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古谷惣吉連続殺人事件

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古谷惣吉連続殺人事件
正式名称 警察庁広域重要指定105号事件
場所

日本の旗 日本

兵庫県大阪府京都府滋賀県福岡県[1]
標的 独居老人[1]
日付 1965年(昭和40年)10月30日 - 12月12日
概要 西日本(近畿地方・九州地方)で独居老人ばかりを相次いで襲撃し8人を殺害したほか、2件の強盗事件などを起こした[1]
死亡者 8人
犯人 古谷惣吉
対処 警察が逮捕・神戸地検が起訴
刑事訴訟 死刑執行済み
管轄 警察庁および兵庫大阪京都滋賀福岡の各府県警、神戸地方検察庁
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古谷惣吉連続殺人事件(ふるたにそうきちれんぞくさつじんじけん もしくは ふるやそうきちれんぞくさつじんじけん)は、連続殺人犯古谷 惣吉1965年(昭和40年)10月30日から12月12日までの1か月ほどの間に独居老人8人を相次いで殺害した連続強盗殺人事件である[2]

大阪府京都府滋賀県兵庫県福岡県など西日本各地で繰り返された一連の犯行は強盗殺人7件・強盗未遂2件などにおよび「警察庁広域重要指定105号事件」に指定された[2]。警察庁広域重要指定事件としては初の殺人事件であった。

古谷 惣吉
個人情報
生誕 (1914-02-16) 1914年2月16日[3]
日本の旗 日本長崎県上県郡仁田村志多留267番地(→上県町志多留、現:対馬市上県町志多留)[3]
死没 (1985-05-31) 1985年5月31日(71歳没)[1]
日本の旗 日本大阪府大阪市都島区友渕町大阪拘置所[1][2]
死因 絞首刑
殺人
犠牲者数 8人
犯行期間 1965年10月30日1965年12月12日
日本の旗 日本
逮捕日 1965年12月12日
司法上処分
刑罰 死刑神戸地方裁判所、1971年4月1日)[4]
有罪判決 強盗殺人罪・強盗殺人未遂罪・強盗罪など[4]
判決 死刑神戸地方裁判所、1971年4月1日)[4]
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概要

一連の事件の加害者・古谷惣吉は1914年大正3年)2月16日に長崎県上県郡仁田村志多留267番地(→上県町志多留、現:対馬市上県町志多留)にて5人兄弟姉妹の長男として生まれた[3]実家は比較的裕福な魚行商も営む兼業農家だったが[要出典]、4歳のころには母親が病死し[3]その後父は新天地を求めて朝鮮へと渡った事で一家離散[要出典]。幼かった古谷は8歳になるまでおじに預けられ[3]その後も親戚中をたらい回しにされた。幼少時より粗野で盗癖があり、学校で友達のものを盗む、下級生をいじめる、喧嘩は日常茶飯事という札付きの問題児で周囲から嫌われる鼻摘み者として育った。[要出典]

その後、10歳の時に帰国した父が再婚。父の元へと戻ったが、再婚相手の継母との仲は非常に険悪で何度も冷たい仕打ちを受けるという苦境に置かれる。とうとう継母からの虐待に堪えられなくなった古谷は、家には寄り付かず盗みをして生計を立て、寺の軒下などで野宿をする盗みと暴力に塗れた荒れた生活を送った。小学校を卒業後、古谷は一家揃って広島県へ移住するが、そこの中学校で教師を殴った事により退学処分にされる。これらの不遇で悲惨な少年時代を過ごした事が、後に数多の凶悪事件を引き起こす粗野で自己中心的かつ猟奇的な人格を形成することとなった。[要出典]

1930年昭和5年)、17歳だった古谷は広島県内で窃盗事件を起こして逮捕され1933年(昭和8年)4月まで山口県岩国市少年院に服役し、その後も出所直後の1933年4月に再び窃盗で懲役8月、1935年(昭和10年)にも懲役2年の判決を受け、1937年(昭和12年)5月まで福岡刑務所に服役した[3]。さらに出所直後の1937年9月には窃盗・詐欺罪で懲役3年、1941年(昭和16年)4月には窃盗で懲役6年の懲役刑を受け、いずれも福岡刑務所に服役したほか、1951年(昭和26年)12月には兵庫県内で恐喝事件を起こして西宮警察署兵庫県警察)に検挙されたが、その際には「清水正雄」の偽名を使用していた[3]

古谷は1947年までに7件の窃盗・詐欺恐喝事件を起こし、50歳にして29年間の獄中生活を経験していた。検察はその無差別かつ短絡的犯行から、古谷を「昭和刑事犯罪史上まことに極悪非道無類」と問責した。[要出典]

そして1951年(昭和26年)5月23日、古谷は福岡県福岡市比恵(現:福岡県福岡市博多区比恵町)で少年1人と共謀して浮浪者をバンドで絞殺して現金6,800円を強奪したほか、同年6月20日にも福岡県北九州市八幡区黒崎(現:北九州市八幡西区黒崎)で山ごもりの独居老人を絞殺して現金230円などを奪う連続強盗殺人事件を起こした[3]。古谷と共犯少年は逃亡を続けたがその後共犯少年が逮捕され、共犯少年の自供により古谷も逮捕された[3]。しかし古谷がこの一連の犯行に際してどのような役割を果たしたかが解明されぬまま、共犯少年は福岡地方裁判所で死刑判決を受けると「早く処刑してほしい」と申し立てて間もなく死刑を執行された[3]。古谷はこれをいいことに刑死した共犯少年に責任を転嫁した上、犯行の決め手となる証拠も不十分だったため、1955年(昭和30年)6月16日に福岡地裁でわずか懲役10年の判決を受け、1963年(昭和38年)11月9日に仮釈放されるまで熊本刑務所に服役した[3]

古谷は2年に渡って逃亡。逮捕された時には既に共犯の犯行当時19歳の少年が死刑執行されていたため、少年に罪を押し付けて懲役10年(求刑無期懲役)の判決を受け服役。一連の殺人はその出所直後に為された(そのため、これ以降、死刑は共犯者全員の裁判が終了もしくは死亡してから執行されるのが慣例になった)。このため、死刑囚となった人物は、死刑は重すぎたという意見が多い。[要出典]

古谷は熊本刑務所を仮出所すると熊本県熊本市の更生保護会「熊本自営会」で土木作業に携わるようになり[3]、当時はあまり外泊せず門限を守り、新聞をよく読んで身だしなみに気を使うなど真面目に生活していたが[5]1964年(昭和39年)5月には「関西方面へ行く」と言い残して姿をくらました[3]

古谷は翌1965年10月30日、兵庫県神戸市垂水区海岸通に独居していた廃品回収業者男性(当時57歳)を絞殺して[4]現金500円・腕時計・ズボンなどを奪った強盗殺人事件を皮切りに、兵庫県西宮市内で現行犯逮捕された同年12月12日までに大阪府京都府滋賀県兵庫県福岡県など西日本各地で一軒家に住む50歳代から60歳代の7人を殺害するなど強盗殺人7件、強盗未遂2件など犯行を重ねた[2]福岡で1人、兵庫で3人、大阪滋賀で1人、京都で2人と、廃品回収業、建設作業員などの独居老人を刺し、絞め、殴るなどの方法で殺害。わずかな金銭を強奪した。[要出典]

11月22日に福岡県糟屋郡で塾講師が殺害された際の遺留品から、警察庁は同一犯による連続殺人事件として12月9日に『広域重要105号事件』に指定した。[要出典]1965年11月末、古谷の身元引受人を担当していた「熊本自営会」会主男性宛に福岡県大牟田市内在住の女性から「9月末に香川県琴平山を旅行した際に古谷さんから親切にしていただきました」という礼状と、女性とその同僚2人が古谷とともに4人で映った記念写真が届いたことから、福岡県警特捜本部がこの女性から当時の古谷の行動について事情聴取した[6]

12月11日に京都府京都市伏見区で2人の廃品回収業者が殺されているのを発見されると、遺留品の指紋が古谷と合致したために警察12月12日に古谷を全国指名手配した。[要出典]同日、逃走中だった古谷は兵庫県西宮市大浜町六丁目の海岸防潮堤にあった[4]小屋で住人の廃品回収業男性2人(それぞれ当時51歳・69歳)を金槌で撲殺した[7]

その現場付近をパトロールしていた兵庫県警察警察官がバラック小屋で男性2人の遺体を発見、その際に小屋の陰に隠れていた古谷も発見される。一度は凶器の鉈を投げ付け警官たちの警告に耳を貸さず逃亡を図るが、当時51歳だった古谷は体力的にも逃げ切れるはずもなく、追いかけてきた複数の警官に取り押さえられ逮捕された。[要出典]

逮捕当初は容疑を否認しており、以前の罪を擦り付けた共犯者の若者の時のように架空の共犯者をでっち上げ自分の無罪を主張していたが、検察にそんな誤魔化しが通じる筈もなく死刑を求刑される。犯行動機は単純で、宿泊や食事を乞い、断られたことによりカッとなって殺したというもの。大阪府高槻市でも建設作業員殺害をはじめ、遂に8人の殺害を認めた。[要出典]

警察は1964年-1965年の老人殺害事件も古谷の犯行と断定した。証拠不十分で不起訴となったものの、これらを含めると計12人もの殺人を行っていたことになる。[要出典]

刑事裁判

1966年(昭和41年)6月29日に神戸地方裁判所(長久裁判長)で被告人・古谷惣吉の初公判が開かれた[8]。被告人・古谷は検察官の起訴状朗読後に行われた罪状認否で7件8人の殺人・殺人未遂1件を認めたが、1965年4月17日に福岡市原田町(現:福岡市東区原田)一丁目で廃品回収業者を襲撃した強盗未遂事件に関しては否認した上、認めた8件も強盗目的を否定して「単純殺人・同未遂だ」と主張した[8]。同日の古谷は開廷直後こそ平静だったが、検察官が神戸市垂水区の強盗殺人事件に関して犯行状況を述べ始めると突然立ち上がり「やめろ!黙って聞いていればいい気になって、でたらめな論告をするな」と怒鳴り、付き添っていた刑務官の制止を振り切り検察官に殴りかかろうとした[8]

それ以来公判は論告求刑までに計26回開かれたが、古谷被告人は警察の捜査・公判廷を通じて自身に不利な点を追及されるとわめくなどして手こずらせ[7]、特に第7回公判以降は[4]現行犯逮捕された1965年12月12日の兵庫県西宮市内の強盗殺人事件以外を全面的に否認して[7]「真犯人は一緒にいた“岡”という男だ。自供は“岡”をかばうため刑事の誘導のまま認めたもので真実ではない」と無罪を主張した[4]。また唯一認めた西宮市の事件も「金を奪うつもりはなく、食事と宿を借りるために立ち寄ったが断られたために殺した」と主張して強盗目的を否認した[4]

1971年(昭和46年)2月16日に神戸地裁(中川幹郎裁判長)にて論告求刑公判が開かれ、神戸地方検察庁・中村恵検事は被告人・古谷惣吉に死刑を求刑した[7]。論告の要旨は以下の通り。

  • 物的証拠の数々から古谷が一連の連続殺人事件の犯人であることは間違いない[7]。調書は古谷自身が点検して1枚ずつ拇印を押しており信憑性がある[7]
  • 古谷が真犯人と主張する“岡”という事物は以前心服していた福岡県警の巡査の名前を借りた架空の人物で実在しない[7]
  • 幼少期に母親と死別して継母にいじめられるなど不幸な家庭に育ったことは同情できるが、8人もの命を奪った恐慌への情状酌量にはならない[7]
  • 尊い多数の人命を虫けらのように奪った稀に見る凶悪犯罪で、死刑廃止論者でもこの求刑には異議を申し立てないだろう[7]

1971年4月1日に第一審判決公判が開かれ、神戸地裁(中川幹郎裁判長)は検察側(神戸地検)の求刑通り被告人・古谷に死刑判決を言い渡した[4]判決理由にて神戸地裁は「犯罪史上例のない残忍冷酷な行為で、自分の生命で償うほかない」と指弾した[4]

古谷は死刑判決を不服として大阪高等裁判所控訴したが、1974年(昭和49年)12月13日に開かれた控訴審判決公判で大阪高裁(本間末吉裁判長)は第一審・死刑判決を支持して被告人・古谷の控訴を棄却する判決を言い渡した[9]。古谷は最高裁判所上告したが、1978年(昭和53年)11月28日に最高裁第三小法廷高辻正己裁判長)で死刑判決支持・被告人側上告棄却の判決が言い渡され[10][11]1979年(昭和54年)1月に正式に死刑が確定した[2]

古谷は死刑確定後、死刑執行まで死刑囚として大阪拘置所に収監されていたが、1982年(昭和57年)12月2日には同房の死刑囚(当時39歳)を隠し持っていた鋏で襲い1週間のけがを負わせる殺人未遂事件を起こした[12]。その動機は「自分の可愛がっていた若い死刑囚に対する嫉妬」とされるが、同事件の被害者である死刑囚は「仮にこの事件で古谷が起訴されれば古谷は判決確定まで死刑執行が伸びる一方、自分はそれにより死刑執行の順序が繰り上がる』と恐れたため、古谷は起訴されなかった[12]

死刑執行

死刑確定から6年後の1985年(昭和60年)5月31日、死刑囚・古谷は法務大臣嶋崎均の死刑執行命令により収監先・大阪拘置所で死刑を執行された(71歳没)[1][2][13]。これは当時、少なくとも戦後最高齢での死刑執行であり、2006年12月25日に77歳(秋山兄弟事件の死刑囚)と75歳の死刑囚が執行されるまで最高齢記録であった。

関係者は死刑執行直後、『朝日新聞』の取材に対し「古谷は晩年、『仏のように穏やかな日』と『野獣のように暴れる日』が交互にやってきた」と証言した[13]。身寄りも友人もおらず、手紙を出す相手は自分の取り調べを担当した兵庫県警の定年退職した元刑事だけであったが、その元刑事宛てに送った手紙には短歌らしきものがあった[13]

  • 厚恩を背負いてのぼる老いの坂、重きにたえず涙こぼるる

関連書籍

  • 『毎日ムック 戦後50年 POST WAR 50 YEARS』毎日新聞社、1995年3月。ISBN 978-4620790053 

脚注

  1. ^ a b c d e f 読売新聞』1985年6月1日東京朝刊第14版第二社会面22頁「【大阪】老人8人連続殺人鬼 古谷に死刑執行」(読売新聞東京本社
  2. ^ a b c d e f 中日新聞』1985年6月1日朝刊第12版第一社会面23頁「独居老人ら8人殺し 古谷の死刑執行」(中日新聞社
  3. ^ a b c d e f g h i j k l m 『読売新聞』1965年12月13日東京朝刊第二社会面14頁「前科八犯、冷酷な“古谷”幼少から放浪癖 四つで母親と死別 おじの家で育つ 14年前にも連続殺人」(読売新聞東京本社)
  4. ^ a b c d e f g h i 『読売新聞』1971年4月1日東京夕刊第4版第一社会面9頁「【神戸】連続殺人 『古谷』に死刑の判決“史上例のない残忍さ”」(読売新聞東京本社)
  5. ^ 『読売新聞』1965年12月13日東京朝刊第二社会面14頁「前科八犯、冷酷な“古谷”案外よい身だしなみ」(読売新聞東京本社)
  6. ^ 『読売新聞』1965年12月13日東京朝刊第二社会面14頁「前科八犯、冷酷な“古谷”九月、四国に現われる」(読売新聞東京本社)
  7. ^ a b c d e f g h i 『読売新聞』1971年2月16日東京夕刊第4版第二社会面8頁「【神戸】“連続殺人魔”古谷に死刑求刑」(読売新聞東京本社)
  8. ^ a b c 『読売新聞』1966年6月29日東京夕刊第11版第二社会面11頁「【神戸】“殺人魔”古谷の初公判開く」(読売新聞東京本社)
  9. ^ 『読売新聞』1971年12月13日東京夕刊第4版第二社会面10頁「【大阪】8人殺しの『古谷』 控訴審も死刑」(読売新聞東京本社)
  10. ^ 『読売新聞』1978年11月28日東京夕刊第4版第二社会面10頁「『古谷』の死刑確定 老人8人殺人」(読売新聞東京本社)
  11. ^ 最高裁第三小法廷判決(1978-11-28)
  12. ^ a b 村野 2002, p. 26.
  13. ^ a b c 朝日新聞』1985年6月1日東京朝刊第一社会面23頁「強盗殺人犯、古谷の死刑を執行 大阪拘置所」(朝日新聞東京本社

参考文献

刑事裁判の判決文

  • 最高裁判所第三小法廷判決 1978年(昭和53年)11月28日 裁判所ウェブサイト掲載判例、『最高裁判所裁判集刑事編』(集刑)第213号759頁、昭和50年(あ)第189号、『強盗殺人、強盗、強盗未遂』「死刑事件(連続強盗殺人事件)」。

書籍

関連項目