焼け跡世代

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焼け跡世代(やけあとせだい)とは、幼少期と少年期を第二次世界大戦中に過ごした世代である。

概要[編集]

語源は野坂昭如が用いた「焼け跡派」である(但し野坂による焼け跡派の定義は一つ上の昭和一桁世代を含めるものである) 本項では第二次大戦中に小学校(当時は国民学校)に入学したか、第二次大戦中に生まれた世代として取り扱う。

太平洋戦争中に小学校に入った1935年(昭和10年)4月から1939年(昭和14年)3月までに生まれた世代(昭和一桁後期生まれからこの世代にかけては「少国民世代」とも呼ばれる)のみを指すこともあり、太平洋戦争中に生まれた1941年(昭和16年)から1945年(昭和20年)まで(或いは終戦の翌年である1946年(昭和21年)まで)に生まれた世代は「戦中生まれ世代」と呼ばれる場合もある。学生運動との関連では、真珠湾攻撃以前(1935年(昭和10年)~1940年(昭和15年))に生まれた者を安保闘争に関わった「安保闘争世代」、真珠湾攻撃以後(1941年(昭和16年)~1946年(昭和21年))に生まれた者を全共闘に関わった「プレ団塊の世代」「全共闘世代」と呼ばれる場合もある。

成長過程[編集]

都市部の焼け跡世代の人々は、第二次世界大戦中に幼少期と少年期を防空壕と焼け跡の中で過ごし、飢餓や経済的困窮、放射性被害など戦争による被害に苦しんだ。青空教室闇市を経験した者もいる。戦中に農村部に疎開していた人々は、空襲で自宅が失われたことや、大都市部で深刻化した食料難から戦後もしばらく農村で過ごした者も多い。戦中派と共に、大日本帝国憲法が廃止され日本国憲法が施行される一大パラダイムシフトを体験した世代でもある。

1935年(昭和10年)4月~1939年(昭和14年)3月生まれまでの人々は、太平洋戦争中に小学校に入り、小学時代には国民学校における軍国主義教育と、敗戦後の墨塗り教科書民主主義教育の両方を経験したため、第二次大戦の記憶を持つ最後の世代である。第二次大戦の終結と米ソ冷戦の勃発という焼け跡の中で小学校時代を過ごした世代であり、サンフランシスコ講和条約が締結された時期(1951年(昭和26年))には概ね中学生であった。

一方で、1939年(昭和14年)4月~1945年(昭和20年)までに生まれた人々は、幼少期を空襲の脅威にさらされて過ごし、第二次大戦の終結後に小学校に入った[1]。この世代は、極東国際軍事裁判朝鮮戦争といった、戦後の混乱期に小学校時代を送った。

この世代の人々は中卒・高卒で社会に出た者が多く、大学進学者はまだまだ少なかったが、戦後新制大学が生まれてから大学進学率は徐々に上昇し、大学卒業者がエリートと見なされていた世代と大学教育が大衆化した世代の狭間にある。この世代は、学生運動が盛り上がった時期に大学生となり、1941年(昭和16年)の真珠湾攻撃以前の生まれは1960年(昭和35年)の安保闘争を担い、真珠湾攻撃以降に生まれた戦中生まれ世代団塊の世代と同じく全共闘運動を担った。

脚注[編集]

  1. ^ 国民学校が「小学校」の名称に復った年は1947年(昭和22年)4月以後である。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]