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水野忠之

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水野忠之
時代 江戸時代中期
生誕 寛文9年6月7日1669年7月4日
死没 享保16年3月17日1731年4月23日
戒名 高隆院殿祥嶽元貴居士
墓所 下総国山川万松寺
官位 従四位下侍従・和泉守
幕府 江戸幕府
主君 徳川綱吉徳川家宣徳川家継徳川吉宗
三河岡崎藩4代目藩主
父母 父:水野忠春、母:前田利次の娘
養父:水野忠近水野忠盈
兄弟 水野忠直水野忠盈忠之水野重富
正室:牧野康重の娘
水野忠輝(次男)
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水野 忠之(みずの ただゆき)は、江戸時代中期の譜代大名で、江戸幕府老中三河国岡崎藩第4代藩主(5万石、後6万石)。忠元系水野家5代。斎宮と称す。

生涯

寛文9年(1669年)6月7日午前6時頃に三河国岡崎藩水野忠春(5万石)の四男として水野家江戸屋敷で誕生。

延宝2年(1674年)7月9日に親族の旗本水野忠近(2300石)の養子となって家督を継いだ。元禄10年(1697年)2月には御使番に列し、布衣(六位相当になったことを意味する)の着用を許された。元禄11年(1698年)4月19日には日光目付、さらに9月25日には日光普請奉行となった。

元禄12年(1699年)1月11日、実兄である岡崎藩水野忠盈の養子となり忠盈の没後、9月27日に家督相続し10月18日には従五位下・大監物に叙任された。

元禄14年(1701年)3月14日に赤穂藩浅野長矩高家吉良義央に刃傷沙汰に及んだときには、赤穂藩の鉄砲洲屋敷へ赴いて騒動の取り静めにあたっている。

また翌年12月15日、赤穂浪士が吉良の首をあげて幕府に出頭した後には、そのうち間光興奥田行高矢頭教兼村松高直間瀬正辰茅野常成横川宗利三村包常神崎則休9名のお預かりを命じられ、彼らを三田中屋敷へ預かった。

大石良雄をあずかった細川綱利熊本藩主54万石)に倣って水野も浪士達を賞賛しよくもてなした。しかし細川は浪士達が細川邸に入った後すぐさま自ら赴き大石達と会見したのに対して、水野は幕府をはばかってか、21日になってようやく浪士達と会見している。また江戸の庶民からも称賛されたようで、「細川の 水の(水野)流れは清けれど ただ大海(毛利甲斐守)の沖(松平隠岐守)ぞ濁れる」との狂歌が残っている。これは細川家と水野家が浪士たちを厚遇し、毛利家と松平家が冷遇したことを表したものである。その後、2月4日に幕命に従って9士を切腹させた。

宝永2年(1705年)1月1日に奏者番に就任。さらに正徳元年(1711年)12月23日には若年寄に就任した。正徳4年(1714年)9月6日に京都所司代に就任。このときに従四位下侍従和泉守に昇進した。

享保2年(1717年)9月27日、老中となり将軍徳川吉宗享保の改革を支えた。享保7年(1722年)、財政を専任する勝手掛老中に任ぜられた。享保8年(1723年)、見立新田十分一の法を設け新田開発を促した。享保10年(1725年)には1万石を加増された。享保13年(1728年)、年貢を四公六民から五公五民に引き上げた。これらの施策により幕府の財政は好転したものの米価の急落や負担増による不満から批判された。享保15年(1730年)6月12日に老中を辞し、7月6日に隠居した。

隠居後は落髪して祥岳と号した。享保16年(1731年)3月18日に死去。享年63。生前の遺命に基づいて、牛込宝泉寺にて荼毘し、24日遺骨は下総国山川万松寺へ送られてここに葬られた。法名は、高隆院殿祥嶽元貴居士。

水野監物邸跡
水野監物邸跡説明板

演じた俳優

参考文献

関連項目