蜂屋頼隆

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蜂屋頼隆
蜂屋頼隆像(崇得寺蔵)
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 天文3年(1534年?)[1]
死没 天正17年9月25日1589年11月3日
別名 羽柴敦賀侍従
戒名 正受院殿従四位侍従前羽州太守雲岳宗閞大居士
墓所 京都市北区紫野大徳寺町の大徳寺正受院
官位 従四位下、兵庫頭、出羽守、侍従
主君 土岐頼芸斎藤道三義龍織田信長豊臣秀吉
氏族 蜂屋氏
父母 不詳
正室:丹羽長政の娘
養子:直政丹羽長秀四男)
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蜂屋 頼隆(はちや よりたか)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将大名

生涯

美濃国加茂郡蜂屋にて誕生。

はじめ土岐氏、次いで斎藤氏に仕えた。斎藤道三孫四郎(龍元、龍重)、喜平次(龍之、龍定)へ家督を譲ることを考えると、美濃蜂屋氏の一族は道三と共に斎藤義龍に反旗を翻す計画を立てたが、加治田衆を直ちに引き連れた佐藤忠能により鎮圧された。その後、蜂屋一族は美濃国を去った。

織田信長の美濃攻めに前後して織田氏の家臣になったとみられているが、天文21年(1552年)の赤塚の戦いにて信長側の足軽として内藤勝介長谷川橋介らとともに蜂屋般若介なる名が見られる[2]永禄年間初めには黒母衣衆に名を連ねた[3]

永禄2年(1559年)に信長が初めて上洛した際に同行[4]。永禄11年(1568年)の信長の上洛においては、岩成友通の立てこもる勝竜寺城攻めで柴田日向守(勝家か)・森可成坂井政尚とともに先陣を務める[5]。なお、上洛後はこの4人で京洛の政務にも関わっている[6]

元亀元年(1570年)6月、信長が浅井長政小谷城を攻めた際、柴田勝家・佐久間信盛木下秀吉丹羽長秀らとともに小谷の町を焼き払った[7]。元亀3年(1572年)4月、三好義継松永久秀父子と謀り畠山昭高と対立すると、柴田勝家・森可成・坂井政尚らとともに三好・松永方の交野城を攻囲[8]。同年7月、信長嫡男・信忠初陣の小谷城攻めに従軍し、小谷の町を破る[9]

元亀4年(1573年)2月、近江石山城・今堅田城を柴田勝家・明智光秀・丹羽長秀とともに攻め落城させる[10]。同年7月、室町幕府15代将軍足利義昭が籠城する槙島城を信長が攻めるとこれに従軍[11]。同年8月、越前朝倉攻め(一乗谷城の戦い)に参加するが、信長に遅れを取り滝川一益・柴田勝家・丹羽長秀・羽柴秀吉・稲葉良通らとともに叱責を受ける[12]天正元年(1573年)9月、北伊勢攻めに従軍し、佐久間信盛・羽柴秀吉・丹羽長秀とともに西別所城を落城させ、抵抗を続ける白山の中島将監を降伏させる[12]

天正2年(1574年)3月には、東大寺蘭奢待切り取りにおいて奉行の一人として務める[13]。同年6月から、信長・信忠が諸将を動員した長島一向一揆攻めに参加し、佐久間信盛・柴田勝家・稲葉良通・貞通父子と賀鳥口を担当。その後、柴田勝家・稲葉良通・典通と大鳥居城を攻める[14]。この年、近江国愛知郡肥田城滋賀県彦根市肥田町)城主となる。

天正3年(1575年)8月、越前一向一揆殲滅に参加[15]。天正4年(1576年)5月には、信長率いる石山本願寺攻めに参加する[16]。天正5年(1577年)2月、雑賀攻めにおいて、行軍中の信長に肥田城を宿舎に提供[17]。同年3月、鈴木孫一雑賀城の攻囲に加わった[17]。同年8月に松永久秀が反逆すると、9月には出陣した信忠に肥田城を宿舎に提供した[18]。天正6年(1578年)4月、信忠の下で諸将と共に石山本願寺攻めに加わり麦苗をなぎ払う[19]

同年5月、播磨国に従軍し神吉城の攻略に参加した[19]。同年11月に荒木村重の謀反が明らかになると、滝川・明智・丹羽ほかとともに荒木方の茨木城に対する付け城大田郷砦の普請を命ぜられる。普請が完成すると、一益らとともに有岡城の戦いの先陣を務める[20]。同年12月には村重の籠城する伊丹城(有岡城)は付け城で包囲され、頼隆はそのひとつの塚口郷に在番した[21]。その後、荒木村重とその重臣らが脱走すると、天正7年(1579年)12月、信長が伊丹城に残されていた村重らの妻子の処刑を命じ、頼隆は連行に当たった[22]。なお、頼隆はこの年に死去した大津長昌の正室(丹羽長秀の妹)をのちに正妻に迎えており、その縁もあって子のいない頼隆は長秀の四男(直政)を養子に迎えている。

天正8年(1580年)、佐久間信盛・信栄親子の追放後に、和泉国一国の支配権をほぼ任されている。なお、同時期に和泉半国を領していたとと考えられる織田信張との関係は不明である。天正9年(1581年)2月の京都御馬揃えでは、丹羽長秀に次ぐ二番手で登場する[23]。同年4月、和泉槇尾寺が寺領を差し出さなかったことから信長が成敗を通告し、5月に僧の退散した寺坊舎の破却に携わった[24]

天正10年(1582年)3月、甲州征伐で信長に従軍するため他の諸将と待機するが、信忠軍が武田勝頼を敗死させたため実戦には参加せずに終わる[25]。信長が四国への侵攻を三男・信孝に命じた際には、丹羽長秀・津田信澄らと共に信孝の寄騎となった。ところが本能寺の変によって信長が横死すると、明智光秀の女婿であった信澄が信孝と長秀に暗殺されるが頼隆はこれに与せず、その後信長の弔い合戦である山崎の戦いにおいて信孝に従って出陣した。

山崎の戦いの後、羽柴秀吉と柴田勝家、信孝らが対立した際には秀吉に属して信孝の居城である岐阜城を攻めている。こうした功績から戦後、越前国敦賀4万石を与えられ、正式に侍従に任官したといわれる。天正15年(1587年)、秀吉より羽柴の名字を与えられ[26]、「羽柴敦賀侍従」と称した。その後も秀吉に従い越中国佐々成政攻めや九州征伐に従軍している。天正16年(1588年)、秀吉より豊臣の本姓を下賜された[27]

天正17年(1589年9月25日に死去した。

人物

子孫

  • 通説では頼隆に子はいないとされているが、吉田兼見の『兼見卿記』天正19年2月18日条に「蜂屋」の子として梅南丸という4歳の男子と5歳の女子の存在が記され、2人とも歩くことが出来なかったと記されており、同年10月20日条には「蜂屋後家」が息子のために祈祷を依頼したと記している。この後家は2年前に没した頼隆の未亡人とするのが有力な見方で、彼女が祈祷の対象とした梅南丸は頼隆の遺児で、体の障害によって蜂屋家の家督を継ぐことが許されなかったとみられている[29]
  • 頼隆は義兄にあたる丹羽長秀の四男・直政を養子としていたが、頼隆に先立って死去しており、蜂屋氏は断絶。その遺領は大谷吉継が継いだ。
  • 斯波義統の息子と言われる蜂屋謙入を頼隆の養子とする説がある。ただし、頼隆の死の直前である天正17年3月に謙入は秀吉の怒りを買って尾藤知宣細川信良とともに捕らえられ、尾藤と願得寺顕悟(謙入の義兄弟で3人を匿っていた)は自害、謙入と信良は追放されているため、蜂屋氏を継げなかったとみられる。なお、謙入は天正20年には秀吉の御伽衆に復帰して文禄2年頃に没しているため、『兼見卿記』の「蜂屋後家」や梅南丸は謙入の妻子には該当しない[29]
  • 蜂屋半之丞鳥居氏から婿養子に入り、後に江戸幕府旗本、仙台藩士となり一族は存続した。

脚注

  1. ^ 崇徳寺(彦根市肥田町)所蔵の肖像画に没年56歳とあるので、そこからの逆算となるが、これ以外に没年齢を特定する資料がないので、おおよその誕生年と考えた方がよい。
  2. ^ 太田牛一信長公記』 巻一 「三の山赤塚合戦の事」
  3. ^ 『高木文書』
  4. ^ 太田牛一 『信長公記』 巻一 「丹羽兵蔵御忠節の事」
  5. ^ 太田牛一 『信長公記』 巻一 「信長御入洛十余日の内に五畿内隣国仰せ付けられ征夷将軍に備へらるゝの事」
  6. ^ 『武家事紀』など。
  7. ^ 太田牛一 『信長公記』 巻三 「たけくらべ・かりやす取出の事」
  8. ^ 太田牛一 『信長公記』 巻五 「交野へ松永取出仕り侯て追払はるゝの事」
  9. ^ 太田牛一 『信長公記』 巻五 「奇妙様御具足初めに虎後前山御要害の事」
  10. ^ 太田牛一 『信長公記』 巻六 「石山・今堅田攻められ侯の事」
  11. ^ 太田牛一 『信長公記』 巻六 「真木島にて御降参、公方様御牢人の事」
  12. ^ a b 太田牛一 『信長公記』 巻六 「阿閉謀叛の事」
  13. ^ 太田牛一 『信長公記』 巻七 「蘭著待切り捕らるゝの事」
  14. ^ 太田牛一 『信長公記』 巻七 「河内長島一篇に仰せ付げらるゝの事」
  15. ^ 太田牛一 『信長公記』 巻八 「越前御進発、賀・越両国仰せ付げらるゝの事」
  16. ^ 太田牛一 『信長公記』 巻九 「御後巻再三御合戦の事」
  17. ^ a b 太田牛一 『信長公記』 巻十 「雑賀御陣の事」
  18. ^ 太田牛一 『信長公記』 巻十 「松永謀叛並びに人質御成敗の事」
  19. ^ a b 太田牛一 『信長公記』 巻十一 「高倉山西国陣の事」
  20. ^ 太田牛一 『信長公記』 巻十一 「荒木摂津守逆心を企て並びに伴天連の事」
  21. ^ 太田牛一 『信長公記』 巻十一 「丹波国波多野館取り巻くの事」
  22. ^ 太田牛一 『信長公記』 巻十二 「伊丹城相果たし、御成敗の事」
  23. ^ 太田牛一 『信長公記』 巻十四 「御爆竹の事」
  24. ^ 太田牛一 『信長公記』 巻十四 「和泉巻尾寺破滅の事」
  25. ^ 太田牛一 『信長公記』 巻十五 「人数備への事」
  26. ^ 村川浩平 『日本近世武家政権論』 P28
  27. ^ 村川浩平 『日本近世武家政権論』 P36
  28. ^ 内藤佐登子 『紹巴富士見道記の世界』 P146-147
  29. ^ a b 木下聡「斯波氏の動向と系譜」(所収:木下聡 編著『シリーズ・室町幕府の研究 第一巻 管領斯波氏』(戒光祥出版、2015年)ISBN 978-4-86403-146-2

外部リンク