ヴァルナ (種姓)
インド哲学 - インド発祥の宗教 |
ヒンドゥー教 |
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ヴァルナ(varna、वर्ण、「色」の意)とは、ヒンドゥー教社会を四層の種姓に分割する宗教的身分制度である。共同体の単位であるジャーティも併せ、カーストと総称される。
上位からバラモン、クシャトリヤ、ヴァイシャ、シュードラの身分が存在し、このヴァルナによる枠組みをヴァルナ・ヴィャワスターと呼称する[1]。
歴史的には西方からインドに侵入したアーリア人が、現地の人々を支配する過程で生み出された制度とされるが、デイヴィッド・フローリー等この説を否定するヒンドゥー教徒がいる。
神話的起源
『リグ・ヴェーダ』10:90に収められたプルシャ賛歌によると、神々が祭祀を行うにあたって原人プルシャを切り分けた時、口の部分がバラモンとなり、両腕がラージャニヤ(クシャトリヤ)となり、両腿がヴァイシャとなり、両足はシュードラとなった、という[2]。
『バガヴァッド・ギーター』4章13節ではクリシュナ(ヴィシュヌ)がグナ(要素)とカルマ(行為)を配分することで四つのヴァルナ(種姓)を生み出したと語られている[3]。
ヴァルナによる義務・制約
バラモンには祭司としての、クシャトリヤには戦士としての、ヴァイシャには商人としての、シュードラには奴隷としての役割がある。各ヴァルナに属する人々は自分の所属するヴァルナに課せられた義務に則ることが求められる。たとえ他のヴァルナの仕事のほうが上手くこなせるとしてもやるべきではなく、他ヴァルナの仕事を行うのは危険ですらある[4]。先の『バガヴァッド・ギーター』には、武人でありながら戦うことをためらうアルジュナに対して、クリシュナが武人ならクシャトリヤとしての義務に従うべき、であると語り、アルジュナの迷いを打ち消すべく説かれたと記されている。また、自分のヴァルナから逸脱した行動が禁じられている。トゥルシーダース(en:Tulsidas)作『ラーム・チャリト・マーナス』(en:Ramacharitamanas)の「北方の項」では世の乱れる末世の有様として、シュードラが「宇宙の真理に通じているのなら、どのヴァルナに属するかは関係ない」という理屈でバラモンに論争をしかける事が挙げられている。また持っている財産によってシュードラが高貴にみられることも否定される[5]。 『ラーマーヤナ』の第7巻(ウッタラ・カーンダ)73-76では、シュードラ出身の修行者シャンブーカ(en:Shambuka)のダルマに反する苦行(タパス)のせいでバラモンの子が死んだと語られ、これを理由にラーマが彼を殺害している[6]。各ヴァルナの雑婚も好ましからざる事態として語られている[7]。
しかしながら、『バガヴァッド・ギーター』や『ラーム・チャリト・マーナス』でもヴァルナの違いにより救済が阻害されるとは説かない[8]。『ラーマーヤナ』でも、ここに記された話を聞く者は、各ヴァルナに応じた利益があると説かれている[9]
ヴァルナおよびカーストの扱い
セーンの所論
クシティ・モーハン・セーンは、カースト制をブラフマンがアートマンと一つである、という教えと矛盾するものだとしている。彼の著したヒンドゥー教の解説書によると、正統派ヒンドゥー教徒にもカースト制度は自然になくなるだろう、と考える人がいるという[10]。
セーンはインド神話のリシ(聖仙)たちが低い身分の生まれであり、バクティ運動でその指導者たちがカーストに反対したことをあげている。『マハーバーラタ』から逆毛婚(婿のカーストが嫁よりも低い結婚)の例をあげ、それが他のインドの文献にもみられると書いている。
セーンは『バシュヴィヤ・プラーナ』「ブラフマ」篇41章45節から、四つのカーストは同じ父(神)を持ち全ての人は一つのカーストに属する、と書いた一節を引用し、カースト制度をヒンドゥー教に欠かせないと考える人は、ヒンドゥー教の本質に反すると書いている。ただし、経済的・社会政策的に役立つ面はあったとはしている。
ヴァルナは血脈によらないという主張
ヴァルナは血脈に限定されるのではなく、各人の資質によって決められるもの、という主張がある。パラマハンサ・ヨガナンダ著『あるヨギの自叙伝』では、マヌが制定した本来のヴァルナ制は、霊的な差がありすぎる両親が子をつくると民族内の霊的なバランスが崩れてしまうため、霊的成長の度合いによってグループ分けをすることで対策をはかったもの、と記されている。それが形骸化して世襲になってしまったという。注釈では霊的本質を見ることのできるグルによって各人のヴァルナの審査は可能であると主張されている。とはいえ、どの民族にもこのような身分制はあり、カースト制度はインドの民族的純粋性を保ち、同化による消滅を防ぐのに役立ったとして一定の擁護もなされている[11]。
同様の主張がクリシュナ意識国際協会のウェブサイトでなされている[12]。『バガヴァッド・ギーター』4章13節に記されたヴァルナの創造を、集団・身分の創造時のものではなく、各人の創造時になされること、と捉えている。裁判官の子が裁判官に向いているとは限らないが、民族や家系に関わらず、バラモンとして適した人物、ヴァイシャに適した人物が生まれる。それをクリシュナのヴァルナ創造としている。他ヴァルナの義務の実行を戒める章句についてもこの見方をとり、「バラモンの家系に生まれたとしても、シュードラの性質を持つ人はバラモンとして振舞うべきではない」という解釈をしている[13]。クリシュナ意識国際協会では(バラモン家系出身ではない)西洋人の改宗者がバラモンの儀式を行っている[14]。 ISKCONウェブサイトでは、彼らの考える「本来の」ヴァルナをヴァルナーシュラマ=ダルマ(Varnashrama-dharma)と呼び、現行の一般的カースト解釈と区別している[15]。 ただし同カースト間の結婚をその家系に洗練された子をもうけるために有効であったとしており、その意義を完全に否定したわけではない[16]。
脚注
- ^ 「ヴィャワスター」とは「ゆるがせにできないもの、定められたもの」という意味である。藤井(2007)
- ^ 辻直四郎訳『リグ・ヴェーダ讃歌』岩波文庫、320頁
- ^ 上村勝彦訳『バガヴァッド・ギーター』岩波文庫、52頁
- ^ 『バガヴァッド・ギーター』3章35節、18章47節
- ^ 池田運訳『ラーマヤン ラーム神王行伝の湖』976-979頁
- ^ Ramayana (The Annihilation of Caste - Dr. B. R. Ambedkar)
- ^ 『バガヴァッド・ギーター』1章41節、『ラーマヤン ラーム神王行伝の湖』講談社出版サービスセンター、978頁
- ^ 『バガヴァッド・ギーター』9章32節
- ^ 阿部知二訳『ラーマーヤナ』「第一巻 少年の巻」河出版世界文学全集、6ページ
- ^ 中川 正生訳『ヒンドゥー教』、講談社現代新書
- ^ 『あるヨギの自叙伝』41章、 森北出版、403-405頁
- ^ The Indian Caste System
- ^ Bhaktivedanta VedaBase: Bhagavad-gītā As It Is 18.47
- ^ Caste and Untouchability
- ^ ヴァルナーシュラマとはヴァルナとアーシュラマを合わせた言葉で、ガンジーも「ヴァルナーシュラマ=ダルマ」を彼が誤っていると考えた「カースト制度」との区別に用いた。
- ^ Varnashrama-dharma and Caste
関連項目
参考文献
- ヴァールミーキ著、阿部知二訳『ヴァールミーキ/ラーマーヤナ』河出書房新社<世界文学全集>、1966年。
- 辻直四郎訳『リグ・ヴェーダ讃歌』岩波書店<岩波文庫>、1970年5月。ISBN 4003206010
- ヨガナンダ著『あるヨギの自叙伝』森北出版、1983年9月。ISBN 4627999313
- 上村勝彦訳『バガヴァッド・ギーター』岩波書店<岩波文庫>、1992年3月。ISBN 4003206819
- セーン著、中川正生訳『ヒンドゥー教』講談社<○○講談社現代新書>、1999年9月。ISBN 4061494694
- ツルシダース著、池田運訳『ラーマヤン-ラーム神王行伝の湖』講談社出版サービスセンター、2003年7月。ISBN 4876016496
- 藤井毅『インド社会とカースト』山川出版社<世界史リブレット 86>2007年12月、ISBN 4-634-34860-8
外部リンク
- 「カースト制」谷川昌幸(長崎大学教育学部谷川研究室)
- 「インド理解のキーワード——ヒンドゥーイズム——」山上證道(京都産業大学『世界の窓』第11号)
- 「インドのプロフィール 第4回:カースト制と不可触民」松本勝久(相模女子大学)