山下泰裕

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オリンピック
柔道
1984 男子無差別級

山下 泰裕(やました やすひろ、1957年6月1日 - )は、日本柔道家。熊本県出身。東海大学卒業。同大学教授、柔道部監督。柔道指導員。前全日本柔道男子強化ヘッドコーチ(1992年 - 2000年)、前男子強化部長(2000年 - 2004年)、強化副委員長(2004年 - )。国際柔道連盟教育コーチング理事。全日本柔道連盟理事。段位は八段。引退から逆算して203連勝を記録(引き分け含む)した大柔道家。1985年6月17日引退。 国民栄誉賞を受賞しており、現役時代のその圧倒的な強さから「史上最強の柔道家」とする声も多い。

来歴

現役時代

熊本県山都町(旧上益城郡矢部町)生まれ。熊本市立藤園中学校2年の時「将来の夢」という作文を書き、その中で「オリンピックに出場して、メインポールに日の丸を掲げながら『君が代』を聞きたい。そして柔道の素晴らしさを世界の人々に広げられるような仕事をしたい」と書いていた。

1977年10月の日ソ親善試合から1985年4月の全日本柔道選手権優勝を最後に現役引退するまで203連勝の記録を持つ(途中、引き分けを7回はさんでいる)。また、同期間内に全日本柔道選手権9連覇の偉業も達成。五輪正式種目として柔道が採用されて以降、史上最強の選手であるという呼び声も高い。また山下独特の童顔もあいまって海外での人気は絶大である。特にプーチン大統領は山下を大変気に入っている。

偉業のみ注目されているが、不運に見舞われた時もあった。

山下にとって初めての1976年モントリオールオリンピック、当時大学1年生の山下は最終選考会に残るも補欠で代表としては出場できなかった。

蟹ばさみで骨折

1980年の全日本選抜柔道体重別選手権大会で、遠藤純男に倒れながら足を挟み相手を倒す奇襲技、「蟹ばさみ」をくらい、山下は足の腓骨をへし折られ負けた。この頃の山下は無敵で、遠藤が対山下に唯一勝てる技と、この大会の山下戦のために密かに練習してきた技だった。山下が負けることがショッキングだった上に、しかも直後に重症を負ったことで、この試合のこの技は大きく取り上げられた。それまでは柔道のルールで有効とされていた技だったが、この試合で危険性が見直され、以降柔道界では禁じ手となった。

1980年モスクワオリンピックでは、日本がソビエト連邦のアフガニスタン侵攻に抗議するためオリンピック大会不参加を選択。代表に選ばれるも試合に参加できなかった。山下は他の競技の選手と共に、マスコミを通じて文字通り涙ながらに訴えた。

オリンピック大会不参加・ボイコット当時の山下の回想によれば、コップ酒を何杯もあおってもとてもやり切れる気持ちではなかったと言う。枕に顔を押し付け、止め処も無く流れる涙を堪えるほか無かった。もっともオリンピックの前には遠藤純男の蟹挟により骨折もしたので「どちらにしろ出られなかった。」との声もある。失意のまま山下はオリンピック会場に向かい、観客席で観戦する。そこで世界の柔道選手と再会、交流を深め、傷つけられた心はいくらか慰められた。この不運に挫またけることなく、4年後も再び日本代表に選ばれた。幻のモスクワオリンピック代表のうち、4年後も再び代表に選ばれたのは山下ただ一人であった。結局山下は初めてオリンピックを目指してから3回目にしてようやく代表として出場できることになった。


ロサンゼルス五輪で金メダル

山下が唯一出場した、1984年ロサンゼルスオリンピックでは、2回戦・西ドイツのシュナーベル戦で軸足右ふくらはぎに肉離れを起こしてしまった。山下は左に組むため、右足・軸足の肉離れで大変に不利な状況に立たされた。2回戦は送り襟絞めで勝利を収め、試合後控え室に引き返すまでの間、山下は肉離れを決して悟られまいと平然に振舞って普通に歩いたつもりが、誰にもわかってしまうほど明らかに足を引きずってしまっていた。その映像もはっきりと流れた。山下が控え室に戻るなり、コーチ陣に慌てた表情で問い正された事で、自分の肉離れが全て悟られてしまった事に気がついた。

山下は一旦は落ち込むが、次の試合時刻が迫ってくる中開き直り、足を引きずってもいいから相手を見据えて胸を張っていけ、と自身に言い聞かせ準決勝に臨んだ。準決勝の相手はフランスのデル・コロンボ。過去の対戦からやりやすい相手と山下は考えていたが、軸足の肉離れのため、体がいつものように素早く反応しなかったからか、開始30秒で大外刈りを喰らい効果を取られてしまう。投げられた直後は動揺したものの、直ぐに我に返り、激しく自身を鼓舞して、守りに入ったコロンボ選手を大外刈りと横四方固めの合わせ技で逆転した。

決勝

エジプトモハメド・ラシュワンとの決勝戦前、山下は金メダルを取り表彰台の中央で観客に満面の笑顔で応える山下と、タオルを被って号泣してうつむく山下の両方のイメージが交互に浮かんだ。師匠の佐藤先生は「投げられても一本取られなければいい、寝技に持ち込んで勝つ方法もある」と冷静にアドバイスする。一方山下も、同じ広い控え室で試合直前のラシュワンが気合を入れて調整をしている姿を見て、意図してにっこり微笑みかけた。ラシュワンは山下と目が合い笑顔で応じた。ラシュワンの笑顔で彼の緊張が解けた瞬間を見て、山下は勝機を感じていた。 ラシュワンの指導者は「初めの一分間は我慢して攻めないように」とラシュワンに指示したが、ラシュワンはそのアドバイスを忘れたかのように強気で攻め始める。冷静な山下はラシュワンの攻めに無意識に反応し、ラシュワンが体勢を崩した瞬間をすかさず捉えて押さえ込みに持っていき、横四方固め、一本を伝えるブザーが鳴った瞬間、山下は畳に両手を力強く突いて立ち上がり、涙でくしゃくしゃになった表情を隠そうとせずに喜びを表現した。この表情は繰り返し放送され山下の決して平坦ではなかった道のりを示す名場面となっている。全て一本勝ちでの金メダルである。 表彰台の中央に上ろうとする山下に、ラシュワンは山下の足を気遣って手を差し伸べ、友情の証として世界から評価された。またラシュワンも、山下の右足を狙わなかったと述べたことから、そのフェアプレーの精神を称えられた。[1]

五輪以降、そして引退

その後も国内外で不敗神話は続いたが、斉藤仁との戦いでは引き分けが続いた。斎藤も左利きで、山下との試合では防御に徹し、山下も一番の得意技の大外もかからなかった。 また怪我も完治しなかったことから、不敗記録が途切れぬまま28歳という若さで1985年6月17日引退を決断した。(斉藤は次のソウル五輪で重量級代表として出場、不振の男子陣で唯一金メダルを死守し、その後引退した。) 1984年10月9日、山下は国民栄誉賞を授与されている。

引退後の監督時代

選手時代から全日本監督時代にかけての数々の海外遠征、そして留学経験などの様々な実績を買われ、2003年9月、国際柔道連盟の教育コーチング担当理事に就任する。

一説によると山下は、海外小説の原書を読むことができるほど英語に堪能らしい。NHKの「土曜インタビュー」で「英語で1時間半も続けて演説した」エピソードを披露した。また海外に出張中には英語のニュースを聞き流し、謙遜して半分程度は理解できる、と述べた。選手生活を引退した翌年にはイギリスに一年留学をしており、英語は堪能であると言われている。

指導者としては「勝つ経験ばかりしている自分が負けた選手の気持ちを理解できるだろうか」という深い洞察のもと、単なる元・一流選手の枠にとどまらず、海外遠征では現地で選手をバスで観光させて見識を広めさせるなど、柔道以外の点でも配慮を見せ、単なる指導者を越えて一個人を大きく育てていくという広い視野に立って指導を進めている。

シドニーオリンピックでの篠原信一の銀メダル誤審問題により、国際試合での判定を厳密に審査する点においてシステムを見直す必要を感じ、国際柔道連盟教育コーチング理事に就任して改革に努める。

2007年紫綬褒章受章。

柔道スタイル

山下は左組み手で、本人曰く上背の無いいわゆるアンコ型である。(それでも180cmはある)一番の得意技は最初に覚えた大外刈りで、一番大事なときはこれを使うという。その次に大外と相性のいい大内刈を覚えた。高校で内股を覚えたらしいが、海外の選手には非常に有功だったらしく、山下の選手人生で後半に使用度が高まった技だという。他にも小外、支え釣込み足体落としと、多彩であり、連絡技や組み合わせで相手を崩し一本を取るのが巧みな選手であった。 上背がないこともあり、大きな外国選手と戦うことを考えて、奥襟は取らない柔道であった。 また、寝技も非常に強い選手で、特に投げ技からの移行がうまかった。寝技での勝利も多い。 オリンピックは一度しか出ず、怪我で早々に引退したが世界史上最強の柔道家という声が高い。

主な戦績

  • 全日本選手権優勝9連覇(1977-1985)
  • 世界選手権95kg超級3連覇(1979、1981、1983)
  • 世界選手権無差別級優勝(1981)
  • ロサンゼルスオリンピック金メダル(1984)

エピソード

  • 山下の影響でその後の世代に左組み手の柔道家が増えた。
  • 選手時代は180cm・128㎏の巨体にもかかわらず、100mを13秒台で走っていた俊足であった。
  • かつて皇居園遊会に招かれ、昭和天皇から「骨が折れますか」と尋ねられ、「はい、昨年骨折しました」と答えて周囲の爆笑を誘ったエピソードは有名だが、いかにも実直な人柄を表している逸話である。

幻の新日本プロレス入団

山下に目をつけた新日本プロレスの代表者であるアントニオ猪木が山下の祖父に契約金の一部を先に渡し、話を進めようとした(山下の祖父と新日本プロレスの間の水面下での話である)。報道によってこの件を知った山下は祖父を説得し、祖父は全額返還してこの話は白紙となった。 山下はプロレスラーに転向するつもりははじめから無かったし、そもそもこの話に山下本人は一切関わっていなかった。

脚注

  1. ^ 実際はそのようなことは無く、ラシュワンは山下の右足も攻めている。その後ラシュワンがフェアプレーを意識し右足を攻めなかったという主旨の発言をし、それをマスコミが美談と報じた為、山下も本当の事を言えずに口を閉ざした(美談にする為に連盟から緘口令がでたとも言われている)。ただ最近になり山下もテレビでバンバン蹴られたと発言するようになった。

社会的活動

  • 骨髄バンク啓発ポスターのモデルになった。

関連項目

著書

  • 「黒帯にかけた青春」東海大学出版会
  • 「山下少年物語」東海大学出版会
  • 「山下柔道物語」東海大学出版会

映画

外部リンク