飛脚

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飛脚(ひきゃく)は、信書金銭為替貨物などを輸送する職業またはその職に従事する人のことである。佐川急便商標でもある。単純な使い走りとは違い、事業が組織化されているのが特徴である。

飛脚は日本文化に独特のものとして考えられがちだが、西洋にも都市飛脚というものが存在した。それは帝国郵便や領邦郵便と激しい競争を展開した。他に西洋の飛脚は僧院飛脚と大学飛脚に加え、商業ルネサンスに貢献した飛脚もある。インカ帝国にもシャスキという飛脚ネットワークが存在し、馬と車が適さない山岳の通信を担った。公権に資する飛脚は地域に関係なく高い地位を占めた。その伝統に対する尊敬は、民間においても実用性に裏打ちされ揺るがなかった。

日本の飛脚

飛脚は飛脚走りと呼ばれる独特の走法で走った。これは一説には「ナンバ走り」という走法で、体のひねりをしないため、体力の消耗が抑えられるとされるが、飛脚走りがどのようなものか失伝し文献もないことから真偽のほどは不明である。毎年10月、広島県府中市で催される「白壁まつり」の中で『飛脚リンピック』というイベントが行われる。

歴史

当初は専ら公用であった。律令制の時代にはから導入された駅制が設けられていた。を中心に街道に駅(うまや)が設けられ、使者が駅に備えられた駅馬を乗り継いだ。重大な通信には「飛駅(ひえき)」と呼ばれる至急便が用いられた。「飛駅」には「駅鈴」が授けられた。律令制の崩壊に伴い駅制も廃れてしまったが、鎌倉時代には鎌倉飛脚・六波羅飛脚(ろくはらひきゃく)などが整備された。これは京都六波羅から鎌倉まで最短72時間程度で結んだ(駅逓制度による早馬)。廃絶してしまった「駅」に代わり、商業の発達に伴い各地に作られてきた「宿」が利用された。室町時代には京都御所鎌倉府を結ぶ「関東飛脚」が設けられた。

戦国時代には、戦国大名をはじめとする各地の諸勢力が領国の要所に関所を設けたため、領国間にまたがる通信は困難になった。戦国大名は書状を他の大名に送るため、家臣山伏が飛脚として派遣された。これらは連携が進む一方、しばしば密使であったので業態化しなかった。また、人目を忍ぶため徒歩が増えた。

江戸時代に入ると、五街道宿場など交通基盤が整備され、飛脚による輸送・通信制度が整えられた。江戸時代の飛脚はと駆け足を交通手段とした。公儀継飛脚の他、諸藩の大名飛脚、また大名・武家町人も利用した飛脚屋・飛脚問屋などの制度が発達、当時の日本国内における主要な通信手段の一翼を担ってきた。

飛脚は明治以降の郵便制度に比較すると費用的に高価で天候にも左右された。また江戸大阪間は一業者で届けられるが、江戸以東や大阪以西へは別業者に委ねられたが、連携は必ずしも円滑ではなかった。このような理由で、期日に届かないことも多かった。毎日配達しないため、近世の書簡は案件をまとめて記されることが多く、費用的に安価であることや儀礼的な理由で飛脚を用いずに私的な使用人を介して伝達されることも多かった。

明治時代に入った1871年明治4年)、駅逓司に所属していた前島密の提案でイギリスの郵便制度を参照しつつ、従来の飛脚の方法をも取り入れて郵便制度を確立した。地方名望家の協力のもと郵便取扱所の全国展開が図られる事になった。郵便料金に対抗して近距離の飛脚料金を郵便の半額にしていたが前島密は飛脚が全国ネットでない事と世界へ手紙が届けられない事で佐々木荘助(飛脚問屋側の代表)と話し合った結果、郵便制度に並行する形で飛脚問屋は陸運元会社として再組織され、小荷物・現金輸送に従事した。飛脚として活躍した人々は、郵便局員や人力車の車夫などに転じていった。

現代の飛脚といえば、宅配便貨物便、バイク便などが相当する。佐川急便は自社のトラックに飛脚の絵を描いている。(2007年より江戸時代の飛脚の絵から、セールスドライバーをデザインした新飛脚マークに変更)。日本通運は、さかのぼると1872年(明治5年)6月に江戸定飛脚問屋が創業した陸運元会社が始まり。同会社は1875年(明治8年)2月に内国通運に社名変更。

江戸時代の飛脚

フェリーチェ・ベアトによる飛脚の着色写真(1863年-1877年頃)

江戸時代中期〜明治初年における民間の飛脚問屋は、基本的には決められた「定日」に荷物を集荷すると、荷物監督者である「宰領」が主要街道の各宿場の伝馬制度を利用して人馬を変えながらリレー輸送した。荷物を付けた馬と馬方を引き連れた宰領は乗馬し、防犯のため長脇差を帯刀した。宿泊は指定の「飛脚宿」に泊った。途中、人馬継立の渋滞、現金盗難、河川増水(川止め)、地震遭遇など不慮の人災・天災により延着・不着・紛失もあった。高額の金を支払い、一件のために発したのを「仕立飛脚」といい、また早便として「六日限」「七日限」などの種類があったが、遅れがちであった。飛脚問屋が特権にこだわったのは、延着、賃銭(値上げ)などの課題を抱えていたからだと思われる。

守貞謾稿は当時のシステムを具体的に説明している。江戸 - 京坂を結ぶ飛脚のうち最低料金のものを「並便り」と呼び、日数の保証はなかった。昼間のみの運行であり、また駅馬の閑暇を利用して運行する関係上、片道概ね30日を要したという。これより急を要する場合、所要10日の「十日限」(とおかぎり)、6日の「六日限」あるいは「早便り」の利用となったが、東海道の通信量増加と共に各宿での滞貨が増大、それぞれ2〜3日の延着が通例になったという。そこで江戸 - 上方を6日間で走ることを約した定飛脚が登場し、「定六」または「正六」と呼んだ。更に火急の書状では「四日限仕立飛脚」が組まれることもあり、料金4両を要したという。これらの飛脚に便乗させる形で書簡を託すことも可能であり、「差込」(さしこみ)と称した。運賃2〜3分という。こうした便乗は概ね世界的な傾向であった。

江戸時代の日本の飛脚については『駅逓誌稿』、日本通運『社史』などが基本文献である。 研究論文に関しては藤村潤一郎による論文・翻刻の業績数が群を抜く。 国内外の通信の歴史については星名定雄『情報と通信の文化史』(法政大学出版局)。 日本の飛脚研究は、近年の高度情報社会を背景に情報史の領域で扱われる傾向にある。

継飛脚(つぎびきゃく)
公儀の飛脚(幕府の公用便)で、老中京都所司代大坂城代駿府城代勘定奉行道中奉行が使うことを許されていた。書状・荷物を入れた「御状箱」を担ぎ、「御用」と書かれたを持った二人一組で宿駅ごとに引き継ぎながら運んだ。
宿場の問屋に専用の飛脚を常駐させ、その費用として幕府から宿駅に「継飛脚給米」を支給することで、1633年寛永10年)に継飛脚の制度が確立した。急を要する場合、江戸 - 京都間なら片道70時間ほどで運行できたと考えられている。また「御状箱」の通行は最優先とされ、一般の行き来が規制される、増水した大井川を渡ることも特別に許可されていた。
大名飛脚
各藩が主に国許と江戸藩邸を結んで走らせた飛脚。広義では大坂蔵屋敷を結ぶものや領内の役所内を結ぶ飛脚も含む場合がある。飛脚はその藩の足軽もしくは中間から選ばれることが多かった。紀州尾張両藩が整備した「七里飛脚」や加賀藩の「江戸三度」がよく知られる。雲州松江藩の飛脚も七里飛脚といった。その他の大名もこれに準じて独自の飛脚を持ったが、維持費が嵩むことなどから下記の町飛脚に委託する藩も多くなっていった。
飛脚問屋飛脚屋
文献によって「町飛脚」とも呼称される。上記の継飛脚・大名飛脚は公用のための飛脚であり、一般の武士や庶民は利用することが出来なかった。このため、民営の飛脚屋・飛脚問屋が走らせた飛脚が広く利用された。1663年寛文3年)幕府許可を得て開業したのが始まり。大坂・京都・江戸の三都を中心に発達。「三度飛脚」と呼ばれるのは大坂から毎月2、12、22日の3度発したからだと言われる。1698年元禄11年)に京都では町奉行が飛脚問屋16軒を「順番仲間」として認め、毎夕順番に発信するようにした。宿駅の交通量が増え、人馬継立(馬方と馬の交換)が混み合うようになると、延着が目立つようになったため、江戸の飛脚問屋9軒の願いにより1782年天明2年)、幕府が宿駅での人馬継立を優先的に御定賃銭で使用する特権を認めた。特権を行使した飛脚問屋を「定飛脚問屋(じょうびきゃくどんや)」という。地方の城下町などでも飛脚問屋が営業した。飛脚問屋は災害情報を得意先へ伝える機能もあった。地震、火災洪水などのほか、戦争情報も伝えた。
通飛脚(とおしびきゃく)
出発地点から目的地まで通して一人で運ぶ飛脚。
町飛脚(まちびきゃく)
江戸御府内専門の飛脚。幕末に盛ん。状箱に鈴をつけたため「ちりんちりんの町飛脚」とも呼ばれた。「守貞謾稿」によると「その扮、挟筥形の張り籠を渋墨に塗り、町飛脚および所名・家号を朱塗りに書きて、これを背にし、棒の一端前の方等に一風鈴を垂れて、往来呼ばずして衆人に報告す。これをもつて、下にも云へるごとく、ちりんちりんの町飛脚等異名す」とある。
米飛脚
大坂堂島米会所周辺の飛脚。堂島米会所での米相場の動向を地方に伝えることを専門としていた。

飛脚は浄瑠璃古典落語川柳狂歌などに登場し、庶民に親しまれていた。

  • 冥途の飛脚(めいどのひきゃく):18世紀近松門左衛門作。飛脚屋の養子忠兵衛が遊女梅川と深い仲になり、ふたりして破滅に向かうという世話物人形浄瑠璃
  • 恋飛脚大和往来(こいびきゃくやまとおうらい)
  • 川柳:「十七屋日本の内はあいと言う」「はやり風十七屋からひきはじめ」。十七屋は飛脚問屋「十七屋孫兵衛」のことで、1702年(元禄15年)に京都の順番仲間が江戸の会所として設置したのが始まり。地方に出店を置き、広域的に書状や荷物を輸送したが、1785年(天明5年)に幕府御用金の不正使用が発覚し、闕所(営業停止)となる。
  • 狂歌:「室町に御所の名ありて送り文ゆきとゝきたる京やふさはし」「すけ笠の月に三度の京やからいそき飛脚も出る十日限り」。「京や」は江戸室町二丁目で営業した定飛脚問屋「京屋弥兵衛」のこと。 

近年では時代小説の題材にも取り上げられている。

  • おんな飛脚人(おんなひきゃくにん):出久根達郎作。江戸の飛脚問屋「十六屋」を舞台にヒロイン「まどか」が繰り広げる人情話講談社文庫、2001年8月15日第1刷発行。同作品はNHKドラマ化された。
  • 世直し大明神―おんな飛脚人:出久根達郎作。『おんな飛脚人』続刊。安政大地震前後を背景にまどかが苦難を乗り切る。講談社文庫、2007年5月15日発行。
  • かんじき飛脚:山本一力作。寛政元年(1789年)冬、金沢藩の御用飛脚問屋「浅田屋」の飛脚人たちが雪の金沢―江戸間を走り、幾多の障害を越えて漢方薬「密丸」を江戸藩邸へ届ける。新潮社、2005年10月25日発行。

西洋の飛脚

僧院飛脚マナスティック・ポストは、各地の教会・修道院を疎通するため12世紀はじめに起こった。教皇庁と各僧院が僧侶を使者に立て、ネットワーク化したのである。ヒエラルキーに基づいた意思伝達が飛脚によって行われた。クリュニー修道院クリュニー会を頂点に、飛脚制度を改革して中央集権を果した。布教に必要な信頼を得るため、飛脚は市民の信書も運んだ。臨時のアビニョン庁ですら官僚制と飛脚は充実していた。教皇庁の通信は商業ルネサンス期に民間飛脚へ変わってゆく。

中世大学の定期通信は大学飛脚メッサジェ・ドゥ・ル・ヴェルシイテが担った。なかんずくパリ大学の制度が秀逸であった。学生が出身ごとにつくった同郷会ナシイオは、大学の財政管理や対外折衝に参画する一方、パリ市内の名望家に飛脚の運営を委ねた。飛脚は管理職のグレート・メッセンジャーと、実際に輸送するフライング・メッセンジャーに分かれた。前者は大学の教授・学生と等しい優遇措置を受けた。十分の一税・塩税・ワイン税・通行税、その他諸税の免除であった。グレートメッセンジャーは大学とナシイオに収益の一部を還元した。彼らは金融を手がけるほどの余剰資金に恵まれた。優遇措置は国王と市民の負担となり、何度も争いがおきた。パリ大学の飛脚は何世紀も続いたが、1720年に12万フランで国有化された。

11-12世紀の商業ルネサンスに貢献した飛脚は、地中海/北欧の商業圏とそれらの交流経路で活躍した。1290年、オモデオ・タッソがベルガモ飛脚を整備した。彼はヴェネツィア共和国へ進出し、1305年にヴェネツィア使者商会をつくった。共和国はタッソ一族のためにローマ教皇庁と折衝し、彼らが教皇庁の支配地域で飛脚を営む権利を認めさせた。彼らの飛脚はフランクフルト・マドリード・バルセロナまでも走った。スペインは一族が後に郵便事業を営むときからスポンサーとなる。使者商会は1436年まで市内飛脚と競合した。一方、ハンザ同盟の飛脚も国際的だった。ブレーメンでは12世紀半ばから飛脚制度が敷かれた。16-17世紀にはリガ・ニュルンベルク・アムステルダム・ヴェネツィア・ロンドン・ウィーン・プラハまでも、発着時刻を守って運営された。

ロンドンでは15世紀に外国商人が飛脚を運営していた。外国商人として、ハンザ商人・フランドル商人・イタリア商人がいた。1496年、イギリスとネーデルラントは通商条約を結んだ。両国の君主は、重商主義政策をとるヘンリー7世 (イングランド王) と、帝国郵便のスポンサーフェリペ1世 (カスティーリャ王) であった。1514年、外国商人飛脚が設立された。これは条約に優遇されてイギリスの検閲を免れた。16世紀に王立取引所そばのジョージ旅館が拠点となって冒険商人飛脚が設立され、外国商人飛脚と競争した。17世紀に両者はイギリスのロイヤルメールに吸収された。ロイヤルメールは戸別配達をしなかった。1680年3月、ウィリアム・ドクラが共同出資者を募ってペニー飛脚を始めた。4月に週一万通だったのが、翌年3月には三万通も売り上げた。切手はなく、収納印が用いられた。ペニー飛脚はロイヤルメールに目をつけられ、1682年に独占権の侵犯を理由に無補償で国有化されてしまった。これに伴い、ドクラ支持者のアントニー・アシュリー=クーパー (初代シャフツベリ伯爵) はオランダへ亡命する。ペニー飛脚は1682年12月に再開された。

商業ルネサンス以降の商用飛脚は契約書等の交換を円滑にした。保険証券が交換されて海上保険が発達した。この中世すでに貿易決済をする銀行が存在し、これらの間を手形割引された輸出手形が往来した。銀行が割引で稼ぐ行為は第5ラテラン公会議で追認された。飛脚によって所要時間が相当に異なり、満期は鈍行に合わせて決められた。メディチ家フッガー家為替レートを調べるために高給の銀行飛脚を利用した。地中海/北欧の商業圏において結節点にあたるリヨンでは、年に四回開かれる大市が手形交換所となっていた。フランスの全209銀行のうち169行が参加し、エキュ・ド・マルクという仮想基軸通貨を用いて決済された。大市で決まった為替レートは銀行飛脚で知ることができた。フィレンツェ出身のジャン=バティスト・ヴェラサンという人物がリヨンの飛脚を取り仕切っていたが、リヨンの銀行家に訴えられた。このような銀行飛脚は教皇庁や国王の文書も運んだ。

ドイツ騎士団国マルボルクを築いた当初、飛脚を抱えていなかったので、騎士自らが伝令を務めた。急用でなければ僧院飛脚を利用した。やがて騎士の伝令は、ウィティングという土地の者と協力して飛脚網を張った。

シュトラスブルクは10-11世紀に都市飛脚を整えた。これは公私混用された。14世紀末のケルンでは公私独立した制度をもっていた。民間の方は市の中央に詰め所が設けられ、郵便ポスト兼郵便局となっていた。フランクフルトの飛脚は1385年で、アシャッフェンブルクコブレンツ・ケルン・ジーゲンなどへ走った。騎馬飛脚はブレーメンやシュターデにも時間を守って往来した。飛脚の肖像が残っており、パスポート代わりに帝国の紋章をつけていた。文箱は木製だったり、ペットボトルサイズの壺に変わったりしたが、15世紀に銀製の箱になった。槍を携帯し、野犬と強盗から身を守る他に濠を飛び越えるのにも使った。なお、フュッセンマン島の、脚が三方に伸び回転しようとする紋章は都市飛脚に由来している。

フランスでは二種の飛脚があった。パリやリヨンという大都市で戸別配達をするプチポストは1760年に勅許を得たが、収益が裏目に出て接収されてしまった。これは毎日六回も集配する手厚いサービスとなった。全国の主要駅路を走るグランポストもあった。19世紀はじめまで、人口ベースで約八割が飛脚の圏外にあった。改善は1829年から行われた。

外部リンク