稲村ヶ崎
稲村ヶ崎(いなむらがさき)は、神奈川県鎌倉市南西部にある岬で、由比ヶ浜と七里ヶ浜の間にあたる。通常、「稲村ヶ崎」の表記は歴史的用法や国の史跡の名称に使用し、地名としては住居表示に伴う町名変更で稲村ガ崎一丁目から稲村ガ崎五丁目となっている[1][2][3]。
地名の由来
地名の由来は、稲穂を重ねたように見えるためだと言われている[4]。古来良質な砂鉄が採取できることで知られ、古代にはこの地で製鉄がおこなわれていたと考えられる。
歴史
古代
奈良時代の鎌倉には「見越しの崎」あるいは「御輿の崎」「神輿の崎」と呼ばれる地名があったことが知られており、万葉集に、
鎌倉の 見越しの崎の 岩崩(いわくえ)の 君が悔ゆべき 心は持たじ — 万葉集 巻14-3365
と詠まれている。この地名がどこを指すかについては、長谷の甘縄神社裏山という説と稲村ヶ崎という説があり、確定していない。しかし、岩崩の名所として知られていたならば、稲村ヶ崎説が有力となる。
中世
鎌倉時代末期の元弘3年(1333年)5月に上野国(群馬県)新田荘を本拠とする新田義貞が挙兵し、分倍河原の戦いと関戸の戦いで北条氏の軍に勝利して鎌倉にせまった(鎌倉の戦い)。
5月18日、新田軍は極楽寺口より攻撃を加え、21日には義貞みずから稲村ヶ崎の海岸を渡ろうとしたが、当時の波打ち際は切り立った崖となっており、石が高く、道が狭小なため軍勢が稲村ヶ崎を越えられなかった。そこで、義貞が潮が引くのを念じて剣を投じると、その後潮が引いて干潟となったので岬の南から鎌倉に攻め入ったという伝説が『太平記』に記されている。ただし、近年において天文計算により、稲村ヶ崎の潮が引いたのは18日のことであったことが明らかになり、『太平記』の日付には誤りがあると考えられている[5]。
近世以降
幕末には外国船監視のための台場が置かれ、長州藩が防衛にあたった。
1928年(昭和3年)、県道片瀬鎌倉線(後の国道134号)の開削工事が行われ稲村ヶ崎の丘陵が分断されて切り通しが開かれた。また、第二次世界大戦中には伏龍隊の地下基地があった。
1960年代から付近の丘陵地が大規模住宅地として開発され、1969年には住居表示実施に伴う町名変更で旧大字極楽寺から分離され、稲村ガ崎一-五丁目となった[2]。
現代
現在は鎌倉海浜公園として整備されていて、園内には逗子開成中学校ボート部七里ヶ浜沖遭難事件(1910年)の慰霊碑(『真白き富士の根』の歌詞を刻む)、コッホ博士記念碑などもある。サーフィンのメッカとして有名であると同時に、海水浴場としても使用されてきたが、近年、砂の流出が進み、2003年(平成15年)からは海水浴場としての使用は行われなくなった。
史跡指定
1333年(元弘3年5月)の新田義貞の鎌倉幕府攻めの際、通行困難だったが義貞徒渉の際には干潟となって容易に進軍できたという伝説より、「稲村ヶ崎(新田義貞徒渉伝説地)」として、 1934年(昭和9年)3月13日、国の史跡に指定された。
アクセス
町名
稲村ガ崎 | |
---|---|
稲村ヶ崎を東側から望む(2004年11月9日撮影) | |
北緯35度18分14.11秒 東経139度31分19.95秒 / 北緯35.3039194度 東経139.5222083度 | |
国 | 日本 |
都道府県 | 神奈川県 |
市町村 | 鎌倉市 |
地域 | 鎌倉地域 |
面積 | |
• 合計 | 0.74 km2 |
人口 | |
• 合計 | 3,318人 |
• 密度 | 4,500人/km2 |
等時帯 | UTC+9 (日本標準時) |
郵便番号 |
248-0024[8] |
市外局番 | 0467 (藤沢MA)[9] |
ナンバープレート | 横浜 |
稲村ガ崎(いなむらがさき)は、神奈川県鎌倉市の町名。現行行政地名は稲村ガ崎一丁目から稲村ガ崎五丁目。住居表示実施済み区域[10]。郵便番号は248-0024[8]。
1969年2月1日に住居表示が施行され、稲村ガ崎一-五丁目が置かれた[2]。
地価
住宅地の地価は、2017年(平成29年)1月1日の公示地価によれば、稲村ガ崎5-35-2の地点で18万8000円/m2となっている[11]。
町名の変遷
実施後 | 実施年月日 | 実施前(特記なければ各字名ともその一部) |
---|---|---|
稲村ガ崎一丁目 | 1969年2月1日 | 大字極楽寺字金山・字砂子坂・字追揚 |
稲村ガ崎二丁目 | 大字極楽寺字砂子坂・字追揚・字一ツ谷 | |
稲村ガ崎三丁目 | 大字極楽寺字追揚・字姥ケ谷(全域) | |
稲村ガ崎四丁目 | 大字極楽寺字一ツ谷 | |
稲村ガ崎五丁目 | 大字極楽寺字一ツ谷・字正福寺、大字津字東ノ谷 |
世帯数と人口
2018年(平成30年)1月1日現在の世帯数と人口は以下の通りである[7]。
丁目 | 世帯数 | 人口 |
---|---|---|
稲村ガ崎一丁目 | 211世帯 | 458人 |
稲村ガ崎二丁目 | 165世帯 | 396人 |
稲村ガ崎三丁目 | 222世帯 | 579人 |
稲村ガ崎四丁目 | 131世帯 | 396人 |
稲村ガ崎五丁目 | 620世帯 | 1,489人 |
計 | 1,349世帯 | 3,318人 |
小・中学校の学区
市立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる[12][13]。
丁目 | 番地 | 小学校 | 中学校 |
---|---|---|---|
稲村ガ崎一丁目 | 全域 | 鎌倉市立稲村ケ崎小学校 | 鎌倉市立御成中学校 |
稲村ガ崎二丁目 | 全域 | ||
稲村ガ崎三丁目 | 全域 | ||
稲村ガ崎四丁目 | 全域 | ||
稲村ガ崎五丁目 | 1~6番 9番1~6号 10番1~33号 11番 12番1~5号 12番8~13号 | ||
7〜8番 9番7~20号 10番34~40号 12番6〜7号 13~39番 |
鎌倉市立七里ガ浜小学校 | 鎌倉市立腰越中学校 |
その他
サザンオールスターズの桑田佳祐が監督を務めた映画『稲村ジェーン』(1990年)の舞台ともなった場所である。しかし以前は自殺の名所としても知られていた。また、彼らのシングル曲である「君こそスターだ」には、歌い出し冒頭で「稲村ヶ崎は今日も雨」という部分があり、最初の部分のミュージックビデオも稲村ヶ崎で撮影している。
ほかにも、ASIAN KUNG-FU GENERATIONの曲で「稲村ヶ崎ジェーン」、テレビ東京「出没!アド街ック天国」主題歌の小川コータ&とまそん 「夕焼け岬」、渡辺大地 「和田塚」という曲がある。
約3m以上の高波が来た時だけ開催されるサーフィン大会、「イナムラサーフィンクラシック」の会場でもある。1981年に「ナガヌマクラシック」の名前で初開催され、現在の名前では1989年と2013年しか開催されていない[14][15]。
脚注
注釈
参照
- ^ “鎌倉市の町名称及び住居表示の実施状況”. 鎌倉市. 2015年5月21日閲覧。
- ^ a b c 1969年(昭和44年)2月24日自治省告示第24号「住居表示が実施された件」
- ^ 『鎌倉の地名由来辞典』(東京堂出版)稲村ガ崎の項より。
- ^ 『大日本地誌大系24 新編相模国風土記稿第六巻』長坂一雄、1980年2月5日、110頁。
- ^ 細井浩志『古代の天文異変と史書』(吉川弘文館、2007年)ISBN 978-4-642-02462-4 P22
- ^ “平成28年(2016年)版鎌倉の統計”. 鎌倉市. 2018年2月22日閲覧。
- ^ a b “鎌倉の人口と世帯数(地域・町丁・字別)”. 鎌倉市 (2018年1月26日). 2018年2月22日閲覧。
- ^ a b “郵便番号”. 日本郵便. 2018年2月22日閲覧。
- ^ “市外局番の一覧”. 総務省. 2018年2月22日閲覧。
- ^ “鎌倉市の町名称及び住居表示の実施状況”. 鎌倉市 (2017年2月7日). 2018年2月22日閲覧。
- ^ 国土交通省地価公示・都道府県地価調査
- ^ “鎌倉市の市立小学校通学区域”. 鎌倉市. 2017年7月6日閲覧。
- ^ “鎌倉市の市立中学校通学区域”. 鎌倉市. 2017年7月6日閲覧。
- ^ 来た!ビッグウェーブ 湘南・稲村ケ崎で伝説の大会開幕(朝日新聞デジタル, 2013年9月26日)
- ^ 「一生に一度」伝説の波…稲村ケ崎、サーフィン見物に3000人 神奈川(MSN産経ニュース, 2013年9月26日)
参考文献
関連項目
外部リンク
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稲村ガ崎 | ||||
坂ノ下 |