽船会社の重要性を訴えて、東北各県からの株式募集により、資本金10万円の「奥羽水陸運輸会社」の本社を仙台の大町に設立、石巻を含む県内10ヶ所に支店をおいた[16]。このため荻浜港は盛況を極めたが、激しい競争のすえ、奥羽水陸運輸会社は経営難で解体した[16]。なお、三菱と共同運輸両汽船会社は農商務省西郷従道の斡旋により合併し、1885年9月に日本郵船が設立され、横浜 - 荻浜 - 函館間、1週2回の航路が設定された[16]。1883年には合計118隻の蒸汽船が出入りし、1884年には合計286隻(合計375,265トン)の蒸汽船、合計42隻(合計9,749トン)の西洋型風帆船、合計18隻(合計10,676トン)の日本型五十石以上船が出入りした[18]。当時の日本地図に宮城県唯一の要港として登載され、軍港候補として取り上げられると噂されたこともあったが、1935年戦艦陸奥が寄港しただけで、陸路交通が不便であるうえに、船舶の大型化が進み荻浜港では停泊するに狭すぎたため、実現はしなかった[17]

明治22年、23年頃には、荻浜の戸数が170戸から180戸となり、鍵屋、大森、角屋、伏見などの10軒の旅館が並んだ[19]

1884年の秋に来襲した台風により、野蒜港内湾東側突堤および西側突堤が破壊され、沈床の流出、積石の散乱などにより、野蒜港が潰滅したことや、1887年上野 - 仙台 - 塩竈間の日本鉄道東北線の開通により、石巻港および荻浜港の荷客取扱量が減少し、郵船経営にも波及した[20][14]。港内の出先機関は引き上げ、東京から移り住んだ旅館は青森などへと去った[21]。そして、1917年(大正6年)5月15日をもって、荻浜港への寄港が廃止され、客船の寄港地としての歴史に幕を下ろした[17]

荻浜の由来[編集]

オギの生い茂っていた浜であったため、荻浜と名付けられたとされる[13][14]

沿革[編集]

  • 明治元年 - 高崎藩取締地となる[14]
  • 明治5年 - 宮城県に所属[14]
  • 1874年(明治7年)4月 - 羽山姫神社が村社列格となる[22]
  • 1881年(明治14年)
  • 1882年(明治15年) - 共同運輸会社の定期船の寄港地となる[14]
  • 1884年(明治17年)3月1日 - 荻ノ浜郵便局が開局。
  • 1889年(明治22年)
    • 荻浜を中心に小竹浜、折浜、桃浦、月浦、侍浜、小積浜、牧浜、竹浜、狐崎浜、福貴浦、田代浜の12か浜をもって町村制を施行し、荻浜村が成立。こらに伴い、荻浜は荻浜村荻浜となる[14]
    • 荻浜港が日本地図に要港として記載される[23]
  • 1908年(明治41年) - 石川啄木が釧路から横浜に行く道中で荻浜に5時間滞在し、歌を詠む[15]
  • 1917年(大正6年)5月15日 - 荻浜港への定期船の寄港が廃止[14][17]
  • 1925年(大正14年) - 当時の荻浜村長と荻浜漁業協同組合が宮城新昌に牡蠣養殖指導を懇請[24]
  • 1933年(昭和8年)3月3日 - 昭和三陸地震が発生し、被災[25]
  • 1935年(昭和10年) - 大日本帝国海軍戦艦陸奥を旗船とする連合艦隊が当地に寄港[17]
  • 1948年(昭和23年)10月1日 - 荻ノ浜郵便局が荻浜郵便局に改名。
  • 1951年(昭和26年) - 大火が発生し、ほとんどの家を焼き尽くす[17]
  • 1954年(昭和29年)5月21日 - 荻浜港港湾区域告示[26]
  • 1955年(昭和30年)
    • 牡鹿郡荻浜村が石巻市に吸収合併され、荻浜村荻浜から石巻市荻浜となる[14]
    • 石巻市役所荻浜支所設置[27]
    • 荻浜小学校前の海岸から方孔石が発見。
  • 1960年(昭和35年)5月24日 - チリ地震による津波が来襲し、被災[25]
  • 1982年(昭和57年)
    • 4月1日 - 石巻市立荻浜中学校と石巻市立東浜中学校が合併し、新制の石巻市立荻浜中学校となる[28]
    • 石巻市立荻浜小学校が成立[29]
  • 2011年(平成23年)3月11日 - 東日本大震災にて被災。
  • 2013年(平成25年)10月13日 - 地元有志により、宮城新昌の顕彰碑再建[24]
  • 2014年(平成26年) - 石巻市立荻浜小学校が休校となる[29]
  • 2016年(平成28年) - 防災集団移転促進事業の一環で、荻浜字石峠と荻浜字荻浜の各一部をもって、荻浜字横浜山が設置[30]
  • 2017年10月28日 - 津波の教え石が荻浜中学校に設置[31]
  • 2018年(平成30年)
    • 3月3日 - 石巻市立荻浜小学校廃校[29]
    • 10月29日 - 荻浜支所と荻浜公民館が一体となった新施設が設置[32][33]
  • 2021年(令和3年) - 荻浜港における災害復旧工事が完了[26]
  • 2022年(令和4年)11月7日 - 閉鎖中の荻浜郵便局の集配業務を廃止。業務は大原浜郵便局が継承。
  • 2023年(令和5年)3月 - 石巻市立荻浜中学校廃校[28]

施設[編集]

  • 荻浜支所・荻浜公民館(荻浜字白浜山7番地2) - 2018年10月29日に新施設が設置[33]。鉄筋コンクリート一部鉄骨平屋で、盛り土した海抜13メートルの高台に建設[32]。延べ床面積859m2。公民館部分にはホール、会議室、和室、調理実習室、図書コーナーなどがある[32]。防災拠点として太陽光発電、蓄電池設備も設置[32]
  • 大震嘯記念碑(荻浜字家前17) - 北上町十三浜や雄勝町名振、鮎川浜といった牡鹿半島の諸集落に同様のものが設置されている[34]
  • 荻浜復興住宅(荻浜字横浜山1番地10・11) - 災害公営住宅で木造平屋[35]
  • 荻浜灯台(荻浜字崎山)[36]

東日本大震災[編集]

被害[編集]

被災する前の荻浜(2008年)

荻浜では、3度にわたり津波が来襲したが、最も大きい波だったのは第3波であったとされる。第3波が襲ってくる前には、海底が見えるほど海水が引き、その後、大きな黒い津波が襲い、石巻市立荻浜中学校や荻浜支所は浸水し[37]、そのほか荻浜郵便局や宮城新昌顕彰碑なども破壊された。

震災時にあった家屋55戸のうち53戸が破壊され、家屋の被害率は96.5%にのぼり、牡鹿半島の集落別でみると大谷川浜・鮫浦・祝浜・鹿立屋敷(100%)、谷川浜(98%)、桃浦(96.8%)についで多かった[38]

電気・水道が使用できなかったが、プロパンガス使用地域の為、ガスは使用可能であった。電気・水道の復旧には数ヶ月かかった。

家を失い避難していた人が仮設住宅へと転居することで人口流出が発生した[39]。仮設住宅は荻浜地区だけでなく、石巻市全体にあり、荻浜から離れる家族が多くなった[39]。特に、若い家族が市街地近くの仮設住宅に入ったというケースが多かったとされる[39]。仮設住宅には、冷蔵庫、レンジ、電気釜、テレビ、電気ポット、クーラー等が設置されていた[39]。仮設住宅で生活することで光熱費・食費・生活費などを自分で負担する必要があった[39]

以下は2012年12月時点での域内の人的被害の統計である[40]

世代と性別 犠牲者 死亡率 当時の人口
男性 1人 0.62% 80人
女性 0人 0.00% 81人
15歳未満 0人 0.00% 16人
15 - 64歳 0人 0.00% 86人
65歳以上 1人 1.69% 59人
合計 1人 1.23% 161人

避難[編集]

石巻市立荻浜中学校

荻浜中学校は、2校舎と体育館からできており、授業に必要な教室を残し、他は避難所の居室・調理室・対策本部として使用された[41]。最初は200人が避難をしていたが、仮設住宅への移転に伴い、徐々に人数が減っていき、2011年7月9日時点では約70人が荻浜中学校で避難をしていたとされる[41]。避難所は年齢や性別、家族などを考慮して使用されており、高齢者は1階図書室を、若い年代の人々は2階教室を居室とした[41]。なお、震災発生当日は雪が降っており、寒かったため避難者らは教室にかかっていた暗幕を数人で巻いて寒さをしのいだ[42]。当初、荻浜中学校に避難者がいないと思われていたためか、被害が発生してから自衛隊が到着するのに約1週間、救援物資が届くのに約2週間を要した[42]。病人が出たため、グランドに卒業式用の紅白の幕で×印を作り、衣類を棒に巻き付けた旗をグランドに出て振り、助けを求めた[42]。食事について、3月11日の夜は煎餅数枚を子供に分けただけで、大人は食べるものがなかった[42]。翌朝、中学校にあった白米を鍋で炊き、小さなおにぎりにしたものと薄めたインスタント味噌汁を少量ずつ分けて食べた。味噌汁は塩蔵わかめを水洗いし、塩抜きせずに入れ、味を調えたものである[42]。2日間おにぎりで過ごした後、民家に残って被害に遭わなかった米と商店に残っていたカレールーやシーチキン、ソーセージ、缶詰などを持ち寄って食事を作っていた。救援物資がくるまでの約2週間は、3食ほとんどがおにぎりで白米がなくなると玄米を食べたとされる[42]。救援物資が届くようになるとそれを使って朝昼夜食の準備をした[42]。停電のため、日が落ちる前(午後3時から4時)に夜食を済ませる必要があったことから、夜になって空腹になり、カップラーメンを食べる人もいた[43]。救援物資として届く食品類は、カップラーメン、缶詰、レトルト食品などが多く、野菜・肉などは、入るときはまとめて届くが、定期的に入ることはなく、多くは避難している人の親戚などによって届けられた[43]。6月頃から、夕食としてのお弁当が届くようになり、避難者らは朝食以外は調理する必要がなくなった。夕食は基本的に4種類の弁当の繰り返しであった[43]。なお、トイレ・調理室において水道が使用できたが、2011年7月時点では、食事準備をしていた家庭科室の水道は使用できなかったため、調理にはミネラルウォーター、野菜・食器の洗浄は沢水を用いており、一回の食事準備で数回沢水をタンクに汲みに行っていた[44]。衛生について、地震発生から2週間は入浴できず、避難している人で小屋を建て、その中に沸かした湯を入れたタライを置き、体を洗った[44]。その後、ボランティアより入浴施設が贈られ、安定した入浴環境が整った[44]。なお、湯は中学校裏に出ていた沢水をろ過し、避難所で出たゴミや廃材を利用してボイラーで温めたものを使用していた[44]

石巻市役所荻浜支所

高台に位置していたため、避難所に指定されていたが、津波の第3波の来襲により、一階天井まで浸水し、避難所としての機能は果たせなかった[41]。荻浜支所に一時的に避難していた荻浜保育所の児童および保育士らは1.3km離れた荻浜中学校へと避難した[41]

東日本大震災以前の災害[編集]

昭和三陸地震

1933年3月13日の河北新報によると

第三回本社慰問班が仙台市内各方面からの寄贈品を山積したトラックで十日第一日目を牡鹿郡女川町方面に配給し、第二日は折柄の雪を大原村鮎川方面に夫々配給したが、トラックは積雪のため進行困難に陥りすべりとめのクサリをつけたが用をなさず、危険と見て荻浜附近から引返そうと思ったが、罹災地のこと、罹災民の困難と哀れな姿をおもうては踵を返し、鈴木班長は一行を激励して雪の■越峠や小■峠の嶮を突破、遂に目的地の荻浜、大原鮎川の各村にそれぞれ配給し得ることを得た — 河北新報

とあり、当地は雪が積もり、物資が不足していたことがうかがえる[45]

チリ地震

域内では最大3.9mの津波が来襲し、堤防の破壊された口に向かって家屋や石、木材が殺到した[46]

現在[編集]

荻浜字家前21に存在していた荻浜郵便局は、現在は窓口業務およびATM業務を停止している[47]

福島第一原子力発電所事故をうけて、女川原子力発電所における原子力事故を想定した防災対応マニュアルが作成された[48]。なお、荻浜は女川原子力発電所のPAZ(予防的防護措置を準備する区域)に含まれており、事故発生時には、住民は大崎市立鳴子小学校へと避難することが定められている[48]

教育[編集]

域内には、小学校および中学校ともに存在していたが、過疎化および少子化により、生徒数が減少し、どちらも平成期に廃校となっている。小学校は、石巻市立荻浜小学校が存在していたが、2014年に休校、2018年に廃校となった[29]。休校前の生徒数は2名であった[29]。中学校の方は石巻市立荻浜中学校が存在していたが、2023年(令和5年)に廃校となり、41年の歴史に幕を閉じた[28]。閉校時の生徒数は3年生2名、2年生1名の計3名であった[28]

現在の荻浜の児童は石巻市立万石浦小学校石巻市立万石浦中学校に進学する[49][50]

交通[編集]

道路[編集]

一般国道[編集]

地区内に一般国道は通っていない。

一般県道[編集]

宮城県道2号石巻鮎川線

鉄道[編集]

域内に鉄道駅は存在しない。最寄駅は東日本旅客鉄道渡波駅が挙げられる。

バス[編集]

寺社仏閣[編集]

羽山姫神社社殿
  • 羽山姫神社 - 主祭神は羽山津見神。旧暦9月9日を例祭日とする[22]

人物[編集]

  • 宮城新昌 - 沖縄県国頭郡大宜味村生まれ[24]。渡波の阿部善治らとともに牡蠣の垂下養殖法および種苗の抑制技術を開発した人物である[24]1925年(大正14年)に荻浜村長と荻浜漁業協同組合が宮城新昌に養殖指導を懇請し、渡波漁業協同組合の協力によって万石浦に試験筏が設置され、1927年(昭和2年)には大規模養殖が開始された[24]。その後、「国際養蛎株式会社」を創立し、荻浜でもカキ養殖と種ガキ採苗を行ったとされる[24]。荻浜では宮城新昌の功績をたたえ、顕彰碑を設置している[注 6][24]

荻浜地区[編集]

石巻市荻浜支所・荻浜公民館

荻浜地区(おぎのはまちく)もしくは荻浜地域(おぎのはまちいき)は石巻市荻浜支所の管区内にある地区の名称であり、旧牡鹿郡荻浜村全域に相当する。稲井地区蛇田地区渡波地区とともに石巻市本庁地区(旧石巻市域)に属する。漁業が中心産業の地区である[52]。全域で住居表示未実施[6]

荻浜、折浜、狐崎浜、小積浜、侍浜、竹浜、月浦、福貴浦、牧浜、桃浦の計七浜三浦が荻浜地区に属し、石巻市荻浜支所の管轄である。

人口[編集]

震災前はおよそ1,000人が暮らしていたが、2024年4月末現在域内に暮らしている人数は422人にまで減少した[1][52]

2024年令和6年)4月末時点での荻浜地区内の大字別世帯数および人口は以下の通りである[1]

大字 世帯数
荻浜 15世帯 20人 16人 36人
折浜 20世帯 22人 18人 40人
狐崎浜 42世帯 54人 48人 102人
小積浜 7世帯 6人 9人 15人
侍浜 6世帯 6人 6人 12人
竹浜 6世帯 15人 10人 25人
月浦 12世帯 14人 11人 25人
福貴浦 35世帯 50人 43人 93人
牧浜 28世帯 32人 13人 45人
桃浦 17世帯 14人 15人 29人
荻浜地区 188世帯 233人 189人 422人

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 資料により値が異なる。牡鹿郡万御改書上によると23石余、元禄郷帳によると18石余となっている。
  2. ^ およそ3,236m。
  3. ^ およそ1,890m。
  4. ^ 当初は臨時寄港地の予定であったが貨客の増加により、定期船の寄港地になった。
  5. ^ 1884年からは桃浦外十一カ浜連合戸長役場。
  6. ^ なお、初代のものは2011年3月11日の東北地方太平洋沖地震によって破壊されたため、地元有志が再建委員会を立ち上げ、宮城新昌の出身地である大宜味村の関係者の協力をえて、2013年(平成25年)10月13日に再建された。

出典[編集]

  1. ^ a b c d 第3章 人口”. 石巻市. 2024年5月27日閲覧。
  2. ^ a b 宮城県石巻市荻浜”. 日本郵便グループ. 2023年8月29日閲覧。
  3. ^ 市外局番の一覧”. 総務省. 2023年8月29日閲覧。
  4. ^ 日本 町字マスター データセット”. デジタル庁 (2022年3月31日). 2023年9月23日閲覧。
  5. ^ a b 自動車登録関係コード検索システム”. 国土交通省. 2023年8月29日閲覧。
  6. ^ a b 住居表示申請について”. 石巻市 (2022年4月6日). 2024年2月26日閲覧。
  7. ^ “石巻市土砂災害危険箇所一覧”. 石巻市. https://www.city.ishinomaki.lg.jp/cont/10106000/8765/ishinomakisidosyasaigaikikenkasyoitiran.pdf 2023年8月31日閲覧。 
  8. ^ “石巻市文化財だより 第6号昭和51年度文化財調査特集” (PDF). 石巻市教育委員会. https://sitereports.nabunken.go.jp/files/attach/29/29515/21395_1_%E7%9F%B3%E5%B7%BB%E5%B8%82%E6%96%87%E5%8C%96%E8%B2%A1%E3%81%A0%E3%82%88%E3%82%8A.pdf 2023年9月7日閲覧。 
  9. ^ a b c d 平凡社地方資料センター 1998, p. 680.
  10. ^ 土砂災害警戒区域等の指定の告示に係る図書(その1)” (pdf). 宮城県. 2024年5月25日閲覧。
  11. ^ “今年度も「閉講式」を迎えました!” (PDF). 仙台市教育センター. https://www.sendai-c.ed.jp/~tooricho/pdf/otayori/s05.pdf 2023年9月7日閲覧。 
  12. ^ 石巻の歴史 1988, p. 838.
  13. ^ a b c d e 石巻の歴史 1988, p. 814.
  14. ^ a b c d e f g h i j 角川日本地名大辞典 1979, p. 137.
  15. ^ a b c d 平凡社地方資料センター 1998, p. 681.
  16. ^ a b c d e 永野 1969, p. 130.
  17. ^ a b c d e f 石巻市史第5巻 1963, p. 341.
  18. ^ 永野 1969, p. 136.
  19. ^ 菊地勝之助 & 1972年.
  20. ^ 永野 1969, p. 131.
  21. ^ 石巻市史第5巻 1963, p. 340.
  22. ^ a b 葉山神社”. 宮城県神社庁. 2024年5月25日閲覧。
  23. ^ a b 石巻市史編さん委員会 1988, p. 815.
  24. ^ a b c d e f g 宮城新昌氏一族を顕彰する記念碑” (PDF). 全国水産技術協会. 2023年9月1日閲覧。
  25. ^ a b 石巻市津波防災計画第3節 石巻市の主な既往津波被害” (PDF). 石巻市. 2023年9月6日閲覧。
  26. ^ a b 荻浜港”. 宮城県 (2024年1月5日). 2024年2月27日閲覧。
  27. ^ 石巻市史編さん委員会 1998.
  28. ^ a b c d “学びやの歴史に幕 石巻2小中学校で閉校式 東浜小68年、荻浜中41年”. 河北新報. (2023年2月28日). https://kahoku.news/articles/20230228khn000028.html 2023年8月30日閲覧。 
  29. ^ a b c d e “被災地の小学校で閉校式 石巻・荻浜小、当時の児童「校舎に感謝」”. 産経新聞. (2018年3月3日). https://www.sankei.com/smp/photo/story/news/180303/sty1803030006-s.html 2023年8月30日閲覧。 
  30. ^ “平成28年1月調製 字名変更旧新・新旧対照表” (PDF). 石巻市. https://www.city.ishinomaki.lg.jp/cont/10153000/0010/7088/H28.1.29kokuzi-hyousi.pdf 2023年8月31日閲覧。 
  31. ^ 「津波の教え石」を石巻市荻浜地区に建立” (PDF). ミサワホーム (2017年11月13日). 2023年9月6日閲覧。
  32. ^ a b c d “市報 いしのまき 平成30年(2018年)12月1日号 - 明日へと響け復興のつち音” (PDF). 石巻市. (2018年12月1日). https://www.city.ishinomaki.lg.jp/cont/10151000/1000/0138/20181201_13.pdf 2023年8月31日閲覧。 
  33. ^ a b 荻浜支所・荻浜公民館”. 石巻市 (2023年6月13日). 2023年8月31日閲覧。
  34. ^ 震災伝承施設”. 国土交通省東北地方整備局. 2023年9月6日閲覧。
  35. ^ 市営住宅の概要(本庁管轄の市営住宅所在地一覧)”. 石巻市 (2022年8月5日). 2023年9月30日閲覧。
  36. ^ 荻浜灯台”. マピオン. 2024年5月25日閲覧。
  37. ^ 荻浜;荻浜中学校;津波襲来”. 石巻市. 2023年9月6日閲覧。
  38. ^ 佐藤ら 2014, p. 1120.
  39. ^ a b c d e 日暮ら 2012, p. 97.
  40. ^ 谷謙二 2012.
  41. ^ a b c d e 日暮ら 2012, p. 92.
  42. ^ a b c d e f g 日暮ら 2012, p. 94.
  43. ^ a b c 日暮ら 2012, p. 95.
  44. ^ a b c d 日暮ら 2012, p. 96.
  45. ^ 昭和三陸沖地震津浪 昭和8年03月03日 1933年03月03日”. 津波ディジタルライブラリィ. 2023年9月6日閲覧。
  46. ^ 昭35.5.24チリ地震津波関係資料”. 津波ディジタルライブラリィ. 2023年9月6日閲覧。
  47. ^ 荻浜郵便局 (おぎのはまゆうびんきょく)”. 日本郵政. 2024年1月10日閲覧。
  48. ^ a b 石巻市〈荻浜地区(荻浜・小積浜)〉保存版 原子力災害時の防災対応マニュアル” (PDF). 宮城県. 2024年1月10日閲覧。
  49. ^ 小学校学区一覧” (2021年11月27日). 2024年5月30日閲覧。
  50. ^ 中学校学区一覧” (2021年11月27日). 2024年5月30日閲覧。
  51. ^ 石巻地区の路線バス時刻表【2023年10月1日改正】 - 宮城交通”. 宮城交通. 2024年5月25日閲覧。
  52. ^ a b 東日本大震災 石巻市のあゆみ” (2022年2月28日). 2024年1月9日閲覧。

参考文献[編集]

  • 「角川日本地名大辞典」編纂委員会 編『角川日本地名大辞典』 4 宮城県、角川書店、1979年12月1日。ISBN 4040010302 
  • 牡鹿町誌編纂委員会 編『牡鹿町誌』 上巻、安住重彦、1988年11月20日。 
  • 永野為紀「港湾形成の立地条件の変化 : 仙台湾岸における港湾建設の歴史的変遷を例として」『仙台大学紀要』第1号、仙台大学、1969年2月1日、126-137頁、ISSN 03893073 
  • 佐藤 布武、貝島 桃代、橋本 剛「漁村集落における土地利用の変化と津波への対策が集落空間構成へ与えた影響」『日本建築学会研究系論文集』第79巻第699号、日本建築学会、2014年5月、1119-1127頁。 
  • 日暮 陽子、山本 理茉、澤野 早紀子、加藤 瑞基、田村 明「東日本大震災被災地(石巻市荻浜地区避難所)を訪問して」『名古屋学芸大学健康・栄養研究所年報』第5号、名古屋学芸大学、2012年9月。 
  • 佐藤露江、太斎惇 編『石巻市史』 5巻、第一法規出版、1963年3月25日。 
  • 石巻市史編さん委員会 編『石巻の歴史民俗・生活編』 3巻、凸版印刷、1988年3月31日。 
  • 石巻市史編さん委員会 編『石巻の歴史通史編』 2巻、凸版印刷、1998年3月31日。 
  • 菊地勝之助 編『宮城県地名考』宝文堂出版販売、1972年6月15日。 
  • 谷謙二小地域別にみた東日本大震災被災地における死亡者および死亡率の分布」『埼玉大学教育学部地理学研究報告』第32号、埼玉大学教育学部地理学研究室、2012年、1-26頁、doi:10.24561/00016186ISSN 0913-2724NAID 120006388016 
  • 平凡社地方資料センター『日本歴史地名大系第4巻 宮城県の地名』平凡社、1998年7月10日。ISBN 4582490042 

関連項目[編集]

外部リンク[編集]