琴弾八幡宮
琴弾八幡宮 | |
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所在地 | 香川県観音寺市八幡町一丁目1番1号 |
位置 | 北緯34度07分58.73秒 東経133度38分47.69秒 / 北緯34.1329806度 東経133.6465806度座標: 北緯34度07分58.73秒 東経133度38分47.69秒 / 北緯34.1329806度 東経133.6465806度 |
主祭神 |
応神天皇 神功皇后 玉依姫命 |
社格等 | 県社 |
創建 | 大宝3年(703年) |
本殿の様式 | 入母屋造 |
札所等 |
新四国曼荼羅霊場23番 さぬき十五社14番 旧 四国八十八箇所68番 |
例祭 | 10月第3土日曜日 |
地図 |
琴弾八幡宮(ことひきはちまんぐう)は、香川県観音寺市の琴弾山の最も高い山頂部にある神社である。旧社格は県社。三角点(58.3メートル)は別の峰にある。麓に随心門があり378段の参道があるが、一方通行のドライブウエイがあり車で頂上まで行ける。その麓には神幸殿や数々の摂社や広い広場があり秋祭りのときは町内の太鼓台が集結する。
八幡神として応神天皇・神功皇后・玉依姫命を祀る。神仏習合の時代には当社が四国八十八箇所第68番札所だった。現在は新四国曼荼羅霊場23番。さぬき十五社の14番でもある。
歴史[編集]
伝承では、大宝3年(703年)3月、琴弾山で日証上人が修行していると彼方の空が鳴動し、琴を弾く翁を乗せた船が漂着、その翁は「宇佐より至る八幡大菩薩なり、この地の風光去りがたし」と告げ消え、上人はこのお告げを感得し、里人とともにその船を神舟とし、琴とともに山頂に運び祀ったのに始まるとされ、社名の「琴弾」はそれに由来する。同時に当社の神宮寺として、後に四国八十八箇所第69番札所観音寺となる神宮寺宝光院を建立した。
大同2年(807年)四国を行脚中の空海が当社に参拝、琴弾八幡の本地仏である阿弥陀如来を描いて安置し、神仏習合の神社となった[1]。その後、当社が同第68番札所に定められ納経は別当の観音寺[2]で行われた。
中世には源氏の崇敬を受けた。源頼義は前九年の役に前に使いを立てて願文を納め、その子の義家は社殿を造営し、神馬を奉納した。義経は屋島の戦いの後に平家追討を祈願して馬と鳥居を奉納し、頼朝は1千貫文の土地を寄進した。
明治の神仏分離により、本地・阿弥陀如来画像(絹本著色琴弾八幡本地仏像)は観音寺境内の西金堂に移され、琴弾神社と改名され、観音寺の別当職は解消された。その後の第二次大戦後、琴弾八幡宮と復称した。
山頂部[編集]
- 本殿拝殿
- (摂社)武内神社 - 祭神:武内宿称
- (摂社)住吉神社 - 祭神:底土神、赤土神、石土神
- (摂社)若宮神社 - 祭神:仁徳天皇、宇治皇子、宇礼姫、久礼姫
麓部[編集]
- 大鳥居
- 石の鳥居 - 1653年(承応2年)丸亀城主山崎虎之助治頼公が寄進、柱の高さ7.2m
- 早苗塚 - 1774年(安永4年)創建、1839年(天保10年)修復
- 随神門 - 山頂の本殿への入り口、378段の石段で本殿に至る。
- (摂社)庚申神社
- 忠魂碑・慰霊塔
- 琴弾女神の像
- (摂社)山之神神社
- (摂社)琴弾戒
- (摂社)幢中神社
- 藤目儀三郎の像
- 神幸殿
- 参集殿
- 十王堂広場
祭事[編集]
全国奉納絵馬コンクール[編集]
全国から絵馬を募集し優秀なものを表彰している。1985年から始まった。2011年は754点の応募があり、これまでの応募総数は約1万7千点となった。[3]
前後の札所[編集]
22 密蔵寺 --- 23 琴弾八幡宮 --- 24 宗林寺
脚注[編集]
- ^ 宇佐神宮と同様に、琴弾八幡宮と麓の別当観音寺(神恵院は観音寺の院号で同一の寺院)とは境は無く全山が神仏習合の宗教施設であったと思われる
- ^ 観音寺自身の納経は寺号で、当社の納経は観音寺の院号である神恵院で行われた
- ^ 四国新聞、2011年3月27日閲覧。