オジェ・ル・ダノワ

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(伝)オジエ像の頭部。
―聖ファロ大修道院の遺物。

デーン人オジエデンマルク人〔びと〕オジエ[注 1]デンマルクのオジエ[1]、またはオジエ・ル・ダノワフランス語:Ogier le Danois, Ogier de Danemarche)は、中世フランスシャルルマーニュ伝説の武勲詩に登場するパラディンの一人で伝説上の英雄

「短い」という意味の名の、切っ先が欠けた剣コルタン[注 2]を持つ。

オジエを主人公とした武勲詩、『オジエの騎士道』は、「ドーン・ド・マイヤンスの武勲」の詩群(別称「叛臣の物語群」)[注 3]の一つに数えられ、シャルル王に歯向かう氏族の物語のひとつをなしている[注 5]

特にデンマークでは「ホルガー・ダンスク」[注 6]の名で親しまれ、地元の英雄とされている。

各言語の表記[編集]

  • アングロノルマン語: Oger 〔オジェ〕(『ロランの歌』)
  • 古ノルド語:Oddgeir danski 〔オッドゲイル・ダンスキ〕(『カルル大王のサガ』)
  • フランコ=イタリア語: Uggeri il Danese 〔ウッジェーリ・イル・ダネーセ〕)
  • 近世のイタリア語:Ogieri, Ogiero, Uggieri 〔オジエリ、オジエロ、ウッジェーリ〕等。

総覧[編集]

この英雄がフランス系かデンマーク系かについては、いささか見解の対立がある。フランスでは19世紀の編者バロワが、オジエの添え名である「ル・ダノワ」や「ダーヌマルシュ」はデンマークではなくアルデンヌの所領に由来すると仮説を立てた[2]。また、16世紀のデンマーク訳本は、英雄の父親ゴーフロワを、サクソ・グラマティクス著の史書にもある歴史上のデンマーク王グードリグに比定し、英雄自身は、その王子オルフであると断定している[3]
(* フランスで発見の伝オジエの石像頭部については§モー市と聖ファロ僧院、デンマークの石膏像については §スカンジナビアの各節を参照)。

コルタン[編集]

オジエが「短い剣」を持つという伝承は相当古く、カスティーリャ語で書かれた『サン・ミリャンの注記』スペイン語版(1060年頃成立)に、「短い剣のオジェーロ(オジェーロ・スパタ・クルタ)」[注 7]という二つ名だったことが記されている[4]

オジエを主人公ととした武勲詩では、後述するようにサラセン人[注 8]からこの剣と、名馬ブロワフォール(→ベフロール)[注 9]を入手した。

後世の脚色では、アーサー王伝説『散文トリスタン』(1210-1230年頃)で、トリスタンが持つ刃こぼれの剣をオジエが受け継ぎコルタンと命名したことになっている[5][6]。ちなみに英国の戴冠剣のひとつはカーテナと呼ばれ、オジエの剣と同名(「短い」の意)である[注 10]

作品[編集]

日本語で手軽に読める資料に、市場訳トマス・ブルフィンチ再話『シャルルマーニュ伝説』「第23-25章:オジエ・ル・ダノワ」がある。

オジエ誕生のときに六人の「名付け親の妖精英語版」的な女性たちが現れて吉凶こもごもの授け物する。そのうちの仙女のひとりモルガン・ル・フェイ(ブ氏再話では→モルガナ)が、やがてのち物語の終盤でオジエをアヴァロンに連れて行き、いわば夫婦同然に同棲させる。こうした「ケルト物語的」要素は、本来の武勲詩にはない部分で、中世後期に追加された(§中世後期の節を参照)。ともあれ、このことでオジエはアーサー王物語の住人の仲間入りさせられた。

古武勲詩から抜粋した粗筋は、以下に記した。ブルフィンチ再話とは、大筋では合致するが、差異も多い。

オジエの騎士道[編集]

伝ランベール・ド・パリ作『オジエの騎士道』[注 11]Chevalerie Ogier de Danemarche; 原型は12世紀だが、伝わる作品は13世紀初頭[8])は、約13,000行におよぶ武勲詩で、全12枝篇に分けられている。

第1枝篇:オジエの出自[編集]

第1枝篇(全3109行)は、オジエの青少年期の部ともいえるが、おおよそ次のような筋書きである:[9][10]

若きオジエは人質となり、シャルル王に預けられる。それでも監禁先のサントメール城主の娘と情事をおこない、息子ボードワン[注 12](→ボルドウィン)をもうける。
そのうちオジエの父デンマルク公ゴーフロワ(→ジョフロワ)の不遜が度を増し、シャルル王は、オジエを絞首刑にすると決める。ところがローマ教皇から、異教徒の侵略に対する救援依頼状が届き、シャルルは、オジエも連行しイタリアに向かう。身元保証人は、親戚のバイエルン公ネーム(→ナモ)が引受ける。オジエは元服(騎士叙任の儀礼)を受けておらず具足もなく丸腰だった。観戦していると、前衛で旗手を務めるアロリー・ド・プイユ(プッリャ州のアロリー)[注 13]の敵前敗走を目にする。オジエたちは、アロリー隊から甲冑・軍旗(オリフラムフランス語版)を奪い、奮迅した。苦戦中のフランス軍は応酬し、オジエは感謝され王から佩刀の叙勲を受ける[注 14]
しかし新手の強敵カラウー(→カラヒュー)[注 15]の報告が入る。カラウーは、敵の総大将である都督〔アミラル〕コルスブルの娘グロリアンドの許嫁だったが、異教徒ながら、たいへん義を重んずる人物であった。またカラウーは、聖剣コルタン( →コルタナ)[注 16]の所有者で、姫の御前でのオジエと決闘を申し込む。シャルルの息子シャルロ[注 17]が自分の出番だと駄々をこねるので、もうひとりサドワヌ(→サドン[注 18])という対戦相手をつけて、二組で決闘をおこなう。ところが戦いが佳境に入った頃、水をさすように、都督の息子ダヌモンの一団が乱入し、オジエを捕獲する。説得に応じず釈放しないため、律儀なカラウーは、フランス陣営に投降し、もし、オジエが処刑されようものなら、自分も殺して構わない、と言った。
ここで異教徒側にまた強者の救援が到着する。マヨルカ国[注 19]のブリュナモン[注 20]という猛者である。都督は姫とカラウーの婚約は破談にし、このブリュナモンと娶わせるという。姫は反対だが、阻止するとなると、勇士を立ててブリュナモンと戦わねばならない。姫はその勇士の役を、なんと俘虜のオジエに依頼し、カラウーも聖剣コルタンをオジエに与えて一任する。オジエはみごとブリュナモンを斬り捨て、額に白点のある黒馬ブロワフォール(→ベフロール)[注 9]を手に入れる。

第2枝篇:息子の死と出奔[編集]

比べて400行弱ときわめて短いが、重要な展開の部分。シャルロ王子が、オジエの息子ボードワネットとチェス将棋を指して遊んでいたが、「王手詰み〔チェックメイト〕」を宣告されてかっとなり将棋盤で相手の頭をたたき割ってしまう。息子の変わり果てた姿に憤慨したオジエは、棒切れをふりまわして王子を追いまわす。王は金銭で解決しようとするが、オジエは王子の命で償ってもらうとゆずらない。オジエは追放の身となり、パヴィア国のデジエ(≒史実のロンゴバルト国王デシデリウス英語版とされる[注 21])に身を寄せる。

オジエの反乱・投獄・復帰[編集]

この後、追討しようとするフランス王軍を、オジエがさんざんに翻弄する。オジエは、ローヌ川沿いのシャ[ス]テルフォール[注 22]に牙城を得、マンゴネルなどの大型兵器で攻撃されても、従者ベノワ[注 23]ギリシア火薬で対抗するなど、痛快に立ち回る劇が語られる[12]

しかしそんなオジエも、やがて捕えられる。五人分の食欲があるこの囚人に対し、毎日パンを四分の一と水で薄めた古ワイン一杯しか与えませんから、と言ってテュルパン司教が、その監視役を買って出るが、そのじつ特大パンを焼かせ、巨大な銀杯を調達させて文字通りその四分の一だけを与えて存分に養った。七年が経ち、オジエのひげも白くなったが、二の腕や首筋はまだまだ太かった[13]

この展開で、第9枝篇(第9796~11040行)が始まる:

フランスは、アフリカの王ブルイエまたはブレユス(→ブリュイエ[注 24])率いる軍の侵攻を受け、被害は甚大、「オジエがおれば」の声高まる。王は不承不承オジエの復帰を承諾。巨躯のオジエに耐久できる馬探しが始まる(王の馬ブランシャールを含む数頭の馬を試乗してぺしゃんこにする滑稽な場面が盛り込まれる[注 25]。しかしオジエの愛馬ブロワフォール(→ベフロール)が、モー市の聖ファロ大修道院(→サンファロン大修道院)に預けられていると判明。見違えるほど痩せこけた馬は、前の主人とめぐり合うと、鼻息を鳴らしていななき、体を平伏させオジエを迎え、涙をさそう。戦闘準備は整ったが、オジエは自分の息子を殺した王子の命を差し出さねば働かないと、条件を出す。王は困惑するが、ネームにより、フランスの国運がかかっている事案であり、自分も息子ベルトランをオジエに斬られてが、私情ははさまない、と諫言される。しかしオジエが聖剣コルタンを振りかぶり、いざ王子の首をはねようとしていたその時、天使が降臨してその手をとどめた[14][注 26]

第9枝篇はここで終結するが、編者バロワによれば詩人ランベールが書き綴った真正の部分はここまでで、残りはより後年に書き足されたものだという[15]。だが、第十詩編では、オジエは実際にブルイエ(→ブリュイエ)と戦う。相手は途中で休戦を請い、亡きキリストを聖墳墓に納棺する前、その遺骸に塗りこめたという塗り薬を使って回復した。決闘が再開し、オジエの馬ブロワフォールは悲しくも殺されてしまう。だがオジエは応酬し、相手を討ち取って、新たにボーサン(→マルシュヴァレー[注 27])という馬を得る。

この後、オジエは、さる英国王の王女を救助するが、[16]この王女と結婚し、シャルル帝からエノー州ブラバント州の領地を与えられた。英国王女と夫婦になったという作り話は、そののちオジエがハンプトンのビーヴェス卿(ビーヴィス卿)英語版の父親になったという言い伝えへの布石のようである[17]。死後、オジエの遺体は従者ベノワと供に、前述モー市の僧院に安置されたという[18]#モー市と聖ファロ僧院)。

改作や翻案[編集]

後年、古い武勲詩の第1枝篇の部分を拡張して、アドネ・ル・ロワ英語版(1300年没)が、『オジエの青少年期』(?)(Enfances Ogier)を詩作した。北欧でも、『オジエの騎士道』の第一枝篇に近似するテクストが十三世紀に古ノルド語の散文に翻案されて、『カルル大王のサガ英語版』集の第3枝編『オッドゲイル・ダンスキ (Oddgeir Danski)』として収録された。内容は古武勲詩にほぼ近いが、エンディングが独自の顛末になっている[19]。また、オジエの青年期は、フランコ=イタリア語にも翻訳された。

中世後期[編集]

ジャン・ドゥートルムーズ英語版(1338-1400年)は、われわれ後世に伝わらないバージョンのオジエ伝を使っていたらしく、その著書『歴史の鑑』には、オジエがケルトかアーサー王伝説の妖猫キャスパリーグと戦ったという伝承を記録する。オジエの伝説に上述したようなアーサー王伝説がからめられるようになったのは、この頃で、まずは武勲詩を中核に、オジエのアヴァロン行きなどの物語を書き加えた、アレクサンドラン韻律(十二音綴)で20,000行におよぶフランス語の詩文ロマンスが登場したが、これは l'Arsenal 2985 (ant. 190-191)写本(14世紀)や極彩色の挿絵で有名な「タルボット・シュルーズベリーの書英語版」(大英図書館所蔵 Royal 15 E VI写本。1445年頃)[20][21]に収められている。

近世[編集]

印刷機の発明後、アレクサンドラン韻律詩と同様な内容のフランス散文訳『オジエ物語』が、1498年にパリで出版された[22]。以後、何度も再版されて広まった。

オジエは、アヴァロンの仙女モルガンと、ムールヴァンと言う名の子をもうけたとされていて、あまり知られていないが『Roman de Meurvin, fils d'Oger le Danois』(1531年)も出版されており、ここではムールヴァンの子オリアン[注 28]が、白鳥の騎士の祖先とされている[23][24]

イタリア語では、たとえばルイジ・プルチ英語版(1432-1484)作の『モルガンテ』第1詩章17詩節で、オルランドーが、デーン人ウッジェーリ(=オジエ)の妻エルメリーナから聖剣コルタナと名馬ロンデル[注 29]をかっぱらって言ってしまう(この詩の冒頭部分は、バイロン卿が『モーガンテ・マッジョーレ』の題で英訳している[25])。(*このロンデロという馬号は、ブオーヴォ・ダントーナイタリア語版の馬と同名であることが興味深い。上述ビーヴェス卿の馬アランデルに相当し「燕子〔つばくろ〕」を意味する)。

モー市と聖ファロ僧院[編集]

霊廟。聖オトゲルス(オジエ)と聖ベネディクトの石棺が奥に見える(右下部分。モー市、当時の聖ファロ大修道院)。
―『聖ベネディクト修道会聖人伝』(1677年版)より。右半上下を見る・左右全体(1735年本)を見る。

モー市にかつてあった聖ファロ僧院には、霊廟があり、聖オトゲル(オトゲリウス)と聖ベネディクトが横に並んだ仰臥像を蓋に配した石棺に、両聖人の遺体が納められていた。武勲詩でもオジエとその従者ベノワがこの僧院に永眠することになっており、彼らと二聖人を同一視する伝承があった[26]

この霊廟の挿絵は、ジャン・マビヨン著の『聖ベネディクト修道会聖人伝』に、折り畳みページとして差し込まれている(右の図参照)。オジエとされる成人の仰[27][28][26]

僧院は1751年に取り壊しにあったが、1874年に霊廟のものと思われる伝・オジエの頭部が発見された[29]。これは、頭部と、上掲の『聖ベネディクト修道会聖人伝』の横臥像の容貌を比較してその結論に至ったとされる[29]。頭部は現在はボシュエ美術館英語版が所蔵Musée Bossuet. “Collection permanente”. 2017年11月閲覧。 |

スカンジナビア[編集]

北欧では、「オッドゲイル」のサガが写本に残された時代を経て、近世になるとクリスチャン・ピーダセン英語版が、パリ大学に在学中に、フランス語散文オジエ物語の印刷本『デンマルク人オジエ』(Ogier le Dannoys) を求め、帰国後デンマーク訳本を1534年に『ホルガー・ダンスク年代記』(Kong Holger Danskes Krønike)として出版した。このことにより、オジエ伝説がデンマーク民間により広く伝播した。このときペデルセンは、オルガー・ダンスクは、じつは、デンマークの王子で、ゴトリク王(デンマーク語: Gøtrik)の息子だとしている[30]サクソ・グラマティクスの『デンマーク人の事績』などによれば、ゴトリク王の息子の名はオーラーブであるが[31]、それと同一人物だと説明した。。

クロンボー城のホルガー・ダンスク像。

デンマークではさらにアンデルセンの童話や、クンツェン英語版のオペラに『デンマーク人ホルガー』があり、またインゲマン英語版の詩にゲバウアー英語版が曲をつけた歌も知られている。

ヨーロッパには(アーサー王バルバロッサ)など、洞穴の眠れる巨人や英雄が、国の有事に復活するという伝説があるが、デンマークでもそういうした眠れるホルガー・ダンスク伝説が出現し、とりわけ、ペデルセンの郷土ヘルシンガー市にまつわりつくようになったといわれる。この都市の某ホテルがホルガーの銅像(1907年)を制作依頼し、その石膏型をクロンボー城の砲郭に置いたところ、そちらの方が一躍有名になった。しかし石膏像は湿気で劣化をおこし、1985年以来コンクリート像に置き換えられている[32]

第二次世界大戦中は、ナチス・ドイツの占領に対するデンマークの抵抗分子が、「ホルガー・ダンスク」の名でレジスタンス運動を行なった。

大衆文化のオジェ[編集]

オジェ・ル・ダノワは、トランプのスペードのジャックの人物とされる。アメリカの作家、ポール・アンダースンの『魔界の紋章』もオジェ・ル・ダノワの伝承を下敷にしている。

関連項目[編集]

脚注[編集]

補注[編集]

  1. ^ 有永 (訳) (1965)『ロランの歌』、253頁(112行の注)の表記(ただし人物名でなく題名)。
  2. ^ Cortain。
  3. ^ Geste de Doon de Mayence(cycle des barons revoltés)。「叛臣の物語群」は仮訳。
  4. ^ Gaufroi de Danemarche (Langlois 人名事典の見出しでの綴り
  5. ^ 家系図上は、ドーンの子のひとりがデンマルク公ゴーフロワ(ジョフロワ)[注 4]で、その息子がオジエである。よってオジエは、大逆臣ガヌロン英語版の従兄弟や魔法使いモージ(マラジジ)の従兄弟でもあるわけだが、これはあまり強調される側面ではない。
  6. ^ デンマーク語Holger Danske
  7. ^ Oggero spat curta
  8. ^ カラウー(→カラヒュー)
  9. ^ a b Broiefort
  10. ^ 英国の戴冠剣がカータナと呼ばれた初出は1236年。ある解説者は『散文トリスタン』作者は英国戴冠剣のことを知悉していたと仮説する[7]
  11. ^ バロワ編の版本の題名はChevalerie Ogier de Danemarche。直訳は「ダヌ辺境領のオジェの騎士道」か。また、有永 (訳) (1965)『ロランの歌』、253頁(112行の注)では、題名を単に『デンマルク人〔びと〕オジエ』としている。
  12. ^ 実際はBaudeouinでなくBaudouinetという指小形が使われる。まだ未成年(騎士の叙勲を受けていない)ということ。
  13. ^ Alori de Puille。
  14. ^ 『ロランの歌』ではオリフラムを掲げる役をアンジュー公ジェフロワに甘んじるものの、オジエは前衛や先陣を務めるに最適任とされており[1]、『サガ』によればオジエは旗手の役目であった[11]
  15. ^ Caraheu, Karaeus, Karahues 等、変体綴り多数。
  16. ^ Cortain
  17. ^ Charlot(指小形)
  18. ^ Sadoine
  19. ^ メオルグル(?)Maiolgre
  20. ^ >Brunamont
  21. ^ Desier
  22. ^ Chastel-fort; 現代風ならChâteau-fort
  23. ^ Beneoit
  24. ^ Brehier, Brehus
  25. ^ 原典では、別の箇所ではシャルルがブランシャール Blancart つまり白馬に乗るが、ここでは都督バランから奪った早馬とされている(Barrois (1842), 10435-7行, "le bon ceval corant que je conqis à l'amiraus Balant"。
  26. ^ 天使の場面のイラストは、Gautier (1895), p. 608(第3版)や、Hausen (1842), p. 139にある)。
  27. ^ Bauchan
  28. ^ Oriant
  29. ^ ロンデロ; Rondel, Rondello

出典[編集]

  1. ^ a b 有永 (訳) (1965)『ロランの歌』、50頁、747行-
  2. ^ Ward 1883, Vol. 1, p.605
  3. ^ Brandt 1882, p. 271
  4. ^ Sholod, Barton (1966). Charlemagne in Spain: The Cultural Legacy of Roncesvalles. Librairie Droz. p. 189. https://books.google.com/books?id=RF5RMtPJBiMC&pg=PA189. 
  5. ^ Löseth, Eilert (1890), Analyse critique du Roman de Tristan en prose française, Paris: Bouillon, p. 302, https://archive.org/stream/analysecritiqued00lsuoft#page/302/mode/2up/  (フランス語)
  6. ^ Loomis, Roger Sherman (1922), “Vestiges of Tristram in London”, The Burlington Magazine 41: 56–59, https://books.google.com/books?id=Ufc4AQAAMAAJ&pg=PA54 
  7. ^ Mason, Emma (1990). The Hero's Invincible Weapon: an Aspect of Angevin Propaganda. Boydell & Brewer. pp. 132–134. ISBN 978-0-85115-265-3. https://books.google.com/books?id=qa62nUs53kkC&pg=PA134. 
  8. ^ Keller, Hans-Erich (1995). Chevalerie Ogier. Garland. pp. 405–406. ISBN 9780824044442. https://books.google.com/books?id=MQoKeohhNkMC&pg=PA406. 
  9. ^ Barrois 1842
  10. ^ Ludlow 1865
  11. ^ Hieatt 1975, 54章(最終章): "Oddgeir was his standar-bearer as long as they both lived".
  12. ^ Ludlow 1865, pp. 282-3
  13. ^ Ludlow 1865, p.290
  14. ^ 散文オジエの古い印刷本にもこの場面はある:Benoit Rigaud 1579, p. 233:"Comment.. Charlemaigne fut contrainct de liurer son filz Charlot à Ogier.. &comment l'Ange ainsi qu'il vouloit coupper la teste de Charlot luy retint le bras".
  15. ^ Ludlow 1865, p. 296
  16. ^ Ludlow 1865, p. 300
  17. ^ Ludlow 1865, pp. 300, 303
  18. ^ Ludlow 1865, p. 301
  19. ^ Hieatt 1975参照
  20. ^ Ward 1883, Vol. 1, p.605-: "MS Royal 15 E VI"
  21. ^ British Museum/Library オンライン写本カタログ
  22. ^ Togeby 1967
  23. ^ Encyclopedia Britannica (1880-1899の各版), vol.20, "Romance" の項
  24. ^ Dixon-Kennedy 1995
  25. ^ Gordon, George, Lord Byron (1841), Complete works, Place: A. and W. Galignani, http://books.google.co.jp/books?id=nEoJAAAAQAAJ&pg=PA328 
  26. ^ a b “Ogier the Dane”. The Encyclopaedia Britannica. 20. (1911). p. 23. https://books.google.com/books?id=6SpLAQAAMAAJ&pg=PA23. 
  27. ^ d'Achery, Lucas; Mabillon, Jean (1677), Acta sanctorum ordinis S. Benedicti: Pars Prima, IV, Paris: Louis Biliaine, p. 664, https://books.google.com/books/content?id=KBDsYnABUeIC&hl=ja&pg=PA664-IA2 
  28. ^ Mabillon, Jean (1735), Acta Sanctorum Ordinis S. Benedicti: Pars Prima, IV, Coletus & Bettinellus, p. 624, https://books.google.com/books/content?id=rt1JAAAAcAAJ&pg=PA624-IA2 
  29. ^ a b Tête d’Ogier le Danois, Meaux”. Topic Topos. 2012年3月3日閲覧。
  30. ^ Brandt 1882, p. 271
  31. ^ サクソ・グラマティクス、p.439
  32. ^ Kronborg Castle site (Holger the Dane)”. 2012年3月2日閲覧。

参考文献[編集]

(邦書)
  • トマス・ブルフィンチ 『シャルルマーニュ伝説』1806巻、市場泰男 訳 講談社〈講談社学術文庫〉、2007年ISBN 978-4-06-159806-5 ,p.325-360, 第23-25章(オジエ・ル・ダノワ(一)~(三))
  • サクソ・グラマティクス 『デンマーク人の事績』1806巻、谷口幸男 訳 東海大学出版会、2007年ISBN 4-486-01224-0 
(事典・一般書)
(一次資料)
(揺籃印刷本のテキスト)
(二次資料)
(―モー市の伝オジエの頭部と聖オトゲル霊廟)


外部サイト[編集]